今日は
浅間山荘事件から50年経った節目の日
なので
そのことを書く予定。
現在時刻は
12時57分。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
三島由紀夫の割腹自殺(
三島事件=昭和45(1970)年11月25日)にせよ
浅間山荘事件(1972年2月19〜28日)にせよ
リアルタイムで
経験して来た。
三島事件は
報じられた新聞を
この手で配った(小学5年生時)。
浅間山荘事件は
テレビの生放送で目撃した(中学1年生時)。
2月28日は
事件が終結した日だから
事件を起こした側からすれば
敗北の日だ。
三島事件だって
三島由紀夫にとっては
絶望の日だ。
事件であれ
事故であれ
災害であれ
起こす側と
被った側の
両面から見なければ
合理的に正しく
倫理的に清く
芸術的に美しく
且つ
宗教的に聖なる
判断は
出来ない。
三島由紀夫と
連合赤軍が
起こした事件
は
知識階級の極右と
知識階級の極左が
熱情を共有しながらも
全く反対の目的に向けて
行動を起こした
結果だ。
中道の判断
あるいは
凡庸な判断
からすれば
理解不能な
暴挙にしか見えないが
行為する者は
みな
真剣そのものであり
つまり
行為している者の側から見れば
考え抜いた末の結論を
行動に移しただけのことで
責められる意味も意義も
全く感じられない。
ただ
大きな(権・武)力に負けて
行動が完遂できなかった
というだけのことだ。
もしも
三島や
赤軍に
日本の国力(警察力や自衛隊や財力)
以上の
軍事力・財力・権力があったのなら
彼らの主張・行動が
完遂していただろう。
無理が
通れば
道理が
引っ込む。
無理(力、武力、軍事力、暴力)
が優勢である場合
道理(合理と倫理と芸道と摂理)
は無力と化す。
いかなる
非合理も
不倫も
ナンセンスな醜悪も
洗脳も
力と武力と軍事力と権力が
勝(まさ)れば
実行可能なのである。
(後に道理によって裁かれることになるとしても
当座(その場面で)は)
後に裁かれることになっても
ゲリラ的な行為の場合
誰にも止めることができず
事故のように
偶発的に
行動が完結することは
いくらでも見られることであり
これからも永遠に無くならないだろうし
偶発的で突発的な行為は
永遠に止めることができない。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
だからシェリングは
そうした力のことを
das sein Könnende(存在可能者)
として
神の二つの原理の内の一つとした。
(もう一つは das rein Seiende(純粋存在者)。)
存在可能者は
それが可能性である(隠れている)限り
神の原理である。
(悪のあらゆる可能性を見抜く原理として。
したがって存在可能者の原理無くしては
ただのお人よしと成ってしまい
いかなる悪にも対抗出来ないし
いかなる悪も未然に防ぐことができない。
それゆえに現実性としては悪しか行為し得ない存在可能者を
神は原理として望むのである。
ただし目的としてではなく「完成せる精神」に到達し得る為の手段として。)
けれども
存在可能者が
純粋存在者を伴わずに
存在化(実行)した場合
存在可能者は
悪のみ実行するものとなる。
純粋存在者を伴わない
存在可能者だから
悪なのだ。
つまり
道理を伴わない
(道理を客体としない)
主体としての存在可能者
であるがゆえに
即ち
自分自身を「客体=対象=目的」とする存在可能者
であるがゆえに
それは悪しか行為し得ない。
だから
強大な軍事力を持つ(現代では「核」を持つ)権力者は
それゆえ
聖者であるときのみ
その力を神的に用いることができる。
しかし
強大な軍事力を持つ権力者が
人間として成熟していない
つまり
人格者ではない場合
強大な軍事力を伴う権力者は
純粋存在者を伴わない存在可能者として
悪のみを行いうる者として
破壊者にして
自滅の運命から逃れられない。
=======================================
最終更新
令和4(2022)年2月28日 21時32分
ログインしてコメントを確認・投稿する