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2021年11月17日00:00

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西田哲学は「〜でなければならない=可し=個々の主観を越えた理のあることを納得して下す判断」であるのに対して濱田哲学(自律性無底の哲学)は「なる(為る・成る・生る)=中動態=自発」事象を原理とする

「聞く」
と
「聞こえる」
は
違う。

「聞く」は主体的(能動的)な行為(能動の動詞)であり
したがって
「聞かない」ことも出来る。
(「聞かない」自由がある。)

しかし
「聞こえる」
は
聞こうとする意志とは無関係に「聞こえてくる」ことを指すのであり
それゆえ
聞きたいと聞きたくない(好むと好まざる)に係(かかわ)らず
聞こえてしまうのであり
そこには
「聞かない」という主体的行為が選べない
(無力化されている
 =主体的行為の限界を越えた力が働いて、主体の行為選択の自由を奪っている。
 それは人間の個人的な能力を越えた存在の作用であり
 その意味で自然の働きであり、生理現象である。
 だからそういう事象は「自発」の動詞で表現される。
 中動態系言語も「自発」に生起する事実を表現する為の文法である)。

聞く意志が無くても聞かされること
が
「聞こえる(自発)」
である。

「啓示」や「悟り」も
「自発」である。
その意味で
「主観の意志に係わらず受け取る(受動)事象」だが
これが「単なる受動」ではなく「中動(中動態)」であるのは
「受け取る相手」が
「人間(能動の主体)」ではなく
「超越者(中動態に対する能動的主体=能動態)」
だから。

それゆえ
「受動」に対する「能動」が
「権力による圧制」や「ハラスメント」に成り得る
のに対して

「中動態」に対する
「能動」の主体である「超越者」からの「働きかけ」は
それがたとえ「中動態の主体の意志を越えた力」として
「中動態の主体の意志」を
いわば「無視する力(意志の自由を奪う力)」であるにもかかわらず

(「受動」に対する「能動」が「使役(暴力)」として機能し得る
 のに対して)

「中動態」に対する「能動」は
「自発(仕方がない力、不可避の力、誰のせいでもない力)」
として機能し
決して「使役(暴力、権力)」
(それゆえ「受動」する者には
 「納得」し難い「理不尽で非合理で許し難い暴挙」
 として感じられることとなる場合があり得る力) 
としては機能しない。

したがって
意図(作為・人為)的に「聞かせる(使役)」のは
「聞かされる(受動)」であって
「聞こえる(自発=中動態)」ではない。

自発の動詞は
自然に(よって)起きることや
生理によって(生理的に)発生すること
に対して用いる。
(だったら中動態の「主体」は「超越者」ではなくて
 「自然」や「身体」ではないか
 とも言われ得るが
 「自然」を越えた原理
 「身体」を「身体たらしめているもの」
 それゆえ
 「生死を司るもの」
 を想起する時
 それは「超越的なるもの=超越者」ということになる。)

だから
自然や生理は
意識(主観)の本源(客観的実在)であり
その意味で主観を越えており
主観に束縛されない。
(とはいえ主観と生理は関係しており
 どちらもどちらからも影響を与え合う相互関係にある。
 つまり身心(心身)の相互依存関係。
 けれども
 主観(心理・意識)と生理(身体)との相関関係を決定しているのは
 「超越者」。)

聞こえる音(幻聴をも含めた音)が
好ましい内容であれば心地よいが
不快な音であれば地獄の苦しみを味わうことになるかもしれない。

西田幾多郎は
「〜でなければならない」
という表現を多用していた。

「〜でなければならない」という表現は
突き詰めれば
「可(べ)し」
であり
それは『広辞苑』(第五版)の説明によれば
「個々の主観を越えた理(ことわり)のあることを納得して下す判断」
であることを示す語だとされていた。

自発の主体も
「個々の主観を越えた理(ことわり)」だから
「可(べ)し」で表現されるものと同じである。

ただ
「可し」にはそれに
「(個々の主観を越えた理(ことわり)のあることを)
 納得して判断を下す行為」
が加わっている。

西田は
自発的に生起しようとしていることを
人間が邪魔していることを
咎めて
「そうではなくて、自発が自発であるように
 人間は邪魔してはならない」
という意味で
「〜でなければならない」
と表現していた。

「〜でなければならない」
という表現は
未来へ向けて現状を打破せんとする意志
と
そのことを全体にも求めるニュアンスがある。

私の場合は
ただただ自発を表現するのみで
人間の行為を決定したり要求したり強制したり
したくはないと思っている。

とはいえ
哲学体系には
原理と方法が必要なので
方法として
自律性療法(原理を獲得する為の方法)
と
中動態系言語文法(原理を表現する為の方法)
を
持つのだ。

もちろん
原理は
自律性無底
である。

私は
西田や
そしてシェリングも
方法論が不十分だと思っている。
(カントもまた同樣。
 カントの場合は「方法」という章を
 三批判書のどれにも設けてあるのに
 「超越論的」というカント独自の概念を
 意義あるものにする為の「方法」の内容が
 不十分だからだ。)

西田哲学や
シェリングの積極哲学
それにホワイトヘッドの歴程の哲学は
絶対無の自覚や
叡智的直観や
生成する宗教の経験( "Religion in the making" )を
求められるが

神仏を
実感として摑んで
これによって生成する新しい判断を
生活の中で用いる為には
具体的な方法が示されなければならない。
(西田と同じように「〜なければならない」と言ってしまったが
 濱田哲学のアイデンティティである自律性無底を表現に込めて言えば
 「自発を誘発し得る具体的な方法を示すことが肝要だと私は考える」。)

神仏は
自律性無底
(ここで「自律性」は「自発性」とも言い換え得る。
 「自律性」の原語は
 ドイツ語では「autogen(自原性の、自力による)」
 英語では
 「autogenesis
  (生物学では自然発生、偶然発生 abiogenesis、
   病理学では自己発生)」
 で
 「偶発」であることが大事なとこであるから
 「自律性無底」は「偶発性無底」とも言い換えられる)
であり

自律性無底(偶発性無底)を
実感して活用できる段階へ向上するための具体的で医学的な方法論が
自律性療法。

自律性無底(偶発性無底)を
言葉で表現する場合に用いられる言語文法が
中動態系言語文法。

つまり
原理としての自律性無底を
表現する「方法」論が
中動態系原語文法の体系。

ここで
「中動態系」
とは
「中動態」と
「中動態」に対立する限りでの「能動態」とで
構成される
古代ギリシアや
古代インドのサンスクリットや
現代でも様々な言語で痕跡として残されている
(ドイツ語では再帰動詞、ラテン語では形式所相動詞、
 フランス語では代名動詞、日本語では「自発」の動詞として)
現代の二肢言語(能動と受動だけで構成される動詞体系の言語)では
主要な(第一義的な意味を荷なう動詞)表現としては使われなくなった
言語文法。

二肢言語の「能動態」は
「ハラスメント(暴力・権力・差別)の主体(使役)」として機能し得る
のに対して
中動態系言語文法の「能動態」は
「客体としての超越者の主体」としてのみ機能し
決して他者や他の存在(自然や地球を含めた環境)に対して
「破壊的で抹殺的な力」としては機能しない。

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最終更新
令和3(2021)年11月17日 15時35分
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