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ブッダのことばコミュのつぶやき&ざつだん

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コメント(92)

「仏説文殊師利般涅槃経」をタイピングしてみました!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=62977844&comm_id=3060525
「文殊師利問経」の一部をタイピングしてみました。
菩薩受戒品と囑累品の一部で、菩薩の念じることを述べた箇所です。
なかなか考えさせられる、すばらしい箇所と思います。


「文殊師利問経」

菩薩受戒品 第十三


爾時(そのとき)文殊師利、仏に白(もう)して言(もう)さく、

「世尊よ、もし善男子・善女人が菩薩の受ける所の戒法を受くるに、まさに云何(いか)にせんや」と。

仏、文殊師利に告ぐ、

「まさに仏前において至誠に礼拝して、かくの如きの言をなすべし。

『我れ某甲(それがし)、願わくば諸仏よ、我れを憶念したまえ。
諸仏世尊の如きは仏の智慧を以て著する所無きを正知したまわん。
我れまさに菩薩心を発(おこ)すべし。
一切衆生を利益して安楽を得しめんが為めなり。
無上の道心を発(おこ)さん。過去・未来・現在の諸菩薩の如し。
無上の菩提心を発(おこ)さん。
一切衆生において父母・兄弟・姉妹・男女の親友等の如くならん。
彼の解脱して生死を出づることを得、乃至三菩提心を発して、勤起精進せしめんが為めなり。
諸もろの衆生の須(もち)いる所に随って財と法の一切を施与せん。
この財と法を以て一切の衆生を摂受して、漸漸に宜しきに随って衆生をして解脱し、生死を出ださしめんが為めの故なり。
乃至無上の菩提の安住せしめん。
我れまさに起(た)ちて精進すべし。
我れまさに不放逸にしてかくの如く再び三たびすべし』。

これを菩薩摩訶薩の初発菩提心と名づく。
文殊師利よ、これは諸菩薩の受ける所にして菩薩と化(な)らんが為めに行ずる所なり。声聞・縁覚の為めならず、凡夫・諸もろの不善者の為めならざるなり」と。





囑累品 第十七 (一部抜粋 菩薩の念じること)


爾時(そのとき)、文殊師利、仏に白して言さく、
「世尊よ、諸もろの菩薩・摩訶薩は常に幾種の心の念有りや」と。

仏、文殊師利に告ぐ、

「菩薩は自ら念ず。我れまさに何(いず)れの時に出家して僧坊の中に住すべしや。我れまさに何れの時に自恣・和合すべしや。我れまさに何れの時に戒・定・慧・解脱・解脱知見を修行すべしや。我れまさに何れの時に著衣すること大牟尼尊の如くすべしや。我れまさに何れの時に仙・師の相好を得べしや。我れまさに何れの時に空閑の処(ところ)に住して、処(ところ)を得て便(やすらか)に住すべしや。我れまさに何れの時に、好・悪・少・多・不生・増・減において、或いは得、或るいは得ず、或いは寒く、或いは熱きに、次第に行乞し、車に油を膏(さす)が如くに饑(うえ)と瘡(きず)を治(いや)さんが為めに、自ら活くることの少なきを以て寿命を持(たも)たんが為めに乞食すべしや。我れまさに何れの時に世の八法を離れて、八法の動転する所と為(な)らず、何れの時に国・城・愛楽の林藪を厭離して、十二入において著せず、楽しまざるべしや。我れまさに何れの時に能(よ)く六根を守護して禅定を得せしむべしや。我れまさに何れの時に六根を調伏すること僕使を制するが如くすべしや。我れまさに何れの時に坐禅し精進して経書を読誦し、常に諸もろの結使を断ちて具(つぶ)さに諸もろの行を修むることを楽しむべしや。我れまさに何れの時に足るを知るべしや。我れまさに何れの時に先ず戯楽の事を楽しまざるべしや。我れまさに何れの時に自他の為めに勤行し精進すべしや。我れまさに何れの時に諸もろの菩薩の行じたもう所の道を行ずべしや。我れまさに何れの時に世間の第一の貴きものと為(な)るべしや。我れまさに何れの時に奴を愛することを解脱すべしや。我れまさに何れの時に家に居ることを解脱すべしや、と。文殊師利よ。これを菩薩の心の念ずる所、と謂う」。

