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2026年09月26日04:39

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科学だけでも宗教だけでも哲学だけでも駄目

宗教は
現代人にとって
洗脳の集団でしかない
と思われることが多い
のかもしれないけれども

宗教の真髄は
宗教原理の獲得
であって

宗教原理を
獲得するということは
神の啓示を受ける
とか
悟りが開ける
ということを
意味していて

それは例えば
ナザレのイエスが
体験したこと
(神の啓示)
や
ガウタマ・シッダールタが
体験したこと
(悟り)
と
同じことを
体験すること
を
意味している。

宗教の意義は
自分自身で
教祖と同じ体験に到達すること
であって
教祖の信者となって
教祖に絶対服従すること
ではない。

他律には
どこにも救いが無くて
自律にこそ
しかも
「自律の先にある
 自律を絶対否定する
 内在超越者との遭遇(悟り=覚)
 あるいは
 内在超越者の御祖(みおや)である外在超越者(神)との遭遇(啓示)
 によって
 自己無化(ケノーシス)を体得して
 無化した自分の中の
 内在超越者〔そしてその先に坐(ま)す外在超越者〕
 が
 自分自身の新しい「主体」と成ることで
 〈本当の自律〉
 が
 成立する」
という
「心霊上の事実」
が生起してこそ
意味が出る。

そういう意味での
宗教体験
を
経験すること
が
宗教
の
真髄。

けれども
普通は
つまり
キリストと言われるようになった
ナザレのイエス
も
仏陀(釈尊)と言われるようになった
ガウタマ・シッダールタ
も
宗教体験を得た
段階で

この体験によって得られた新世界(新境地)
を
語り始めることで
信者が増えて
宗教が成立して
それで
止まっている。

仏教は
後に
哲学化したけれども
〔その意味では「哲学的宗教」が
 仏教においては成立している。けれども
 その「哲学」は西洋の哲学ではないので
 シェリングがいう意味での〈(積極)哲学的宗教〉ではない。〕

西欧の宗教は
哲学化せず
むしろ
哲学化を
拒否して来た。

もちろん
宗教
と
哲学
の
どちらが深いか
と言えば

それは
宗教の方が
哲学よりも
深い。

なぜなら
哲学は
理性の限界内で
物事を考えているに
過ぎないのに対して

宗教は
意志の領域
したがって
情念の領域から
さらに
意志と情念を
制御している
精霊(der Geist)の能力を
原理としている
からだ。

つまり
理性の理解を
越えている能力を
原理として
成立しているのが
宗教だからだ。

けれども
宗教には
宗教を隠れ蓑にした
単なる商売(利潤追求目的)で
設立されている
偽(にせ)宗教が
多い。

本物の宗教
には
お金が一切かからない。

そのことだけ
押さえておけば
偽(にせ)宗教と
本物の宗教の
区別がつく。

お金を請求する宗教は
全部偽(にせ)宗教なので
離れた方がいい。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

で
宗教だけでは
駄目だというのは

宗教だけでは
その宗教が
本物の宗教であるのか
偽物の宗教であるのかを
判断することが
出来ないから。

そのために
哲学がある。

哲学的なものの見方考え方
〔カントの言う das Philosophieren(哲学すること)。
 これは学校で教えることができない生まれつきのセンスみたいなもの。
 そう言う意味では「修得できない能力」ではあるのだけれども
 「学ぶこと」は無意味ではない。
 いくつになってからでも。〕
が
身についていれば
偽物の宗教に
騙されることも
少なくなる。

実際
宗教体験について
討究することを目的とする人々の間で
私が
久松真一の「覚」について
その捉え方を
間違っている人が居たので
その間違いを
丁寧に正したところ

私の論述の批判箇所を
全部削除して
その宗教団体が出版している
冊子への
私の投稿文を
不当に改悪して

肝腎要の箇所を
全部削除してしまう
という悪行を
平気で行うという
煩悩を
全く乗り越えられていない
情けない低段階を
曝け出していた
という事実が
あるからです。

