ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ケインズコミュの『説得論集』の新訳

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
初めまして。ケインズを信奉する者です。

プロの翻訳家による『説得論集』の新訳が出ました。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA-%E8%AA%AC%E5%BE%97%E8%AB%96%E9%9B%86-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BA/dp/4532354110

私はまだ読んでいないのですが、専門家の方々から見てこの翻訳はいかがでしょうか?

余談ですが、翻訳を担当しておられる山岡洋一氏は、かつてアダム・スミスの『国富論』を訳したことがあります。
私は、その試作本を読んで感想文を書き、微力ながら翻訳のお手伝いをさせていただきました。
最近、山岡氏はケインズの著作の翻訳の問題点を指摘する論文を数多く執筆しております。でも、まさか本当にケインズの著作を翻訳するとは夢にも思っていませんでした。
驚くと同時に、ちょっとした不安が。

コメント(39)

むふっ
ハルヒさんへ

現存する翻訳があるのに、なぜ?って感じですexclamation

読み比べて、どうですか???

先訳は、宮崎義一先生によって行われています。
山岡さんの訳は日本語として読みやすいので好きです。
スキデルスキーの『なにがケインズを復活させたのか』の「訳者あとがき」の中で『説得論集』の新訳のことを予告されていたので、比較的早い出版を喜んでいます。
訳としては、原書の単行本版を元としていると思われる救仁郷繁訳(ペリカン社・1969年)と全集版がありますが、前者は入手困難ですし、後者は学生などが手軽に買って読めるような値段ではありません。文庫版で安価なものがあってもよさそうな気がしていました。
文庫ではないですが、全集版の半分以下の値段で本書が読めるというのは、ありがたいことだと思います。

本日、買ってまいりました。
驚いたのは、内容の取捨選択をされていたことです。「講和条約」の編がカットされたのはやむを得ないことと理解できますし、単行本版では未収録の「自由放任の終焉」の前半部分を収録されたことは良かったと思います。

?インフレとデフレ、?『一般理論』との関連という取捨の観点からすると致し方のないことなのでしょうが、「わたしは自由党員か」と「ロシア管見」が収録されなかったことは、個人的には残念に思います。

早速、「孫の世代の経済的可能性」などを読んでみました。
相変わらず、日本語として読みやすい訳だと思いました。

1点だけ、新訳のp.219で見つけたものがあります。
原書では「importance of the economic problem」となっているところが、「経済的な問題の需要性」となっていました。これは多分、「誤訳」ではなくて、「誤植」というか「誤変換」ですね(笑)
>allegroさん

こんばんは。
山岡洋一氏は、「翻訳通信」(http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/index.html)を主宰しておられます。
その中でケインズの『説得論集』に収録された「孫の世代の経済的可能性」(「わが孫たちの経済的可能性」)の既訳を批判したことがあります。

http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/bn/200908.pdf

さて、この新訳。アマゾンに批評が載ってから買おうかなと思ったのですが、思い切って今日、行きつけの書店で注文したところ、「入荷はゴールデンウィーク明けになると思います」とのことでした。

私は言語学者の類を除けば、「学者」が思想書などの古典的名作を翻訳することに反対の立場をとっています。なぜなら、そういった人々は特定の学問には通じていても、「語学力」と「日本語の文章力」がないからです。
せいぜい、特定の専門用語などに間違いがないかどうか「監訳」するにとどめて、プロの翻訳家に訳してもらったほうがいいと思うのです。

山岡氏は『雇用・利子および貨幣の一般理論』の新訳(岩波文庫)を批判した文章も書いています。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/bn/200803.pdf
>紅之豚さん

「重要性」ですねw
「需要」という言葉を頻繁に打ち込んでいたから、間違ってしまったという……。

「ロシア管見」が外されてしまったのは、私も残念です。
これを読むために、かつて『説得論集』を手に取ったからです。彼がマルクスの『資本論』を「間違っている」と断じ、ソ連国内に流布している書物がメチャクチャなことを皮肉っている反面、(周辺国を飢餓に追い込んでまで)建設された工場の数々を案内されて、「私の言っていることは正しいのだろうか?」みたいにちょっと弱気な部分をのぞかせているのが興味深かったです。

