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幸せを見つけるミチシルベコミュの人生の目的の探し方(泰秀編)

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いろいろと、「幸福」について考えていました。
goodwillさんの「人生の目的の探し方」を読んで、
・自分のルーツを知る(両親、過去の人生)
・自分の行動を省みる
・人間について書かれた書物を読み、人の話を聞く(自分との共通項が多い)

これをした上で、常に
・自分の人生の目的(コア)が何なのか考える

ということは、私も完全に同意します。
これ以外には思いつかない。

もうひとつ「直観」というものがあって、ある日突然「ハッ!」と気がつくことがありますが、これは脳内にそのことについての問いかけが埋め込まれたから起きること。
「何なのか考え続けている」状態が続いた後に起きることだと思います。


ひとつ、スキルとしてあるのは「世界を観察する」というところでしょう。
たいていの人は、このスキルがそれほど高くない。


今日、久しぶりに「ぐっどうぃる博士の恋愛相談室」を読みました。
より深く理解できた部分も、思い出してつながった部分もある。
それは、たぶん時間も必要だったのだろうし、僕自身の「聞くスキル(読み取るスキル)」が向上したこともあるのでしょう。
その後、このコミュニティのgoodwillさんの文章を読み直しました。
自分の文章も含め、そこにはひとつの流れがある。
それを読み解くことが、できる状態に、今はいます。


これには、落ち着きと余裕が必要なのだと思います。
個人的な環境の変化がありました。

このコミュニティで活発に議論していたとき、それは起業したてで、実家に住んでいました。
実家では、ヨガを行い、玄米菜食。「出家」とまではいきませんが、かなり俗世の欲から切り離された状態でした(恋人もいませんでしたし)。

その後、東京に出て一人暮らしをはじめたこと、僕自身「幸福」について考える余裕がなくなります。
恋人もでき、恋愛に悩むことも多くなります。
「幸福」の定義が曖昧になる。
自分が当事者になると、客観的に物事は見れなくなるし、人の話も聞けなくなります。

今、会社に就職し、収入も安定しました。
生活もある程度、先が読めるようになってくる。すると「幸福」について考える余裕が出てくる。


こうした環境の変化はとても大きいし、安定した環境がなければ「ミチシルベ」に従うことも、受け入れることもできないのではないか、という気がします。

コメント(6)

「幸福」は、「人生の目的(コア)」に向かっているとき、近づいているときに感じ、遠ざかっているときには感じなくなる、というのは、有力な仮説だと思います。
直感的に正しい気がする。


ここ数年で、記憶に残っている「幸福を感じた瞬間」を列記してみます。

・去年の冬、スノボに女友達と行った
 →つきあっているわけでもないが、なんだかものすごく楽しかった。
・goodwillさんたちと、天空の城で飲み会をした
 →内輪ネタで申し訳ないですが、あの時は楽しかったです。屋根を飛び移ったり、とか、非日常で楽しかった。
・ヨガを2時間した後、落ち着いた心地になる
・玄米菜食で、栄養バランスの採れたものを久しぶりに食べる
・あるプロジェクト(広告制作)で、自分がコントロールできる感覚になる
・尊敬できる上司に褒められる

一番強烈なのが上の二つ。
これは、どうも「女性に褒められる」とか、「非日常」とかいうのがキーワードの様子。

その次2つ(ヨガと食事)は、「自分が大事にされているなぁ」というしみじみとした感じ。
たぶん、これは「開放」とか「悟り」に近いものだと思います。ちょっとほかの幸福とは形が違う。

最後の2つは、「まぁうれしかったな」ぐらい。
他人から認められる、自分は他人に認められる力がある、ハンドリングできる、みたいなところ。
ただ、これには同時に「いや、思い上がるな」というブレーキも働くので、無条件に幸福なわけではない。

あ、もうひとつ。
・上司に「ここはこうすればいい」と説明される

ことにも幸福を感じました。これはけっこう無条件で、上司が「部下のことを考えている」話をしていて、僕を仲間として相談してきたとき、涙がこぼれそうになりました。


これらを整理してみます。
まず、「人から認められる」「尊敬される」「非日常」というものがキーワードにあるような気がします。
冒険と安定。社会的尊敬と、社会的冒険。
「あいつ、変わってるよね」といわれながら、「でもすごいよね」といわれたい。
そんなところがコアにあるような気がします。

でもこれも衛星かもしれない。
自分の両親についても、いろいろ考えてみました。
※僕は、「どうやって僕が人生の目的(コア)を探しているか
」の体験談を書いています。
理論的なことはgoodwillさんがまとめてくださってあり、基本的に同意して、それを進めています。


うちの母は、満州生まれです。
生粋の日本人ですが、祖父が満州で事業を興していたため、幼少期は満州ですごした。
いわゆる「新興軍閥」で、幼少期(3歳まで)は何人も召使がいるような生活をしていたようです。
その後、ロシア軍が攻め込んできたとき祖父は戦死し、母は祖母とともに帰国しました。
実家である鹿児島県指宿市に戻り、生活を始める。
かなり家財を失ったとはいえ、依然ある程度は豊かで、級友が持っていない「長靴」や「ビニール傘」などを祖母が買ってくれたが、いじめられるのでそれらを学校に身に付けていくのがイヤだったそうです。
母は今年で65歳になります。

もともと病弱で、僕を生む前に3人流産しました。
栄養士の資格を持ち、鹿児島の大学病院で栄養士として働いていた。
そこで、西洋医学にしたがって妊娠生活を送った結果、流産が続き、妊娠中毒という症状が出た。
そこで、玄米菜食と出会い、僕を無事出産しました。
その後も健康に興味を持ち、現在はヨガ教室を栃木で開き、22年目を迎えます。
おそらく、商才があるのでしょう。
また、教育・勉強熱心で、ゴードン博士の親業のセミナーに出席したり、当時もてはやされた「ヤマギシズム」へ僕を参加させたり、天理教の合宿に参加させたりしました。
「シウバ・シルバーマインドコントロール」という、右脳開発の走りのようなものもあり、僕も小学生になるかならないか野ころに参加しています。
現在右脳開発で有名な七田真先生の、きわめて初期(おそらく1期生とか、一ケタ台の生徒)の通信教育の生徒でも、僕はありました。


父は、宮城県の農家に生まれ、東京教育大(現在の筑波大)を卒業して、専売公社に就職しました。
父は5人兄弟で、そのうち大学に行ったのは父一人だけです。
父の一番上の姉は駆け落ちしてしまったそうで、僕がその存在を知ったのは大学生になってからでした。
長男は、精神病を患い、精神病院にずっと入院していました。この存在も、僕は中学生に知りました。会ったのは1回きり。2回目は葬式です。
1回目会ったときは、僕に小遣いを渡そうとしていました。
精神病棟に入ったのはそれが最初で最後ですが、手を前にさしだした(キョンシーのポーズ)人がうろうろ、鉄格子のついた扉の中でうろついていたような記憶があります。
ただ、これはどこかで見た映像が混じったのかもしれません。中学生の時の記憶なので、定かではないです。

現在、連絡のつく父の兄弟は、父を含めて3人です。
僕はこの3人しかいないと、中学までは思ってきました。
3人兄弟は、父を除いて独身です。僕は一人っ子であるため、「飯田家」の、血筋を引く唯一の子供です。
両親の話を続けます。

両親は20代後半に見合いで出会いました。
父はいわゆる「専売族」になるのがイヤだったそうで、専売公社以外の相手と結婚したかったそうです。
父は当時鹿児島のタバコ試験場に勤務(父は土壌の研究職でした)、母は鹿児島の国立病院に勤務。
その二人が結婚し、3人の流産の末、僕がうまれました。

おそらく、当時としてはかなりハイソな部類でしょう。
父の収入は平均より高く、社宅も豪華でした。
母も、タッパーウェアが入りたてのころ(ネットワークビジネス、というものの走りです。当時はまだ悪い印象はなかった)、自宅でホームパーティを開き、タッパーの啓蒙をしたりしていました。
右脳開発や、ネットワークビジネスについては、日本での黎明期から僕は現場にいる、といえます。

僕が生まれたのは父38歳、母36歳のとき。
かなり高齢での出産です。
もともと母は体が弱く、玄米菜食によってようやく僕は生まれました。


両親は、基本的に二人ともインテリです。
この世代で「大卒」というのはやはりかなりの知識層で、父はいわゆる「テクノクラート」でした。
母も大学病院勤務の栄養士なので、女性が知識職につく、という意味では稀有な時代に、そうした働き方をしていた女性でした。
年が離れていることもあり、僕はそうした「昭和の文化人の薫り」というものを、同年代の一般的な若者に比べると、多く得ているでしょう。

両親の価値観は「知識=力」という部分があるように思います。
学習し、貪欲に知識をあさる。
家は本であふれています。僕に読書癖がついたのは、両親の影響でしょう。
また、学歴や「就職している企業の格」にも、基本的にこだわります。
僕自身、横浜国立大学で、最初は「センターだけでいけるし、国立だからまぁいいか」で行ったのですが、後から「二期校のトップ(昭和中期までは、一期校、二期校というものがあり、これは入試の時期が違います。今で言うセンター前期後期のようなもので、前期受けたものは後期受けられませんでした。いわゆる7大学、東大京大名大北大九大一ツ橋などが一期校になるます)」ということを知ると、だいぶ大学に愛着が出てきたり。
基本的に権威主義だし、知識層には尊敬を払います。
そうした「旧い(昭和初期の)成金階級の世界観」が、ある程度僕には染み付いています。
僕自身、人を見るとき「学歴」はけっこう気にします。
大学時代や、大学卒業時は本心からぜんぜん気にしていなかったのですが、社会に出ると「どこの大学?」と聞かれます。
特に年配の方には聞かれる。
で、「横国」というと、なかなか反応がいい。
これは快感だったようで、今でも学歴のいい人間にはシンパシーを感じます。
高学歴に対する好意が、今の僕にはあります。

大企業や、地位に対する好意もあります。
大学を卒業して、CSKという会社に就職しました。
東証一部上場企業で、SE職としての採用。
テクノクラートとしての第一歩です。

