わらびしいと思うのだが(2008/3/31)
「わらびしい」(または「わらべしい」)という言葉がある。「童しい」と書くそうで、子どもじみている、おとなげない、という意味である。普通は否定的な意味で使われることが多い。富山・石川の方言だと思っていたが、福井や鹿児島でも使われるらしい。参考にしたのは「富山弁ゼミナール」のホームページである。
で、何が「わらびしい」のかと言えば、OEK合唱団への入団辞退のメールを送ったことである。
今年(注 2008年)の第九については、正直「?」というところがあった。それでも、2年後の「ロ短調ミサ」には出るつもりでいた。ところが、今日事務局から届いた連絡を読んで、ブチッと切れてしまった。
簡単に言えば、これまでの練習体制などをきちんと総括してから、新しい曲に取り組むべきではないか、ということ。そうなれば、場合によっては役員の変更もあっていい。そして、もう一つは、よく分からないお金を徴収するな、ということ。必要なものならもちろん出す。しかし、何のための金なのか納得できないものまで出すつもりはない。今回の場合は、県外から来るアマチュアの助っ人への宴会カンパである。
この2点について納得できないので、今回は辞退するというメールを事務局に送った。
プロのオーケストラの定期公演のステージに乗ることについては、以前にも書いた(1月13日)。繰り返して書かないがプロのオーケストラであろうが、メンネルのステージであろうが、自分が納得できるだけの練習量があり、十分なハーモニーができていなければ、どうしても不完全燃焼になる。
うまい、下手という話ではない。自分がそのステージに乗ることに納得できるかどうかである。特に一昨年(注 2006年)の「森の歌」あたりから、それを強く感じるようになった。
マタイ受難曲の(注 2005年)では、直前のステージオーディションで何人かが落ちた。確かに、歌えなければステージに乗れないということは分かる。問題は、落ちた人たちが納得しなかったことである。
途中経過は省略するが、要するに「邪魔になるわけではないのだから乗せてほしい。これまできちんと練習に来ていたではないか」「自分たちは乗れないのに、なぜ県外から来た助っ人は乗れるのか」ということだった。最初のオーディションの段階で、「本番直前にもう一度オーディションをする」ということが分かっていれば、それなりに覚悟もできただろう。ところが、それがないまま、直前の練習で突然アウトになった。
男声についてはそういうことはなかったが、そのとき自分が思ったのは、まじめにずっと練習に来て、それでも歌えなかったのなら、それは指導者の責任でもあるのではないか、ということだった。
もちろん、プロのオーケストラのステージに乗る以上、一定の音楽的レベルが求められることは理解している。だからこそ、それは最初の段階、遅くとも練習半ばの時点で要求すべきではないか。「このままではステージに乗れないよ」と、もっと早い段階で引導を渡しておくべきではないか、ということである。
オーディション後の練習の最後に、ステージに乗れないことになったメンバーがやって来て、「なんとかお願いします」と頭を下げた。ずっと一緒に練習してきた仲間である。それを見て、こちらまでしんどい気持ちになった。
一般の合唱団では、自分はこういう場面をほとんど経験したことがない。まあ、コンクールならあるだろう。しかし、「あんたが下手だから仕方がない」などと言える話ではない。指導者が決めたことだから動かせない。それで終わってしまった。
このあたりから、ずっと違和感があった。その後も、OEK合唱団でヨハネ受難曲や戴冠ミサを歌ってきた。そして今回は、もういいかな、という気持ちになった。
ただ、ここは誤解のないように書いておきたい。
マタイ受難曲にしても、それ以外の曲にしても、実際に聴きに来た人たちの評判はよかった。自分でも録音CDを聴いてみると、きちんと歌っていると思う。少なくとも、中途半端な演奏だったとは思わない。まあ、助っ人が入っているから、ということもあるのだろうが。
つまり、演奏そのものを否定しているわけではない。むしろ、いい演奏をするためには、それなりのレベルが必要だということも分かっている。だからこそ、練習の進め方や出演者の扱いについて、納得できないものが残るのである。
納得できない状態でステージに乗っても、自分としては不完全燃焼になる。それなら、もう出ないでおこう。そう思って辞退のメールを送った。
……まあ、こういうところが「わらびしい」のである。
もう50代半ばなんだから、少しくらい我慢してもよさそうなものだ。しかし、納得できないものは納得できない。自分でも、子どもじみているとは思う。
ログインしてコメントを確認・投稿する