アダム・スミスやケインズにあってマルクスにないものは、「モラル」でしょうね。
ハルヒさんへ

アダム・スミスやケインズにあってマルクスにないものは、「モラル」でしょうね。
と言う根拠は何でしょうか?
「ロシア管見」に見られた当時のソ連の状況でケインズ、スミスにはモラルがあって、マルクスにはモラルが無いというのは謬見ではないでしょうか。

まあ、ケインズはカレツキ(再生産表式からいとも簡単に有効需要の理論を導き出した)にも冷たかったらしいから何かしらのバイアスがあったのも確かだが。
>おいさん

アダム・スミスは『国富論』でウィットに富んだ示唆をふんだんに使って重農主義や重商主義を批判し、「労働力こそ富である」と説きました。
ケインズも、かなり意味深長で面白い表現を交えながら、常に「多数派」が主張する理論に戦いを挑み続けました。

で、マルクスですが、『資本論』は激しいアジテートに過ぎません。
さらに彼の生涯を調べてみれば、彼がモラリストだったことを思わせるようなエピソードは、何一つ出てきません。

あなたは、マルクスがモラリストだったような話を何かご存知ですか?
私は、マルクス本人と彼の著作にモラルが欠如していたから、その考えに立脚して成立した共産主義国は、おしなべて暴力的な政治システムになったのだと思います。
むふっ
ハルヒさんへ

山岡洋一氏の件、詳細に、お知らせいただき、有り難うございます。この方なら、きっと、読みやすく、著者の真意を表出する訳文を、提供されているであろうと思います。紅の豚さんがご指摘されたようなミスはあるものの、きっと良い訳本のような気分になりましたexclamation

ただ、経済学上の翻訳法については、実際に、お読みになった方のご意見を尊重したいと思います。わたし自身、山岡氏の宮崎訳に対する批判文に、異議がある部分があります。折角、新訳が出たばかりの時ですので、ノーコメント、ということにしておきますあせあせ(飛び散る汗)
ハルヒ さん

「資本論」がアジテート?それこそあなたの謬見でしょう。マルクス=「資本論」という関連づけも全く頂けません。ちゃんと資本論にもシェイクスピアなどにも触れていますし、「資本論」以外の著作を読まれては如何?
「資本論」アジテートなら「一般理論」もしかりです。ちゃんとマルエン全集か資本論以外のマルクスの著作を読むべきでは?


(私は、マルクス本人と彼の著作にモラルが欠如していたから、その考えに立脚して成立した共産主義国は、おしなべて暴力的な政治システムになったのだと思います。)それこそマルクスを知らなさすぎるのを露呈しているでしょう。共産主義=恐怖政治全く短絡的な考えというかお馬鹿な保守派の皆さんが持ち出すマルクスに対するステレオタイプな印象でしょう。

この話題はケインズなのでこれ以上は書きませんが。ちゃんとマルクスを読んでから考えた方が賢明ですよ。
■マルクスとモラル

アダム・スミスは、「モラル・フィロソフィ」の教授でした。
そして、ケインズは自らの経済学を「モラル・サイエンス」であると言っていました。
その意味で言うならば、この二人の経済学が、深く「モラル」と関わるものであったことは、誰もが認めることかも知れません。

また、同じ意味で言うならば、マルクスの経済学においては「モラル」という視点は捨象されていると言ってもよいかも知れません。

しかし、これは方法論と研究対象の問題です。このことは、必ずしもマルクスの思想が「モラル」と無縁であったことを意味しません。
ましてや、マルクス自身がモラルに欠けた人間であったなどということは、全く意味していません。

「モラル」という言葉の意味・内容は、その地域や時代によっても異なりますし、あるいは人によってもそれぞれかも知れません。

確かに、「20世紀の政治における暴力」というのは重要な問題です。
しかし、それを特定の思想家におけるモラルの有無と関連付けて考えるのは、視座としては弱いように思われます。(その視座から論じるのであれば、「モラル」という概念の意味・内容について、相当の程度に明確にしておく必要があるでしょう。)