「悟り」や「覚」について
皆で討究して
正しい「悟り」や「覚」を
修得する目的で
取り組んでいる人々であっても

創立者〔久松 真一〕も既に亡くなり
哲学に詳しい指導者〔川�� 幸夫〕も居なくなった
段階では
そのような間違った宗教(結局は偽宗教)が
そうではない本物の宗教と
区別されないままに
混在するという
憂うべき状態が
起きてしまって
その団体の質は
低下してしまい

私は
その質の向上に
何ら貢献することができずに
歯痒(はがゆ)い思いをしているわけです。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

また
科学だけでも
いけない
ということは

私は
宗教の修行法の中では
むしろ
科学の実証を得ることを方法としている
自律性療法が
最も安全に
宗教原理獲得を
可能とする技法として
推奨している
のだけれども

その自律性療法の
資格取得を目的とする
講習会で
自律訓練士の資格を取得するために
私は
有料の講習会に参加していたのだけれども
その講習会は
全部で6回だったか7回だったかのコースで
コース料金も
まあまあの金額だったのだけれども
3回目に突然
講習会の参加を断られ
参加費も返してもらえず
講習会の「修了証(資格取得の条件となる)」も与えられない
という判断が下されて

それは
自律性療法の学会の主張としては
私が自称で「鬱症状が出ている」と
医師の診断なく言っていたことを
そのまま受け取って
「鬱は精神医学の領分で
 心身医学の扱う病ではないので
 精神科医の診断を受けてください」
と勧められたのだけれども

そして確かに
この講習会を
中断することで
この講習会を続けることによる
苦痛からは解放されたものの

私としては
当初
「自律訓練法は
 重度の鬱でなければ
 改善させることができる」
という
私を学会へ紹介してくださった先生にも
励まされて
真剣に講習会に臨(のぞ)んでいたのだけれども

私が
自律性療法を
インドの修行法(ヨーガ)
や
シェリングの積極哲学(哲学的宗教)の技法
や
精神病理学の知見
を
加えて
「鬱」という
これまでは精神医学でしか扱われなかった病態を

宗教と
哲学と
科学の
3つの角度から
取り組んで
乗り越えてゆく
方法を
探っている
その
高度な
治療的トライアルの
真っ只中で

突然
強制終了させてしまう
という
これまた
哲学や宗教に対する
知識がないばかりに
科学だけで
物事を決定する場合の
欠陥を
露呈させていたわけです。

妻は
〔私が実質2回しか講習を受けさせてもらえなかったのだから
 残りの4回分または5回分の〕
「講習費を返してもらえないの?
 言ってみたら?」
と何度も
私に言ったが

それは
講習前の
約束
(「いかなる理由によっても講習費は返却致しません」)
だから
言っても返ってこないだろうことは
予測できたので

訴えることをして
労力を使うことを
敢えてしなかった。

けれども
このことで
〈科学だけでは
 判断を間違う〉
という
ことを
主張する根拠(事実)を
知ることができた。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ということで

(1)まずは自分自身の奥に深まって内在超越者と遭遇すること(自証力)=宗教
(2)哲学すること(das Ohilosophieren)を習得すること(論証力)=哲学
(3)科学の成果を採り入れること(実証力)=科学

この3つは
判断
において
どれ一つも
欠くことはできない
必要不可欠の
必須の構成要素です。

その上で
哲学の本領は
媒介
なので

哲学が
宗教と科学を
媒介させることができる
唯一の手段なので

哲学
に
媒介された
科学と宗教
を
含む
哲学的宗教
の
実現が
待たれるわけです。

その時に
最も有効な方法が
シェリングの積極哲学で

そうしてこそ
哲学的宗教も
人類史上
初めて
人類全体を
未来へ導く実効能力のある
宗教としての
哲学的宗教として
実現するでしょう。

これは
AI
〔あるいはトランプ大統領に言わせれば
 「Artificial」というのは印象が良くないので
 SI(Super Intelligence)と呼びたいと主張している〕
には
出来ない仕事。

人類が
人類の責任で
為すべき
未来創造プロジェクト。

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最終更新
令和8(2026)年 9月26日 5時43分
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