ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

日本人はなぜ多重人格なのかコミュの「人を育てる」ということの公共性

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
本日の日本経済新聞に『日本人の行動原理』と題する記事が載っていました。まずはご紹介します。

−−
日本人ほど利にさとい民族も珍しいのではないか。最近頻発する企業の不祥事やさまざまな事件を見聞するにつけそんな思いを抱く。
 見つからなければやってもよい−−。社会の規範やルールも自分の利益に合わなければ裏をかく。いくつかの事例をあげてみよう。
 周囲の景観を無視した乱開発やエゴ丸出しの広告看板のはんらん。利益にさえなればとか、自分さえよければ、という意識が丸見えではないか。
 もっと大きな現象に目を向けると、戦後とりわけ急速に進んだ三大都市圏への人口集中。巨大都市への人口の一極集中はアジア的特色ともいわれているが、とにかく大都市に経済的メリットがあるとみれば故郷を出て行くのをいとわない。ある識者は、日本人は簡単に過去を捨てるとも指摘している。
 人口の地方分散を図った数次にわたる国土総合開発計画はことごとく失敗に終わった。市場メカニズムに反する政策は成功しないのである。
 出生率の低下に歯止めがかからないのもこうした日本人の「行動原理と関係していないだろうか。
 出生率低下の原因をめぐっては経済発展説、民主主義浸透説など諸説あるが、先輩格の欧州諸国の多くは下げ止まっている。これも一部アジア諸国と同様、日本では歯止めがかかる気配がない。
 もちろん働く女性の職場環境など早急に改善すべき課題がある。しかし、原因はそれだけだろうか。最近、気ままな生活ができないとか、子どもの将来に責任が持てない、などの理由をあげる夫婦が増えているような気がする。
 自らの利益に敏感なのは人類共通だが、日本人にとくにその傾向が強いように思えるのだ。善いとか悪いという性格の問題ではもちろんない。
 政策のありかたを考える場合に人々の行動原理を理解することはきわめて大事だ。例えば洞爺湖サミットの主題となる地球温暖化問題への対応策だが、規制ではなく市場メカニズムを生かす工夫をすべきだろう。規制では裏をかく行動が必ず出てくるし、規制以上に頑張ろうなどという行動は期待できない。
 ガソリン税などの暫定税率を廃止すべきかどうか、国会でもめているが、道路特定財源としての暫定税率を廃止して新たに環境税(炭素税)に組み替えるというのが、正解である。市場原理を生かすことになるからだ。
−−

これまでいろいろな角度から日本人論と取り組んできた私から見ると、この程度の日本人論は、ありきたりで薄っぺらではありますが、しかしあらためて「やはりこの筆者からも日本人はそう見えるんだな」という点はいくつか確認できると思います。

やはり日本人のきわだった特徴の一つは「公(おおやけ)」の場としての社会を大切に維持しようという責任感が低いかもしくはゼロに近いということですね。

加藤典洋の『日本の無思想』(平凡社新書)を読むと、日本人のものの考え方は、「公と私」の対立関係の考え方の枠組みで物事をとらえるべきところが「社会と個人」という対立関係の考え方の枠組みにすり替わっているということが述べられています。この意識構造のすり替えがあるために、本当の意味での個人としての「やる気」はむしろ抑圧され、解放されていないし、「公(おおやけ)」の場としての社会を大切に維持し育てていこうという意識も低調にならざるを得ないとしています。

昨日のテレビ東京のWBS(ワールド・ビジネス・サテライト)という番組を見ていたところ、日本では近年起業が減っており、結果として企業の総数も減少しているとのことです。つまり企業の倒産などは頻発しているが、それに代わる起業活動が低調なので、差し引き日本に立地している企業の総数は減っているようなのです。このためGDPも大して伸びず、雇用環境も改善されないということになる。

起業をするのは20代、30代の若い人たちが主流になりますが、この国にはこういった人たちが本来の「やる気」を発揮するシステムが整備されていないということだと思います。また、日本の投資家の投資マインドも低調なようです。このため、日本の若き起業家は、日本で起業のための資金を調達することを断念して、アジアなど近隣諸国の投資家の投資をあおいでいるケースも多いらしい。この場合は、もしその起業が成功した場合でも、その投資がもたらすフルーツは、その外国の投資家のものになり、日本の富にはならないのです。

また、社会が若い人をスケールの大きな人間としてのびのび育てることにはきわめて強い公共的要請があると考えます。こういった20代、30代の若い人たちをスケールの大きな人間としてのびのび育てることは、主として40代〜60代程度の先輩世代の人間の公共的責務であると思いますが、こういった先輩世代の連中は、若者を労働搾取することしか考えていないといっても過言ではありません。

日本人の公共的責任感の欠如のもっとも根深い部分の顕在化であろうと思います。

コメント(9)

本題からは外れますが、
この新聞記事の作者は随所でトンデモ勘違い(ボロ出し)をしていますね。
国際社会や政策に無知なのが丸出しです。

たとえば、

>最近、気ままな生活ができないとか、子どもの将来に責任が持てない、などの理由をあげる夫婦が増えているような気がする。

これはジニ係数急増にも明らかな日本の貧困率の急上昇、低所得者化の急増と、
社会保障の質の低下がもたらした現在および将来の「生活苦」ないしは経済生活
への危機意識の表明事例であって、女性の職場環境がどうのこうのという問題
ではないでしょう。


>規制ではなく市場メカニズムを生かす工夫をすべきだろう。規制では裏をかく行動が必ず出てくるし、規制以上に頑張ろうなどという行動は期待できない。

地球温暖化は一国の問題ではなく地球全体に共有された国際問題です。
その危機を加速化させているのは、が従来どおりの市場メカニズムに任せてきた
結果です。それを従来どおりの市場メカニズムによって克服するのは土台無理が
あるというのは、国際レベルでの識者の共通見解です。

経済活動が活性化する結果、二酸化炭素が排出されるのですから、それを食い止める
には「規制」するしかありません。それは「世界の常識」であって、がんばるとか
頑張らないとか、期待するしないといったレベルの話ではありません。


>道路特定財源としての暫定税率を廃止して新たに環境税(炭素税)に組み替えるというのが、正解である。市場原理を生かすことになるからだ。

環境税の導入は「市場原理」を「生かす」のではなく、「市場原理」に網をかける、
規制するための政策です。まったく正反対です。
市場原理を生かす趣旨なら、道路特定財源そのものを廃止し、一般財源化するという
のが「正解」(正論)です。


ちなみに上記のような貧困、気候変動といった政策課題は、市場経済を推し進めた
結果起きた人類への災禍である限り、これを「人為的に制限」する方向で政策を
推し進めなければ、なんら解決の糸口さえつかめないものの典型例です。
こうしたいわば経済のグローバル化の根本問題を、日本人の性向や気質や嗜好で
秤にかけようとする論調自体、愚論そのものです。

誰の書いたコラムか知りませんが、現実の国際問題に無知蒙昧な無責任論者が
唱えた、政策的にも取り上げるまでもない矛盾だらけの発言です。
こういう文章を堂々と掲載して憚らない日経のレベルも落ちたものですね(息)。
>見つからなければやってもよい−−。社会の規範やルールも自分の利益に合わなければ裏をかく。

これは、これまで本コミュでも議論してきましたが、
「日本人が利ざとい」という単純な性向に起因を求めるのではなく、

(1)ホンネとタテマエとの使い分けが平然とまかりとおっている二重社会であること
   (「見せ掛け」=形ができていれば、中身はいい加減でもよいという社会習慣)
(2)つねに二項選択式で、中立的・第三者的基準を思考できない相対的価値観
   (福田恒存のいう「絶対者の不在」)

に起因しているものと分析できますね。

以上は最近の食品表示偽装、消えた年金問題、地球温暖化対策の遅れなど、おおよそ
ありとあらゆる昨今の日本国内の社会問題に共通・適用可能な起因です。
>zan-maさん

>加藤さんのいう
>公と私
>社会と個人

>この意味の違いは何でしょう。これだけ見るとあまりにボンヤリで

おっしゃるお気持ちよく分かります。「公と私」も「社会と個人」も似たようなものですよね。この点は私が下手な説明をするよりは、この本を読んでいただくのが一番かと思います。該当ページは166〜180ページあたりです。
「『ポルノ漫画も規制を』児童性的搾取会議で日本批判」と題するミクシィニュースが配信されています(下記アドレス↓)。