仏、この祇夜を説けり、

もし人、菩薩の心を思惟せば、我れ彼れに諸もろの功徳有るを知らん。
その数無量にして極めるべからず。清浄の仏の法身を得るに堪えん。
悪趣に入りて諸もろの苦を受けず、仏の智慧を具足し成就せん。

仏説無常経の偈文の現代語私訳をつくってみました。
必ずしも正確ではないところも多いと思いますし、意訳や私の解釈も多々あると思いますが、とりあえず参考にしていただけたら幸いです。


仏説無常経 偈文 現代語私訳・意訳

自分以外の世界の物事は、どれほど美しくとも、すべて皆結局は壊れていくものである。
自分の心や体もまた同じで、いずれ衰え老いて変化していく。
ただ真実の教えのみがずっと存在して決して滅亡しない。
智慧のある人々はこのことをよくよく観察すべきです。
老いや病気や死を、誰もが嫌い避けています。
老いや病や死は、その姿かたちが醜くて、厭う心が起きるものです。
若い時の容姿の美しさはほんの束の間のことで、
決して長くは続かず、結局は老いさらばえていくものです。
たとえどれだけ長生きして百歳まで生きても、
無常の理によって老病死が迫ってくるのを免れることはできません。
老病死の苦しみは常に人に随って追いかけてきて、
あらゆる生きものの営みを空しいものにしてしまいます。


人間は、常に五感の欲望の対象を求め、
善い行為をしようともしません。
どのようにしてこの体と生命を保つことができるかばかり考えて、
死がやって来るのを見ません。
命が尽きようとする時、体とのつながりは離れていきます。
さまざまな苦しみが死とともにやって来て、
人はその時になってはじめていたずらに嘆き恨み悲しみます。
目は散乱して宙をにあらぬものを見てさまよい、
刀のように死が自分の今までやってきた行為の報いとともに自分に降りかかってきます。
意識も、想念も、ともに恐れおののき、
誰も他人が助けたり救うことは出来ません。
咳にむせんで、のどがからからに乾き苦しむ中、
死という王がやって来きます。
自分の家族親戚は臨終の床に集まり守ろうとしても無駄なことで、
自分の意識は暗く昏睡し、険しいあの世の城の中へと入っていきます。
この世の家族や親しい人々を皆捨てて置き去って、
自分の行為の業の報いの縄が引っ張るのに任せ去っていきます。
閻魔王(ヤマ天)のいる所に来て、自分の生前の行為の業に随って報いを受けることになります。
善い行為が原因となって善い世界に生まれ、
悪い行為は地獄に落ちる原因になります。
智慧ほど明るい灯火や道案内になることはなく、
自分の無知や愚かさほど暗い暗闇となるものはありません。
病気ほど恨めしく悲しいことはなく、
死ほど恐ろしいものはありません。
生きていれば、いつかは必ず死がやって来ます。
罪をつくれば、苦しみが自分の身に迫ってくることになります。
心・言葉・身体の三つの行為において善いことを励み、
善いカルマと智慧をしっかり生きている間に修めなさい。
家族や仲間は死ねば皆捨てて去っていかねばならず、
財産も結局は他の人がとることになるのです。
ただ自分の積んだ善い行為・善いカルマのみを持って、
死後の険しい道のりの糧や食べ物とすることになるのです。
たとえみるならば、道ばたの樹のようなものです。
ほんの一時、そこで休憩しても、長くとどまることはありません。
車や家族や子どもも、死ねば別れてひさしくとどまらないことはそのようなものです。
また、たとえてみるならば、集まって一晩を過ごしている鳥たちのようなものです
夜には集まりますが、朝にはそれぞれ飛び去って別れていきます。
死んで親しかった人々を去って別れて、離れていくこともまたそのようなものです。
ただ、仏の悟りのみ教えのみが、真実の憩いの場所です。
仏教のお経の要点をいま説きました。
智慧ある人はよく思い考えてください。
神々や阿修羅や夜叉たちの中の、ここに来て真実の教えを聴きたいと思う者は、
真心を尽くして、仏のみ教えを守り長く存続させて、仏の教えの実践に努め励みなさい。
さまざまな仏法を聴く人々がここの至って来て、
地上にいたり、あるいは空にいて、いまこの真理の教えを聴いています。
人はいつもこの世においては慈しみの心を起こし、
昼も夜も仏教のみ教えによって生活しなさい。
もろもろの世界がいつも安穏であるように願い、生きとし生けるものを善い行為と智慧で利益するようにしなさい。
あらゆる罪業を除き消し去り、さまざまな苦しみを厭い離れて、完全な安らぎに帰しなさい。
いつも戒めを守って、瞑想を保ち、自分の身を助けなさい。
悟りによって自分やこの世を荘厳し、どこに行っても常に安楽でありなさい。

