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2023年05月07日18:28

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それぞれの階層の意志(心理・生理・社会・天)

哲学の対象は
理性(Vernunft)の限界内で捉えられるものを
越えている。

けれども
カント以降
理性が直接把握出来ない対象や
理性が把握出来ないが故に
「対象(Gegenstand)」と称することの出来ない
「こと(Dass)」や「もの(Was)」に関しては
(カントの表現では「物自体(Ding an sich)」)

超越論という方法で
カントは
形而上学の命を繋いだ
(「超越(Transzendenz)」と
 「超越論的(transzendental)」を区別して
 「超越」を
 哲学の対象から外した。

 つまり
 哲学の対象を
 理性が捉えることのできる限界内であるところの
 カントのいわゆる「現象(Phänomen)界」に
 限った。)。

けれども
シェリングは
カントの意図を汲みつつも
その限界を正して
「理性」以外に
「啓示(Offenbarung)」をも
人間の認識能力として
(総(すべ)ての人に
 あらかじめ備わっているとは限らず
 ほとんどの場合
 開花することなく終わる可能性であるとしても)
認める
積極哲学を構築し
(なぜなら
 そうでなければ
 人間には
 宗教を生み出す能力が
 内在していないということに
 なってしまうからだ)

哲学が扱える対象が
極大化した。
(したがってそれは
 宗教を正しく理解するために)

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ところで
そんな「啓示」の能力は
身近なところでは

語学で必要とされる能力が
母国語以外の言語の理解への方法の修得能力
であるように

「啓示」の能力とは
あらゆる対象
もしくは
あらゆる非対象的存在
の
「意志」を
理解しようとする
「直観力」
と
「分析力」
を両翼に持つ
「判断力」
だ
(もちろん「啓示」と言う限りは
 人間の内在的な能力のみならず
 人間に外在し超越している力も
 借りるのであるが)。

消極哲学では
「理性(的思惟)」に限られていた
対象が

積極哲学では
「啓示」が齎(もた)らす
理性を越える世界認識
が扱い得る範囲の中に
入ってくる。

それは
心理と生理の境界を
越えているし

心理を
生理よりも
高い水準だと判断しない。

心理は言語で考えるが
生理に言語は不要だし
そもそも生理には言語が存在しない。

リズムやメロディーに
歌詞が存在しないのと
同じことだ。

だから
生理を言語で理解しようとすることは
生理を生理として理解することではない。

たとえばそれは
英語を日本語で理解しようとすることと同じで
英語は英語で理解すべきなのだ。

英語に日本語を介在させる間接的理解法
よりも
英語を英語で無媒介に理解する直接的理解法の方が
自然である。
(その意味で
 日本人が中国語を理解する為に考案した
 「漢文」という方法(技術)は
 中国語を日本語の構造の中で理解しようとすること
 であるから
 中国語を中国語として理解出来ない欠陥を持っている。
 そういう技法は
 正しく中国語を理解する事を妨げる技法であると
 京大では漢文を
 国語の「古典」としては認めず

 漢文を国語の二次試験問題で出題していない時期が
 相当長く続いて
 (僕が京大に入った時までは
  それが続いていたと思う。)
 ずっと
 日本語として発達した「明治期文語文」を
 出題していた。

 けれども
 最近では
 その主張を曲げて
 漢文を国語の古典の試験科目として認めて
 出題しているようだ)

生理に心理の原理を持ち込むのは
生理を心理で理解することであって
生理そのものの理解ではない。
(それは
 心理に過ぎず
 生理ではない。)

どれほど心理の常識を逸脱していようとも
生理にとっての常識は
心理における常識とは異質である。

このことの理解なくして
生理を守ることは出来ない。

体の健康(環境)の保全も
心の健康(環境)の保全も

意識レベルで考えた規範を
生理レベル(心にも生理レベルが存在している)に
当てはめようとしても
次元が異なるので
最初から方法が間違っている。

生理は
生理そのものの意志を
(生理現象を「意志」と捉えようとする意図は
 むしろ生理を心理で理解しようとしている傾向であるから
 避けた方が良いのかもしれないが
 シェリングは「意志」を
 心理レベルでは捉えていない)
心理の限界を外して
そのままで捉える態度が必要だ。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

最近
知人の精神科医の方に教えてもらい

Robert Kolker
“Hidden Valley Road”
(2020 年初版、英国、Quercus 出版)

という本を
(岡山県立図書館が蔵書していたので借りて)
原典(英語)で読んでいる。

邦訳も出ている。
『統合失調症の一族 ー遺伝か環境かー』
ロバート・コルカー著
柴田 裕之 訳
2022年9月14日初版
早川書房


ベストセラー作家
(未解決連続殺人事件を扱った ”Lost Girls” 2013 初版で有名。
 このノンフィクションは 2020 年に映画化されている)
による
ある一家のレポート
(この一家の人に依頼されて
 調べることになったらしい)
なのだが

その対象の特異性
(一家の12人の子どものうち
 男の子ばかりの6人が
 統合失調症に罹患した)
にもかかわらず

誇張することなく
(学術論文ではなく
 一般向けのノンフィクションだが)
精神医療に
方法的問題を投げかけ得るレポート
となっている
ように思える。

私が言いたいのは
「統合失調症」という症状を
理性の範囲内で単に「病気」
と捉えるのではなく

「統合失調症」
という症状で訴えている
心理生理そのものの意志を
正しく
(理性からの理解ではなく
 生理レベルでの)
理解しようとする
その態度が大事だ
ということ。

語学は
母国語とは異なる言語を話す人の意志を
正確に理解することが
目的であるように

精神医療においても
症状が示している
「本来の意図」を
可能な限り深く広く高く
理解することで

その症状の消失
或いは
その症状によって
達成されている
新しい環境の持つ意味・意義の理解
が大事。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

社会の意志
は
国家を構成している
国民の総意
とも言えるけれども

国家を
支配している
支配層の意志
と
支配されている
被支配層の意志
との
力関係
によって動く
とも言えるが

さらには
そういった
人間の認識能力を越えた
「天(超越者)」
の力によって
変容する
とも捉えることが出来る。

人の意志で変えられる事柄だけで
社会が動いているのではなく
かといって
支配者の意図通りに
永遠に社会が動かせる
わけでもなく

支配層の意志を越えた力で
その時の支配層が
支配層の意志を越えて
(支配層の意志に反して
 別の支配層によって)
転換する
(とって変えられてしまう)
場合も
あることは
これまでの歴史が
示している。

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最終更新
令和5(2023)年5月8日 19時00分
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