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日本人はなぜ多重人格なのかコミュの『大人のいない国』(文春文庫)

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『大人のいない国』(文春文庫)という本を読んでみました。著者は鷲田清一という人と内田樹(うちだたつる)という人の2人で、章を分担して執筆しているほか、両者の対談で構成されている章が2つあります。いろいろ啓発に富む本ですが、その中で特に2点ほど詳しく取り上げてみようと思います。

第4章『呪いと言論』の中に「言論の自由はどのように誤解されているか」という節があります。この部分からは最も大きな啓発を受けました。

まず、著者の内田樹は、「言論の自由」を徹底的に擁護する論者としてチョムスキーの主張を紹介しています。内田はチョムスキーの「言論の自由」ついての主張を次のように紹介しています。

『当然のように、ヨーロッパのメディアはこの説に烈しい攻撃を加えた。このときアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーは、「言論の自由」を擁護する立場から、人は誰であれ言いたいことを言う権利があり、とりわけ、その意見が人々の神経を逆なでするようなものの場合は、一層擁護されなければならないと書いた』(P90)

上記引用文中に登場する「この説」とは、ロベール・フォーリソンという人の唱えている説で、「ナチスのユダヤ人強制収容所にはガス室はなかった、ユダヤ人は伝染病で死んだという「歴史修正主義」と呼ばれる説のことを指します。

チョムスキー自身は、このフォーリソンの意見には賛同しないが、しかしフォーリソンがそのような説を唱える権利は擁護したいと主張しているわけです。このチョムスキーの主張に対して、内田は「美しい言葉」と讃えながらも「ことの筋目が違うんじゃないか」と、次のような違和感を表明しています。

『私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け入れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされぬのではないか』(P91)

そしてこの観点から内田が考察する「言論の自由」とは次のようなものです。

『言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の成否真偽を批判するのは、発信者本人ではなく(もちろん「神」や独裁者でもなく)、「自由なG年論の行き交う場」そのものであるという、場の維新に対する信用供与のことである。言論がそこに差し出されることによって、真偽を問われ、正否を吟味され、効果を査定される、そのような「場が存在する」ということへの信認抜きに「言論の自由」はありえない』(P94)

この内田の考え方は、例えばツイッターとか、あるいは当コミュニティの掲示板のような意見交換の場が、「言論の自由を享受する場として成立しているか否か」を判断する上で大変参考になる考え方であるといえましょう。例えば、当コミュニティのメンバーの一人が何か意見発表を行ったとします。これに対して、だれもレスポンスをしないでいたとします。そうすると、そのような「場」には言論の自由は、実は無いも同然だということになりましょう。

また、仮にレスポンスがあったとしても、いつも決まった人が決まった調子でしかレスポンスをしないような場であるとすると、その場合でも言論の自由は無いも同然であると考えます。逆にいうと、いろいろな人が賛否両論、いろいろな意見を表明したり、質問したりしている場が、言論の自由のある場だということになると思います。


もう1点とりあげてみましょう。この本の第1章『対談「大人学」のすすめ』の中で、「ポスト産業社会と「学び」について触れている部分があります。「ポスト産業社会」とは、ひらたく言うと人々がもっぱらモノの消費者やサービスのクライアント(享受者)としてふるまうことが主となっている社会のことです。「ポスト産業社会」の人々は、あらゆるものを自分たちに提供された「商品/サービス」ととらえ、消費者が陳列棚の前で商品を選ぶように、あらゆるものについて費用対効果を吟味するというアプローチをします。

ところが、著者(内田)によると、こういった「ポスト産業社会」の人々の行動傾向は、「学び」を動機付けることができないというのです。なぜかというと、「学び」のプロセスの中では、人間がそれに「着手」した段階では、自分がこれから学ぶものの意味や価値を全体像の中で位置づけることができないからです。だからこそ「学び」を通じて、自分が学んだことの意味と価値を事後的に知るわけです。

具体的に言うと、人間はまず学びの初期段階で、「これは何だろう、これはなぜだろう…」という問題意識を持ちます。次に、「よし調べてみよう、実験してみよう」というアプローチをします。その結果「あ、そうだったのか…」と後から気が付く、そういった全体のプロセスが「学び」なのです。「ポスト産業社会」の人間は、消費者として、あるいはクライアントとして行動することに慣れっこになっているため、本質的に「自分の知識力や判断力の外にあるもの」を受け付けようとしない傾向があります。「ポスト産業社会」の人間は、「学ぼうとしない」人間だと言って過言ではないでしょう。

ちなみに、小中学生(場合によっては高校生)が「理科離れ」しているということがよく言われます。全国学力テストなどを行い、その結果を分析すると、そういう傾向がたしかに確認できるようです。しかし、「ポスト産業社会」では、生徒たちが「理科離れ」することはある意味必然です。なぜかというと、おそらく理科という教科は、あらゆる教科の中で「これは何だろう、これはなぜだろう、よし調べてみよう、実験してみよう」という「学び」のアプローチをもっとも要求する教科だからです。現代では、小中学生や高校生が「理科離れ」しているのではなく、「ポスト産業社会」の人間たち全体が理科離れしているのです。

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