本多忠勝が好きなので作りました。
自由にやって下さい。
★戦国無双の勇士。東照宮の護り刀。
忠勝は数々の戦いで戦功を立てたが、特に元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いの前哨戦たる一言坂の戦いで殿軍を努め、武田方から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名。
生涯において参加した合戦は五十数回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられており、織田信長にその並はずれた武勇を「日本の張飛」(一言坂での功績が、張飛の長坂橋仁王立ちと似ていたためと思われる)さらには「花実兼備の勇士」と讃えられたほどであった。
また、豊臣秀吉には「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された。
現在もその評価は変わらず、数ある戦国武将の中でも最強を争える一人と言われる。
関ヶ原において西軍が敗戦した際、それに与した真田昌幸・真田信繁(幸村)親子の助命を娘婿の真田信幸と共に嘆願した。
このとき家康は難色を示したが、忠勝は「ならば殿と一戦つかまつる」と啖呵を切ったというエピソードがある。
苦難を共にした宿将が親族を守るために公然と主君に敵意を露わにしたことに対し家康はおろか、信幸も驚いたという。
この助命嘆願により信濃上田領は信幸に与えられ、真田親子は紀伊高野山山麓の九度山に蟄居となった。
あるとき、彼は小刀で持ち物に名前を彫っていた。
その時、うっかり手を滑らせ、指に小さな切り傷を負ってしまう。忠勝は「わしの命運もここまでか」と嘆き、実際にその数日後に死去した。
これが彼の生涯で唯一の負傷だったと伝わる。
☆常山紀談☆
思慮なき人も、思慮ある人も功名するなり。思慮ある
人の功名は士卒を下知し、大なる功名を遂ぐるものなり
☆徳川十六将
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酒井忠次http://
井伊直政http://
松平家忠http://
大久保忠世http://
平岩親吉http://
松平信一http://
大久保忠佐http://
内藤正成http://
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服部正成http://
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☆武田二十四将(山本勘助、山県昌景 以外)
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飯富 虎昌http://
高坂 昌信http://
武田信繁http://
武田 信廉http://
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板垣信方http://
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原昌胤http://
小幡昌盛http://
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☆上杉家臣団(村上義清、柿崎景家、直江兼続 以外)
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☆その他の武将
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