ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

笠井潔 ディープ・インパクトコミュの討議(3) 笠井潔の行動について

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ここでは、笠井潔氏の行動(探偵小説研究会や本格ミステリ作家クラブでの活動、e-novelsの設立等)について討議することといたします。

コメント(21)

近日中に確認したいと思います。
それにしても、やっぱり全員「探偵小説研究会」会員でしたか。さすがに今回(第2回)は、第三者っぽい書き手に原稿を発注して、もうすこし「散らし」てくるかなと思ったんですが、それも放棄したのか、それとも協力者を得られなかったのか。


ところで、みなさんもご承知でしょうが、巽昌章は、評論家として笠井潔以上の才能を持った、優れた人です。また、それだけの実力を持った人であればこそ、ミステリ業界ではまったくの無名であった時に、法月綸太郎の推薦ということではあれ「〈創元推理〉評論賞」の選考委員に大抜擢されましたし、笠井潔もしばしば巽の意見に触発されて文章を書いたりもします。

しかし、その巽昌章にして「ある制約」のなかでは、その才能を十全に発揮することが出来ない、という事実を、私たちは我がこととして重く受け止める必要があると思います。――つまり、才能だけでは、価値のある文章は書けない。特に批評文は書けないということです。そしてそれは、例えば「スターリン独裁体制下のソビエト知識人の著作」をみれば明らかなことでしょう。

では、私たちのように文章を書く人間に、ぜひ必要なものとは何か。それは「知」とともに、人としての「情」と、「意(意志)」であると思います。この三者が、お互いの弱点を補い合って、人は本当の「自由」を得、そこに「才能」を開花されるのではないでしょうか。

この時代、「知」と「情」は過剰にあふれておりますが、「知」の人・「情」の人に、「意」の欠落している場合があまりにも多く見受けられます。巽昌章だって、逆らえば殺されるというような状況下で、やむなく「体制順応」しているわけではなく、自ら進んで、自らの利益のために、問題のある「体制順応」をしているのだから、「情」なり「意」が不足しているというのは間違いのないところでしょう。

私たちは「才能ある評論家 巽昌章」を反面教師にすべきなのだと思います。

                 ○

なお、コミュニティ「笠井潔」(http://mixi.jp/view_community.pl?id=51239)の方で「削除」された、以下の「笠井潔」関連スレッドは、今日明日中にも「復刻」しますので、ご期待下さい(笑)。

・ 「『容疑者Xの献身』批判にみる、笠井潔の行方」同年2月22日
   (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4788365&comm_id=51239)

・ 「お粗末な自作自演討論 ――探偵小説研究会の現在」同年3月14日
   (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=5254484&comm_id=51239)

・ 「本格ミステリ業界の内紛 ―― 二階堂黎人暴言事件の意味するもの」同年2月26日
   (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4875543&comm_id=51239)

・ 「我孫子武丸の現在、あるいは 笠井潔双子の謎」同年3月2日
   (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=4979187&comm_id=51239)
「笠井潔葬送」関連のトピックにつき、コミュニティ「笠井潔」(http://mixi.jp/view_community.pl?id=51239)の方で「削除」されたトピックを「復刻」しました。

「※」印のついているURLが「復刻版」のアドレスで、それ以外のものはコミュニティ「笠井潔」以外に置いていたため、今もそのまま生きているものです。


(1) 「「本格ミステリ大賞」の仕掛人・笠井潔(再録)」2006年1月8日
     (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=72478941&owner_id=856746)

(2) 「東野圭吾『容疑者Xの献身』評価をめぐって」同年1月25日
     (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=265139)
    ※(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107746502&owner_id=856746)

     【参考論文】「『容疑者Xの献身』論(完全版)」同年2月16日
      (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=89033407&owner_id=856746)

(3) 「『容疑者Xの献身』批判にみる、笠井潔の行方」同年2月22日
    ※(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107722060&owner_id=856746)

(4) 「お粗末な自作自演討論 ――探偵小説研究会の現在」同年3月14日
    ※(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107800513&owner_id=856746)

(5) 「本格ミステリ業界の内紛 ―― 二階堂黎人暴言事件の意味するもの」同年2月26日
    ※(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107762717&owner_id=856746)

(6) 「我孫子武丸の現在、あるいは 笠井潔双子の謎」同年3月2日
    ※(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107773584&owner_id=856746)


なお、コメントNo.1 で、lainさんが、

> 本日発売のミステリマガジンに、『容疑者X』関連の追加のエッセーが載っておりました。今回は小森健太朗、巽昌章、つずみ綾です。代わり映えしないメンバーですな、

云々と言及しておられる『ミステリマガジン』本年5月号の問題は、上記拙論(2)〜(4)において主題化されている「笠井潔による『容疑者Xの献身』批判キャンペーン」に関するものです。特に(4)と直接つながるものなので、未読の方は是非ご確認下さい。
さて、やっとのことで、コミュニティ「笠井潔」(http://mixi.jp/view_community.pl?id=51239)における一連の「管理人独裁」事件の「まとめページ」を作りました。題して、


・ 「コミュ「笠井潔」管理人独裁事件」2006年03月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=108139100&owner_id=856746)


同コミュニティの現管理人であるShinRai(http://mixi.jp/show_friend.pl?id=1031649)氏によって、「証拠隠滅」のために軒並み「削除」されたトピックを復刻紹介しただけではなく、関連トピックや日記にもリンクを張ったこのページは、今回の事件を包括的に展望するものとして、唯一無二のものとなるでしょう。

ShinRai氏によって、理不尽な「除名処分」を受けた関係各位には、このページの宣伝にご協力いただきたいと切にお願いするものです。――我々は「泣き寝入りはしない」という意気を示していただきたいと思います。
本年3月24日に弊掲示板「アレクセイの花園」(http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html)に書いた文章の再録です。
下記の、笠井潔の連載評論『完全雇用社会の終焉と「自由」』の第1回「環境管理社会の小説的模型」については、後日、読了後に、もうすこし詳しく論じる予定です。


----------------------------------------------------------

笠井潔による「東野圭吾の直木賞受賞作『容疑者Xの献身』批判キャンペーン」の第3弾が、『トリッパー』(2006年春号・朝日新聞社)に掲載されている。新連載評論『完全雇用社会の終焉と「自由」』の第1回「環境管理社会の小説的模型」で、『容疑者Xの献身』を取り上げて批判しているんだ。つまり、まだ読んでいないんで確たることは言えないけど、まあ『容疑者Xの献身』は「環境管理社会の小説的模型」だと言いたいようだ(笑)。――結びの言葉は、こうなっている。


『「中央公論」(二〇〇二年七月号〜二〇〇三年三月号)に連載された「情報自由論」で東浩紀は、「アーキテクチャ」による支配のシステムを、近代的な規律訓練型の権力とは異なる環境管理型権力として捉えている。『容疑者Xの献身』とは、まさに環境管理社会の模型である。この作品を評論家として、趣味的に肯定したり否定したりしている場合ではない。『容疑者Xの献身』を縮小模型とするネオリベ的な二一世紀社会から、どうしたら逃れうるかをわれわれは真剣に思考すべきなのだ。二〇〇五年の「二大一人勝ち」が、九月総選挙における小泉自民党の歴史的大勝と、各種ベストテン企画で首位を独占した『容疑者Xの献身』だという冗談には、おそらく冗談以上のものがある。』


そりゃあ『冗談以上のものがある』だろうさ。――笠井潔の「意図的(政治的)な誹謗中傷」と、その根底にある、笠井の度しがたい『嫉妬と羨望とルサンチマン』(『ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』)だ。

それにしても、相変わらず東浩紀か(笑)。

あんなに派手に振られても、ライトノベル業界に乗り換えて延命をはかるには、やはりそちらでカリスマ的人気を誇る東浩紀に取り入らないとダメだってことなんだろうな。まったく、笠井潔も「落ちるところまで落ちた」と言うべきだろう。

> 近代的な規律訓練型の権力とは異なる環境管理型権力

「探偵小説研究会」とか「本格ミステリ作家クラブ」とは『まさに環境管理社会の模型である』(笑)。
――「強制」はしない。けれども「環境」的に「管理」する、というのだから、そのまんまじゃないか。

> ネオリベ的な二一世紀社会から、どうしたら逃れうるかをわれわれは真剣に思考すべきなのだ。

自分の都合で、いきなり「社会派」ぶるんじゃないって……。
真剣に考えるべきのは、笠井さん、貴方自身の方ですよ。

もっとも、貴方は本気でこんなこと書いてるんじゃなくて、ただ他人を「扇動」し、「思うがままに動かして、支配したいだけ」なんでしょうね。――古いつきあいの私には、うんざりするほど見え透いて見えますよ。


と、いったところかな。
――本当に最近の笠井潔は、「老醜」を曝しているとしか言いようがないな……。


       (2006年3月24日付け「二つの「正義」――『デスノート』私論(4)」より)


----------------------------------------------------------

【「笠井潔の『容疑者Xの献身』批判キャンペーン」関連論文】

・ 「東野圭吾『容疑者Xの献身』評価をめぐって」同年1月25日
   (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=265139)
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107746502&owner_id=856746)

   【参考論文】「『容疑者Xの献身』論(完全版)」同年2月16日
      (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=89033407&owner_id=856746)

・ 「『容疑者Xの献身』批判にみる、笠井潔の行方」同年2月22日
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107722060&owner_id=856746)

・ 「お粗末な自作自演討論 ――探偵小説研究会の現在」同年3月14日
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107800513&owner_id=856746)
当トピックでもご紹介した、私の文章(コメントNo.5)について、本年3月29日にホランド氏から弊掲示板「アレクセイの花園」(http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html)の方へご投稿がありました。
私の文章の補足説明になっていると思いますので、ここでもご紹介させていただきます。


---------------------------------------------------------------------

> 笠井潔による「東野圭吾の直木賞受賞作『容疑者Xの献身』批判キャンペーン」の第3弾が、『トリッパー』(2006年春号・朝日新聞社)に掲載されている。新連載評論『完全雇用社会の終焉と「自由」』の第1回「環境管理社会の小説的模型」で、『容疑者Xの献身』を取り上げて批判しているんだ。

> 『この作品を評論家として、趣味的に肯定したり否定したりしている場合ではない。『容疑者Xの献身』を縮小模型とするネオリベ的な二一世紀社会から、どうしたら逃れうるかをわれわれは真剣に思考すべきなのだ。』

> 自分の都合で、いきなり「社会派」ぶるんじゃないって……。

 たしかにね。
 今までは「『十角館の殺人』は、「大量生」の時代と深く向き合った作品だ」とか「『殺戮にいたる病』は、宮崎勤事件の時代精神と深く掘り下げた傑作だ」みたいなことばかり言って、まるで「新本格を読んでいれば、時代の真相=深層と向き合える」みたいことを書いてた笠井さんが、ここに来ていきなり「本格ミステリマニア」たちを「非社会的なオタク」扱いにするのは、ちょっと酷いですよね。
 ――まあ、笠井潔のダブルスタンダードぶりが「これまでの身内にも向けられただけ」だと言ってしまえば、それまでなんですが。


 あっ、それから、『ミステリマガジン』5月号の「現代本格の行方」第3回の執筆者も、やっぱり3人が3人とも「探偵小説研究会」のメンバーでしたね。
 この連載企画が「笠井潔の持ち込み企画である」という園主さまの推理は、もはや証明されたと言ってもいいんじゃないかと思います

                      (2006年3月29日付け「問題意識(下)」より)


---------------------------------------------------------------------

> 笠井さんが、ここに来ていきなり「本格ミステリマニア」たちを「非社会的なオタク」扱いにするのは、ちょっと酷い

と、ホランド氏は書いていますが、この点について私なりの補足を加えておくと、ここで問題化されているのは「笠井潔の主張の、一貫性の無さ」であって、「本格ミステリマニアは、非社会的なオタクではない」ということではありません。実際、「本格ミステリマニア」のなかには「非社会的なオタク」呼ばわりされても仕方がないような「偏頗な人間」も少なくないのですが、問題は、笠井が「そういう今に始まった話ではない」ことを「今になって(今さら)問題にしている」という「笠井潔のご都合主義」にあるのです。

ですからこれは、笠井潔の意見がコロコロ「変わる」と言うよりも、実際には笠井潔は状況によって意見をコロコロ「変えてくる」人間であり「笠井潔がその時々に語る理屈は、笠井の本音ではない」ということなのです。つまり、笠井潔は「自分の評価判断をきちんと語る評論家」ではなく「その時々、風向きによって意見を変えてくる政治屋」だということなのですね。だから、笠井潔の評論(理論)を額面どおりに受け取ると、今回の「本格ミステリマニア」みたいに足を掬われることにもなるのです。



☆ lainさま

> 講談社文庫でエロゲー系統の絵師を使っているのも、何とかとりいりたいという願望があるんですかね。無駄な努力だ。

それしかないと思います。

でも、普通に考えれば『無駄な努力』としか思えないようなこと(例えば「『容疑者Xの献身』批判キャンペーン」)を、笠井が自信ありげに展開するのは、これまでは笠井潔の「ゴリ押し」が出版業界で通用してきたという証拠だと思います。そういう実績があるからこそ、笠井も自信をもって、あんな臆面もないことができるんですよ。

しかし、さすがに今回はどうか? 「笠井潔のミステリ業界における強権」は、本格ミステリの斜陽と共に、たしかに低下してきていると思うし、ここ5年くらいは完全に沈黙を強いられてきた、ミステリ業界内の「反・笠井潔派」が、ネットでのわれわれによる笠井潔批判などを横目で睨みながら、逆転の機会を虎視眈々と狙っている、というのは想像に難くありません。

実際、「〈このミス〉匿名座談会」の1人として、笠井潔にバカ扱いされた評論家の吉野仁は、自サイトの本年3月21日付けの日記に次のように記しています(http://homepage2.nifty.com/yoshinojin/Mutter.files/Mutter.html)。

>  それにしても、なぜポケミスで出したんだろうか。たいして売れない、と踏んだのかな。あいかわらず早川書房の姿勢はよくわからない。つまらない日本作家に肩入れするより、そんな余裕があるなら、もっと本来やるべきことをやってほしいのだが……。なんて書いても虚しいだけか。

これが、『ミステリマガジン』誌上での笠井潔の企画による連載討論「現代本格の行方」や、笠井潔自身の長期連載評論「ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?」を指すというのは想像に難くない。
つまり、ミステリ業界には「笠井潔=新本格による支配体制」に対し、こういう「鬱屈した気分」を抱えている人が少なくないということなのです。
(ちなみに、早川書房は、笠井潔に『肩入れ』しているのではなく、「義理」でおつき合いしているだけでしょう。だから『探偵小説と二〇世紀精神』の刊行を断ったりもしたんだと思います)

ですから、われわれ「アマチュア」による「笠井潔批判」は、表面上は反響が無いかのように見えますが、実際にはそうではありません。影で「もっとやれ、やっちまえ!」と思っているミステリ業界人は少なくないでしょうし、その意味でわれわれのやっている「笠井潔」批判は、「笠井潔独裁体制」の崩壊へ道をつける作業なんだと、自信を持って良いんだと思います。われわれは地味で報われないことをやっているのかも知れないけれども、それはわれわれが「先駆者」である証拠でもあるんですよ。


・「笠井潔葬送派:笠井批判論文集」
 (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107966140&owner_id=856746)
>  最初、笠井の『容疑者X批判』について取り上げたとき、ここまで長引くとは思っていなかったんですよね、正直。ただ、ばか騒ぎもここまでくると徹底的につきあわざるをえない、というのが感想です。

まあ、私にとっては、笠井による『容疑者Xの献身』批判問題の方が、年来の「笠井潔葬送」のパーツでしかなくて、実際のところ『容疑者Xの献身』評価なんて、どうでも良かったんです。もともと東野圭吾のファンでもなんでもなかったんですしね。
『ばか騒ぎ』については、むしろ望むところ。なにしろ私は「引っ掻き回しのドタバタ騒ぎ」を身上とするトリックスターなんだから(笑)。

> 笠井潔の独裁が存続するか崩壊するかなんていうのは、私にとってはどうでもいい話なんですよね。SFやライトノベルの領域で笠井について気にかけている人はいまやほとんどいないでしょう。若い読者のほとんどは名前すら知らないですし、知る必要もまったくない。

まったくそのとおりです。私は、政治的に誰に肩入れするつもりもありませんが、笠井潔の独裁体制を潰せば、ミステリ界の「政治的な空気」が払拭されて、多少は正常化するだろう、というほどのことですね。
さらに言えば「笠井潔のような輩が、一人前の評論家づらしているのが気にくわない」「笠井潔を一人前の評論家だと思っているバカの存在も気にくわない」とも言えますが(笑)。

もちろん、ミステリ業界の「反・笠井潔派」なんて、もともと私は評価していないし、評価していないからこそ「笠井潔は、勝てる相手には派手に論争を吹っかけてみせるが、勝てない相手からは逃げ回ることしか出来ない」なんて書けるんですよ(笑)。

> 山田正紀あたりは昔のよしみでつきあってあげているみたいですが。こんなしょうもないことをやっていれば、スポイルもされるでしょうね。

その評価は、甘いですね。山田正紀は「共犯」ですから、そんな手前味噌な言葉で、彼を免責させようなどとしてはいけません。言うまでもなく、山田正紀は「大人」であり「公的言論人」なんですから、理由はどうあれ、「自分の選んだ立場」には責任を取って貰わなくてはならない。これは当たり前の事です。

> SF評論とミステリ評論、どっちの水準が上かなんていうのはばかげた議論ですが、内向きという点ではどっちもどっちですね。ミステリ評論がこんなレベルでしかないとは思われたくないんですけどね。しかし、今回の探偵小説研究会の人間たちの文章を読んでいる限り、現状では、SFのほうが元気である分、まだまっとうに評論として明快な議論ができている気がします。

『SFのほうが元気である分、まだまっとうに評論として明快な議論ができている』というのは、原因と結果が転倒していると思います。そうではなくて「自由な議論が可能であるからこそ、SF評論の方が元気がある」のだと思いますよ。また、だからこそ、笠井潔のような「抑圧的な政治権力」は打破されなければならないんです。

もちろん、ミステリ界には、笠井潔に沈黙させられる程度(笠井潔に迎合するしかない程度)の評論家しかいなかった、と言えばそれまでですが、これは笠井潔のような人物がSF界にいたら、SF界だって同じような惨状になっていただろうと、私は思っています。ミステリであれSFであれライトノベルであれ、書いてる人間のレベルに大差はなく、99%は「娯楽小説の書ける凡人」だと、私は理解しています。

ま、私にとっての笠井潔批判は、評論云々の話ではなく、最終的には「人間としての道義」の問題なんですよ。

> 今年もMYSCONに参加する予定なので、もし機会があれば、探偵小説研究会の関係者に議論を吹っかけるのが楽しみですね。

無駄でしょうね。機会があったとしても、けむに撒かれるのが落ちでしょう(その結果「機会は無かった」ということになるでしょう)。
やるんなら逃げ場のない「公場対決」。これしかありません。何度も言うようですが、勝てない喧嘩をするバカはいません。ならば、「相手が逃げた」という事実を、第三者に知らしめ得るようにしておく必要があるんですよ。本気でやるつもりがあるんであれば、です。


・「笠井潔葬送派:笠井批判論文集」
 (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107966140&owner_id=856746)
> まあ、本気でやるのではなく、あくまで冗談や茶化しの範囲です。私にとっては議論自体が娯楽ですからね。あるいは、いきなり相手が反論できない本質をぐさりと突いて、引っ掻き回し楽しさもある。いずれにせよ、読書会とか衆人環視の状況でどうパフォーマンスできるか。そして、その中に茶化しと面白みと真剣みをどうミックスできるかです。

「本気」と『冗談や茶化し』あるいは『娯楽』は、何ら矛盾するものではありません。じじつ、私は「本気」の批判論文に『冗談や茶化し』を入れるからこそ、相手を「本気」にさせることが出来ています(つまり、怒らせ、本性・本音をさらけ出させる)。
「本気」というと「くそ真面目」をイメージする人が多いようですが、「本気」だからこそ『冗談や茶化し』も批評性を帯びるし、「本気」だからこそ『娯楽』も批評性を持ちうるのではないでしょうか? 「本気」の無い『冗談や茶化し』あるいは『娯楽』は、単なる「気散じ」のためのジャンクでしかなく、そういうものに対しては、相手も同じレベルで対応するだろうし、その権利が相手にはある、ということにもなるでしょう。

また、自分のは「本気」じゃなくて『あくまで冗談や茶化しの範囲』だと言う時、そこには既に「結果責任」から逃げるための「予防線」が張られていると見ることも可能でしょう。

私が「本気」と言う時、それは相手に対してだけではなく、自身に対しても「本気」である、ということを意味します。批評家がおかしくなるのは、ほぼ間違いなく、自身を「免責」するところからで、自分自身という「聖域=禁忌」を設けた途端、批評家は「公正さ」を失って、党派理論家になってしまいます(「批評家なんて、多かれ少なかれ党派理論家だよ」なんて開きなおり(=ニヒリズムを示し)はじめます)。その典型が、笠井潔であり「探偵小説研究会」のメンバーだと、私はそう考えます。


・「笠井潔葬送派:笠井批判論文集」
 (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107966140&owner_id=856746)
書き忘れていましたが、そういう場(同好の士の歓談の場=相互承認・相互保証の場)で「まともな議論」をしようとすれば、「ここは和やかに歓談を楽しむ場ですから、そういう議論はお止し下さい(場が荒れます)」という既聴感(?)のあるストップのかかる可能性が高いですね。まあ、ストップがかかる前に秒殺するという手はあるんですが(笑)。


・「笠井潔葬送派:笠井批判論文集」
 (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=107966140&owner_id=856746)
「笠井潔による『容疑者Xの献身』批判キャンペーン」に関して、新たに論文を書きました。
『ミステリマガジン』誌本年5月号所掲の、「現代本格の行方」第3回に関するものです。

 ・「人それを水増しと呼ぶ ―― 探偵小説研究会の現在 2」2006年04月09日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=114702661&owner_id=856746)

ご笑読いただければ幸いです。
笠井潔の『徴候としての妄想的暴力』から語り起こして、笠井潔という評論家が「どういう評論家なのか」を論じた文章を書きました。


・ 「徴候としての妄想的暴力 ――笠井潔論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=117204839&owner_id=856746)


なお、本稿と同じものを、下のとおり『徴候としての妄想的暴力』、『天啓の器』の二著のレビューとしてもアップしております。

・ レビュー『徴候としての妄想的暴力』
  (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=461553)

・ レビュー『天啓の器』
  (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=272708)
コミュニティー【柄谷行人】(http://mixi.jp/view_community.pl?id=20138) の、

・ トピック「柄谷行人と誰かさん」2006年12月01日
  (http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=1&comm_id=20138&id=12967166)

に、「笠井潔と柄谷行人」についての文章を書きました(コメントNo.4)。

一時「ポスト・モダニズム批判」ということで意気投合したかに見えた、笠井潔と柄谷行人との本質的な差異を論じた文章です。ぜひご参照下さい。
ひさしぶりに「笠井潔による『容疑者Xの献身』批判」関連の論文を書きました。

文春文庫に入った『魔』を素材とした論文です。今回は「笑える」内容になっているはずですから、文字どおり、みなさんのご笑読を期待しております。

・ 「笠井潔の「大量死理論」」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=346643582&owner_id=856746)
今回は、対照的な2つの論文をご紹介させていただきます。

・ 「沙羅双樹の花の色 ――笠井潔、探偵小説研究会と決別」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=541900669&owner_id=856746)

・ 「本格ミステリに内在する二つの方向性」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=541903995&owner_id=856746)

前者は、昨年、日本の「本格ミステリ業界」を揺るがした「『容疑者Xの献身』騒動」の「その後」に関する「評論」。後者は、「本格ミステリ」の原理的考察です。

どちらも、いわゆる「批評」であり「評論」と呼ばれるものですが、その性格は正反対と言っても良いほどの方向性の違いを感じさせるのではないでしょうか。しかし、後者の論文で、

> 相反する「2つの方向性」が、お互いに相手を「安易な合理性」や「安易な意外性」に陥ることを牽制することで、お互いが一体となって高め合う緊張関係。これなくしては、すぐれた本格ミステリ、真に知的な本格ミステリなどあり得ないというのは、物の道理なのだと言えるでしょう。

と論じたように、「批評」も含む真に知的な営為というものは、『相反する「2つの方向性」』を抱接する緊張関係の中にしかありえません。つまり、「現実」と「原理(理論)」とのギャップを引き受ける緊張関係の中でしか、真に知的な営為はなされない、ということです。


しかし、「娯楽としての評論」は、「現実」の問題を無難に等閑視して、抽象的・衒学的な議論を弄ぶことこそが「批評」の本義であるかのように装います。しかし、「批評家」も人間である以上、当たり前の現実の中に生きているのですから、「現実」を無視する態度はおのずと欺瞞的なものにしかなりえません。

例えば、この度刊行された「探偵小説研究会」の会誌『CRITICA』第2号では、千街晶之が二階堂黎人やつずみ綾ほかを扱き下ろすエッセイを、今頃になって発表し、「おわりに」の部分で、

『 明らかに自分に跳ね返ってくるであろう部分も多いことは間違いないから、こういう他者批判的な文章はなるべくなら書きたくないというのが正直なところだ。そもそも過激なことを書いて得意がるというのが嫌いで、中庸と現実主義を尊重することを是としたい。しかし、今までの経験から言えば、過激を嫌い中庸に徹するというのも、それはそれで敵を作りやすいものである(…)。一見、そうは読めないかも知れないが、本稿は私なりの中庸宣言である。それこそ、私以外の人間にはどうでもいいことだけれど。』

と「自己正当化の言い訳」を連ねています。

そもそも「批評」というものは、批評される者の「期待」に沿ってなされる保証などないのだから、恨みを買うことがあるというのは、批評を行う上での大前提でしょう。ところが、千街は「恨まれて損をしたくない」という計算から、これまでは『中庸と現実主義を尊重する』と言えば聞こえの良い「無難主義」でやってきた。ところが、それでも二階堂黎人などから憎まれたために、世渡りとしての「無難主義」をかなぐり捨てて、初めてあからさまな「本音」を吐いたのです。

他者の文章に関して、自身が「そうとしか読めない」が故に『そもそも過激なことを書いて得意がるというのが嫌い』だなどと評する論者が『そうは読めないかも知れないが、本稿は私なりの中庸宣言である。』などと宣言するのは、あまりに得手勝手というものでしょう。自分でも『私以外の人間にはどうでもいいことだ』と思うのなら、こんな「言い訳」などしないのが、批評家の覚悟であり矜持というものなのではないでしょうか。

結局これは、「現実」を蔑ろにして「娯楽としての評論」に徹してきた評論家が、ここに来て「現実」の逆襲を受け、その矛盾した本質を暴露したのだと言えるでしょう。

いろんな意味で、みなさんにも『CRITICA』第2号をお薦めしたいと思います。
今回は、対照的な2つの論文をご紹介させていただきます。

・ 「沙羅双樹の花の色 ――笠井潔、探偵小説研究会と決別」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=541900669&owner_id=856746)

・ 「本格ミステリに内在する二つの方向性」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=541903995&owner_id=856746)

前者は、昨年、日本の「本格ミステリ業界」を揺るがした「『容疑者Xの献身』騒動」の「その後」に関する「評論」。後者は、「本格ミステリ」の原理的考察です。

どちらも、いわゆる「批評」であり「評論」と呼ばれるものですが、その性格は正反対と言っても良いほどの方向性の違いを感じさせるのではないでしょうか。しかし、後者の論文で、

> 相反する「2つの方向性」が、お互いに相手を「安易な合理性」や「安易な意外性」に陥ることを牽制することで、お互いが一体となって高め合う緊張関係。これなくしては、すぐれた本格ミステリ、真に知的な本格ミステリなどあり得ないというのは、物の道理なのだと言えるでしょう。

と論じたように、「批評」も含む真に知的な営為というものは、『相反する「2つの方向性」』を抱接する緊張関係の中にしかありえません。つまり、「現実」と「原理(理論)」とのギャップを引き受ける緊張関係の中でしか、真に知的な営為はなされない、ということです。


しかし、「娯楽としての評論」は、「現実」の問題を無難に等閑視して、抽象的・衒学的な議論を弄ぶことこそが「批評」の本義であるかのように装います。しかし、「批評家」も人間である以上、当たり前の現実の中に生きているのですから、「現実」を無視する態度はおのずと欺瞞的なものにしかなりえません。

例えば、この度刊行された「探偵小説研究会」の会誌『CRITICA』第2号では、千街晶之が二階堂黎人やつずみ綾ほかを扱き下ろすエッセイを、今頃になって発表し、「おわりに」の部分で、

『 明らかに自分に跳ね返ってくるであろう部分も多いことは間違いないから、こういう他者批判的な文章はなるべくなら書きたくないというのが正直なところだ。そもそも過激なことを書いて得意がるというのが嫌いで、中庸と現実主義を尊重することを是としたい。しかし、今までの経験から言えば、過激を嫌い中庸に徹するというのも、それはそれで敵を作りやすいものである(…)。一見、そうは読めないかも知れないが、本稿は私なりの中庸宣言である。それこそ、私以外の人間にはどうでもいいことだけれど。』

と「自己正当化の言い訳」を連ねています。

そもそも「批評」というものは、批評される者の「期待」に沿ってなされる保証などないのだから、恨みを買うことがあるというのは、批評を行う上での大前提でしょう。ところが、千街は「恨まれて損をしたくない」という計算から、これまでは『中庸と現実主義を尊重する』と言えば聞こえの良い「無難主義」でやってきた。ところが、それでも二階堂黎人などから憎まれたために、世渡りとしての「無難主義」をかなぐり捨てて、初めてあからさまな「本音」を吐いたのです。

他者の文章に関して、自身が「そうとしか読めない」が故に『そもそも過激なことを書いて得意がるというのが嫌い』だなどと評する論者が『そうは読めないかも知れないが、本稿は私なりの中庸宣言である。』などと宣言するのは、あまりに得手勝手というものでしょう。自分でも『私以外の人間にはどうでもいいことだ』と思うのなら、こんな「言い訳」などしないのが、批評家の覚悟であり矜持というものなのではないでしょうか。

結局これは、「現実」を蔑ろにして「娯楽としての評論」に徹してきた評論家が、ここに来て「現実」の逆襲を受け、その矛盾した本質を暴露したのだと言えるでしょう。

いろんな意味で、みなさんにも『CRITICA』第2号をお薦めしたいと思います。
ひさしぶりに、笠井潔がらみの文章を書きました。


・ 権田萬治による「大量死理論」批判(2011年02月13日)
(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1673267192&owner_id=856746)

ログインすると、残り6件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

笠井潔 ディープ・インパクト 更新情報

笠井潔 ディープ・インパクトのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。