少なくとも「革命家としてのモラル」という点から考えるならば、個々の例証などを記すまでもなく、マルクスにも高いレベルの「モラル」があったことは明らかであると僕は考えます。
また、たとえばローザ・ルクセンブルクや野呂栄太郎などを思い浮かべれば、マルクスの思想を信奉した多くの経済学者たちの中にも高い「モラル」があったと言えます。

まぁ、このコミュニティにおいて「マルクスにおけるモラル」というの問題について議論することが適当かどうか分かりません。あえて禁止もしませんが、ほどほどにお願いできればと思います。

■ケインズ経済学とマルクス経済学との架橋

むしろ、このコミュニティで議論できればと思うことは、前にもご紹介したジョーン・ロビンソンによる問題提起についてです。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=19212006&comm_id=78286
(上記のトピックのコメント4などを参照してください。)

ロビンソンは、非マルクス経済学とマルクス経済学との間の生産的な相互交流の必要性を提唱していました。

『資本論』に対する「激しいアジテートの書に過ぎない」という評価が本当に正しいものかどうか、ケインズ経済学を継承する立場からも考え直してみるべきだと僕は思っています。

『ロシア管見』の価値については、改めて記すつもりでおります。

以下、このコメントを書くにあたっての予備的なメモ(僕の日記)です。
(1) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1472014105&owner_id=2312860
(2) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1472819574&owner_id=2312860
(3) http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1472870696&owner_id=2312860
■ケインズとモラル

ケインズがモラリストであったかどうかは、このコミュニティに相応しい、面白い問題だと思います。

というのも、ケインズのことをインモラリスト(不道徳主義者)であったと評価する論者が少なくないからです。

ケインズの高弟でもあったハロッドによる公式の「ケインズ伝」を読むと、ケインズの高潔さは疑い得ないものであると感じられます。しかし、この伝記では、ケインズの遺族などにとって好ましくない部分については、たとえそれが「人間ケインズ」を理解するうえで重要なものであったとしても、かなり意図的に無視ないし改変されていると言われています。
そのため、実像からはほど遠い「偉人ケインズ」というものが創り上げられ、長くそれが「ケインズ像」として流布していたという感じもします。

ケインズを「信奉」されるのであれば、それが旧約聖書におけるケインズなのか。それとも新約聖書におけるケインズなのか。両者は一致するのか、それとも一致しないのか。そんなことについても考えてみるべきかも知れません。

ケインズにおける「モラル」の問題を考えるに際しては、やはりスキデルスキー以後の研究・評価なども視野に入れるべきでしょう。

論敵であったハイエクは、ケインズの「不道徳」に何度か言及しているようです。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/03/20090329ddm015070034000c.html

この他にも、ケインズのことを「不道徳(インモラル)なモラル・サイエンティスト」と呼ぶ人もいるようです。
"The Immoral Moral Scientist. John Maynard Keynes."
by Nina Paulovicova, University of Alberta
https://ejournals.library.ualberta.ca/index.php/pi/article/viewFile/1591/1117

更に、以下のような評論もあります。

「善=美的享受というムアの唯美主義的倫理によって、ケインズらの世代は慣習、道徳、伝統を踏みにじり、義務も制裁も存在しない『インモラリスト』になることができた。ホモセクシュアルもそういうインモラルの実践である。」
http://facta.co.jp/blog/archives/20060331000115.html

このように、ケインズを「反道徳主義者」として論じる評論は、少なくありません。

実は僕も、ケインズのことを「終生のインモラリスト(反道徳主義者)」であったと思っています。

「既存の道徳に対する反抗」というの要素は、ケインズという「人物」を特徴づける重要にして興味深い点であると思っています。
この点を欠いては、ケインズという人物の面白さは半分も理解できないとすら考えています。

