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2021年12月29日11:25

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現状の学問と教育を公然と批判する(つもり)

ほんとは
非公開で書こうかと
思った論題だけど

批判する限りは
公開が前提でないと
ただの悪口になってしまう
と思ったので
全面公開(全体に公開)で
書く。

ただし
全体に公開する以上
過激なことは
控える。
(というより
 過激なことは
 たとえ非公開であっても
 自分のためにならない。)

でないと
我が身が危ないからね。

我が身と言っても
地位も名誉も財産も
無いから

何も
守るものは
無いんだけどね あせあせ
(私と妻の命以外は)

それと
ここで使っている
「批判」という表現は
「非難」の意味で用いているのではない。

カントが
『純粋理性批判』
で使った意味での
「批判
 (Kritik=吟味。
  潰(つぶ)し合いの為の「いいがかり」ではなく、
  生産(建設)的議論のための「判断」。)」
の意味。

1.まず
  学問批判(Wissenschaftskritik)。

現在の
「学問(Wissenschaft)」
は
(まだ学位=博士号も
 取得できていない分際で
 何も言う権利はないのだが
 一応、京大の博士後期課程を
 「研究指導認定退学」して
 62歳まで
 ずっと「学生」の身分で
 学会発表や学術雑誌への投稿、掲載などを
 経験し
 その間
 宗教経験も経た者の
 意見を言うと)

「科学」としては
成熟の域に達しているし

「哲学」としても
成熟の域に達していると
思われるが

こと
「宗教」に関しては

「知識」としては
つまり
「文献学」としては
成熟の域に達している
(例えば京大では
 仏教学を「文献文化学」で扱う
ことで
 「事足れり」としており
 仏教を「体感的に修得する」ためには必須のはずの「行」は
 全くタッチしない方針は
 (高野山大学の密教学科などでは「行(実習:加行)」は「必須科目」である)
 学問のあり方として「偏位している(偏っている)」
 と私は批判する。)
と言えるが

そして
「修行法」に関しても
宗教の範囲内では
成熟の域に達していると
思われる。

けれども
宗教の「修行法」に関しては
宗教の範囲だけにとどめておいては
たとえばオウム真理教の犯罪行為などを
防止することはできないと思う。

(そして「現状の学問」は
 その意味で
 「まだ発展の余地を残す」水準である
 と私は「批判」する。

 「教育」もまた「然(しか)り(=そう、その通り)」である。
 オウム真理教事件を防止できる教育が存在していないから
 知的には優秀で学歴も高い人間が
 オウム真理教の信者であったりしたわけで
 高い教育を受けた者が
 宗教が持つ危険性に気づき得なかったのは
 「教育」が「未熟で発展の余地を残している」とこの証拠である
 と私は「批判」する。

 そして「オウム真理教事件」に対して
 (「オウム真理教事件」だけではなく
  「神戸連続児童殺傷事件」についても)
 「本当の宗教の在り方」
 (「神戸連続児童殺傷事件」については
  「人間の心の闇(負の感情)」との「つき合い方」)
 を「問い直す」
 「科研費による研究」として
 二期(2011年度〜2014年度と2015年度〜2018年度の8年間)
 に亘(わた)って共同研究者の方々と
 真剣に取り組まれた学術研究営為が
 鎌田東二先生を代表研究者とする
 「身心変容技法研究会」だ。

 この8年間の「科研費による研究」は
 「3冊の書籍」として「結果」し
 (第一巻『身心変容の科学 〜 瞑想の科学』(←のリンクからpdfで目次のみ可読)
  第二巻『身心変容のワザ 〜 技法と伝承』(←のリンクからpdfで目次のみ可読)
  最終巻(第三巻)『身心変容と医療/表現 〜 近代と伝統』)

 その最終巻(第三巻)には
 私も執筆依頼を受けて掲載した(211〜227頁)。)

なぜならば
「宗教」とは
「身心の変容」を伴う
それゆえ
「体の健康力」
と
「心の判断力」
の
「双方」
に
「構造的な変化」
を
齎(もたら)す
「行為(技術であり智慧であり医療でもある「こと(言・事)」)」
だからだ。

つまり
「宗教原理」
は
「意識レベル」
の
「範囲外(意識レベルよりも深層の心理さらには生理レベル)」
で
「生きて働き
 意識レベルへ
 強制を以(も)って影響し得る力」
だからだ。