ところが、実際に行ってみると思ったほどエリートではなかった。
正直な話をすると、横国を出て、CSKに入るのは造作もないことなのですね。
それで、僕は醒めてしまった。
当時は「目標となる先輩がいない」とかいろいろ理由をつけていましたが、今思えば先輩には恵まれていた。
そうではなく、「自分はテクノクラートとして尊敬を集めたいのに、実際には”ちょっとエリート”ぐらいでしかない」ことに気がついたので、イヤになったのだと思います。

次は、よりいっそう「テクノクラート」化するために、コンサルタントを目指します。
そして起業し、「青年起業家」の肩書きを手に入れます。
ここでいったん、「テクノクラート欲」は納まります。

このあたりまで、僕の行動をつかさどっているものは「貴重な人間になりたい」でした。
「あなたは貴重だよ」と言われることに快感を覚えた。

ところが、だんだん「あなたは貴重だよ」にもなれてきます。
実際、僕はおそらく貴重ではある。地頭はいいだろう、と実感できた。
でも、「僕より頭のいい人間も、世の中にはたくさんいる」ことも事実です。上を見れば、ナンバーワンには決してなれない。

そう気がつくと、これは不幸になるわけです。
何をしていても、「どうせ、俺より優れた相手が世の中にはいるだろう」という気になる。
特に、自分が大切だと思うもの、本当に手に入れたい(価値がある)と思うものに対しては引いてしまうようになる。
「それは、自分より優れた人間が手に入れるべきものだ」という気持ちになってしまうのです。
このループに入ると「不幸感」が襲ってくる。
たぶん、客観的に見て、僕は幸福です(←この表現は、僕自身の「コア」を知る上で、大事な手がかりです)。
収入も平均より上だし、極端なコンプレックスもない(と思っている)。
恋人もいるし、仕事でも優遇されている。
自分の居場所もある。。。。



待てよ。
幸福というのはいったいなんだろう?
僕は自分自身、あふれるような「幸福感」に包まれているだろうか?
否。
それは多分、僕は自分のコアを満たしていないのです。
今思っていることを正直に言えば(そして、goodwillさんの意見もそうでしょうけれど)、「コア」からも解放されること。
「コア」に執着しないこと、が本当の幸福なのだろう、とは思うのです。


だけれど、これは、僕もgoodwillさんも(僕よりはるかに格上だけれど)テクノクラートゆえに持ちうる価値観なのかも知れない。
「コアから開放された状態」=「あまり人が知らない状態」であって、そこにたどり着いてみたい=人があまり知らない場所だから。
という、好奇心から出ている可能性を否定できません。
これはこれでもちろんいいのだけれど、実は「コアからの脱却」にはなっていなくて、コアに従っているだけ、ともいえるかもしれない。

コアは形を変えていって、結局人はコアの内側でしかモノを見ることはできない。コアを超える、ということは、コアが別のものに摩り替わるだけなのかもしれない、という気がしています。

話を具体的な現実に戻します。
僕は「客観的な幸福」を感じている。
じゃあ、「主観的な幸福」はどうだろう?


実は、よくわかりません。
さしつらぬくような幸福感覚は、ない。
日常にはさまざまな問題があって、それはふと、自分を客観的に見たら「なんと恵まれているのか!」と思うけれど、それはあくまでも外の視点。
内側から見れば、いくつも不安があります。
「幸福」は、コアに従うこと。
確かに。
じゃあ、僕のコアは何だろう?
それを考えて、自分や両親を観察してきました。

多分、「ちょっと変わったこと」が好きで、「人から認められること」をしたい。
「変わっているけれど、ねじふせるだけの力」がほしい。

それを満たすため、「力」として、今は権威を使っているのでしょう。
次は「論理」や「金銭」も使ったりする。
「これはこういう理由で、僕が正しいですよ」とか「僕はこれだけ売り上げを上げていますよ」とか。
それは確かに、社会的な力になります。

じゃあ権力欲が強いのか、というと、多分そうでもない。
人が思い通りに動くと、それはつまらない。
思い通りに動かない人を、一時的に理解して、思い通りに動かせた、という経験が、ものすごく楽しいし、幸福を感じる。

とはいえ、これが恒常的になると、すぐ飽きるんじゃないか、という気もします。
コアが満たされないのは、うつろうから。
満たされるとすぐ別のものに移るか、あるいは、コアというものはそもそも満たしえないものなのか。。。


「幸福」というのは「状態」であるとすれば、それは永続しないものではないか。
これは、goodwillさんも同じ疑問を抱えているように思います。
「完全な安定」というように書いておられますが、チクセントミハイの言う「フロー状態」、つまり「何かに熱中した状態」も「幸福」には近いのではないか、と思う。
と、それは「完全な安定」とはほどとおい。

「常に、目の前のことに熱中すること」=「完全な安定」なのでしょうか。
おそらく、この二つは、今の時点では異なるもののような気がします。
この二つを結びつける概念(経験)がほしい。
そこにいたる、何らかの実感を僕はまだ見つけられていません。
今はまだ整理中です。

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