「親父、許してくれますかね…」。これは、心惹かれますね。素敵です。
別人になるというのは、楽しいものです。
友人でそういうヤツがいます。
キャバクラに行き、「建材屋だ」とか、「猫のブリーダーだ」「サラ金の社員だ」とかいって、飲むのが好きなヤツです。女性は二の次です。
私はキャバクラは嫌いですが、一度付き合ったことがありますが、あまりにも自然でビックリしました。
かなり楽しそうです。
ただし、ウソということになりますから、自分では出来ません。
いや、演じても、実害はないですから、遠慮する必要がないかもしれませんが。
古典的な話ですが、
こどものころ、「女の人は、風でスカートがめくれても、悲鳴を上げるのに、何で医者に掛かれるのだろう」と思ったことがあります。
(当時の開業医の先生は、結核が国民病だったころに医学部を出たせいか、患者を上半身裸にして、聴診器で胸の音を聞くのが普通でした。妊娠も、心音が二つあるとわかるとか…)
水着も同じことです。
下着と同じなのに、ビーチを歩いたり、海の家には入ることは出来る。しかし、表参道を歩くわけに行かない。
そう考えると、「ウソをつくな」「診察のときは裸になれ」などの観念がいかに人間を縛っているかわかります。
しかも、職業など正体が何者なのか…というアイデンティティに関わるものは、他人が強制したものです。
(多くの場合、その強制は当たっていますが)
それを逃れて、拘束から自己解放する瞬間は、是非、必要です。
ウソは付くわけに行きませんが、何も言わず、誰にも気取られない存在になる瞬間を持ちたいです。
その究極の姿が、記憶喪失でしょう。
ヴィム=ヴェンダース監督の
『パリ、テキサス』
パトリック=モディアノの
『暗いブティック通り』
(モディアノのノーベル賞の授賞理由は、「記憶の芸術で、最もつかみ難い人間の運命を想起させ、占領時の生活世界を明らかにした」こと。その出発点の作品です。日本の芥川賞に当たる、ゴンクール賞をとっています。)
この二つの冒頭は、記憶喪失の男のアップです。
とても印象的で感動的です。
未だ物語が始まっていないのに…
なぜ感動的なのかは、物語がないからです。
それが、解放の一つの形です。
「釣りはいらねぇ…」 タクシーでやった�犁勠瓩箸いΡ薺�
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=134&from=diary&id=5057837
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