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2021年11月02日23:19

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シェリング積極哲学が扱った「今までの哲学によって包括されていなかった全き世界」

シェリングは
積極哲学(positive Philosophie)
つまり
『神話の哲学(Philosophie der Mythologie)』
(エアランゲン大学1821年、ミュンヘン大学1828年、ベルリン大学1842年)
と
『啓示の哲学(Philosophie der Offenbarung)』
(ミュンヘン大学1831年、ベルリン大学1841〜1842、1844〜1845年)
で
「今までの哲学によって包括されていなかった全(まった)き世界」
を
扱った。

したがって
シェリングは積極哲学で
カントやフィヒテやヘーゲルが
(それどころか勿論
 ドイツ古典哲学以前の近世哲学や
 中世の哲学それに
 ギリシアの古代哲学や
 それ以前の哲学など
 シェリング以前の総(すべ)ての哲学で)
「何も予想しなかった
 全く多くの概念や多くの概念運動」
を
扱っている。

カントやフィヒテやヘーゲルが
「端的に何も知らない」
「全く受け入れ得ない世界」
を
シェリングは
彼の積極哲学(神話と啓示の哲学)で
明らかにしている。

それが何を指しているのか
ということについて
シェリングは
『啓示の哲学』第3書(第35講義)で
次のように言っている。
(諸岡道比古 訳)

「現在の生 [活] での人間の意義は、
 自然と精神界 [霊界] とを結ぶ結合部である(ことだ)、
 としばしば言われる。

 しかしこの際、
 精神界 [霊界] ということで、
 人間が今すでに実存している
 あるいは少なくとも
 実存すべき
 世界のみが本来理解された。

 けれども
 ここ(『啓示の哲学』)では
 本来の精神界 [霊界] が問題である。」
(SW(Schellings Sämmtliche Werke), XIV, 292、
 弘前大学人文学部発行『人文社会論叢(人文科学篇)』第18号、2007年、30頁)

シェリングが
「本来の精神界 [霊界](eine eigentliche Geisterwelt)」
と言うことで指している世界は
カント哲学でも
フィヒテ哲学でも
ヘーゲル哲学でも
扱われなかった世界
である。

「このような世界(本来の霊界)と連関している
 という意識、
 つまり
 (人間は)この世界 [現世] の外でも
 依然、禍福に関与する普遍的な存在者である
 という意識が、
 人間をして
 初めて地上の域を越えさせる。

 それどころか
 (そういう意識は人間をして)
 自然の域を越えさせる。

 自然は
 自らの外に
 別の世界を持つことによって、
 自然そのものが
 自らの制限において
 一層わかりやすくなる。」
(同上。つまり
 SW, XIV, 292、
 弘前大学人文学部発行『人文社会論叢(人文科学篇)』第18号、2007年、30頁)

これに続けてシェリングは
次のように言う。

「カントは50年前
 (シェリングがベルリン大学で『啓示の哲学』を講義したのは
  1841〜1842年と
  1844〜1845年の2回なので
  その50年前とは1790年代を意味している。これは
  カントが三批判書を書き上げた当時
  (第一批判書=『純粋理性批判』初版1781、改定第二版1787年
   第二批判書=『実践理性批判』1788年
   第三批判書=『判断力批判』1790年)
  を意味している。)
 人間の認識能力の全領域(純粋理性、実践理性、判断力)を
 端から端まで歩き論じ尽くしたと思った。

 人(フィヒテやヘーゲル、特にヘーゲル)は後に、
 概念と
 あらゆる可能な概念運動との
 全範囲を、
 論理的円環で限定しようとした。

 細心に注意すれば、
 当時の偶然的な世界觀(超越論的観念論)
 によって与えられた
 まさにあの諸概念
 (超越論的観念論によって可能となる�躋鞠�
  =フィヒテやヘーゲルが扱った�躋鞠亜�
 が
 包括されているに過ぎない。」
 (同上)

これに続く箇所で

「しかしすでに現在の展開
 (『啓示の哲学』第3書、第1書から通算で第35講義)
 のなかに、
 あれらの試み(カント、フィヒテ、ヘーゲルの試み)
 が何も予想しなかった
 全く多くの概念や多くの概念運動が
 現れてきている。」
(同上)

と述べている。

「あれらの試みが
 何も予想しなかった
 全く多くの概念や多くの概念運動」

とは
何を意味しているのか
ということについては

例えば
この記述の少し前の箇所で
シェリングは
次のように述べて
上記の「あれらの試みが何も予想しなかった全く多くの概念や多くの概念運動」
を説明しようとする。

「人類は総じて
 意識の神話的緊張の中に居た
 が、
 この(意識の神話的)緊張によって
 可能であるにすぎなかった
 これらの現象
 (数多くの天使の現象、特に
  旧約聖書に満ちあふれる神の顕現)
 を
 そのものとして説明すること
 だけが残っている。」
(SW, XIV, 291
 弘前大学人文学部発行『人文社会論叢(人文科学篇)』第18号、2007年、29頁)

