キリスト教の最古の記録の一つ
とシェリングが見做す
『ユダの手紙』第六節では
悪しき天子たちについて
「自分たちの領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、
大いなる日の裁きのために、
永遠に鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込めた」
と書かれているそうだ。
(シェリングの説明によると、この箇所は
「天使たちは自らの初めを守らず、彼ら自身の居場所を見捨ててしまい、
大いなる日の分かれ目まで、
永遠の紐帯で暗闇の中に [永遠の鎖で暗闇のもとへ] 閉じ込められた」
と解釈されている。)
私は「私たちの領分を守らないで、その住まいを見捨てた」
ので
「大いなる日の裁きのために、
永遠に鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められる」
のであろうか。
(ここで「大いなる日の裁き」とは
おそらく「最後の審判」のこと。
「永遠に鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められる」とは
「最後の審判の日まで、永遠に非存在の状態に留(とど)められる」こと。)
シェリングは
『ユダの手紙』のこの節(第六節)に現れる
「領分」を「初め」と捉え、しかもこの
「初め」を「ポテンツ」と捉え直している。
(SW, XIV, S. 288)
この「ポテンツ」は
シェリングによって
「創造され、割り当てられた特有な存在 [固有の領分]」
と解釈されている。
「領分(初め)」はまた
シェリングによって
「住まい(居場所)」と
同一概念の別表現と解釈される。
そして
「彼らは、最初に彼らが居た、あるいは
彼らが居ることを義務づけられていた
その場所に
もはや居ない」
と解釈される。
このシェリングの解釈から
私の
「母の遺産(母の遺志、母との約束)として
その場所にいることを義務づけられていた
京都の土地と建物を
見捨てた」
行為が
悪しき天使たち(サタン)の
行為と
同質なのではないか
だからこそ
妻の病を始めとする様々な問題が生じてきているのではないか
という解釈が
成立し得ないのか
という疑問が生じる。
けれども
その解釈が正しいのなら
母だって
父が
「濱田家が百年住める家」
として建ててくれた
(とはいえ半分は母の財産でもある)
大阪の家を
地主に譲渡したし
これも父だけの財産によるのではないにせよ
父が
「老後に余暇を楽しむ為の別荘」
として建てた
蒜山高原の土地と家を
(これは今回の私と同様に)
売却した
のだから
私がサタンなら
母もまたサタンだろう。
父が生きていたなら
大阪の家を地主に譲渡することにも
蒜山高原の別荘を売却することにも
反対しただろうからだ。
母は私を思い
私の可能性を信じて
父の財産と
自分の財産を抛(なげう)って
京都の家を建ててくれたのだ。
そこでは
父の遺志は
蔑(ないがし)ろにされている。
これと全く同じ意味で
私は妻を思い
妻が治る可能性に賭(か)けて
母の遺産を抛(ながう)って
蒜山高原の古民家を購入して再生したのだ。
両者(母と私)には共に
なんら相手を裏切る悪意は無く
むしろ誰かに救いの手を差し伸べる一心で行ったことだ。
純粋な善意からの行為は
たとえ誰かの意志(遺志)に背く行為であっても
悪行と断定するには慎重でなければならない。
それにそもそも
神話であれ
キリスト教であれ
サタン(悪しき天使たち)が言われる時は
「原理」としてのサタンであり
この「原理」としてのサタンは
自分だけの力では
存在化出来ない。
けれども
人間の意志を誘惑して
人間の意志の力を借りることに成功した時には
サタンは顕在化出来るものとして
少なくともシェリングには解説されている。
ならば私が為したことは
サタンの「誘惑」に唆(そそのか)されて
サタンを顕在化するのに
自分の意志の力を貸してしまった行為だったのだろうか。
しかし私の意志は
妻の病状回復の為には
蒜山高原で転地療養して治って欲しい
ということだけであり
そこにサタンの介在は無かった筈である。
京都の土地と家を売却するのに
サタンの誘惑に負けた痕跡を見出すことは出来ない。
京都を離れることで私は
私の博士号取得の可能性を失うだろう
ということを知っていたが
妻の病状回復を
私の学位取得に
優先したからだ。
しかも
妻の病状回復の為
蒜山高原の古民家再生に
母の遺産を全額(生活資金以外)費(つい)やしたからだ。
(仏事や神事を行う費用すら残らず、その為に私は妹を絶縁したのだから。)
私は
母からの遺産(京都の土地と建物)を
換金したが
このお金は妻に全額渡した。
そこにサタンが介在した痕跡は見出せない。
だから
私はサタンと同等ではないし
私はサタンに誘惑されて蒜山高原の古民家に来たわけではない。
それに
そもそもサタンの話は
原理としてのサタンの話であり
個々人の人間が関係するのは
サタンに個々の人間の意志が
惑わされたかどうか
ということである。
「大いなる日の裁きのために、
永遠に鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込め」られるのは
サタンに唆(そそのか)されて
自分の意志の力をサタンに貸してしまった個人
(或いは、サタンに乗っ取られた、その人間の意志)
であろう。
というのは
サタンは
「最後の審判の為
最後の審判の日まで永遠に鎖で縛り、闇の中に閉じ込められる」
のだから
サタンに意志を貸した個人も
サタンと共に
「最後の審判の日まで永遠に鎖で縛り、闇の中に閉じ込められる」
ことになるだろうからだ。
(或いは、サタンが暗闇に永遠の鎖で閉じ込められることによって
サタンに占拠された意志の持ち主としての個人
意志が鎖で暗闇に閉じ込められている以上
暗闇から抜け出せないだろうからだ。)
自らの悪意のみならず
他者の悪意にも影響されず
為すべきことを
為すべきままに
為す者に
サタンは影響を与え得ないし
(実際にはそんな簡単なものではなく
サタンはどんなに意志の強い者の意志も
巧妙に自らの意図に従うように
しつこく仕掛けてくるし
場合によっては威嚇して暴力で従わせる場合もある。
この場合「暴力」とは「精神生理的な発作」だったり
「身体生理的な発作(痙攣)」だったり
要するに精神と身体の「危機(Krisis=回復か死へ向かうかの境目)」)
むしろ超越神をして内在化せしめる。
原理としてのサタンが勝(まさ)るか
サタンを世界創造の配剤とした神がサタンに勝(まさ)るかは
個人の意志が
どこまでも無欲(空・無・無底・絶対無)であるかどうか
に懸(かか)っている。
ただし
無欲(純粋・素朴・純朴・素直)でありさえば
サタンに誑(たぶら)かされない
とは限らない。
むしろ
サタンの巧妙な罠に
無知であることは
サタンに取り入られる隙(すき)を
与えてしまう。
その故に神は
(あらゆる悪の手法についての知恵を得る為に)
サタンを創造の配剤としている
というのがシェリングの解釈だ。
蛇の道は蛇でなければ知り得ず
蛇の道は蛇が最も有能である。
蛇(悪知恵)を原理に含まぬ単なる善は
「お人よし」または「世間知らず」と
呆(あき)れられこそすれ
全幅の信望を寄せられることは難しいだろう。
かといって
サタンに意志を占拠され
悪行しか出来なくなってしまった個人は
神に永遠の鎖で非存在の闇へ
最後の審判の日まで
閉じ込められることになることは必定だ。
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最終更新
令和3(2021)年10月26日 23時58分
令和3(2021)年10月27日 14時18分
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