仏説法受塵経の現代語私訳もつくってみました!





「心の塵についての教え」(「仏説法受塵経」 現代語私訳) 


後漢の時代、パルティア(今のシリア)出身に三蔵法師・安世高が翻訳しました。

このように聴きました。ある時、釈尊は、コーサラー国の首都・シュラーヴァスティーにある祇園精舎に滞在しておられました。
釈尊は修行僧たちに告げました。
修行僧たちは教えを受け、釈尊に聴き従いました。

釈尊は修行僧たちにおっしゃられました。

「おおむね、人が何かをなす時は、心に塵のようなものがついて自ら心を汚してしまい、迷い惑い、愁い、落ち込んで、果てしもなく、本当の幸福の道を得ることができずにいるのを私は観察してきました。
たとえるならば、男性が女性の美しい姿を見たいと思うようなものです。
美しい女性に心惹かれる男性は、心がそのことに染められ、陶酔し、貪り、心が汚れ、惑い、執着し、そこに心が留まり、そうした感覚作用を生じています。
色っぽい女性の言葉に従って、久しく走り回って駆けずり回っては、いたずらに疲労困憊し苦しみを受けるのみです。
いつもその女性の声を聞きたいと思い、その香りをかぎたいと思い、キスをしたいと思い、肌に触れたいと思う。
そのために、久しく走り回って駈けずり回っては、苦しみを受けます。
上記のようなわけで、女性の色香や声、感触のために惑わされ執着すべきではありません。
まさにそのように自覚し観察しなさい。
また、修行僧たちよ、おおむね人は、なんらかの認識対象に触れるに際して、いつも塵のようなものを受け自ら心を汚し、迷い惑い、愁い、落ち込んで果てがありません。私はそのような人々が本当の幸福を得ることができないことを見てきました。
たとえていうならば、好色な女性が男性の姿を見たいと思うようなものです。
好色な女性は、心がそのことに染められ、陶酔し、貪り、心が汚れ、惑い、執着し、そこに心が留まり、そうした感覚作用を生じています。男性への愛欲のために、久しく走り回って駆けずり回っては、いたずらに疲労困憊し苦しみを受けるのみです。
いつもその男性の声を聞きたいと思い、その匂いを吸いたいと思い、キスをしたいと思い、肌に触れたいと思う。
そのために、久しく走り回って駈けずり回っては、苦しみを受けます。
上記のようなわけで、男性の性的魅力や声、感触のために惑わされ執着すべきではありません。
まさにそのように自覚し観察しなさい。」

釈尊がこの説法を終えると、皆は歓喜してその教えのとおりに実践しました。
文殊師利問経菩薩受戒品第十三の現代語私訳もつくってみました!


「文殊菩薩の質問と答え」 第十三章 菩薩の心がけ
 (文殊師利問経 菩薩受戒品 第十三  現代語私訳) 



その時、文殊菩薩は釈尊に申し上げました。

「世尊よ、もし善い仏弟子の男女が、菩薩の道徳・戒めを受けて保とうとするならば、どのように心がけるべきでしょうか?」

釈尊は文殊菩薩にお答えになりました。

「仏の前でまごころを尽くして礼拝し、このように述べなさい。

『さまざまなこの世界の如来・菩薩がたは、私を念じて記憶してください。
さまざまなこの世界の如来さまたちは、悟りの智慧によって何も執着することがなく、正しく観察して知悉してくださいます。

