「煩悩」とは
ここでは
「判断環境を汚染するあらゆるもの」
のことである。
ここで
「判断環境」とは
「清浄で歪みの無い判断が為されうる条件」
のこと。
したがって
「煩悩から自由」
ということは
「あらゆる判断環境の汚染を免れている」
ことを意味する。
そういう場合
何ものにも邪魔されずに
自由に判断を遂行し
自由に行為することが出来る。
その「積極面」は
自由な思想が形成され
自由な思想を実現する為の行為が可能だということ。
その「消極面」は
だからといって
外部に判断環境を汚染する者が
存在していないわけではないので
判断環境の汚染者による
妨害や圧力や暴力に曝(さら)される危険が高まる
ということ。
人が嘘をつくのは
正直であることが
身を危険に曝(さら)すことになるからだ。
プライバシーの保護は
正直に言わずに隠すことであり
隱すと言うことは
正直に言わないと言う意味で嘘をつくことだからだ。
判断環境の保護は
判断環境の再生と共に
追求されるべきであるが
社会のシステムが
判断環境の保護を不可能にする場合
個人の意識は危機に曝され続け
その結果
心に病が生じて
生活に困難が生じる。
生活を経済的に円滑にする為に
判断環境を汚染することを強要する社会に済む者は
その社会を変えられなければ
そして
自分も変えられなければ(順応出来なければ)
生きれなくなる。
私は私の判断環境を清浄に保つ為には
社会から離れていなければならない。
しかし
社会と接点を持たなければ
社会の要求(さまざまな支払い要求)に
応えることが出来ない。
この矛盾は
絶対の矛盾であり
この矛盾は
西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」と言っても
何も解決出来ない。
つまり私の矛盾に
西田哲学は無力である。
妻は私の哲学力が
私をして62年間生きることが出来た
賜物(たまもの)だと言う。
私の哲学力は
一銭も稼がないように見えて
(これまで生きてこれたと言うことは)
結局は収入が有るのと同じだけの結果を生み出している
という。
この理屈は
論理的に解決出来ないが
私は私の生活を
自分自身の収入で支えたことが
一度も無いにも係わらず
私がこれまで生活出来ている。
これを普通は
「両親や奥さんや理解者のお陰(かげ)」
と言われるが
妻だけは
「さとぼんの哲学の力」
と洞察する。
「哲学では食えない」
と言われるのが常識であるにもかかわらず
妻は
「さとぼんの判断力が
収入に相当する金銭を産んでいる」
と言う。
実際には
私の亡き母や妻の収入で
私が生きているにもかかわらず
そう言うのだ。
私は今妻を失えば
即座に生活が出来なくなる。
妻が居るから
生活出来ているだけである。
今妻を失えば
私は古民家を売るか
或いは
地域の人に譲渡して
私は浮浪者として
(住所がなければ年金がもらえないなら
蒜山に1坪だけ土地を買って)
年金だけで生きてゆこうとするだろうが
それでは早晩死ぬだけだ(蒜山の冬は寒いから)。
この問題は
私には解決出来ないし
私以外の誰も解決出来ない。
ただ私は
私の妻を偶然得たことで
かろうじて生きている。
妻を選んだのは
私の意志だが
妻が私と結婚してくれたのは
偶然の結果なのだ。
そういう偶然に助けられて
私はこれまで哲学する機会を与えられ続けている。
なので哲学創造の可能性が残っているうちに
私は哲学を残したい。
哲学さえ残せたら
墓も要らない。
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最終更新
令和3(2021)年11月1日 2時32分
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