『旧約聖書』に多く見られる
「神の顕現(Theophanie:神現、公現)」
という現象の
そのものとしての説明を
シェリングは
次のようにしている。

「神々の諸表象を
 媒介する
 同一の神話的緊張(dieselbe mythologische Spannung)
 は、
 ちょうど
 最初の共同体(erste Gemeinde)の
 授かり物(Gabe)が
 聖霊の授かり物(Gaben des heilige Geistes)
 であるように、
 ここ(『旧約聖書』)では
 (最初の共同体に「授かり物」として与えられた
  「神々の�輊従檗�
  を媒介した神話的緊張
  と同一の神話的緊張は)
 現実に神が現象すること(wirklich göttlicher Erscheinung)の
 媒介物(das Medium)になる。」
(同上)

ここからの説明は
シェリングの積極哲学で初めて現れた説明
(それまでのどの哲学でも見られなかった説明
 それまでのどの哲学も扱わなかった世界の説明)
だ。
というのは
「神性は
 そのものとして現象しえない、
 ということに関して意見が一致している」
からだ。

「そのものとして現象しえない」
はずの
「神性(神)」
が
「現実に現象した」
という記述が
旧約聖書に多く見られるのだが

このことの説明を
カント哲学もフィヒテ哲学もヘーゲル哲学も
為し得なかった。

この説明をシェリングは
次のようにしている。

「しかし、
 聖霊が
 それを通して作用した
 手段(媒介物)(Mittel(Medium))は
 〈後に中断し喪失した、意識の状態〉
 (einer Zustand des Bewusstseins, der später aufhörte und sich verlor)
 によって与えられた。」
(同上)

この
嘗て(最初の共同体で)は
存在していたが
後には
aufhören(活動を停止、中断)して
sich verlor(=sich verlieren:消失、没頭)した
意識の状態(意識の神話的緊張)
の
説明を
シェリングは
さらに続ける。

「神話的�輊従�
 を
 媒介し得るのも、
 しかも
 旧約聖書の〈神の顕現〉において
 神性の現実的現象
 の
 媒介物であり得るのも
 同一のポテンツである。」
(同上)

これは
最初の共同体の人類
が
「授かり物」として
聖霊から与えられた
「神話的�輊従檗�
を媒介した
人類の「意識の状態(意識の神話的緊張)」
も
『旧約聖書』の〈神の顕現〉において
神性が現実的に現象することの
媒介物として作用しているのも
同じ�蹈櫂謄鵐弔箸靴討�
「意識の状態(意識の神話的緊張)」
だということを
説明しているものと思われる。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ここで
「意識の神話的緊張」
について
もう少しシェリングの説明を
見ておきたい。

シェリングはこの記述の少し前
(SW, XIV, 290、
 弘前大学人文学部発行『人文社会論叢(人文科学篇)』第18号、2007年、29頁)
で
「神話的なもの(das Mythologische)」
の正しい理解を示している。
(「この神話的なものが正しく理解されるならば」ということで
 「この神話的なものは」と説明を続けている。)

シェリングは
「神話的なもの(das Mythologische)」
は
「我々がいかなる経験ももはや持たない
 (wir keine Erfahrung mehr haben)
 実在的な感覚(eine reelle Empfindung)」
から
流れ出るものである
と言う。

また
「神話的なもの」の表現者である
使徒たち(ヨハネやペトロ)は

「盲目の意識(des blinden Bewusstseins)
 と
 自由になった意識(des befreiten Bewusstseins)
 との
 境界(Grenze)
 に立っており

 使徒たちの
 神話的な�輊従櫃�
 使徒たちが体験した
 (我々がもはや持たなくなった)
 分かれ目そのもの(Krisis selbst)
 に由来する。」
(同上)

と言い、

「しかも
 分かれ目そのもの(Krisis selbst)
 において、
 あの�躙�威(jene Mächte)は
 自らの客観的な暴力(ihrer objektiven Gewalt)を
 奪われた(beraubt wurden:強奪された)」(同上)

と言う。

シェリングは
聖霊が「授け物」として
「神話的なもの(神話的表象)」を
与えるにあたって
「媒介物(作用起点、作用する場所、作業場)」
として用いる
「いかなる経験としても
 我々がもはや持たなくなった
 実在的な感覚」
を
「今までの哲学によって包括されていなかった全き世界」
として
初めて積極哲学で扱っている。

そして
その
「現代の我々が
 いかなる経験としても
 もはや持たなくなった」
と言われる
「実在的な感覚」
は
「盲目的な意識と自由になった意識との
 まさに境界に立っている意識(感覚)」
であり

「あらゆる神話的な�輊従檗廚�
この「実在的な感覚」から
「流れ出て」おり

しかも
使徒たち(ペテロやパウロ)は
盲目的な意識
(これが神話的なもの(神話的�輊従檗砲�流れ出る
 「実在的な感覚」)
と
自由になった意識
(�躙�威から客観的な暴力を奪い取って得られた「自由」な意識)
との
境目(Krisis:病気が回復に向かうか死に向かうかの境(さか)い目、峠、危機)
に
まさに立っており

そして
この
「盲目的意識」と「自由になった意識」との
「境(さか)い目」に
「立っている
 (盲目的意識の側でもなく、自由になった意識の側でもなく
  両側に跨(また)がった状態のままで居る)」
ということが
「�躙�威から客観的な暴力(Gewalt)を奪い取る」
(正しく表現すれば
 「境目(分かれ目そのもの=Krisis selbst)
  に於いて
  �躙�威は自らの客観的な暴力を
  奪われた」
 つまり
 使徒が「主体」なのではなく
 「分かれ目そのもの(Krisis selbst)」が
 「主体」として
 「�躙�威」から
 「客観的な暴力」を
 「強奪する(berauben)」)
という現象を
生じせしめることを
シェリングは洞察している。

以上から明らかになった
シェリングが言うところの
カントやフィヒテやヘーゲルが
「何も予想しなかった
 全く多くの概念や多くの概念運動」
を
纏めると

(1)神話(神話的なるもの、神話的�輊従檗砲�
   正しく理解されるならば
   「実在的な感覚(eine reelle Empfindung)」
   から流れ出て来る(与えられる)ものであること。

(2)この「実在的な感覚」は
   「我々がいかなる経験ももはや持たない感覚」であり
   (wir keine Erfahrung mehr haben)
   「後に中断し喪失した意識の状態」である。
   (Zustand des Bewusstseins, der später aufhörte und sich verlor)

(3)「神々の�輊従檗平析叩⊃析壇�なるもの、神話的�輊従檗法廚�
   「神話的緊張(mythologische Spannung)」が
   「媒介」している。

(4)「神話的緊張」とは
   「盲目的意識(実在的感覚)」
   と
   「自由になった意識」
   との
   境目(Grenze、分かれ目=Krisis)
   に立っている(居る)こと
   である。

(5)この「神話的緊張」を
   「手段(Mittel)」、「媒介物(Medium)」として
   聖霊が作用して
   「神話的�輊従檗廚�
   人間の意識へ齎(もたら)したり
   神が作用して
   「神の顕現」を
   人間の意識へ齎(もたら)す。

(6)「最初の共同体(erste Gemeinde)」の
   「授かり物(die Gaben)=聖霊による神話的�輊従檗廚�
   (聖霊へ)媒介するもの
   も
   『旧約聖書』における「神の顕現」を
   (神へ)媒介するもの
   も
   同一の神話的緊張であり
   同一の�蹈櫂謄鵐弔任△襦�
   (ここで神話的緊張=�蹈櫂謄鵐弔箸気譴襦�
    しかも神話的緊張=意識の神話的緊張であり
    意識の神話的緊張=我々が後に中断し喪失した意識の状態であり
    そうした意識の状態は
    「我々がいかなる経験ももはや持たない実在的な感覚」
    がなければ生じない意識状態であることも
    同時にここから読み取れる。)

(7)この「意識の神話的緊張」は
   「盲目の意識」と「自由になった意識」との
   「境目(Grenze)」に立っている「緊張(Spannung)」
   であり

(8)この「緊張」を体験する
   「分かれ目そのもの(Krisis selbst)」において
   「あの�躙�威」は「自らの客観的な暴力(Gewalt)」を
   (「神話的緊張=�蹈櫂謄鵐帖廚�媒介する
    「聖霊」や「神」によって)
   奪われる。

以上の読み取りによって明らかになる
シェリング積極哲学の「論理」は
次の如くである。

まず
これまでの哲学では全く扱われてこなかった
そして現在の我々の意識においては
経験されることがなくなった
「意識の神話的緊張(�蹈櫂謄鵐帖法�
つまり
「盲目の意識(実在的な感覚=質料的意識)」と
「自由になった意識(観念的な悟性=形相的意識)」との
「境目、分かれ目」に立っているということ
が
「聖霊」や「神」を
人間の意識へと齎(もたら)す
「媒介物」としての機能を持っていること

そして
「意識の神話的緊張」
が(媒介となって)
「聖霊」や「神」
をして
「神話的表象」を
人間の意識へと齎(もたら)せしめ
その時に
同時に
「�躙�威」の「客観的暴力」も
奪われる
という
概念運動の論理。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