なので、「マルクスには欠けていたモラルが、ケインズにはある」などと言われると、実に面食らってしまいます。

確かにケインズには、理想主義的な面がありました。
政策提言者としての彼は、社会と人類の進歩を信じていました。
彼は、大英帝国の臣民の福祉に強い関心を寄せ、のみならず、大英帝国の復権に心を砕き、そのために粉骨砕身の働きをしました。
しかし、彼のそうした「公的」な側面とは別に、彼の「私的」な側面、あるいは彼の個人的な信条や価値観の中では、「道徳的」というよりも、むしろ「反道徳的」な色彩が強く感じられます。

ここより先は、それぞれにおける「モラル」という言葉の「意味」と「内容」を明確にしなければ、議論を前に進めることは出来ないように思われます。
むふっ
マルクスと言えば、まず、浮かぶのは、ブルジョワ階級と労働者階級との対立、その解決策として、革命闘争を、主張したことです。

しかし、ブルジョワ階級によって、生産的余剰が、搾取され、そのため、労働者階級が貧窮のどん底にいることを問題にしたのです。

つまり、社会的不公正の存在を認識し、その是正が必要であると訴えたのでした。

したがって、彼は、社会的モラルをもつ経済学者でした。

ただ、ソ連が、非人道的国家になったのは、レーニンの早死によって、スターリンという権力者の出現があったために、あのような非人道的国家の誕生になったのです。彼は、自分の地位の獲得と保全のためには、何でもしました。そして、社会主義とという名の絶対主義国家をつくり上げたのです。

これは、マルクスが目指していた国家とは、まるで異なる国家なのです。その点、誤解されている方がいらっしゃるようなので、一言申し上げたことをお許し下さい。

ケインズは言うまでもなく、ブルームズベリーの先覚者ムーアの教えを大切にしました。すなわち、倫理学的思想の持ち主です。マルクスと違うのは、暴力を否定したことです。言葉による闘争を選んだのです。この点は、ジル・ドスタレール著「ケインズの闘い」に詳しく記されています。
るんるん
レーニンの死亡後、スターリンが権力を掌握していってからの事柄は周知のことです。
レーニンが存命だった頃にもブハーリンなどの優秀な政治局員(優秀な経済学者でもあった)、長期波動論で有名なコンドラチェフがいましたが当時の「全般的危機論」を唱えるスターリンおよびボリシェビキなどから迫害されて処刑されました。2人が生きていたら世界はどうなったのか?

「資本論」はスミス、リカードの古典派経済学を批判的に分析し資本主義の運動法則を明らかにした分析書であり、「一般理論」もケインズの言う古典派経済学に対して分析して批判を加えた本であること。両者とも分析書であることです。

ケインズもマルクスも私生活では?が付く人物ですが。経済学者、哲学者、社会学者としては非常に優れたモラルあるいは信念を持っている人物だと思います。

マルクスは19世紀のイギリスの労働者階級について公害について問題を提起し、後年の環境経済学(都留重人、宮本憲一)にも影響をあたえています。

マルクスもケインズも言葉による闘争を挑んでいたことは押さえておかないといけないです。ただマルクスの言葉を錦の旗印にして暴力に訴えた一部の人物については批判されてしかるべきです。

Harrod著の「ケインズ伝」がケインズ像を印象づけたのと同様にマルクスも神格化された面もありましたが、最近の研究でマルクスの妻であるイエニーの苦労話は有名です。

革命闘争ですがマルクスは起こるのではなく起こらざるを得ないというのが資本論や論考を通じた考えです。(希望的に起こるだろうとも考えられるけど、決して起こせ!とは言っていない。共産党宣言ですら団結せよ!だけですから)

話がそれてしました。

私はケインズもマルクスも(私生活をのぞいては)素晴らしいモラリストであったと思います。
皆様のご意見、興味深く読ませていただきました。

『説得論集』の新訳、思ったより早く手に入ったので読んでいる最中です。
この調子でリカードウの著作や『一般理論』が新しく訳されればいいのですが。
新訳もいいのですが、個人的には『確率論』の翻訳が早く出て欲しいです。
なかなか出版されない背景には翻訳権絡みの事情があるというようなことを小耳に挟んだのですが、あれが日本語で読めないことによる損失は大きいと思います。

今は主観確率論と行動経済学の発展で、不確実性下の意思決定論が盛り上がりつつあります。
先日、中公新書から発売された依田先生の『行動経済学』も素晴らしい本でしたし、この分野では貴重な教科書として、竹村先生の『行動意思決定論』も出ました。
池田先生も、この分野に関して、ちょくちょく良い記事を書いたりしています。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51414761.html

こうした潮流の中であっても、『確率論』はなお古さを感じさせないスゴ本です。
なんとかならんもんでしょうか。。。
むふっ
むらはるさんへ


「ケインズ一般理論」刊行後、既に、70年以上経過していますが、まだ、満足出来る訳本が出ていないのが実情です。

そう考えますと、矢張り、辞書OEDなどを使いながら、自力でお読みになるのをお勧めします。惚れ込んだ本は、ご自分で訳すぐらいの気概をお持ち願いたいものです。
>allegroさん
さっそくのお返事ありがとうございます。

もちろん、きちんと研究するのであれば、どちらにせよ原著を読むのは必須と思うのですが、それでも日本語訳は重要だと思います。

なにより、研究への参入障壁が低くなるのは大きいです。
『一般理論』であれば訳本を使って学部生から取り組むことができるのですが、『確率論』はなかなかそうもいきません。修士の学生のように研究期間が短い場合も、訳がないというのは大変なものです。

また、翻訳≒解釈ですから議論の叩き台にもなります。
今回も『説得論集』の新訳が出たことで、本トピにおいてはmixiでは類稀な議論が繰り広げられていますよね。訳書があると、こうゆうコミュニケーションが生まれやすくなると思うのです。
(ケインズコミュニティがこれほど健全かつハイレベルなのは、紅之豚さんの管理人としてのお仕事が素晴らしいおかげであると思います。この場を借りて感謝です!)


個人的な話では、僕は修士過程の在学中、ひたすらこの本を読み続けていました。
辞書を使って読んだとしても、なかなかそれを理解するに及びません。
修論を書き終えて3ヵ月が経過した今日でも、まだ机の上の書見台に広げてあります(笑)
むふっ
むらはるさんへ

もう、修論を書き上げられたのですか、ご苦労様でした。

確かに、仰るとおり、翻訳=解釈、ですから、なおのこと、ご自分でお訳し始められることが望ましいと思うのです。

初訳は、困難を極めるでしょう。それでも、塩野谷九十九氏は、「一般理論」を、5年足らずで、訳し終え、出版にまで到達しました。

これ以上は、失礼になりますので申し上げませんが、ただの2,3章だけでも、手がけてご覧になれば、と希望します。
確かに東洋経済新報社からも他の出版社からも「確率論」の翻訳が出ないですね。
あの本はケインズ研究では必読の本なので翻訳本が欲しいものです。ケインズを研究する上で、「確率論」は避けては通られない本ですからね。私も某教授から「読め!」と言われて辞書を片手に読みました。本当に知的好奇心を擽られる本です。早く翻訳が出ないものかと思います。
けど、原著で読むと力がつくというか覚えるんですよね。(濃密な時間ですから)
>allegroさん
自分で翻訳、時間があれば挑戦してみたいです。

あと、今はインターネットの時代ですから、Wikiで共同作業したり、プロジェクト杉田玄白みたいな形で共有することもできそうですね。
ふと、必ずしも自分一人の解釈でない形の翻訳もありえるのでは、と思いました。


>おいさんさん
いや、本当に濃密な時間でした(笑)
情報の量が半端ではないですよね
ケインズの著作は2007年末に著作権による保護が切れたようです。
だから『一般理論』の「新訳」が2008年1月に出たのですが……(結果は皆さんご存知のとおり)。

新たな「全集」を出すとまではいかなくとも、主要な著作をボツボツ新訳で出す必要はありますね。
ただし、売れ行きがどうかという問題があるでしょう。
ずーっと前、山岡氏がスミスの『国富論』に取り組んでいたとき、彼がリカードウの著作にも興味を示しているという情報を得て、メールで

「リカードウも翻訳するのですか!?」

と興奮気味に訊ねたところ、返ってきた返事は

「リカードウは出してくれそうな出版社が無くて……」

私としては、スミスとリカードウをセットで出してほしかったのですが。
今回の『説得論集』は、発売初日にアマゾンで「在庫切れ」になったので、けっこう評判は上々ではないかと思います。
むらはる様
過分のお言葉いただき、恐縮です。

皆様
色々とお応えしたい論点もあるのですが、翻訳に関連して感じたことなどを日記の方に書きました。お時間がありましたら、ご覧ください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1479569863&owner_id=2312860
他のことが忙しくて、ミクシィの日記に本腰を入れることができない日々ですが、私も翻訳に関して考えたことを書いてみました。
もしよろしかったら、ご覧ください。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1485604601&owner_id=21773049
むふっ
前記のハルヒさんのトピに対して、紅の豚さんが、批判発言をされているのを、拝見しましたあせあせ(飛び散る汗)

そこで、因みに、岩波書店刊行、真下真一訳の「ヘーゲル全集ー小論理学」の訳者後書きを見てみましたあせあせ(飛び散る汗)

いかに、一つ一つ、訳語について、真下先生が、丹念に、練っておられるか、が示されていますむかっ(怒り)

とても、言語学者では、出来ない、哲学者でなくては、このような訳語は生まれないだろうと思う訳語が誕生する様を垣間見ましたチャペル

ハルヒさんは、宮崎訳に、どのようなご不満をお感じか、一つ一つ例を挙げてみて下さいチャペル少なくとも、私は、「ケインズ一般理論」に関して、M訳、S訳の気付いた点を、ここの「日記」に記してきています射手座

自ら、そのような努力なしで、徒に、学者訳ではなく、言語学者が訳すべきだと主張されるのは、ご自身が絡む問題でもあるんですダッシュ(走り出す様)

言語学者は、通常のばあい、言葉の語源とその変遷を研究しておられます走る人あなたが想定されるようなことはなさっておられないのです雷

大変、ハルヒさんに失礼であったかもしれませんが、取り敢えず、岩波書店刊行「ヘーゲル全集ー小論理学」訳者後書きを、ご覧になって下さいますようにチャペル
むふっ
ハルヒさん、もう一つ言わせて下さいexclamation

' Da Sein 'という言葉が、哲学者が訳すと、「現存在」になってしまうが、翻訳家が訳すと、「目の前にあるもの」になる、と仰っていますグッド(上向き矢印)

このばあい、「目の前にあるもの」と言うとき、目を通して認識する主体の存在が前提になっていますあせあせ(飛び散る汗)果たして、そのような前提無くして、成り立たない言葉として、' Da Sein 'があるのでしょうかexclamation & question

' Da Sein ' は、認識主体の存在のいかんを問わず存在するのではないでしょうかexclamation & question

そう考えてきますと、今の段階では、「現存在」と訳すほかないでしょう雷

もっと適訳があるのならば、ハルヒさんご自身がお示しになってもらいたいのですチャペル
間近に迫った資格試験などの受験勉強に忙殺されて、翻訳の問題に本腰を入れて取り組むことは、今現在できないのが現状です。
昔、かなり深く掘り下げて調査したことがあったのですが、残念ながらその時の資料を紛失してしまいました。

しかし、取り急ぎの回答として、『文藝春秋』(2002年4月号)に掲載された山田侑平氏の「岩波文庫 あの名著は誤訳だらけ」の本文とそれに対する反応を読んでいただけたらなと思います。
http://www.ifujii.com/yamada.html
むふっ
今、話題にしているのは、' Da Sein 'の訳し方についてですexclamation

そしてまた、哲学者ではなく、翻訳家の訳でなくてはならないと仰っている点ですexclamation

手(パー)
翻訳家とは、どのような職業を指すのでしょうか。文学翻訳家のことでしょうかexclamation & question

目
ヘーゲル哲学をやっておられた真下真一氏は、ひとつの単語の訳し方に、細心の注意を払っていたと訳者あとがきで、宮本十蔵氏は、語っていますもみじ

カチンコ
その点はさておき、岩波文庫の中には、大変な不適訳や誤訳だらけのものがあるということに関しては、全く同感です。

人々から、絶大な信頼を寄せられている岩波文庫、そのなかには、不適訳、誤訳だらけのものもあるということには、上記URLで記されているとおりだと思います。

しかし、だからといって、ハルヒさんの言う翻訳家が訳さなければダメということにはならないと思います。
翻訳家にも色々いますが、大雑把に定義すれば

「外国語の文章の翻訳を生業としている専業翻訳家」

といったところでしょうか。
しかし、そういった人は一握りですし、本や雑誌の翻訳よりもマニュアルや契約書の翻訳の方が需要があるのが現状です。

翻訳を生業としない人でも優れた翻訳書を出している人はいますが、そういった人はジャーナリストや小説家だったりする場合が多く、すなわち普段から日本語の文章を書くことを生業としている人なんです。
有名なところでは、村上春樹氏とか。(大昔だったら、森鴎外とか)

私が翻訳家に任せるべきだというのは、アダム・スミスが「市場に任せるべきだ」と言ったのと同じで、「失敗するリスクが低い」からです。
もちろん、任せて失敗することもあります。しかし、失敗例を検証してみると、たいていは翻訳家に任せなかった例だからこそ、そこを強調するのです。
むふっ
確かに、ハルヒさんが仰るように、折角入手した書物でも、翻訳の拙さから、読み進むことが出来ない訳本があることは、確かです。挙げれば、キリがないほどあります。

でも、雑誌、マニュアル、契約書の翻訳をされている方が、たとえば、ヘーゲルとか、ケインズ一般理論を翻訳されることが可能なのでしょうか。

たとえば、後者について言えば、一部分の誤訳、不適訳を指摘できても、書物全体を訳し通すことは、困難だと思います。

強いて言えば、学者が訳し終えた訳書を、ハルヒさんが仰る専業翻訳家が、原文と照合しながら、日本語として、意味が通じるように訳し直してくれれば、と思うこともあります。そのような願望は持っています。

しかし、' Da Sein ' のように、かえって誤訳になるケースも十分にあります。そういう意味で、学者の奮起を期待するほかないと思っています。
むふっ
山岡洋一氏については、次のような翻訳評論を拝見しています。

http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/koten/bn/mamiya.html
ハルヒ様

資格試験など、がんばってください。
返答などは、お時間の出来たときで結構です。

ハルヒさんは、山岡氏の主張を誤解されているように思われます。
以下、豚なりの考え方です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1487723665&owner_id=2312860
では、山岡洋一氏が指摘している『一般理論』の既訳における単語の問題について、どう思いますか?

なぜinterest rateやrate of interestを「利子率」にするのでしょうか?
山岡氏が指摘するように、「金利」や「利率」とすべきでしょう。
今現在起こっている恐慌に対する分析であり、なおかつ投機市場で儲けたケインズの文章を、なぜ経済や金融の現場で使われている単語で訳さないのでしょうか?

実用的な言葉で訳さないのも、学者達による訳の欠点の一つでしょう。
むふっ

通常、金利と言うとき、貸出金利、借入金利、預金金利、市場金利を指すばあいに、用いています。

利率と言うときは、債券額面価格に対する利息の割合として用います。債券購入価格に対する利息の割合は、利回りになります。

そこで、利子率というばあいは、市場金利を指すものと解釈されますが、また他面では、流動性を手放す対価として受け取る金利という意味を持つとも言えます。

こう考えてきますと、利子率は利子率としてのアイデンティティを持っていると言えるのではないでしょうか。

なお、浅学のため、確言は出来かねますが、「ケインズ一般理論」においては、' interest rate ' とは記されておらず、' the rate of interest ' と記されています。ご確認のほどを。
35に、誤字脱字があったので、修正のうえ以下に再掲します。
(まだ、ミスはあるかも知れませんが……。)

> 33 ハルヒ様

「electric field」あるいは「magnetic field」という英語に対して、物理学系の人々は「電場」あるいは「磁場」という訳語を充て、工学系の人々は「電界」あるいは「磁界」という訳語を充てるのだそうです。
http://www.moge.org/okabe/temp/elemag/node5.html
これは厄介な問題ではありますが、とりあえず、それゆえに日本の物理学や工学が低迷したとか、日本の大学の理学部と工学部の間では議論が成り立たないというような話は聞いたことがありません(笑)。

「interest rate」あるいは「rate of interest」を「利子率」と訳すか「金利」「利率」と訳すかといったことは、どちらかと言えばスタイルの問題だと思います。

山岡氏が提唱する翻訳のスタイルは、僕なりの解釈で言えば、「日経新聞を読んでいるサラリーマンたちのための邦訳」なのかなぁと思っています。
それはそれで、ひとつの戦略であり、それなりの存在価値があると思います。

しかし「rate of interest」を「利子率」と訳したから『一般理論』は日本のサラリーマンには読みにくいものとなったとか、現実の経済問題について考えるうえで訳に立たなくなったなどということはないと思います。
「利子率」という言葉を「金融の現場」の人たちが理解できないとも思われません。

これは、実質的な問題というよりは、スタイルの問題でしょう。

「ケインズの文章を、なぜ経済や金融の現場で使われている単語で訳さないのでしょうか」

というハルヒさんの疑問に対しては、ケインズ自身の次のような言葉が参考になるかも知れません。

「本書は主として、私の仲間である経済学者たちに向けて書かれたものである。」
「本書の主要な目的は難解な理論上の問題を取り扱うことであって、この理論の実践への適用は副次的に取り扱われるにすぎない。」
(『一般理論』の「序」の冒頭より、塩野谷祐一訳)

著者にこうかかれていれば、訳者としては「現場」向けよりも「経済学者たち」を意識して訳さざるを得なくなるでしょう(笑)

(もっとも、この部分の「my fellow economists」の訳として「私の仲間である経済学者たち」というのが妥当かどうかには疑問もありますが。)

山岡氏が「新しいスタイル」で『一般理論』の「全訳」を(できれば廉価で)出されるのであれば、僕は大歓迎します。しかし、既訳に対する批判の論点としては、この問題は比較的小さな問題であるように思われます。
山岡氏の新訳は、ひとつの理念の下に書かれたものであり、一定の読者を想定したものだと思う。理念というのは、できるだけ平易で日常的な日本語で、ケインズの著作を訳すということだ。
「平易な日本語」というものにも色々な種類があるが、山岡氏の場合の「平易」は、具体的に言えば「日本経済新聞の記事のレベル」ということになる。日経の記事ならば、特定の用語を除けば高校生や大学生でも読むことができる。
この新訳は、ケインズ自身や経済学の専門的な研究までは目指していないが、ともかく「ケインズ」という人がどんなことを書いた人なのか「教養」として知っておきたいという人にとっては、とても手頃なものだと思う。

しかしながら、英語で書かれた原書をすらすらと読めるわけではないが、ケインズについて少し深く知りたいという人にとっては、山岡氏の新訳には足りないところがあると思う。

山岡氏の訳は、親切すぎるのだ。
山岡氏の訳は、あらかじめ骨を取ってある魚料理のようなものである。
それは便利であるし、とてもおいしい。
しかし、それに慣れてしまうと、子供たちが「魚には骨がある」ということを忘れてしまうかも知れない。

自分の思想を鍛えたいという意図の下にケインズを読もうとする方、経済学というものについて一歩深く考えてみたいという方には、山岡氏の新訳を超えて、全集版の旧訳を読むことをお勧めする。
37番のコメントについての論拠です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1494470058&owner_id=2312860

思うところは色々とありますが、37番は、現時点での僕の結論です。
書店で手にとってみたら、2010年6月24日付で「第3刷」が出ていました。
それなりに売れているようであり、ご同慶の至りです。

しかし、このトピックのコメント2で指摘したp.219の
「importance of the economic problem」を「経済的な問題の需要性」
と誤変換?している部分は、そのままでした(笑)。
訳者も編集者も読んでいないのかな?

ログインすると、残り3件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ケインズ 更新情報

ケインズのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング