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2026年09月10日09:21

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カントのアンチノミー論を巡って散文的感想

昨日は
まじめに
カントのアンチノミー論を
語ったけど

そういう語り口が
苦手(にがて)な人用に

今日は
散文的に
感想を述べます。

感想なので
カントの厳密な規律から
逸脱する語り口も
出て来て

それは
カントの批判哲学によって
反論され
むしろ
批判され
否定される内容も
含んでいると思いますので
そのあたりは
ご自身で判断されてください。
〔そもそも昨日の説明も
 「学術」では全くなく
 やはり自分の考えが出ていて
 「学術」なら
 「自分の考え」と「カントの考え」と「研究者の考え」は
 厳密に区別して
 読む人が今読んでいる文章が
 カントの考えであるのか
 書いている人の考えであるのか
 誰か別の研究者の考えであるのか
 を
 ちゃんと分けて
 読む人が混乱しないような配慮が
 有って然(しか)るべきなのだけれども
 僕は
 そのあたりが(自分では十分に気をつけているつもりなのですが)
 いい加減で
 カントの考え方から
 いつのまにか
 シェリングの考え方に移行して
 カントの考え方の説明から
 逸(そ)れてしまう場合が多々ある。

 そういうところが
 逆に「クリエイティブ」であることの
 特徴でもあるのだけれども
 「学術」という「作法」からみれば
 「ルール違反」と捉えられて
 「失格」扱いを受けるのが
 私の常で
 そのあたりの性質(本性)が
 「発達障害」と呼ばれる所以(ゆえん)なのだろうけれども
 精神科医の診断があるわけではないので
 「変わった人」「世間知らずな人」「馬鹿正直もの」「単なる純朴」
 な「定型発達者(一般健常者)」の範囲に
 ギリギリ収まっていると精神科の医師は診断してくれている
 のかもしれませんが
 私の自己診断は
 「哲学をするように能力が特化されて生まれて来た
  普通に人とは全く異なる性質を持つ特異な人間」
 です。〕

とはいえ
本人は
いたって真面目で
悪意は全く無く

ただただ
「これまでの哲学で解決できなかった問題も
 解決できるようになるような哲学を
 創造すること」
を
第1目的に
生きているわけです。

また
前振りが
異常に長くなりましたが

カントは
アンチノミー論で
独断論(合理論)
と
懐疑論(経験論)
の
それぞれの欠点
を
克服し得る
哲学
として
批判哲学(超越論哲学)
を
創始したわけです。

昨日も書きましたが
カントの批判哲学は
単なる
超越論的観念論
ではなく
超越論的実在論
でもあるところの

観念論(唯心論)と
実在論(唯物論)の
両方の欠点を克服した
超越論的観念ー実在論としての
超越論哲学であり
それが
カントの批判哲学の本性
だと私は思っています。

なので
シェリングが創始した
自然哲学は
カントの超越論を
実在論に応用した
超越論的実在論
であるし

シェリングの
観念ー実在論としての
同一哲学(超越論的観念論と自然哲学を両翼として扱いうる哲学)
は
カントの超越論哲学としての批判哲学の
正当な継承の必然的結果
だと思っています。

なので
フィヒテは
カントの『実践理性批判』に特化して究極化した
『知識学(Wissenschaftslehre)』を
創始したけれども

また
ヘーゲルは
カントの『純粋理性批判』に特化して究極化した
『大論理学(Wissenschaft der Logik)』を
書いたわけだけれども

フィヒテは
カントの実践理性
ヘーゲルは
カントの純粋理性
よりも
広く哲学の範囲を広げることは
特にしなかった。
〔ヘーゲルは『精神の現象学』で
 当初
 人間の意識経験の歴史的展開を追うつもりで
 「学の体系:意識経験の学
 (System der Wissenschaft:
  Die Wissenschaft der Erfahrung des Bewußtseins)」
 というタイトルで書き始めたものの
 書いているうちにヘーゲルの考えが(シェリングの影響などもあって)
 深まって Geist(精霊)の深さを理解できるようになり
 それで Geist が意識へ(それまでは無かったのに)「現れてくる様子」を
 学術する内容に進化したので
 ヘーゲルは(シェリングの影響で)der Geist(精霊)の重要性に
 気づくようになったという意味では
 カントの純粋理性を越えているのだけれども
 いかんせん
 ヘーゲルの der Geist はシェリングからの借り物の概念でしかなく
 本物の生きた Geist(精霊)を掴んでいたわけではなかったので
 やはりヘーゲルの哲学は、どこまでも純粋理性の限度内に留まる限界を
 持っていました。〕