なので
苫米地英人さん
(苫米地英人さんは
 私と同じ1959年生まれ)
も言うように

宗教原理は
悪用すれば
「洗脳」を
可能とする原理なので
「宗教指導者」は
単に
「宗教原理」を獲得した者
(本当に「宗教原理」が
 「獲得=悟りを開いたり、神の啓示を受けたり」出来ていれば
 それだけで「完全」の筈なのだけれども
 この「宗教体験」が
 本人は「私は悟った」あるいは「私は神を見た」と
 「確信」していても
 その「確信」が
 「勘違い」であったり「思い込み」であったり
 つまりは
 「誤った判断」
 である場合には
 その「妄念」が
 「宗教原理」を
 「洗脳」へと悪用させることになる)
であるだけでは
不十分で

「宗教体験」を
「獲得した(悟りを得た、神の啓示を受けた)」
と
「確信」した者は
「総(すべ)て」
その
「確信」を

単に
「自証(主観的確信)」
の段階に留(とど)めておく
のではなく

同時に
「論証(倫理的証明)」
の段階
即ち
「哲学的段階(水準)」
へと
「高める」ので
(「高められる」と他動的に表現せず
 「高める」と「能動的」に表現したのは
 高めようとする意志が
 本人になければ実現しないことであるからである。
 つまり「悟った」「私は神に選ばれた」と
 「確信」した者が
 それで満足してしまうと
 「驕(おご)り」や「思い上がり」に
 陥って
 「生産的」であることを
 「やめてしまい」
 むしろ
 「腐っていく方向」へと陥ったり
 「破壊的行為」へ堕落してしまう
 こととなる。)
なければならない。

そして
「論証」すること
と並行して

自らの
「宗教体験」が
「真正(神聖)なものであること」
を
「実証水準」へ
「高める」ことの
「努力」を
永続することが
肝要である。

(ここで
 「努力」に関して
 「しなければならない」
 あるいは
 西田幾多郎のように
 「努力するのでなければならない」
 と「当為」表現を用いないのは
 
 私は「宗教原理」は
 「中動態系言語文法」を
 「必然的に伴う」と
 考えているからだ。

 「〜することが肝要だ」が
 「中動態系言語文法
  (中動態と
   中動態に対立する限りでの能動態
   から構成される言語文法)」
 であるかどうかは分からないが

 「する(能動態)」と「される(受動態)」だけで
 構成される
 「二肢言語文法
  (使役動詞「させる」で支配する意図を隠し持つ
   「破壊」あるいは「抑圧」の本質を持つ言語)」
 でもなく
 あるいは
 西田が意図した
 「倫理的人格的哲学」で頻繁に用いた
 「〜でなければならない」をも
 超越する言語文法が

 中動態系言語文法であると
 考えるので
 「〜でなければならない」
 と西田であれば表現するであろう箇所を

 それと「替(かわ)る」
 言語表現を編み出す「のが肝要」だと思われる。

 いったいどういう「表現」が
 「倫理的当為的人格的」表現を超越する
 「中動態系言語文法的」表現にあたるのだろうか。

 「中動態」は
 「自発(受身・可能・尊敬)」が基本であり
 その代表的な助動詞は
 「れる」や「られる」である。

 「見る」「聞く」という積極的行為ではなく
 「見える」「聞こえる」という表現がそうであり、
 「それが自然であり、他の人でもそうするだろう」
 という感じが込められていると言われる(出典)。

 そういう意味では
 努力「するのでなければならない」
 に替(か)わる
 中動態系言語文法表現は
 努力「される」
 であろう。)

なので
宗教的な「修行」であれ
医学的な「自律性療法(autogene Therapie;autogenic therapy)」であれ
その「行為」の「結果」として
「宗教経験(宗教体験)」を
「得た」と
「確信(主観的確信としての「自証」)」
を持った者は

(1)この時点では「自証」の要件を満たしたのみで
まだ
(2)「論証(哲学的論理的証明)」と
(3)「実証(科学的数学的証明)」とが
残っているのだ
ということを
自覚(認識)して

