榊原 小平太 康政
天文17年(1548)〜慶長11年(1606)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。徳川家康の家臣。徳川四天王の一人。徳川三傑の一人。徳川十六神将の一人。
祖先は仁木源氏の流れをくみ、伊勢国一志郡榊原郷を領して榊原氏を称す。その子孫が三河へ移ってくる。天文17年、松平氏の家臣酒井忠尚に仕えていた榊原長政の次男として、三河上野郷に生まれる。幼名は於亀。長じて小平太。永禄3年(1560)に三河大樹寺に寄った松平元康(徳川家康)に初めて謁見し、小姓となる。
永禄9年(1566)、三河一向一揆で初陣、戦功により家康より「康」の一字を与えられ「康政」と称す。同年齢の本多忠勝と共に旗本先手役として姉川の戦い・三方原の戦い・長篠の戦いなどに参加して戦功を立てる。姉川の戦いでは、劣勢の徳川勢を盛り返すために朝倉軍に寡兵で側面攻撃を仕掛け、織田・徳川軍を勝利に導いたとされているが、姉川の戦いに関しては有効な史料が少なく、史実とは断定出来ない。
本能寺の変に際しては家康に同行して上方に居り、神君伊賀越えにも同行している。
天正12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、先陣をつとめ、小牧城の取り立て、羽黒の合戦に参加、秀吉を挑発するを書いたとされ、それに激怒した秀吉は康政の首に10万石の恩賞をかけたと言われていますが、これも史実としての詳細は不明です。長久手の戦いでは舅の大須賀康高とともに先陣として三好秀次勢を壊滅させた。
戦後、使者として上洛すると、天正14年(1586)には従五位下・式部大輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。
天正18年(1590)の家康の関東移封に伴い、上野国館林10万石を領す。
その後、家康の子秀忠付きとなり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時には秀忠に従って信濃路におり、合戦には間に合わなかった。関ヶ原後、秀忠の遅参に立腹した家康をなだめて秀忠との対面を実行させると、秀忠から徳川家が続く限り榊原家を存続させるよう約束された。関ヶ原で戦功のなかった榊原氏に加増は無かったが、一説には水戸24万石を示されたが、「水戸ではいざというときに江戸まで二日かかるが、館林なら即日馳せ参じられる」として加増を断ったともいう。
戦後、康政は老中の役職にあったが、「老臣権を争うは亡国の兆しなり」として、対立していた本多正信らと政権を争うことを良しとしなかった。
慶長11年(1606年)5月14日に館林にて死去。享年59歳。晩年、病床にあったとき、家康からの見舞いの使者には「腸が腐ったから」と面会しなかったが、秀忠からの使者には起き上がって身ぎれいにして対面したという。日ごろ、本多正信のことを「腸が腐った奴」と言っていたことへの皮肉であったともいう。
墓所は館林善導寺。戒名は養林院殿前大宰職上誉見向大禅定門」