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野口修一の社会活動レポートコミュの維新群像の人物紹介

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維新群像の銅像の紹介

横井小楠(YOKOI SYHONAN) 

 横井小楠は文化六年(1809)、熊本城下・内坪井(今の熊本中央女子高内)に藩士横井時直の二男として生まれました。

 小楠は米初代大統領ワシントンへの敬愛の念ひとかたならぬものがありましたが、この同じ年に十六代リンカーンも生まれています。幼少時代の小楠はかなりの腕白で生傷が絶えなかったといわれます。しかし一方で学問に励み、藩のエリートが学ぶ時習館に入学しました。ここでも頭角を現し、やがて居寮長となって後輩を指導する地位に就きます。

 ところが、小楠は学べば学ぶほど飽きたらないものを覚えるようになりました。それは、時習館の教えは学問のための学問に終っているのではないかという疑問です。小楠が考える学問の本領とは「学政一致」、すなわち現実の政治や経済に生かしてこそであり、要は理屈より実践をという主張です。このため小楠やその同志たちは「実学党」と呼ばれます。

 これに対して時習館出身者で占める藩の主流派「学校党」は「横井平四郎さんな実学めさる。学に虚実があるものか」と皮肉ります。しかし、小楠の唱える「実学」は単に実際の利益や実用だけを追いかけるものではありませんでした。国を富まし、民に力をつけ、立派な国づくりを実現するための方策でした。そのことは甥の左平太・大平を渡米させた際の送別の漢詩「何ぞ富国に止まらん 何ぞ強兵に止まらん 大義を四海に布かんのみ」にもよく表されています。


坂本龍馬(SAKAMOTO RYOMA) 

 天保六年(1835)〜慶応三年(1867)。土佐出身の志士。維新回天の原動力となった薩長同盟を導いたことでよく知られる。

 小楠と最初に会ったときの龍馬はガチガチの尊王攘夷者で、小楠を国を危くする危険人物と見なし、場合によっては刺殺することも辞さぬ決意であったという。ところが小楠の人物、識見にすっかり敬服し、勝海舟と並び生涯師事することになった。

 沼山津の四時軒には三度も訪れて教えを乞うているが、小楠は龍馬に会うたびに「乱臣賊子になってはいけない」と諭した。その型破りの行動を頼もしく思いながらも一抹の不安も覚えていたのだろう。龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたのは王政復古の大号令が発布された直前のことだった。


勝海舟(KATU KAISHU)  

 文攻六年(1823)〜明治三十二年(1899)。小楠とは最も親交の厚かった幕臣。内外の情勢に明るく、自らも咸臨丸の艦長として渡米するなど海軍の育成に努めた。

 このことは小楠が勝におくった「海軍問答書」や「国是七条」の中の「海軍を興し兵威を強くせよ」と一致するものであった。徳川幕府の最後にして最大の山場といえる江戸開城に当たっては西郷隆盛と会談、歴史的な無血開城を実現させたことはあまりにも有名。

 小楠評では「氷川清話」に「横井小楠のことは尾張のある人からきいていたが、長崎ではじめて会ったときから途方もない聡明な人だと心中おおいに敬服」したとあり、小楠に対してはつねに先生の敬称をもってした。


細川護久(HOSOKAWA MORIHISA)  

 天保十年(1839)〜明治二十六年(1893)。細川家十二代斉護の三男。版籍奉還後の明治三年、兄韶邦の後を継いで熊本藩二代目藩知事となる。

 「肥後の牛若さん」と呼ばれて京都で活躍していた弟護美と共に実学党の人材を登用して藩政改革に当たり、横井小楠の開明的な諸政策を推進。古城医学校、熊本洋学校を設立して西洋文物の取り入れに努めたほか、雑税の免除など農政税制改革でも農民の立場に立った施策を実施。「チイ様」「チシ様」とも呼ばれる知事塔は農民の感謝、追慕の碑であり、阿蘇の荻岳山頂などで刻まれた減税免除令全文とともに見ることができる。


松平春嶽(MATSUDAIRA SHUNGAKU)  

 文攻十二年(1829)〜明治二十三年(1890)。御三卿田安家の生まれ。越前国福井藩松平家を継いで藩主となるや藩政改革に着手し、西洋の軍事、学問、種痘の導入などを行う。

 横井小楠の識見を高く評価し、自らの指南役として迎える。国攻においては安政の大獄で一時隠居謹慎の処分を受けたが、政界復帰後は政事総裁職に就き、小楠と共にいわば二人三脚で難局に当たった。参勤交代制を三年一勤とし、大名妻子の江戸居住をやめて藩地へ帰すなどの緩和策もその一つ。小楠の確固たる理念や人となりへの敬愛の念は終生変わらず、自身も政治家的な腹芸を持たず、至極真面目な生涯をつらぬいた。正室勇姫は細川斉護の二女で細川家とは縁戚関係にもあった。


くまもとの維新
・山田武甫(YAMADA TAKETOSHI)  
 「徳の山田武甫」といわれ、教育界・実業界と幅広く活躍。政治活動では第一回衆議院議員に当選、立憲自由党結成に努めた。

・長野濬平(NAGANO SHUNPEY)  
 熊本県養蚕・製糸の始祖。殖産興業と貿易の振興こそ新生日本の方策という実学的な考え方を実践した。

・徳富一敬(OKUTOMI KAZUTAKA ) 
 水俣市生まれ。横井小楠の門弟第一号。肥後の維新の改革では農民負担の軽減を図った。子に長男蘇峰、二男蘆花がいる。

・悦氏房(KAETSU UJIFUSA)  
 実学派の中心人物。実学派子弟の教育に努力した。県会議長、衆議院議員などを歴任。女子教育に貢献した嘉悦孝子は氏房の長女。

・内藤泰吉(NAITO TAIKICHI)  
 医師。西洋医学を修め、古城医学校の設立に尽力した。著書「北窓閑話」。子に仏文学者として著名な内藤濯がいる。

・竹崎律次郎(TAKEZAKI RITSUJIRO)  
 横井小楠の高弟。号は茶堂。古城医学校、熊本洋学校の創設に尽力するなど、熊本の近代化に大きな役割を果たした。


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