(2)「論証」と
(3)「実証」を
自らの「課題」として
永続的に
「努力」される。

(「努力するのでなければならない」
 と今までであれば言いたいところだが
 これからは「中動態系言語文法」としての
 「自発・可能・尊敬・受身」の
 「表現」を「自覚」的に用いたいので
 少なくとも
 「努力しなければならない」
 という表現(当為表現=倫理的道徳的表現)は
 用いない。

 だとしたら
 「努力される」に
 「ねばならない」を加えた
 「努力されるのでなければならない」
 ではどうか。

 これも
 後半の「ねばならない」の語意が強すぎて
 「自発」の意味の「される」が
 「打ち消されてしまう」気がするので
 用いない方が良いかもしれない。

 こんな感じで
 「言葉の棘(とげ)」に
 もっと敏感になることで
 「言葉の暴力」を
 防げると思う。

 これからは
 「言葉の達人(哲人)」を
 目指そう ウインク)

つまり
「学問」
とは
「自証」としての「宗教原理獲得」
と
「論証」としての「宗教原理の論理化」
と
「実証」としての「宗教原理の解明」
の
「三位一体(Trinität=Dreieinigkeit)」
を
「体現(Verkörperung=具現)」
するものであって
初めて
「成熟した(reif)学問(Wissenschaft)」
とされる。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

2.次に教育批判(Erziehungskritik;Ausbildungskritik)。

教育も
学問(Wissenschaft)
と同様に

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

(1)
まず最初に
自証段階で
最も深層の生理レベル
(さらに言えば生理の根源としての超越者
 その意味では
 生理を司っている DNA を
 形成している
 当のもの
 としての
 「生命
 (生命に関しても、
  個人レベルでの生命である「ビオス(小文字の生命)」と
  普遍レベルでの生命である「ゾーエー(大文字の生命)」とを
  区別する木村敏の構想もある)」
 そのものの根源者
 としての
 外在的超越者の意味での「神」
 まで遡ることも可能である)
にまで
深まること
その
「努力」が
永続的に
続け「られる」こと。

この時点で
「現状の教育」
とは
「根本的に異なる点」
がある。

それは
「現状の教育」
が
「教育内容」
を
努力「させる」行為
である
のに対して

私が提唱する
「これからの教育」あるいは
「中動態系言語文法方式の教育」は

「自証」によって
「獲得」「される」
「悟り(内在超越者としての仏)」や
「啓示(外在超越者としての神)」を
「論理化」する「努力」や
「実証化」する「努力」を
(この「努力」も「倫理的」あるいは「人格的」な意味合いが濃い。
 最も進んだ「判断」としての
 「アプリオリな総合(弁証)判断を
  アポステリオリな分析判断に基づいて
  下す判断」
 は
 「道徳的」段階を越えて
 「自由な Geist」による
 「自発的判断」
 であるから
 そこには
 「努力」という感覚は存在せず
 「何のストレスもなく
  気づけば行っており
  むしろ
  しないでおくことができない
  ほどに
  したくてしたくて仕方がない行為」
 であるので
 その「目標(理念)」
 は
 いかなる「努力目標」でもなく
 「自発的主体的自主的行為」
 である。

 その意味で
 「自証」には若干の
 「努力(或いは「訓練(Übung)」)が
 必要かもしれないが
 正しく「獲得」された「宗教原理」であるならば
 むしろ
 「悦(よろこ)びを伴って行われる」
 「自発行為」
 であるので

 「自証」の「訓練」と
 「論証」と「実証」の
 「自己自律的(Heautonomisch)行為」
 (ここで突然「自己自律(Heautonomie)」という
  術語(テクニカルターム)を用いたのは
  カントの自己自律へのオマージュ(敬意)である。
  カントは『判断力批判』で
  「反省的判断の自己自律」を論じ
  これに彼の『純粋理性批判』『実践理性批判』を通じて磨き上げてきた
  「自律(Autonomie)」概念の最終形態(最高峰)を与えた。
  私はカントの「自己自律」に敬意を表して
  「悟り」としての「アプリオリな(先天的=本覚)総合(弁証)判断」と
  「啓示」としての「アポステリオリ(後天的)な分析判断」との
  「解き難き紐帯(混合ではなく「融合」)としての
  「完成せる自由な Geist(プネウマでありルーアッハである「気」)」
  の意味で用いたい。