ドイツ古典哲学の哲学者の中で
シェリングのみが
カントと同じバランス感覚
〔特殊懐疑論的方法における
 「命題と反対命題を敢えて同等に対置する
  ことで初めて見えてくる新しい景色の中で吟味する技法」
 を使いこなせるセンス〕
を持っていた
ということができると思う。

で
カントは
ビルフィンガーの「中間項重視の観点」
〔中国哲学、特に『中庸』の研究成果〕
を
現象と物自体が混在する問題における
判断の仕方に
応用して
特殊海外的方法
として
仕上げていた
わけで

このバランス感覚は
ドイツ古典哲学の哲学者の中では
シェリングだけが
継承し得ていた
と言えると思う。

カントは
批判哲学(超越論哲学)
としては
『純粋理性批判』(超越論的論理学)
『実践理性批判』(超越論的倫理学)
『判断力批判』(超越論哲学の体系)
を
構築した。

カントの認識論の体系構造は

感性
悟性
構想力
感性と悟性の共通根としての構想力が
感性と悟性を同等に働かせる場所を提供し
構想力の場所で感性と悟性は対等に交流し
そこで初めて理性が現象する。

ここまでは
純粋理性の認識論。

カントは
人間は
理性を越えて
認識を広げることはできない
と言いつつ
意志を
『実践理性批判』では
扱うことになるのだけれども

意志は
理性の範囲内の
どこにも存在する場所は無く
意志は
理性よりも
(外側ではなく)
理性の「奥側(理性よりも古く先天的な脳の部位=大脳辺縁系などの中心脳)」
で働く力(心理よりもむしろ生理に近い力)
なので

実践理性は
理性(die Vernunft)だけでなく
情念(die Passion)も扱わなくてはならない
問題圏域であるはず
なんだけれども

カントは
どうやら
ヒュームの
『情念論』〔『人間本性論』第2巻『情念について(Of the Passion)』1740〕
を読んではいない
ようなので

カントの道徳論は
情念についての考察・吟味が
不十分だと思われます。

カントは
定言命法に従うように
理性の暴走を監視する必要がある
と『実践理性批判』では述べる
けれども
理性はまだ熟慮する能力であるので
吟味や監視に対して
従順である可能性を持っている
だろうが

意志や情念や
煩悩(末那識)に
属する力
は
理性が考えた
「規律(規則)」
なんて

「全く気にも留めない」
で
平気で破る。

というか
意志や情念や煩悩
にとって
理性は
「自分の思い通りに支配することができる
 従順な召使い」
くらいにしか
意志(情念・煩悩)
は
思っていない。

カントは
だから
〔これはマルクスにとっても
 指摘されることなのだろうけれども〕
人間の意志(意欲・欲望・情念・煩悩)
を
甘く見た過ちを犯している。

ヒュームは
情念論で
「理性は情念の奴隷であり、
 またただ情念の奴隷であるべきなのであり、
 理性が、情念に
 仕え従う以外の役割を要求することは
 決してできないのである。
 ("Reason is, and ought only to be, the slave of the passions,
  and can never pretend to any other office than
  to serve and obey them.")
 (『人間本性論』第2巻「情念について」
        第3部「意志と直接情念について」
        第3節「意志に影響する動機について」
        第3段落)
と言って
情念が
理性よりも
根源的で
理性が制御できる力
ではないことを
示している。