私、○○は、誓願します。

私は、いま、菩薩の心を起こします。
すべての生きとし生けるものを助けて幸福にするためです。

過去・現在・未来のさまざまな菩薩たちと同じように、このうえない道を求める心を起こします。

すべての生きとし生けるものに対して、自分の父や母のように、兄弟や姉妹のように、男女の親友のような思いを起し、このうえない悟りを求める心を起こします。
彼等が迷いの輪廻から解脱して脱出することができるように、さらには正しい悟りを求める心を起こして、奮起し精進努力するように手助けできるようにするためです。

それぞれの人や生命の必要に応じて、智慧のアドヴァイスや物質的な支援を与えられるようになり、それを実践することを願います。
この智慧のアドヴァイスや物質的な支援によって生きとし生けるものを包容し、少しずつ適切に生きとし生けるものを迷いの苦しみの連鎖から解脱し脱出させるためです。
さらには、このうえない悟りの境地に、それらの人々や生命を安らかに住まわせるためにです。

私はいま立ちあがって精進します。
私は、不放逸に努力し、このように再三、再四、繰り返し誓願し、実践し、努力します。』

以上の心がけを、菩薩が悟りを求める心を起こす最初の一念、菩薩の初心といいます。

文殊菩薩よ、この心がけ・菩薩の初心は、さまざまな菩薩が起す心であり、菩薩となるために実践することです。
生きとし生けるものを救うために悟りを求める心を起こさない仏弟子や、凡夫や、さまざまな善くない人々になるために起す心ではありません。」

「文殊師利菩薩無相十礼」の書下し文をつくってみました!


「文殊師利菩薩無相十礼」


清涼山中の大聖文殊師利菩薩。
端坐して心を政看(正しく観)すれば、心はまた得べからざるなり。

至心に真如法身仏に帰命し敬礼す。

色無く形像無く、根無く住処無し。生じず滅さざるが故に。
無数の観に敬礼す。

来らずまた去らず、取らずまた捨てず。
六入を遠離する故に。

三界において出過し、等しきこと虚空の如し。
諸もろの欲の染まらざる故に。

諸の威儀の中、去り来ること及び睡り悟(さ)めることにおいて、常に三昧に在(お)る故に、去る来たるも悉く平等にして、已に平等に住す。
平等の壊れざるが故に。

諸もろの無相の定に入り、諸法の寂浄を見る。
諸もろ寂浄を離れる故に。

諸仏は虚空の相なり。虚空にして亦た無相なり。
諸もろの因果を離れるが故に。

虚空は中と辺と無し。諸仏の身また然り。
心、虚空に同(ひと)しきが故に。

仏は常に世間に在りて、しかも勢(さかん)なる法に染まらず。
世間を分別せざるが故に。

諸法の由(ゆえん)は幻の如し、幻の如く得べからず。
諸もろの幻の法を離れるが故に、一切平等に礼す。
礼無きも不礼無きも、一礼遍ねく識を含み、同じく実相の体に帰す。

普ねく四恩・三有及び法界衆生・同如如(などなど)の為に、帰命し懺悔し至心に懺悔す。我れ三時において罪性を求むれば、内と外と中間において心は実に無し。
已に心無きが故に諸法は寂なり。
三毒四倒悉く皆如(し)かり。

懺悔し已って法身如来に帰命し礼し至心勧請す。
一切諸法は本より生れざるなり。
已に無生なる故に何れのところにか滅有るや。
生じず滅せざるの性は常住なり。
唯だ願わくば諸仏は涅槃することなく、諸もろの衆生をして本性を照らさしめ、涅槃の城に自然に遊戯せしめんことを。
行者但だ能く五蘊を照らせば、我無く人無く両辺は空なり。

勧請し已って法身如来に帰命し礼し、至心に随喜す。

法は本より貪らずまた畏れず、我勿(な)く、一ならず異ならず、同(ひと)しく一を観ずれば実に生なきを証す。
縁無く等しく観ぜば隨喜を尽くす。
空を観れば有の如如の性を照らす。
唯だ願わくば、衆生の勤めて心を照らし、心の体の由って来る性は清浄にして、妄色・虚空も同(ひと)しく智は真ならんことを。

随喜し已って法身如来に帰命し礼し至心に迴向す。
一室において迷い、明かりに随って想う。
明かりを執りて想う故に我が塵の生ず。
今我が塵を照らせば塵は自性無し、無住の涅槃の城に迴向す。
五法は政智(正智)・八識の清淨淨心王に包含せらるなり。
この蔭身を迴(めぐ)らせば仏道を成ず。
四儀は一向現前の行なり。