  ここで「Geist」は精神という訳語が与えられるのが通例であるが
  むしろ「精霊
     (「万物の根源をなすという不思議な気。精気」。
      この意味では「啓示」。或いはまた
      「草木・動物・人・無生物などの個々に宿っているとされる
       超自然的な存在」。
      この意味では「本覚(「悟り」の「根源(大元)」。
      それらの意味を兼備する言葉として
      「Geist」を用いたい。)」
  という意味が合う。)

以上を総合して纏(まと)めると

(1)「自証」段階では「義務目標」として「他律的行為」
   (「悟り」や「啓示」を人が受ける前には
    必ず「人生や人間関係における深い悩み」が「実在」しており
    当人は「この地獄から早く抜け出したい」と「切望」しているものである。
    しかし当人の希望に反して現実は
    「如何ともし難く」「克服不可能」であることが「自覚」され
    当人は「絶望」するのである。しかし
    「悟り」や「啓示」に至った者は必ず何らかの
    「他律的救い」を「得て」
    「悟り」や「啓示」に至っている。
    その意味での「他律的行為」であり
    「克服し難き苦しみ」の意味で「克服」が「義務」である「目標」
    の意味を与えたが、この表現は再考すべきかもしれない。)
(2)「論証」段階では「努力目標」として「自律的行為」
(3)「実証」段階では「自由精霊」の「自己自律的行為」。
   (シェリングは「自由」を最も重要視したが
    シェリングの言う意味での「自由」は
    「自律」でも「他律」でもない
    「反省的判断の自己自律が行為されること(=自由)」
    と捉えていたのではないだろうか。
    「自由」は
    シェリングが用いる意味での「Geist」の「行為」の「特徴」である。)

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

(2)
それと並行して

「自証」
の深まりによって獲得される
「個人レベルにおける最も根源的なるもの(最根源者)」
としての
「内在超越者
 (「悟り」の主体としての仏(DNA)=全直系(父系と母系)祖先情報)」
と
「全存在および全非存在レベルにおける最も根源的なるもの(最根源者)」
としての
「外在超越者(「啓示」の主体としての神=全存在および全非存在の生滅過程情報)」
の
「主観的体感的経験」
によって獲得し得た
「生きて動く生動的情報」
を

「論理化」する過程
(「哲学化」の過程)
である
「論証」
が
永続的に
努力さ「れる」こと
に

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

(3)
「事実」として
「悟り」や「啓示」の内容を
実証して
内実を詳細に
解明する「努力」が
永続的に為さ「れる」。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

これらの
(1)「心霊上の事実」の「他律的自証」
および
(2)「心霊上の事実」の「自律的論証」
と
(3)「心霊状の事実」の「自己自律的実証」
が
「習慣化される」教育が
構想さ「れる」。

(夕食食べたら眠くなったので仮眠する=18時頃。)
(仮眠して起きたら、まだ20時半頃だった。
 その後書き加えた内容は
 上記の記述を大幅に加筆することになっている。)

☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

さて
「自証」段階での
「他律的義務目標」
という「表現」
の「再考」であるが

人が「宗教」を必要とする場合には
ほとんど例外なく
「絶望的悩み」
が「実在」している。

なぜならば
「解決可能な問題」であれば
「科学」が「処理」してくれるのであり

「解決不可能な問題」であっても
「論理」の「問題」である限りは
「哲学」が「解決」を用意してくれるのであるが

「科学」も「哲学」も
「役に立たない深く克服できない悩み」は
「宗教」でなければ
どこにも取り扱う「領域(場所)」が実在しない。

「宗教」だけが
人間の「死」を含めて
「誰にも言えない悩み
 (犯罪としての罪(crime:Verbrechen)のみならず
  「原罪(the original sin:die Erbsünde)」を含む
  宗教上の罪(sin:Sünde)および
  「生老病死」の悩み)」
を「受け容(い)れ」て
その苦しみからの「救済」「救い」を
謳(うた)っているからだ。

