シェリングの積極哲学を踏まえた
未来存在(将来存在すべきもの)を
告知し得る哲学の構想。
マルクスは
未来社会としての
共産制社会を構想した
けれども
マルクスが期待したような社会は
実現していない。
その理由を
例えば宮崎哲弥(1962年〜)は
「人間の煩悩を甘くみた」
(
自分自身の直面する死と実存の問題を解くのに
マルクス主義はまったく役に立たない)
と批判するが
(Watch on YouTube をクリックすれば見ることができるはず。
この動画の46分22秒あたりで苫米地英人さんが
資本主義の自由主義経済と
社会主義の計画経済の競争で
資本種意義が勝ったのは
マルクスが人間の煩悩(資本主義経済の動機)を甘くみたからだ
と宮崎哲弥の主張に沿って語っている。
宮崎氏が単独でそう言っているのを他の動画で見た覚えがあるが
今はこの動画を出しておく。)
実存主義者の中で
シェリングの後期哲学(積極哲学)を
克服的に理解出来た哲学者は
居るのだろうか。
ドイツ古典哲学の成果を踏まえて
さらに進んだ哲学として構想される哲学は
宗教を含む哲学でなければならない。
(「なければならない」という西田幾多郎が好んだ表現は
しかし
倫理的であり宗教ではない。
宗教原理は
「ねばならぬ」とは表現しない。
そもそも何らの強制も存しないのが宗教である。
宗教は絶対の力であるけれども
その絶対性は
意図に反する強制でも
エゴイスティックな強制でもなく
やはりどこまでも
超自然的な力によるものであり
これを人は「強制」と感じられない。
つまり本当の宗教は「自発」なのであり
「れる・られる」で表現されるところの
(古語では「ゆ・らゆ」「る・らる」)
「受身・可能・自発・尊敬」
の内容を持っている。
けれどもここに「中動」という意味がない。
けれども「ゆ・らゆ」「る・らる」は
そもそも「中動態」であり、この「中動態」が持つ意味を
もっと深く解明されるのが良い。
「中動態」は
宗教原理を表現するための言語であるから。
なので
西田哲学を越える哲学とは
「中動態系言語文法」で書かれた哲学であり
西田のように「ねばならない」と表現される代わりに
「れる・られる」で表現される哲学である。
以上を踏まえて
上記の表現を改めれば
次のようになるだろう。
「ドイツ古典哲学の成果を踏まえて
さらに進んだ哲学として構想される哲学は
宗教を含む哲学と考えられる。」)
そもそも
マルクスが構想した
原始共同体→階級(奴隷制・封建(農奴)制・資本制)社会
→(社会主義社会を経て)共産制社会
というプロセス(運動原理)は
本来は
宗教で言われるところの
神の国→人間の国→未来の神の国
という人類社会の運動原理と一致するが故に
多くの民族の心を捉え得た。
けれども
自分達だけ優先的に良い思いをしたいという
階級社会の上層の人々の思惑で
マルクスの考えは
嫌われて悪い噂を流され
そしてマルクスは悪人にされてしまい
共産主義は悪い考えに基づいた社会構想だと
信じ込まされている。
けれども
宗教原理を踏まえた未来社会の構想であれば
誰も否定し得ない。
そういう社会が
皆の目標として
自覚出来るような
哲学が考えられる。
そういう
哲学が
生まれる。
そういう哲学を
私は産む。
そういう哲学は
私でなければ産めない。
私が生まれた意味も
そこにある。
だから
破産の危機が訪れても
だからといって哲学産出を辞めれば
私が私で居ることを辞めれば
私の生まれてきた意味は失われる。
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最終更新
令和4(2022)年4月30日 5時27分
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