迴向し已って法身如来に帰命し礼し至心に発願す。
諸もろの衆生をして六賊を妨(ふせ)がせ、悲と智との二つに現前の行を照さしめ、断えず無量を常に離れず、空に非ず有に非ず惶(おそ)れは行じ了らせ、四智三身は彼の体に縁(よ)り、五眼は常に浪を照らし、三明・三衆の意は障礙無きを生ぜしめ、菩提樹下に群萠を度させんことを。
発願し已って法身如来に帰命し礼し、一切に恭敬す。
仏の徳と菩提に帰す。
道心恒に退かず。
願わくば共に諸もろの衆生、同じく真如の体に入り、法薩般若に帰し、大総持門を得んことを。
願わくば共に諸もろの衆生、同じく真如の海に入り、僧に帰し諍論を息(や)め、同じく和合海に入らんことを。
願わばく諸もろの衆生等、悉く菩提心を発し、三業恒に清浄にして、衆と法身仏に和南せんことを。

諸もろの衆等、聴説せよ、寅朝清淨の偈を。
寂滅の楽を欲求(よくぐ)し、まさに沙門の法を学ぶべし。衣食の身命の精麁は衆等に随え。
諸もろの衆等、今日寅朝、清淨に上・中・下の坐、各おの六念を記せ。
諸もろの衆等、午時は無常偈を聴説せよ。
人、生けるとき精進ならざれば、たとえば樹(うえき)の根なきがごとし。
葉や花の日の終りに至れば、能く新たなる時を得已んぬ。
花もまた久(とこしなえ)に鮮やかならず。
色もまた常に好ましきにあらず。
人の命も刹那の如し。
須臾にして報(こた)ふること難かるべし。
今諸もろの衆等に勧む。
無上道に懃修せよ。
諸もろの衆等、黄昏に無常偈を聴説せよ。
この日すでに過ぎぬ、いのち即ち減ずるに随い少なきが如し。


「大聖文殊師利菩薩讃仏法身礼」の書き下し文をつくってみました!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63123061&comm_id=4041742
八大人覚経の英訳がネットにありました!

しかもティク・ナット・ハンが英訳しています!

さすがだと思いました^^

http://www.buddhanet.net/pdf_file/beingssutra.pdf

日本ではどういうわけか八大人覚経がちっとも読まれていないようですが、すこしは八大人覚経を読んだ方がいいのではとあらためて思えます。
「後出阿弥陀仏偈」の書下し文をタイピングしてみました!


「後出阿弥陀仏偈」

法比丘を惟念(おも)うに      乃(すなわ)ち世饒王に従い
発願すること喩えば諸佛のごとく   二十四章を誓う
世世諸仏を見ること         姟数量ること有るなし
宿命の行を廃さずして        功徳遂に具成す
世界は清淨と名づく         仏を得て号は無量
国界平夷にして易く         豊かに楽しくして上人多し
宝樹若干の種            羅列して叢(むらがり)て相生じ
本と莖と枝と葉と花と        種種各(おのおの)異なれる香なり
風に順(したが)って日に三たび動き 翕(やわら)ぎ習(の)びて花の生ずるが如し
地堕ちては手布の如く        雑厠の上普ねく平らかなり
一切諸もろの山無く         海水及び諸もろの源に
但だ河水の流れのみ有りて      音の響きは経を説くが如し
天・人は水に入りて戯れ       意の欲し望む所に在り
水をして胳肩に斉(ひと)しからしめ 意に願うこと念に随って得
仏の寿は十方の沙          光明は普ねく無辺なり
菩薩及び弟子            算じ称し量るべからず
もし彼の仏を見んと欲せば      疑うなかれまた忘るることなかれ
疑いあれば胎中に在りて       合わざること五百年
疑わざれば台に坐して生じ      叉手して無量の前なり
願いて十方に遍ずることを欲せば   須臾にして則ち旋還す。
彼の菩薩を惟念(おも)うに     姟劫に功と勤めを作(な)し
本の行かくの如く致し        号を得世尊を憎す
仏の興るに値(あ)うこと得難く   須臾は会うも聞き難し
講じ説く士は遇い難く        学を受く人は得難し
もし後に末世遭い          法の衰微せんと欲する時
まさに共に擁護を建て        仏の無欲の法を行ずべし
仏はよくこの要を説く        各各勤めて思い行ぜよ
この無量の福を受け         世世に稽首し行ぜよ