そのことは
カントが批判哲学で
それまでの認識論を
改革した以後の
現代においても
同じように
ヒュームの見解が
正しいことを
実証している。

いくら法律を設けても
いくら警察が制止しても
法律自体に
あるいは
警察自体に
情念の暴走を止める力は
ない。

この問題を
どう解決するか
を考える領域は
理性の領域である哲学
を越えた
宗教の圏域だ。

あるいは
宗教が信用できない
という場合は

その人自身の
ものの見方考え方
行動のモチーフ(動機)そのものの
吟味を扱い得る
圏域で

これが
学問(学術)の圏域
の
外側にある圏域
であるのなら

学術(Wissenschaft)は無力
ということになる。

学術が無力である問題
は
何が解決するのだろうか。

カントが
感性と悟性の根源に構想力を想定し
純粋理性と実践理性の根源に判断力を想定した
ように
理性と情念の共通する根源が
探し求めることができれば

その根源(祖先)は
理性と情念を対等に交流できる場所を与えることができるので
「情念が理性を支配する」というアンバランスを
正す(復元する)ことが
できるだろう。

理性よりも
情念よりも
奥深くに実在(実働あるいは潜勢)するものは
魂(die Seele)であったり
霊(der Geist)であろう。

けれども
情念(意志)が
そうである(理性を支配する)ように

魂や
霊もまた
理性や情念を
支配するだけの能力(力、力働)を
持つだろう。

つまり
理性と情念を
対等・同等に交流する自由を
与えることなく
魂や霊が
理性も情念も
ひと束(たば)にして
飲み込んでしまうだろう。

たとえば
魂と霊(一つにして霊魂)の
さらに奥に実在していると想定できる
生命(原理)のことを
考えれば
その力関係は
はっきりとする。

つまり
メメント・モリ(memento mori=死を忘れるな)
と言われるように

生命の力
は
その最期を決する「死」の力
の場合は
誰も
抗(あらが)いようがない。

つまり
命を持つものにとって
「死」は
「絶対の力」
であって
誰も
そして
どのような方法
も
〔今のところ〕
この
「死の力(質問原理)」
を
超越する力
を
知らない。

ただ
科学に於(おい)ては

生命を越える力
が
判明していて

それは
有機的あるいは無機的な力動の世界〔力の世界(物理学が扱う世界)〕。

これは
生命現象以前の
力学的化学的作用の世界。

有機であれ
無機であれ
生命現象ではない
作用(働き)の世界
は
生命現象以前から実在していた
生命よりも根源的な世界。

この力動の世界は
宇宙の全体まで広がっている
わけだけれども

宗教では
この宇宙全体の
創造者を想定するわけで

その宇宙の創造者が
人間の中心に刻印している力が
内在超越者。

もちろん内在超越者は
理念であって
実在が実証されたものではない。

そして
この内在超越者は
宗教体験によって
初めて人間の意識に
想定されるもの(理念)として現象するもの
なのだけれども

内在超越者の実在が
体験できたなら
その次には
その内在超越者を創造している
外在超越者の想定が理念として現象する。

それが神であるのだけれども
もちろん神もまた
啓示体験によって
実感することができるようになるのだけれども
宗教体験によって
実感を持つひと以外にとっては
何ら意味のない
ナンセンス以外の何ものでもない。

けれども
シェリングは
その実在を実証する方法を
『啓示の哲学』で開陳(かいちん=開示)している。

この世の存在
あるいは存在していないけれどもいずれ存在するであろうもの
まで含めて
およそ現象する可能性を持つものは
想定内のみならず
想定外まで含めて
学術で扱えるところまで
実は
人類は到達している。

あとは
各人が
各人の責任において
これまで人類が
あらゆる実在に関して
捉え方を追求してきた成果を
修得して

あらゆる問題
あらゆる事態に
備える用意(準備)を
しておくことが
賢明な生き方だ。

フォト

フォト

フォト

フォト

これらは
これまで人類が
理性によって捉えられる構成的原理であれ
理性の限界を越えているために
理念として想定する統制的原理で規制されるものであれ
この世界に実在している力および
この世界を創造したであろう力について
宗教体験に基づいて
宗教体験の内実を図示したものです。

この図の説明は
いずれ私の単著『宗教体験内容図』などで
説明するつもりです。

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最終更新
令和8(2026)年 9月10日 9時32分
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