シェリングは続いて

「以前の説明(『啓示の哲学』第2書、第9講、187頁)によれば
 神話と
 啓示そのものは
 実体的内容によって区別されない
 ように、

 旧約聖書の〈神の顕現〉
 においても、
 実体的�蹈櫂謄鵐�
 は
 神話において作用する
 のと
 同一の�蹈櫂謄鵐�
 である。

 旧約聖書の〈神の顕現〉が
 神の現象
 であるのは、
 質料的なものによって
 ではなく、
 神の顕現の中に
 有効に浸透しているものによって
 である。」
(SW, XIV, 291
 弘前大学人文学部発行『人文社会論叢(人文科学篇)』第18号、2007年、29頁)

ここで
「神の顕現の中に有効に浸透しているもの」
とは
「神の顕現において作用している実体的�蹈櫂謄鵐帖�
だと思われる。

なぜなら
「旧約聖書の〈神の顕現〉においても、
 実体的�蹈櫂謄鵐弔�
 神話において作用するのと
 同一の�蹈櫂謄鵐弔任△襦廖米云紂�
という記述があるからである。

シェリングは
以上の「説明方法」が
「以前の説明方法」と
異なっていると言う。

つまり
「以前の説明方法」
は
「神話を単に主観的にのみ説明する」方法
であるが

「シェリングの説明方法」は
神話を
「本来の解明が見出され得た場所」
即ち
「本来の精神界 [霊界] の概念」
で
説明する方法だからである。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

シェリングが『啓示の哲学』で講義したことの中には
「私(シェリング)が考えるところの(meines Erachtens)
 啓示を
 形式(形相)的(formeller)関係(Hinsicht:観点、見地)
 や
 質料的(materieller)関係(Hinsicht:観点、見地)
 において理解するための
 必要なものや、
 啓示の哲学によって要求され得るもの
 すべて
 が含まれている」
(SW, XIV, 293
 弘前大学人文学部発行『人文社会論叢(人文科学篇)』第18号、2007年、31頁)
と言われる。

そして
「例えば
 実践的なもの、
 つまり
 キリスト教的生活の道��
 の中へ
 この(啓示の)哲学は入るには及ばないし、
 少なくとも必然的な方法で入るには及ばない」(同上)
と言われる。

そして
「これは
 理論的理念から自ずと明らかとなる帰結
 である。」(同上)
と言われる。

ここで上記の
「これ」
は
「私(シェリング)が考えるところの
 啓示を
 形式(形相)的(formeller)関係
 や
 質料的(materieller)関係
 において理解するための
 必要なものや、
 啓示の哲学によって要求され得るもの
 すべて」
を
意味していると思われる。

そして
「普通の教義学の教説のうちの
 何かある一つが
 特別に論究されるに到らなかった
 としても、しかしながら、
 あらゆる論究が包括される学問的手段は
 与えられている」(同上:強調は私)
とされる。

そして
「私(シェリング)が
 先(ま)ず初めに説明したことは
 思弁的な教義学ではなく、
 高次な歴史的連関から
 キリスト教を説明することが問題である
 ということであった。
 �躬�物の初めにまで引き返す
 この高次な(歴史的)連関は
 完全に説明された。」(同上)
という。

「�躬�物の初めにまで引き返す」
と言われていることから
この「高次な歴史的連関」は
事物の歴史的連関か
と思ってしまいそうだが
シェリングは続けて

「確かになお
 詳論され得るであろうことは、
 この高次な内面的歴史
 から
 外面的歴史
 へ移行すること
 である」(同上)

と言われていることから
シェリングがこれまで扱ってきた
「高次な歴史的連関」
は
「内面的歴史」の
「高次な連関」
であり
「外面的歴史」
ではなかった
(は考察から外されていた、
 考察の対象ではなかった)
ということが判(わか)る。

シェリングが
「�躬�物の初めにまで引き返す」
高次な歴史的連関は
高次な内面的歴史の連関
だったのだ。

そして
次の講義で展開される内容が
「外面的歴史」
であり
「内面的歴史
 から
 外面的歴史
 への移行」
は
「キリストの言葉の実行を託された
 教会によって
 媒介される」(同上:強調はシェリング)
と言われる。

そして
『啓示の哲学』第36講の予告を
する。

「したがって
 私たちの最後の(letzten)探求の対象は
 キリスト教の教会の
 歴史あるいは展開
 でなければならないであろう。

 このことのための
 主導的�輙�念を立てることが、
 次の講義の内容であり課題であるだろう。」
(同上:最初の強調は私、次の強調はシェリング)

=======================================
最終更新
令和3(2021)年11月2日 23時55分
令和3(2021)年11月3日 17時48分
令和3(2021)年11月4日 18時05分
令和3(2021)年11月5日 19時29分
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