後出阿弥陀仏偈



『聖妙吉祥真実名経』の中の「文殊師利一百八名讃」の書下し文をつくってみました!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63221242&comment_count=0&comm_id=4041742
「仏説五十頌聖般若波羅蜜経」の書下し文をつくってみました!
本当にすばらしいお経と思います。
広く読まれて欲しいお経だと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。 
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20110624/1308870174
「文殊師利発願経」をタイピングしてみました!
大乗仏教の初期においては、このお経を読経することが多かったそうです!

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63457089&comm_id=4041742
「比丘避女悪名欲自殺経」の書下し文をつくってみました。
また、現代語訳も試みてみました。
短いお経ですが、とても興味深いと思います。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63461303&comment_count=0&comm_id=3060525
仏説文殊師利般涅槃経の現代語訳をつくってみました。

「文殊菩薩のニルヴァーナ経」(仏説文殊師利般涅槃経 現代語私訳)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66553178&comment_count=0&comm_id=4041742&from=home_comment_history

「文殊師利菩薩無相十礼」の現代語訳もつくってみました!

「姿なき文殊菩薩への十の礼拝」(現代語私訳「文殊師利菩薩無相十礼」)
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66574369&comment_count=0&comm_id=4041742

「受持七仏名号所生功徳経」の書下し文を試みにつくってみました。

不思議な、ありがたいお経だと思います。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66647090&comm_id=3060525
「生き物を殺害しないことによって、生き物の殺害は捨てられるべきである。
与えられたものだけを取ることによって、盗みは捨てられるべきである。
真実のことばによって、嘘は捨てられるべきである。
和合をもたらすことばによって、中傷のことばは捨てられるべきである。
強欲でないことによって、強欲は捨てられるべきである。
そしり怒ることのないことによって、そしり怒ることは捨てられるべきである。
怒りと悩みのないことによって、怒りと悩みとは捨てられるべきである。
思い上がりのないことによって、思い上がりは捨てられるべきである。」

(哺多利経 中部経典第五十四経)
「伽耶山頂経」(別名:文殊師利問菩提経)をタイピングしてみました!

文殊菩薩の智慧のすごさをひしひしと感じる素晴らしいお経と思います!

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1806570558&owner_id=524436
スリ・ダンマナンダ長老の講演”The Power of the Mind”が、youtubeで視聴できます!
英語ですが、とてもゆっくりわかりやすく話してくださっているので、たぶん誰でもよくわかると思います。
Part 14まであるみたいです!
私は今6まで聞いたのですが、本当に素晴らしい内容です。

The Power of the Mind 1 ( Ven. K. Sri. Dhammananda).MPG

間もなく、本願寺の御法話のインターネット中継が始まります。

明日は親鸞聖人七百五十回忌です。

11:20〜天岸浄円師
http://webtv.hongwanji.or.jp/daionki/
ダンマナンダ長老の本が、無料で読めるサイトがありました。

http://www.ksridhammananda.com/index.php?option=com_content&task=blogsection&id=0&Itemid=28

英語の本もけっこう多いです。

インターネットって本当にありがたいですよね。
英語力とネットさえあれば、どれほどの智慧をただで簡単にいただくことができるかわからないと思います。
ダンマナンダ長老の「仏教における人間の尊厳について」を翻訳してみました。

多くの人に読んで欲しい、すばらしい内容と思います。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67439243&comment_count=0&comm_id=4817263

失礼します。
仏教用語は言葉にすると、邪見になり、邪見から執着が生まれ、煩悩になります。
涅槃や厭離や智慧等は無我ですから、言葉にすると成り立ちません。
慈しみ寺HP
http://www.itsukushimi.org/


広島にある「慈しみ寺」のHPです。
スリランカのケラニヤ寺院から来られた僧侶の方々がおられて、カティナ衣法要などが行われています。

>>[075]

