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日本人はなぜ多重人格なのかコミュの日本人には勇気がない

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中山治氏や西部邁らの日本人批判の論点は、「日本人には勇気がない」、という角度からとらえなおすことができるのではないかと考え始めています。

例えばその発言をすることが求められる局面でその発言をするには勇気が要る、という局面は人生に多々あると思うのです。ところが、そういった局面で、勇気をもって発言する人にめったに出会わないですね。たいてい押し黙って様子をうかがう、という態度を取るのが日本人です。

典型的な例で言うと、例えば中山治氏の主著である『日本人はなぜ多重人格なのか』の中に、「戦争の勝敗と正義の勝敗とは全く別であり、戦争時代の日本人は最後までこのことに気がつかなかった」ということを主張している部分があります。

その文脈の中で、中山氏は、「もし日本の軍国主義者が心から自分たちの軍国主義思想を信じているのなら、日本に占領軍がやってきて東京裁判をしている最中に、なぜ地下運動を組織するなどして、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持するプロパガンダを振りまく程度のことすらできなかったのか。安全にものが言えるようになってから、のこのこ出てきて能書きを言い始めるものを卑怯者、恥知らずと言うのではないのか」と喝破しています(この部分の詳細は、このコミュニティのトピック「東京裁判批判批判」の冒頭の書き込みの中で紹介しています)。

この中山氏の喝破に対する解答は、日本人には勇気がない、ということにつきるのでははないでしょうか。

実際、日本に占領軍がやってきて、軍国主義者や共産主義者の掃討行動をやっている最中に、地下運動を組織してレジスタンス運動を展開したり、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持するプロパガンダを振りまく、といった行動をするには勇気が要ると思います。進駐軍に捕らえられて裁判にかけられたり、拷問にかけられたりする可能性もなきにしもあらずです。しかし自分の信じることのために命をかけて行動する、ということは本来そういうことなのではないでしょうか。

藤原正彦氏の『国家の品格』の中には、卑怯のなんたるかを教えよ、というくだりはあるのですが、藤原氏がせっかくこういうことを主張するのであれば、自分が正しいと思うことを勇気をもって発言することの大切さもあわせて主張するべきだと思います。

賢明な読者はおわかりのこととは思いますが、ここで私が主張していることは、いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」の態度のちょうど正反対の態度のことでもあるのです。逆にいうと、なぜ日本人は、いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」の態度を是とするのでしょう。これは、日本に封建社会があまりにも長期間続いたことと密接な関係がありそうです。

コメント(7)

勇気がないと表現することもできるでしょうし、「視点のクリアーさを評価する社会ではない」と言うこともできると思います。
「日本人には勇気がない」という命題に対して、「いやそんなことはない。例えばガダルカナルにおいては、日本の兵隊さんはジャングルを進行して敵の基地に突撃し、十字砲火を浴びて全滅している。こういった日本の兵隊さんたちの突撃の作戦行動は勇気がなければできることではない。そしてこういった突撃の作戦行動を行なったのはまぎれもなく日本人なのだから、日本人をもって『勇気がない』というのはあたらない」という反論があり得るのではないでしょうか。

このような反論に対しては、次のように考えるのが良いように思います。すなわち、日本が占領下にあって軍事裁判や軍国主義者の掃討行動等をやっている最中に、地下運動を組織してレジスタンス運動を展開したり、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持するプロパガンダを振りまく、といった行動をする場合に勇気を求められている主体と、例えばガダルカナルにおいて、ジャングルを進行して敵の基地に突撃するという作戦行動を実行するにあたって勇気をふるった主体とは、主体が異なるのだ、という考え方が必要だと思います。

前者の主体は、やはり軍国主義の幹部です。軍国主義の幹部こそが、軍国主義の正しさを信じて戦争行動を指揮したのですから、「自分達の軍国主義は正しいはずだ」という信念をもっていたはずです。すると、そういった信念を持っていた軍国主義の幹部が、おのれの信念を貫き通そうとするなら、地下運動を組織してレジスタンス運動を展開したり、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持するプロパガンダを振りまく、といった行動ぐらいは自己の信念に基づいてとれるはずです。逆にいうと、そういった行動がとれなかったのなら、それはなぜなのか、ということが問われる必要がある。

一方、例えばガダルカナルにおいて敵の基地に突撃する作戦行動をした人たちは、軍国主義者というよりは、むしろ、軍国主義幹部の命令に従って行動をした末端の兵隊さんたちであるわけです。こういった人たちは、軍国主義の幹部とは主体が異なる、という理解が普通だと思います。このように両者は主体として異なるのだ、という理解が妥当だと思われます。

小泉さんが首相に在任していたころ、靖国神社に参拝することの理由付けとして、「今日の日本の平和と繁栄は、戦争で無念にも命を落とされた方々の尊い犠牲の上に成り立っている。そういった人たちに哀悼の誠を捧げることが悪いはずはない…」というようなことを言っていました。こういった論理は、その哀悼の誠を捧げる対象を、軍国主義者幹部の命令に従って実際に具体的な作戦行動を行い、戦地で命を落とした末端の兵隊さんたちなどに限定した場合にだけ成り立つ論理なのではないでしょうか。
>前者の主体は、やはり軍国主義の幹部です。軍国主義の幹部こそが、軍国主義の
>正しさを信じて戦争行動を指揮したのですから、「自分達の軍国主義は正しいは
>ずだ」という信念をもっていたはずです。すると、そういった信念を持っていた
>軍国主義の幹部が、おのれの信念を貫き通そうとするなら、地下運動を組織して
>レジスタンス運動を展開したり、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持
>するプロパガンダを振りまく、といった行動ぐらいは自己の信念に基づいてとれる
>はずです。逆にいうと、そういった行動がとれなかったのなら、それはなぜなのか、
>ということが問われる必要がある。

軍国主義幹部が上に述べたような、地下運動を組織してレジスタンス運動を展開したり、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持するプロパガンダを振りまく、といった行動がとれなかったのはなぜなのか、という問いに対する答えとして、「そういった行動を起こすだけの勇気がなかったから」という答え以外に考えられる答えは何でしょうか。

一つ考えられる答えは、戦争が終結してアメリカ軍が占領軍として日本に入ってくるようになると、とたんに反省と懺悔の意識が芽生えた、ということでしょうか。つまり、アメリカ軍が占領軍として日本に入ってくると、「自分達の軍国主義は間違っていた。ボクちゃん、ごめんなさい…」という反省の意識が心の中を占めるようになった、ということでしょうか。

もしそうだとすると、このように易々と「ボクちゃん、ごめんなさい…」という反省の意識を持つようになった軍国主義幹部たちの指揮命令に従って戦地で命を落とした兵隊さんたちの面子(めんつ)はどう保たれるのでしょうか。深刻な疑問が残ります。
>軍国主義幹部が上に述べたような、地下運動を組織してレジスタンス運動を展開したり、日本無罪論を唱えたインドのパール判事を支持するプロパガンダを振りまく、といった行動がとれなかったのはなぜなのか、という問いに対する答えとして、「そういった行動を起こすだけの勇気がなかったから」という答え以外に考えられる答えは何でしょうか。

 勇気がないというよりも、個人の勇気が実らない(評価・反映されない)社会であることが問題ではないかと思いました。
 とどのつまりは「自発性の欠如」という問題です。

 自分の自主的・主体的な呼びかけや行動が広がり、仲間がどんどん広がっていき、結束してひとつの社会や体制を変える大きな力になる。・・・こういう革命的シナリオがなぜか日本の歴史にはあまり存在しないのは、個人の主体性、自発性(自主独立した個人)というのが抑圧されているか、評価されない傾向があるからだと私は考えます。
 だから「自分が正しいと勇気をもって言った」としてもそれが受け入れないことが多く、予めそれがわかっているから、なるべく言わない、行動しない、してもムダということで「見ざる言わざる聞かざる」の消極的な沈黙が支配する結果になります。かくして大半が傍観者となるため「いじめ」や「不正」も見過ごされます。

 おそらくその背景には「同質性社会」における民族的なDNAレベルでの「嫉妬」感情と「周囲から孤独になることへの恐怖」があるのではないかと見ています。これは今話題の「いじめ」とも関連しますが、背景にあるのは「異質なものに対する恐怖や不安の感情」です。

 つまり「同質性」の環境下に長らえてきた社会の中では、卓越した個人の能力や才能に対する「ジェラシー」が一際強く、頭の中では「正しい」と共感していても、相手に対する恨やましい、ねたましいアンチ感情が先に来るのと、声を上げることで自分自身が周囲から孤立すること、さげすまれることへの恐怖心のほうが先に立つため、なかなか一人や少数で勇気をもって決断し行動できないことです。
 このため、結局分裂を繰り返したり、裏切ったり、独立したり、相手を蹴落としたりといったで大きな結集力が消えていくといった作為が半永久的に繰り返されます。

 戦国時代の群雄割拠のごとく、日本の市民運動はまさにそういう分裂と小競り合いの繰り返しで勢力を自らそいできたわけで、お隣の韓国のように運動が統一する力もなければ、欧米のようにネットワーク化して機能的に連動して行動することもない。結局バラバラで派閥やセクトが量産されるだけになります。

 で結局成功するのが、カリスマ的指導者によるトップダウンによる強圧的行動だけです。これには逆らえば自分が不利かつ惨めな思いをすることになるので、保身の立場からしぶしぶ「寄らば大樹の陰」と従うわけです。

 福沢諭吉や夏目漱石といった知識人はこの日本人の自主独立意識のなさを的確に見抜き、その必要性を力説した人物でした。
>自分の自主的・主体的な呼びかけや行動が広がり、仲間がどんどん広がって
>いき、結束してひとつの社会や体制を変える大きな力になる。・・・こう
>いう革命的シナリオがなぜか日本の歴史にはあまり存在しないのは、個人の
>主体性、自発性(自主独立した個人)というのが抑圧されているか、評価さ
>れない傾向があるからだと私は考えます。

日本の社会は日本人同士、足を引っ張り合っている、というところがありますね。つまりお互いを監視しあって、「勝手なことはさせないぞ」というようにけん制しあっているわけです。

いつの時代だか忘れましたが、封建制社会の時代に「5人組」という制度がありました。これは村人を5人単位で組をつくり、その中で誰か勝手な行動をすると、その5人全員の連帯責任にしてしまう、という制度です。こういったやりかたで村人同士の相互監視を促進することで統治していたんですね。

悲しいことには、日本人にはその「歴史の思い出」が民族の遺伝子の中に深く刻み込まれてしまっているわけです。これでは革命は起こりえませんね。
>一つ考えられる答えは、戦争が終結してアメリカ軍が占領軍として日本に
>入ってくるようになると、とたんに反省と懺悔の意識が芽生えた、という
>ことでしょうか。つまり、アメリカ軍が占領軍として日本に入ってくると、
>「自分達の軍国主義は間違っていた。ボクちゃん、ごめんなさい…」という
>反省の意識が心の中を占めるようになった、ということでしょうか。

>もしそうだとすると、このように易々と「ボクちゃん、ごめんなさい…」と
>いう反省の意識を持つようになった軍国主義幹部たちの指揮命令に従って
>戦地で命を落とした兵隊さんたちの面子(めんつ)はどう保たれるので
>しょうか。深刻な疑問が残ります。

軍国主義者にも一流、二流、三流があるかもしれません。戦争当時の日本の軍国主義者は、軍国主義者としても三流だったんじゃないかな。アメリカの占領軍が日本に入ってきて占領統治をしている最中に、レジスタンス運動やプロパガンダ運動を堂々とやれれば、日本の軍国主義者もかろうじて二流にランクされるかもしれません。

戦争の最中も、もっと有効で的確な作戦が立案実行できれば一流の軍国主義者です。

実際は、有効で的確な作戦が立案実行できなかったし、占領統治をしている最中に、レジスタンス運動もプロパガンダ運動もできずに「ボクちゃん、ごめんなさい」と大人しくしていたわけですから、日本の軍国主義者はもはや三流です。
>実際は、有効で的確な作戦が立案実行できなかったし、占領統治をしている
>最中に、レジスタンス運動もプロパガンダ運動もできずに「ボクちゃん、
>ごめんなさい」と大人しくしていたわけですから、日本の軍国主義者はもはや三流です。

小泉さんが首相在任中に、靖国神社公式参拝の行動の是非が議論されていましたが、その議論の中心となる命題は、わが国の首相の職責にある人が靖国神社を公式参拝する行動は、アジア諸国の人々の感情を逆撫でするものだ、ということだったと思います。つまり、アジア諸国の人々の感情を逆撫でしないよう、靖国神社公式参拝は自粛するべきだ、という議論だったわけです。

だが、私は全く違った観点から靖国神社公式参拝の行動の是非を論じることが可能だと思う。それは、すでに申し上げたように、日本の軍国主義者は三流なわけですよ。人物が三流のくせに、靖国神社に英霊として祀られたい、という欲求自体が甘ったれになるのではないか。

靖国神社に英霊として祀られたいと願うくらいなら、自分の信じることのために命をかけて行動することができる人間であってもらいたい。すると、アメリカ軍が占領統治をしている最中でも、レジスタンス運動やプロパガンダ運動はできて当然なのではないか。それすらもできないくせに、靖国神社に英霊として祀られたいと願うのは甘ったれだと思う。

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