井伊直政、個人を作りたかったので作りました。
自由にやって下さい。
★真紅の疾風。徳川最強軍団長。人斬り兵部。
家康が武田氏旧領の信濃・甲斐を併合すると、武田家旧臣を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備(いいのあかぞなえ)と称する精鋭の将となった。
直政は部下に厳しく、過怠があれば容赦せず処罰し、一軍の部将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、欠点も多かったが、かえってそのために大きな戦功を立てることができたのだともいう。
こうした性格から、井伊の赤鬼として恐れられた。
徳川譜代の家臣ではない井伊直政を家康が重用した理由は、直政が武勇だけではなく、知略や政治にも長けていたこと、家康の四男・松平忠吉との姻戚関係、そして直政が当時としては美男子だったためと言われている(当時の武士階級で衆道は一般的であった)
大身になる前の頃、直政がどうしても強請るので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。
年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、重次は3000石しか与えられなかった。
そして、大身になった直政は重次と顔を合わせたときこう言い放った。
「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿にしたが、このような大身になったのは、名馬に違わぬ働きをしたからだ。目が暗かったのは貴殿の方であったな」(「井伊年譜」)
☆名将言行禄☆
捨てて苦しかるまじき敵と見ば、敵にてはあるまじと申すべし
☆徳川十六将
榊原康政http://
酒井忠次http://
本多忠勝http://
松平家忠http://
大久保忠世http://
平岩親吉http://
松平信一http://
大久保忠佐http://
内藤正成http://
高木清秀http://
渡辺守綱http://
服部正成http://
米津藤蔵http://
蜂屋貞次http://
鳥居元忠http://
☆武田二十四将(山本勘助、山県昌景 以外)
馬場信春http://
飯富 虎昌http://
高坂 昌信http://
武田信繁http://
武田 信廉http://
穴山 信君http://
板垣信方http://
甘利 虎泰http://
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原 虎胤http://
内藤 昌豊http://
土屋昌次http://
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三枝守友http://
原昌胤http://
小幡昌盛http://
一条信龍http://
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小山田信茂http://
☆上杉家臣団(村上義清、柿崎景家、直江兼続 以外)
直江景綱http://
色部勝長http://
小島弥太郎http://
斉藤朝信http://
本庄実乃http://
安田長秀http://
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千坂景親http://
安田景元http://
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長尾政景http://
本庄繁長http://
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竹俣慶綱http://
水原親憲http://
松本景繁http://
☆その他の武将
木村重成http://
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