言葉と真理の問題は本当に難しいですね。
言葉の限定性が常に真理をとらえきれなかったり、歪めてしまったりする危険があるし、真理はその言葉の限界におさまりきらずにあふれ出る。
しかし、言葉に満ちた分断分別された世界の中で苦しんでいる衆生の実態を見るならば、とりあえず言葉を手掛かりにして衆生がその泥沼から身を起こせるように手助けしなければならない。
だからこそブッダも、悟りを開かれた後、決して禅定にとどまり続けることをしないで、人々に言葉をもって手助けする道を歩まれたのだと思います。
未だに、無あるいは悟りの執着から解放されない。
>>[081]

いっさいのこだわりが止滅する無の禅定に心を安らがせたり、
あらゆる生き物たちが幸せになれるよう、それをかなえるために究極の悟りを目指すことは、
あらゆる仏陀が歩んだ道であって、対治すべき間違った執着とは異なるのではないでしょうか。
戒められる執着は、自分のために自分が見たくないものをすべて無に帰そうとすることだったり、
自分だけを救おうとする悟りへの欲求だと思います。
>>[82]
そうですね。一切が邪見になるから、悟りには程遠いかも知れません。
>>[083]

ぼくたちはみんな、究極の悟りが自身の内部に本来的に具わっているのに、
煩悩障、所知障があまりに厚く、それを曇りなく照り輝かせるのに大変な根治修行を必要とする。
法蔵菩薩も阿弥陀仏として究極の悟りを開くのに5劫の独坐思惟が必要だったと言われています。
それでも諦めない所に、修行の真骨頂があるんだと思います。
>>[84]
ありがとうございます
疑問ですが、修行が煩悩を生むと思うのです。修行そのものが煩悩であるから、それの繰り返しで目的を失って、真逆の事をやっている様に思います。

瞑想にしても同じ様に感じます。

>>[085]

>疑問ですが、修行が煩悩を生むと思うのです。修行そのものが煩悩であるから、それの繰り返しで目的を失って、真逆の事をやっている様に思います。瞑想にしても同じ様に感じます。


修行や瞑想をやると、かえって煩悩をどんどんどんどん生み出すことになり、実はまったく逆のことをやっているのではないか、という疑問ですね。
おっしゃるように煩悩をますます増大させるような修行や瞑想なら、それは修行・瞑想というのは名ばかりで、何ら煩悩滅尽に役立っていない行為なのだろうと思います。
あるいは、そんなふうに見えながら、実は着実に煩悩は減ってきており、
ただ鋭敏になった観察眼が以前より小さな煩悩も見逃さずに見てとれるようになったということなのかもしれません。
仏教の修行や瞑想が逆に人間をとんでもなく歪んだ方向へ向かわせているのではないかという懸念は、世間一般の人たちが少なからず実は感じている所かもしれません。
修行してる、瞑想してるなどというのは特別宣伝することでもないし、ましてや自慢することでもありませんね。
自分において苦しみや悩みが解決したり、
他者のためにとってとても優れた気持ちいい仲間(善友)になったりの成果こそが厳しく点検されるべきなのかもしれません。

本当に自分の苦しみを仏教を通じて解決した人は、広く人々の苦しみの解決に優れた手助けができるようになるかもしれませんね。
>>[085]
正しい修行を実践するなら煩悩が増大することはありません
正しい修行を実践して煩悩が増大して感じるのは心が清らかになり僅かな心の穢れもハッキリと認識できるようになるからです
これは誰もが通る道です、迷わずたゆまず御釈迦様の言葉通りに修行を精進していってください(^人^)
質問があります。

五戒の中の不邪淫:邪な行為をするなかれ。
不倫とかの事だと思うのですが(他にも意味はあると思いますが)具体的に不倫とかするとどういう仕組みで『不幸』になると言っているのか、具体例などがあれば挙げてお答え頂けると幸いです。

どなたでも宜しくお願い致します。
>>[91]

自分が既婚者だったり、相手が既婚者だったりすれば、自分や相手の配偶者の目から隠れてコソコソ行動しなければならないし、発覚すれば配偶者を悲しませたり苦しい思いにさせたり、子供がいれば子供の心にまで深い傷を負わせることになる。
さらに世間から信用できない人だという評価を受けるかもしれないし、家庭はついに崩壊し、その悪影響は後々まで自分の人生にひびいてくるかもしれない。

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