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2021年10月03日23:00

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赫(かがや)く為に(その3)

iMac Pro 27 inch 初代(2017年12月製造)より。

私は「赫(かがや)く」という言葉を
「それぞれの人の自律性無底としての内在超越(内在超越者)が
 悟性にも感性にも邪魔されず、つまり理性に邪魔されず、
 意志にも邪魔されず、つまり理性と意志にも邪魔されず、
 したがって霊性にも邪魔されず、
 その奥で働く内在超越のみにしたがって
 即ち
 内在超越の純粋存在者を客体とし
 内在超越の存在可能者を主体として
 客体としての純粋存在者と
 主体としての存在可能者の
 統一体としての内在超越を
 理性や霊性が
 内在超越の表現者として働いていること」
という意味で使いたい。

そういう意味での
「赫(かがや)く」を生きる事は
案外と難しい。

なぜなら
人間には
悟性と感性と意志が働いているわけで
その感性と悟性、つまりは理性が
内在超越の働きを邪魔するし
理性との共同で霊性として働く人間の意志が
内在超越の純粋な活動を阻害するからだ。

それは単純に言えば
人間の
地位欲や
名声欲や
権力欲や
財産欲が
(それらは生きてゆく上で
 必要不可欠な意欲でもあるのだから)
自律性無底としての内在超越の純粋な働きを
妨害するからだ。

私は
世間や学者(研究者)の
「信頼」を得る為に
これまでの
62年間を
費やしてきたのだけれども

父が死に
母が死に
妻もまた

両親と同じ陥穽に落ち込もうとしている今

世間や学者の「信頼」を得る事
以上に大事なこと
即ち
「身近な人を幸せに出来る人に成ること」
を
最優先したい。

その為に私は
(1)私が為すべきことを
(2)私が為すべきように
(3)私が為すこと
を行為することのみを
日々の判断の最優先基準にして
生きようと思う。

具体的には
(1)自律性無底としての内在超越者(純粋存在者)を客体とし
(2)これまた自律性無底としての内在超越者であるところの存在可能者を主体とし
(3)これらによって創造としての戦いの過程を経て
(4)啓示へと到る全経験を中動態系の言語文法で表現して
(5)哲学的宗教を書物として自由に出版してゆきたい。

この場合
出版社から出版すると
出版社の「売れる書物」戦略に巻き込まれるので
自費出版として
表現の自由を確保しなければならない。

研究も執筆も表現も
自律性無底としての内在超越を阻害しない方法で
進めるべきだ。

そういう方法で
哲学的宗教を産み続ける。

それが
内在超越の自己実現。

内在超越が実現することが
私の
「赫(かがや)き」
である。

それは」
(1)他人(世間や学者)に「評価」されるかどうか
(2)あるいは商売として成立するかどうか
という「束縛」から「自由」でなければならない。

最も大事なことは
自律性無底としての内在超越が
「自由」に自己実現している(「啓示」や「悟り」が実現している)
ことだ。

啓示や悟りが
この世に存在していれば
そのことに誰も気付かなくとも
構わない。

そもそも奇蹟は
奇蹟が目の前で起こっていても
それを奇蹟と人は気付かないものだから
奇蹟を起こすのに
「多くの人に気付いて欲しい」とか
「多くの人に評価して欲しい」とか
「多くの人に購入して欲しい」とか
そういった考えに惑わされてはならない。

そういう考えに惑わされるから
(それがたとえ
 「信頼性を上げる為に必要不可欠な手続き」という
 「もっともそうな理由」であったとしても)
いつまでたっても
「本当の真実」を書くことが出来ないのであり
「人々が本当に知るべきこと」を書けないのであり
「この世に本当に存在すべき書物」を残せないのだ。

博士号を取得することが一番大事なのではない。
留学経験を持つことが一番大切なのではない。
語学の運用能力を修得することが学術にとって一番大切なことではない。
大学の先生になることが一番大事なのではない。

博士号を持ち
留学経験があり
語学の運用能力が高く
大学の教授経験が長い人は
世間からも
学者からも
信頼されるし

そうでない人は
そうである人に比べて
信頼度で劣ることは
否定出来ない。

けれども
博士号を取得して
留学経験も有って
語学の運用能力が高くて
大学で長く教授職を経験していても

宗教経験が無く
宗教の実際を語ることが出来る人は
まず居ない。

それはなぜか。

宗教の理解(宗教体験)は
学問とは無関係
だからだ。

学問と無関係なことは
学問で得ようとしても
無駄だ(徒労に終わるだけだ)。

宗教は
知りたいから知れるのではない。

宗教は
知りたくなくても
知れるようになる時は
知ることが出来る。

逆に
知りたくても
一生知れない場合も有るし
むしろ
一生宗教体験が出ないことが
ほとんどだ。

だから
宗教体験を持つことは
目指すべきことではないし
目指すべきでもない。

宗教の修行でも
啓示を受ける為の「確実な方法」も
悟りを得る為の「絶対的な方法」も
実在しない。

どの牧師も
どの僧侶も
宗教経験を持たないまま
宗教職に就いているし
宗教職を遂行している。

けれども
宗教は
人類が
理解しなければならないし

人類の多くが
宗教を理解できるようにならなければ
この社会が
安心して過ごせる社会になることは
絶対にあり得ない。

だから
宗教が判った人は
宗教を理解していない社会に向けて
「本当の意味での宗教」を
ちゃんと伝える義務がある。

「宗教体験を持つ」
ということは
「宗教の正しい理解の仕方を
 人間社会に残す使命を得た」
ということだからだ。

ということで
結局は
「本当の宗教とはどんなことで」
「宗教が理解出来ると
 何が変わるのか」
ということや
「宗教が理解出来た人が増えることは
 何を意味するのか」
ということや
「社会の発展にとって
 宗教を理解する人が増えることが
 どういう意味を持つのか」
ということについて
伝えてゆこうと思う。

私の「赫(かがや)き」は

これまでのどの宗教も
為し得なかった影響を
人類社会に残すことになるだろうし

これまで
どの社会改革も
為し得なかった影響を
人類社会に残すことになるだろう。

マルクスが為し得なかった社会変革の可能性を
私の「赫(かがや)き」は
与えるだろう。

もちろん
私の「赫(かがや)き」は
私の地位や名声や財産を目的としないし
むしろそれらを
内在超越者の行為の邪魔者として
避けることになるだろう。

地位や名誉や名声や権力や財産は
自律性無底としての内在超越の生命活動を
窒息させるだろうからだ。

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最終更新
令和3(2021)年10月3日 23時23分
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