マンガやアニメで子どものポルノを規制することがなぜ必要か。それは子どもの精神を健全に育成することが公共の目的にかなうからです。こういう問題に、「需要があるんだから供給があったっていいじゃないか」という考え方を導入してマンガやアニでの子どものポルノを正当化することは筋違いです。

****************************************************************************
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=20&id=679290

【リオデジャネイロ=榊原智子】ブラジルで開かれている「第3回児童の性的搾取に反対する世界会議」で26日、日本はマンガやアニメで子どものポルノを規制していないとして参加者から批判された。

 この日の全体討議で、著名な心理学者であるコーク大(アイルランド)のエセル・クエール教授は日本を名指しし、「英国などでは、子どもの性的な姿態や虐待を描いたマンガも違法としている。日本は実在の子どもの写真を法律で規制しているが、マンガやアニメは規制していない。その結果、問題のある画像が世界中に出回っている」と指摘した。

 これに続くテーマ別会合でも、日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」を見直す必要のあることが議論された。
トピックの柱書に紹介した『日本の無思想』の中の記述で、これまであまり読みぬけていなかった部分の理解が多少進みましたので、その部分をご紹介し、皆さんの参考に供したいと思います。それはこの部分(↓)です。

−−
 そもそも、なぜ、このタテマエとホンネ式の生活を続けるのが、いけないのでしょうか。土居がいったように、それは日本人に固有の考え方で、タテマエとホンネが入れ替わる、でもそれは、「言葉の上では矛盾しても」、「視点が異なるためで、ともに真である」と考える仕方で、この列島の人々がそこそこうまくやっていけるのだとすれば、それはそれで、これが日本社会独特の生態だということで、これを認めてもいいのではないか、とは考えられないでしょうか。
 でも、そういうわけにはいかないのです。なぜなら、そのようなことを続けていたら、僕達の社会で、やがて、言葉が意味をもたなくなるでしょう。考えていることをいわない、それでも考えていると認められるというのですから、いうこと、発語することには、いわば工場でできた完成品を出荷するというほどの意味しかないことになり、たとえ出荷しなくても工場が動いていればよい、というわけで、発語すること、「思っていることをいうこと」に誰もが尊敬を払わなくなり、最後、言葉は、意味を失い、死んでしまいます。
 するとどうなるでしょう。
 つまり、言葉が死ぬと、何がなくなるのでしょうか。

言葉が死ぬと何が起こるか

そのことにしっかりと現代的な文脈を踏まえて答えたのは、僕の考えをいうと、ドイツ生まれのユダヤ人の思想家ハンナ・アーレントです。彼女はこういいました。言葉が死ぬと、人間から公的領域というものが消える、公的領域が消えると、生きることの意味が消える、その結果、人は、単一なものに対する対抗原理を失い、最終的にはある主の全体主義を呼び寄せてしまう、と。彼女は、第二次世界大戦後に明らかになったファシズム、スターリニズムの二つの全体主義をもたらしたものが、この「言葉の死」にほかならないといったのです。(P128〜129)
−−
↑非常に味わい深い文章ですよね。

ここで、「いうこと、発語することには、いわば工場でできた完成品を出荷するというほどの意味しかないことになり、…」という部分について解説しますと、ポイントは2つほどあると思います。

ひとつは、まず「工場」というものはそれ自体人間ではないということです。むろん中で生身の人が働いていますし、「工場長」というような職責の生身の人もいるでしょうが、「工場」それ自体は人間ではないので、「表現の主体」にはなり得ないということです。

もうひとつは、この工場のアウトプット(例えばこの工場が自動車工場だとすると、自動車)は、表現媒体としての言葉ではない。このため、製品としての自動車が工場内の敷地に在庫されていようが、出荷されようが、自動車は自動車でなんら変わることが無い、ということになります。

ところが、人間と言語との関係はこうではないということなのです。人間が言語を発するということは、表現主体としての人間が表現をするという営みをすることだ、だから人間が言葉を発する限りは、このような営みをする主体としての尊厳があるのでなければならない。だから、「いうこと、発語することには、いわば工場でできた完成品を出荷するというほどの意味しかない」などという事態は避けなければならない、というのが著者(加藤)の主張なのです。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

日本人はなぜ多重人格なのか 更新情報

日本人はなぜ多重人格なのかのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング