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笠井潔 ディープ・インパクトコミュの【ご意見拝聴】 『探偵小説と記号的人物(キャラ/キャラクター)』について

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笠井潔著『探偵小説と記号的人物(キャラ/キャラクター)〜ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』(東京創元社、2006)に関するご意見は、こちらにお書きください。

コメント(3)

・「I記号的キャラクターと精神的外傷(トラウマ)」の文章は、大塚英志著『多重人格探偵サイコ〜雨宮一彦の帰還』(講談社ノベルス)のために笠井潔が書いた解説と題材が共通しているが、『多重人格探偵サイコ〜雨宮一彦の帰還』のことは語られることがない。これは、大塚による清涼院流水著『ジョーカー 涼』(講談社文庫)解説での笠井批判の影響と考えられる。
・精神的外傷を巡るこういった題材は、『吸血鬼の精神分析』にも使用される可能性がある。小説の背景を知る上でも、笠井の思考を追うのは意義があるだろう。
・本書においても、「構築なき脱構築」派、あるいは脱格派は、依然として笠井の敵として堅持されている。最大の変化は、「構築なき脱構築」派、あるいは脱格派の範疇に、清涼院流水を入れないことにしたことである。
・なぜ入れないようにしたか。笠井史観では「構築なき脱構築」派は衰退の一途を辿るが、清涼院はその後、舞城王太郎や西尾維新などの追随者を出しており、むしろ隆盛を誇っている。しかも、清涼院は舞城や西尾と比較して、読みにくく、反発を覚えさせ、よく判らないところがあり、笠井にとって新たな難問と化してきたというわけである。
・清涼院解釈を巡って、三人の論者が比較検討される。大塚英志と斎藤環の指摘している清涼院の特徴(非リアリズム、命名の過剰など)は、清涼院ほどではないにしても、本格探偵小説にもともと備わっていたもので、決定的なものではないとし、東浩紀の萌えのデータベース的消費という観点から、清涼院の特性を推し量ろうとする。この観点からすると、清涼院は21世紀に登場した前代未聞の「動物」であるということになる。
・とはいえ、笠井は清涼院が表現した21世紀的な時代精神への認識を持ちつつ、清涼院的路線を取らず、「謎−論理的解明」という本格の精神を踏まえた作品の登場を期待しようとする。
・ところで、アングルを変えてみよう。
・現象学派で、バタイユ主義者である笠井潔理論の根幹は、デリダを推す東理論と理論的整合性はあるか、否か。なにしろ、デリダは『声と現象』で、現象学の祖フッサールを批判しているのであるから。
・笠井潔は、ニューアカ全盛期には、ポストモダニズム批判を行い、その後SF伝奇の時代を経て、本格ミステリの世界に舞い戻り、本格ミステリの世界の脱コード派、脱格派、構築なき脱構築派を批判した。この際、笠井は、ポストモダニズムと、竹本健治の『ウロボロス』連作には、同じ方向性があると看做したがゆえに、同じ態度をとったのである。
・東浩紀に対しては、彼が『批評空間』グループ(旧ニューアカ)から離反したがゆえに、接近したのではないか。同じ方向性があると勝手に看做して。
・『探偵小説と記号的人物(キャラ/キャラクター)〜ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』では、竹本健治の『ウロボロス』連作等の本格ミステリ界の脱コード派、脱格派、構築なき脱構築派を、ポストモダニズムに共通する否定神学的傾向があるとして、東が後期デリダ以外の思想に対して使った「否定神学的」という概念で葬ろうとする。
・ここで奇妙なのは「形式の無底性が露呈されジャンルが危機に直面するや否や、否定神学のポストモダニズム的水増し現象が生じ」(P277)本格ミステリ界の脱コード派、脱格派、構築なき脱構築派の作品が次々と書かれるようになったとしていることである。「形式の無底性が露呈され」た段階で、その問題に逃げずにさらなる追究をすれば、形式化の極限で脱構築(ディコンストラクション)が生じる。これが本格ミステリ界の脱コード派、脱格派、構築なき脱構築派の作品であり、逆にその危機に眼をつぶり、頑なに旧来の本格ミステリの形式を保守することだけに専念し、その防衛のために論陣を組み、そのなかに立てこもるというのは、単なる退行ではないか。さらにいえば、否定神学的な存在論的脱構築を通過して、初めて郵便的脱構築に至るのであり、否定神学的段階は通過点として不可欠なはずで、そこのところをどう考えるというのだろう?
・ところで、萌えのデータベース消費といっても、それは消費の形式を言っているだけで、なにゆえにそれに萌えるのかが説明されなければ、批評として不十分ではないだろうか。形式だけなら、本当に清涼院のことを理解していなくても、東浩紀のまねでそれらしいことがいえる。
・念のために言い添えれば、笠井潔は一度も清涼院を評価するようになったとは言っていない。本格ミステリ界の脱コード派、脱格派、構築なき脱構築派とは別の範疇で捉えることにしたといっているだけである。それどころか「ニ一世紀的な逸脱的妄想」(154ページ)と関連付けており、本格ミステリ界の脱コード派、脱格派、構築なき脱構築派よりたちの悪い怪物として見ているふしがある。
・清涼院には、思考のクセのようなものがある。たとえば『19ボックス』を見てみよう。ここには「切腹探偵」が出てくる。「切腹探偵」の推理能力は、切腹の瞬間、生と死のせめぎ合うリミットにおいて最大限に覚醒する。清涼院は、推理能力を脳力と看做し、その覚醒はある種の限界を突破したときに、一気に押し寄せるものと捉えているように思われる。こういった点も、魅力あるパーツのひとつである。しかし、笠井潔の評論はひとつひとつの萌え要素が、なにゆえに萌えとなるのかが問われることがなく、これは萌えのデータベース消費であるということだけで終わる。しかし社会学ならばまだしも、文芸批評というからには物足りなさが否めない。
昨夜、笠井潔による「『容疑者Xの献身』ネガティブ・キャンペーン」の一環である、『ミステリマガジン』誌の連載討論「現代本格の行方」の第6回(同誌本年8月号)所掲論文を扱った、

・ 「三つ児の魂 ―― 有栖川有栖の告発」2006年08月03日
   http://mixi.jp/view_diary.pl?id=189894430&owner_id=856746

をアップして、早速『探偵小説と記号的人間』を読んでいるところです。

> 最大の変化は、「構築なき脱構築」派、あるいは脱格派の範疇に、清涼院流水を入れないことにしたことである。

というところまで読み進みましたが、「よくもまあ…」と、開いた口が塞がりません。
要は、清涼院流水が、笠井の取り入りたいライトノベル系作家に大きな影響を与えたことは、西尾維新や舞城王太郎の発言に明らかなので、彼らに取り入るのを正当化するためにも、すねに傷もつ笠井としては、清涼院流水の「肯定的意味付け」を、イヤでも行わずにはいられなくなった、ということでしょう。

結局、笠井潔という評論家は「勝ち組は、正しい」という理論化をする人ですから、清涼院流水以外の「構築なき脱構築」派、あるいは第一次脱格派については、極めていい加減な「断定」しか語りません。「負け組」については、自分の都合だけで、いい加減に意味付けして否定し、「勝ち組」については、自分の趣味を隠し、無理矢理にでも持ち上げようとするのが、笠井潔という人なんですね。

『探偵小説と記号的人間』は、笠井が「脱格系」擁護者になる「理由」を自己申告的に語り、その妨げとなってしまう、かつての清涼院流水批判についての「言い訳=正当化」を語るための「一冊」だと言って良いでしょう。
「あの頃には見えていなかった部分が見えてきた。したがって、危機感に発した(つまり、善意に発した)かつての否定的意見は撤回せねばなるまい」といったことで済むんだったら、どんな悪口でも「後付けの理屈」で「撤回」すれば、お終いですよね。しかし「無知に由来する的外れな批判で、言いたい放題、謗られた方の気持ちはどうしてくれるんだ」というのが、世間の常識というものなんですが、笠井潔にとっては「間違っていた理由さえ明記すれば、それで万事解決」ということになるのでしょう。
私が「反省はしても、謝罪や後悔は決してしない、傲慢な男」と評するのも、それゆえです。この人の頭には「理論責任」しかないんですね。

ともあれ、『探偵小説と記号的人間』を読了したら、このあたりを徹底糾弾する論文を書くつもりです。
楽しみにお待ち下さい。みなさん、そして笠井さん(笑)。

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