そのような「宗教」が
「絶望的な悩み」に対して
「差し伸べる救いの手」
は
「他律的義務目標」
であろうか。

これは「違う」。

「絶望する者」に対して
「差し伸べられる救いの手」は
「どこまでも慈悲深く
 どこまでも許す
 限りなく寛大なこころ」
だろう。

「他律」には違いないが
その「主体」は「神仏」であるから
「義務目標」ではなく
「メルト(溶解)させられる慈悲」
だ。

それは
「完膚無きまでに
 叩きのめされ
 完全降伏を認めざるを得ない
 全くの敗北」
なのであるが
どういうわけか
「感動の涙」
を伴うほどに
「ありがたき幸せ(至福)」
を与えられる
「幸福な降伏」
なのだ。

この「降伏(surrender:Aufgabe)」
(このドイツ語の「Aufgabe」には
 「giving up possession(所有放棄、占有断念)」の意味がある。
 もちろん「Aufgabe」の基本的な意味は「課題」「使命」なのだが。)
の
「相手」
が
「抑圧的な支配者」であったり
「暴力的な悪徳者」である場合には
「服従(submission:Unterwerfung)」
という感覚(感情)しか
湧かないが
「降伏の相手」
が
「自分自身の直径の祖先」
である場合に
「限り」

「至福の感情」が
「自発する」。

「幸福な降伏」
は
「至福の私服」
(Oh my God の my God は
 「私服」の「God」)
だ。

なので
「自証」段階では
(「他律的義務目標」ではなく)
詳しく言えば
「他律」には違いないが
その「他律」は「赤の他人」ではなく
「直径の祖先全体」であり
その
「直径の祖先全体」の
「無限の慈愛(unendliche Zuneigung)」に
「打ち負かさ「れる」ことによって」
「私利私欲が解けて(欲が溶けて無くなり)」
「この上ない喜びの感情が自然と湧く」
ということなので

「そういう事態(出来事)」
は
「義務課題」という表現に
「そぐわない」。

むしろ
「祖先的無限慈愛」
なのだ。

なので
もう一度まとめ直すと

(1)「自証」は
   「祖先の無限慈愛」によって
   「煩悩がメルトされ(完全降伏)」
   この時点で
   「個人的な人格(性格)」の「限界」が
   「突破(Durchbruch)」され
   「全直径祖先の無限慈悲人格(神性の無)」へと
   「転化」する「出来事」。

   これを「教育」が
   「全人類」の「共有財産」として
   「所有」することができるように
   「与えること」ができるように
   「自発的転化」さ「れる」。

   端的な表現を与えると

   「自律」段階での
   「煩悩を溶解する
    内在超越者の無限慈悲」
   が
   「受けられるような
    意識状態(自律性状態への受動的注意集中)」
   が
   「修得」さ「れる」。

  その意味では
  「自律性療法」が
  「教育体系」に
  組み込ま「れる」ことが
  肝要。

(2)「論証」段階では
   以上の「自証」によって得られた
   「祖先の無限の慈悲」と「煩悩の溶解(メルト)」
   を「論理化」する。

   即ち「非言語」である「内在超越者(直径全祖先)の無限の慈悲」を
   「言語化」する段階。

  この場合
  用いられる「言語」は
  「中動態系言語」である。

  なぜならば
  「直径全祖先の無限の慈愛」は
  「二肢言語文法」のような
  「能動(使役=やる)」と「受動(服従=やられる)」しか持たない
  したがって「勝つ」か「負ける」かしか考えられない「言語構造(世界)」
  ではなく

  「どこまでも許し」「どこまでも見返りを求めない」「無限の与え」
  であるがゆえに

  「中動態」と「中動態とセットである限りの能動態」
  つまり
  「形式は受動(受身)であるが内容は能動」である「直径全祖先の無限慈愛」
  と
  「形式は能動(主体)であるが内容は受動」である「私」
  との
  「心霊状の関係」
  以外ではありえない
  からだ。

  つまり
  「論証」段階では
  「無限の慈愛」による
  「煩悩の溶解」の
  「全過程(ganz Prozess)」を
  「中動態系言語文法」によって
  「論理化」する。

(3)「実証」段階では
   「論理(哲学)化」された「自証(宗教原理)」の
   「実在」を「証明」する。
    (悟りも啓示も人類の共有財産であり
     総ての人類はいずれ
     悟りも啓示も所有するようになる歴史の全過程を
     実在の必然過程として証明する。)

=======================================
最終更新
令和3(2021)年12月29日 23時58分
令和3(2021)年12月30日  1時10分
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