「かかあ天下に空っ風、味噌つけまんじゅうに屋根の石」は上州群馬の名物です。名物の空っ風は1年のうち半分近く吹きまくります。冬ともなれば浅間おろし、赤城おろし、白根おろしなどの寒い北風が吹き荒れ、板茸上に石という家が多かったのです。
言葉が荒い、短気、かかあ天下、熱しやすく冷めやすい、義理・人情に厚い、気がよい、単純、見栄っ張り、自己の厳しさに欠ける、感情に走りやすい。また茨城同様、敬語の未発達地域といわれています。
除湿で暗いところはないので、上州出身の上司は付き合いやすいと言います。外見は豪気にふるまうが、神経質なところもあり、意外と危ういとか。また、新車みたければ群馬においでといい、人口1000人当たりの保有自動車台数は全国1位です。
群馬には、高崎競馬上、前橋競輪、伊勢オートがあります。両毛線は「ギャンブル街道」といわれ、競場と競輪の開催日をずらすという念の入れようです。高崎のだるまの生産量は全国の80%を占めています。
さて、1972年2月、群馬県で連合赤軍のアジトが発見されて森恒夫、永田洋子、植垣康博というリーダー格の8人が逮捕されました。逃げ続けていた連合赤軍の残り5人の男性が、軽井沢にあった保養施設・浅間山荘に押し入り、ライフルを構え管理人の妻を人質に立て籠もってしまったのです。
これに対し機動隊約750人が山荘を取り囲み、銃撃戦を繰り返したのです。浅間山荘以前には、連合赤軍内部で規律違反・スパイ行為をしたとして「総括」と言う名目で14名(男性9・女性5)のメンバーがリンチで殺されていた事がわかりました。
その遺体は、群馬県の山中に12遺体、千葉県の印旛沼にも2遺体、埋めていて、その殺されたメンバーの中には妊娠中の女性もいて、革命の名の下に人命を軽く見ている事に世間は驚きました。
そのリンチを指揮したのは連合赤軍の最高幹部・森恒夫が中心で、17人が逮捕され森恒夫は獄中で自殺を図り、永田洋子と坂口弘が死刑判決を受け、植垣康博が刑期を終えて最近もテレビに出演していました。
浅間山荘事件でリーダー格だった板東国男は、1975年クアラルンプールで起こった日本赤軍によるアメリカ大使館占拠事件で釈放になり、国外逃亡し、パレスチナへ渡りました。この時、釈放リストには坂口洋も入っていたのですが坂口洋はそれを拒否したのです。
坂口洋は個人的に観て一番、日本国のことを考えての行動だった思っています。この時代の中で闘争が目指したものは、一つにはそれぞれの達成目標であったが、その根底にあるものは、権力への批判でした。何らかの欲求不満状態があって、それを権力による環境整備によって、それが思うようにいかない。
その欲求不満状態が何であるのかよく理解できないが、権利や自由ということが連想されます。闘争が収束していった背景には、権力に対して権利や自由を与えてほしいと要求する、というような考え方があったのではなかろうか。そして、それがかなわないことを経験して、人々は権力が作る社会の中に戻っていったのかもしれません。
ただ、ここで、間違っていることは、権利や自由は、与えてもらうものではないということです。全共闘運動の結末がなぜあのような狂気の出来事となったのかということに明確な答えを出せたとは思えません。
考えついたことは、人間が2人集まれば、そこに芽生えるのは、程度の差はあれ、愛情か憎しみなのかもしれないということかもしれません。下記のひとりひとりの本を読んでみるとその時の個人的な感情がわかるような気がしました。
語られざる連合赤軍 高橋 檀 彩流社
兵士たちの連合赤軍 植垣康博 彩流社
永田洋子さんへの手紙 坂東国男 彩流社
私生きてます 永田洋子 彩流社
日本赤軍派 パトリシア・スタインホフ著 河出書房新社
連合赤軍あさま山荘事件 佐々淳行 文藝春秋
十六の墓標(上) 永田洋子 彩流社
十六の墓標(下) 永田洋子 彩流社
続 十六の墓標 永田洋子 彩流社
あさま山荘1972(上) 坂口弘 彩流社
あさま山荘1972(下) 坂口弘 彩流社
続 あさま山荘1972 坂口弘 彩流社
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