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野口修一の社会活動レポートコミュの田中正造とくまもと

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田中正造とくまもと
くまもと田中正造研究会 会員 野口修一
私と田中正造との出会いは、坂本龍馬会の縁から参加した熊本市の「田中正造研究会」でした。その会を主催する熊本大学文学部教授の小松裕氏の静かな語りに、違和感なく導入され、10年がアッという間に過ぎました。毎回は参加できない不真面目塾生ですが、少しづつ田中正造の生き様に触れ、政治家というよりは、民衆の先導者と思うようになった。

田中正造が命をかけて救済活動を続けた「足尾鉱毒事件」は、明治時代の国の殖産興業の後押しによる銅山開発が急速に拡大したのが要因だった。しかし、精錬で排出される重金属混じった排水を除去する対策もなく垂れ流し、汚染地区がどんどん拡大して行った。全国の銅山開発でも、各地で汚染が広がっていた。

足尾鉱毒事件の原因企業の古河工業は、政府の支持を盾に、住民の反対運動を押さ込み、さらに渡良瀬川流域の3つの村を廃村に追い込み、生活権まで奪い取った。田中正造は国会議員を辞め、廃村地区の谷中村に入り、村民と同じような生活をしながら、被害地を克明に調査し、それを基の社会へ訴えていった。

これに関東の市民活動家や文化人も現地を訪れ、汚染対策の実行を企業側へ訴えた。しかし企業側は、一時金を渡し、その後の反対運動をしない約束をさせたり、県知事と話し合い、住民を追い出し、遊水池へむけた強権的な排斥事業がなされた。だが、谷中村の住民は、無抵抗で住民の権利を主張し続けた。

田中正造没後も権利闘争が続けられ、太平洋戦争前まで裁判闘争が続けられた。現在の足尾の山は、いまも緑が戻らず、禿山のままです。当時アジア一(いち)を誇った足尾鉱山の採掘で、ばら撒かれた煤煙と重金属汚染は、100年を越えても自然再生ができない。

日本は、戦前の足尾鉱毒の公害の経験を、戦後に活かせなかった。戦後の高度成長期には、日本各地で公害が発生し、住民と企業との調停や裁判闘争がいくつも起こり、その最大の公害が「水俣病」です。

水俣病の原因企業のチッソは、高度成長の需要を重視し、地域住民の訴えに耳を傾けることなく、更には、足尾鉱毒事件同様の口止め料とも言える一時金給付や、住民間の不協和音作りに力を入れ、救済が遅れ被害を広げることになった。

水俣病救済に奔走したリーダーが、故川本輝夫氏だ。もし足尾鉱毒事件が、戦後の企業活動に国や自治体がしっかり規制・指導をしていれば、熊本の田中正造とも言える川本氏の救済運動は必要なかったはず、日本の政治は歴史的検証が足りず、環境汚染と人的被害を何度も起こして来た。環境汚染だけでなく、医療の分野でも何度も起きている。

一昨年の東日本大震災が起こり、福島第一原発の爆発で、今でも16万人以上の方々が、避難生活を強いられている。原因業の東京電力は、実質倒産し、国の管理下にありながらも、いまだに住民救済に力を入れずに、原発再開へ動いている。正に、古河工業、チッソと同様に、被災住民への救済ができずに、ズルズル時間が過ぎる。

戦後の日本は、田中正造が身を持って示した公害の解決へ向けた運動を水俣病の救済活動に活かせなかった。これからの熊本の役割は、水俣病の申請患者の早期解決は必ずやらなければならないが、加えて、未来の日本社会へ意識表示として、福島第一原発事故の被災者救済が、足尾鉱毒事件や水俣病のように、企業側の理論で進められ、20年も30年もかかることのないように、東京電力はもちろんだが、政府へも強く要求して、解決を急がせること。それをできるのは、未だに水俣病の完全解決ができていない経験を持つ「くまもと」ではないかと思う。

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