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日本人はなぜ多重人格なのかコミュの靖国問題を考える絶好の機会

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ミクシィで報道されているニュースの中で、A級戦犯の靖国神社からの分祀に関するニュースが報道されています。これは靖国問題を考える絶好の機会であるといえます。

ここで参考書を一つ紹介しますと、当コミュニティのメンバーのMichael C さんがレビュー(下記アドレス)で紹介している高橋哲哉著『靖国問題』(筑摩新書)が挙げられます。

http://mixi.jp/view_community_item.pl?comm_id=830788&item_id=194500

Michael C さんのレビューは、本の論点をコンパクトにまとめながら、読者に「どれどれ、この本を読んでみよう」という気にさせる大変すぐれたレビューだと思います。

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A級戦犯「東郷神社に分祀を」
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=497824&media_id=2

靖国神社に祭られているA級戦犯を、旧海軍ゆかりの東郷神社(東京都渋谷区)に分祀(ぶんし)すべきだ−−。東郷神社前宮司の松橋暉男(てるお)氏が来月出版する著書「幻の揮毫(きごう)」(毎日ワンズ)で、神社関係者では異例の提言を行う。

 全国8万神社をまとめる神社本庁は「分祀は神道の教義上できない」との見解をとっているが、傘下の有力神社の「A級戦犯受け入れ」表明は、分祀論議に拍車を掛けそうだ。

 同書は、A級戦犯合祀が中国などの反発を招いた問題は、首相参拝が行われなくても解決しないと指摘。論争が収まった「今こそ真剣に取り組むべき時だ」と訴える。そのために、東郷神社境内の「海の宮」にA級戦犯を合祀するよう提唱。神社本庁などの主張通り靖国神社に「御霊(みたま)」が残っても、東郷神社に「移った」と見なして「ご遺族は心おきなく新しい座にお参りすることができる」ようになるとしている。

 中国などにも「誠意ある対応をしたことになる。靖国参拝のカードは有効でなくなる」ため、外交問題を沈静化できるという。

 松橋氏は「私は靖国神社に代わる新たな国立追悼施設反対の立場で、神社本庁と一致している。後任の東郷神社現宮司も私の考えをわかってくれると思う」と話している。

 松橋氏は小泉純一郎元首相の参拝が問題になった05年にも分祀論を試みたが、神社本庁から「発言を慎むように」と注意され断念。07年4月に名誉宮司に退き、提言に踏み切った。旧知の南部利昭・靖国神社宮司にも分祀の必要性を説いているという。

 分祀論は、日本遺族会の古賀誠会長も賛同。遺族会は07年5月に検討の勉強会を設けている。【野口武則】

 ◇東郷神社

 日露戦争の日本海海戦で勝利した連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥を軍神として祭る。戦前、靖国神社と同格の別格官幣社に列せられることが決まっていたが、1945年に空襲で本殿が焼失したため取りやめになった。現在、崇敬会「東郷会」の名誉会長は旧皇族の東久邇信彦氏。

コメント(11)

Michael C さんの高橋哲哉著『靖国問題』のレビューの中に、家族の死を家族の栄誉にすり替えた戦前の大日本帝国の巧妙なカラクリへの指摘があります。すなわち、靖国神社とは戦死者を「追悼」する施設ではなく、国家のために命を捨てた人たちを「英霊」として「顕彰」するための施設となっているということです。

私はこの点をとても重要視したいと思います。なぜかというと、本来の戦死者への追悼の感情には、戦争そのものを人類の過ちとして認識する理念が含まれているのです。この理念に基づくと、戦争の犠牲者となった人とは、この人類の過ちの犠牲者となった人のことなのだから、国籍に関係なく人類の過ちの犠牲者を犠牲者として平等に追悼する行動が必然的に導かれます。

ところが、靖国神社は、戦死者を「追悼」する施設ではなく、国家のために命を捨てた人たちを「英霊」として顕彰するための施設という性格にすり替えられているため、このすり替えに伴って、戦争そのものを人類の過ちとして認識する理念が没却されているんですね。私たちは、靖国問題を考えるとき、この点は絶対に忘れてはならないと思うのです。
もう一つ、上に言及したことに関連することですが、小泉純一郎が首相に在任していたとき、靖国神社への公式参拝の行動を説明する発言として、「戦争で無念にも亡くなられた方々の尊い犠牲があるからこそ、今日の日本の平和と繁栄がある」という発言があります。さらに、小泉は、「そういった方々のために哀悼の誠を捧げるのは当然のこと」とも言っています。

この発言は、一見すると耳ざわりが良いのですが、戦争そのものを人類の過ちとして認識する理念がぼかされており、逆に国家のために命を捨てた人たちを「英霊」としてたたえる思想が巧妙に織り込まれていることがわかります。

私たちは、小泉らのこういった発言の、一見すると耳ざわりが良いが、巧妙なすり替えが織り込まれている発言の欺瞞を鋭く見破る洞察力を身につけなければならないと思います。
1番目の自己レス書き込みの中で、私は「本来の戦死者への追悼の感情には、戦争そのものを人類の過ちとして認識する理念が含まれている」ということを申し上げましたが、この理念が成立するためには、いわゆる犯罪の取調べや裁判における刑の言い渡しの際に言われる「罪を憎んで人を憎まず」という理念が成立していなければならないということに気がつきました。

なぜかというと、戦争において罪なき犠牲者は存在しないのです。戦場で無念にも亡くなった下級兵士ですら、戦争行為の当事者の一人であり、「戦争において罪なき犠牲者は存在しない」の考え方に従えば、こういった下級兵士ですら、実は罪びとなのです。ですから、靖国神社に合祀されている戦没者は、全員罪びとなのです。では、なぜ罪びとを追悼するのでしょうか。その解答がまさに、「罪を憎んで人を憎まず」という理念なのではないでしょうか。

結論をまとめると、追悼が追悼であるためには、「罪を憎んで人を憎まず」という理念が成立するのでなければならない。そして「罪を憎んで人を憎まず」という理念の潔癖を維持するためにも、この罪びとたちを「国家のために命を捨てた英霊」としてたたえる思想は退けられなければならないのです。
>「罪を憎んで人を憎まず」という理念の潔癖を維持するためにも、…

自己レスです。

「罪を憎んで人を憎まず」という理念は、なぜ潔癖に維持されなければならないかについて考察します。これは、まず罪を犯した人はまさにその人であるわけです。だから、罪を憎むとしたら、当然、その憎むべき罪を犯した人も憎むべきなのではないか、という疑問が発生する余地があります。

言い換えれば、「罪を憎んで人を憎まず」という理念は、常に「罪を憎むなら、その憎むべき罪を犯した人も憎むべきなのではないか」という疑問によって、その成立が脅威にさらされているといえるでしょう。

「罪を憎んで人を憎まず」という理念を採用するということは、罪と人とは別であるという解釈を積極的に採用し、罪は憎むべきもの、人は愛情をもって接するもの、という態度で臨むことを決意しているということなのです。すると、この成立が脅威にさらされている危うい理念の成立をあくまで維持するのであれば、「戦死者は国家のために命を捨てた英霊」としてたたえる思想は退けられなければならないわけです。
>基本的に日本人には国家を超えた公という概念がないため、公共のために働く=国家のために
>働くということになり、それを現在に至るまで日本政府が利用している…

これは興味深い指摘です。加藤典洋著『日本の無思想』というトピック(下記アドレス)で、

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=21092307&comm_id=830788

日本では「公」と「私」とは、多層の相互相対関係でしかないという加藤氏の指摘を紹介しています。すなわち、日本人の「公」と「私」に対する考え方は、たまねぎの多層構造のようなものだ、「公」というのは、これがたまねぎの一つの皮の層であるとすると、この一つの皮の層の内側の皮に対して相対的に「公的」であるということに過ぎないのであり、そのさらに外側の皮に対しては、その皮が相対的には「私的」になるというのです。

別の言い方をすると、絶対的な位相をもった「公(おおやけ)」という観念が共有されていないんですね。本来ならば、絶対的な位相をもった「公(おおやけ)」という観念の下に「国家」という観念も「憲法」という観念もあるのです。だからこそ、どんな国家体制を選択するかとか、どういう政党に政権を託すかとか、今の時代にどんな憲法を制定すべきかとか、そういった問題が自由に論題となりうるわけです。

ところが、日本では「国家」が即ち公の固定的な最上位観念であるかのように了解されてしまっているのですね。そして、その公の固定的な最上位観念であるところの「国家」に対し、日本人のお得意(?)の「すり替え」を行い、「国家」とは「官僚機構」のことであるかのようになっているのです。

靖国神社が本来の意味の追悼施設として観念されない理由もこの辺にあります。すでに申し上げたように、靖国神社を本来の意味の追悼施設として観念するためには、「戦争はそれが戦争であるがゆえに人類の罪である」という思想と抱き合わせに成立します。そして、「罪と罪びととは別であり、憎むべきは罪であり、罪びとではない」という思想もあわせて不可欠となります。

そうすると、「憎むべきはひとえに戦争である」ということになります。そうすると、日本を戦争という泥沼の罪に引き込んでいった責任の所在はどこにあるのか、ということが当然問題にされるべきです。実際、ウォルフレンの『なぜ日本人は日本を愛せないのか』の「責任と悔恨」、「戦争とギャンブル」と題する節(P226〜236)では、そのことが指摘されています。

ところが、「憎むべきはひとえに戦争である」ということになり、「日本を戦争という泥沼に引き込んでいった責任の所在はどこにあるのか」、ということが問題としてクローズアップされると、当時のいわば官僚機構、あるいは国家指導機構としての「軍」にスポットライトが当たってしまうわけです。

むろん日本の現在の官僚機構は、戦争当時の官僚機構とは別です。だが、日本の現在の官僚機構は、戦争当時の官僚機構とは全く別であるということをきちんと内外に示すことができていないのですね。この点で全然けじめがついていないのです。中山氏流に言うと「無節操」なわけです。ですから、日本の現在の官僚機構は、実質的にも、内外への顔としても、戦争当時の官僚機構の漫然とした継承者の域をでていないのです。

戦争当時の官僚機構とは、日本を戦争という泥沼の罪に引き込んでいった責任主体に他なりません。そして日本の現在の官僚機構は、戦争当時の官僚機構の漫然とした継承者の域をでていないわけですから、日本の現在の官僚機構が戦争責任の継承者だということになってしまうわけです。

日本の現在の官僚機構としてはそれは非常に都合が悪い。こんな不都合なことは隠蔽したい。だからこそ、靖国神社から「追悼施設」としての性格を遠ざけ、逆に「顕彰施設」としての性格を与えたがるのではないでしょうか。
>そして日本の現在の官僚機構は、戦争当時の官僚機構の漫然とした継承者の域をでていないわけですから、…

日本政府の場合は、現在の日本政府は戦争当時の軍主体の統治機構とは全く違うのだ、ということを積極的に示す必要があるんですね。そのためには、現在の日本政府は、戦争当時の軍主体の統治機構を進んで批判するべきだと思います。そういう努力をしない限り、戦争当時の官僚機構の漫然とした継承者と受け止められても仕方がないわけです。

そういう観点からすると、靖国神社が追悼施設であるということが確認できていないのですから、やはり、閣僚の靖国参拝はするべきではないということになると思います。顕彰施設に足を運ぶということと、戦争当時の軍主体の統治機構を進んで批判することとはどうしたって両立はしないですからね。
>7番:Michael C さん

>日本の場合はあくまでも対内的な印象作りを優先した…

「対内的」という点がポイントですね。日本の政治はメッセージ発信が常に内向きです。これは、日本人というもののメッセージ発信が常に「身内」や「仲間内」に向けてなされていることの延長であるといえるでしょう。

そういえば、堺屋太一氏が、日本人著作の書籍の英訳本の数が極端に少ない、という指摘をしています。これは、日本人の「外」に向かうメッセージ発信の意欲がいかに低調であるかを物語っています。堺屋氏のこの指摘は、「日本は急速に衰えている」トピック(下記アドレス)でも紹介されています。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=27410619&comm_id=830788

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