ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

笠井潔 ディープ・インパクトコミュの安藤礼二「『虚無への供物』論」と、笠井潔

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
気鋭の文芸評論家、安藤礼二の「『虚無への供物』論」が掲載された、 『群像』(講談社)2006年6月号が出ました。

同論文には、笠井潔の「大量死論」に基づく『虚無への供物』論に異を唱えた部分も見受けられます。
私もまだ通読しておりませんが、安藤論文を通して、笠井潔の「大量死論」について、みなさんと議論ができればと思い、トピックを立てさせていただきました。

何はともあれ、安藤礼二の「『虚無への供物』論」をお読みいただければと存じます。

コメント(3)

※2006年05月12日00:30に投稿されたはらぴょんの日記より転載。文中にあるように、立ち読みですので、さほど詳細な内容には触れておりません。悪しからず。

安藤礼二「『虚無への供物』論」(『群像』6月号)読了。(といっても、立ち読みですが。)
 笠井潔の『探偵小説論』における『虚無への供物』の読み、すなわち洞爺丸事件から、同じ題材の水上勉の『飢餓海峡』を比較し、大量死の時代の反転の試みとして読解する見方を、この小説の「探偵小説」のところに引きずられた見方であるとしているようだ。で、『虚無への供物』からさらに、大量死理論・史観までつきすすんでしまうとする。
 安藤礼二は、アドニス版も参照しているが、同性愛の観点にさほど眼を奪われていない。それよりも、当時起きた事件をどこまで小説世界に引きずり込み、かつ実際の事件を隠蔽しようとしているのかを注視して読解してゆく。こうして浮かび上がるのが、中井家の「家族小説」というか、「家族小説」の陰画のようなものである。
 できれば、詳細な資料をつけて、単行本化してほしい気がした。当時の新聞とか、中井家の略年譜とかないと、この詳細な読みについてゆけない。(やはり、立ち読みで吸収できる簡単な内容ではなかったということか。)
 帰宅後、荒俣宏の『大東亜科学綺譚』をひもとく。というのは、ここに中井猛之進のことが書かれているからである。荒俣は、『虚無への供物』に出てくる「曾お祖父さんの誠太郎」は、経歴からして、中井英夫の祖父堀誠太郎であると書いている。
 講談社文庫版の年譜を見ると、昭和二十年のところに「三月、長兄敏雄、ドイツよりV2号の秘密設計書を携え潜水艦で帰国途中で行方不明となる。」とある。これを直接書けないがために、別の水難事件に仮託して、物事を考えようとしたということなのだろうか。
 安藤論文を読んで、初めて『虚無への供物』を読んだときの印象、この物語にはまだなにかある、読み返さないと、という印象に戻ってしまった。なんだかんだといって、私もまた、笠井理論に影響を受けていたのかも知れない。笠井潔の評論を読むと、判ったような気になるが、実は何も判っていない。笠井潔は、大雑把で、わかりやすい物語に置き換えただけで、この物語、というか反物語というべきか、に込められた複雑な心情を汲み取っていたわけではなかった。
以下の文章は、本日、掲示板「アレクセイの花園」(http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html)へ、Keenさんへのレスとして書いたものに再録です。


--------------------------------------------------------------------


安藤論文は、テキストをきちんと読み込んで分析しているという点で高く評価できますし、その点で笠井潔の「アイデア勝負の娯楽評論」に厳しくなるのも、わからないではございません。
しかしながら、強烈なファン心理(=独占欲)の為せる業でございましょう、「読み」について、自分の方法論を絶対化しているところが鼻につきますし、必要以上に持って回った論述が、単純に文章を読みにくくもしております。

ご承知のとおり、私は「笠井潔葬送派」を名乗るほど、笠井潔については批判的な立場を採っておりますが、しかし、今回の安藤のような笠井潔批判は、まったく不十分なものであり、その点では、かえってその「独善性」を指摘しなければなりません。
言うまでもなく、『虚無への供物』論には、安藤礼二的な「堅実なアプローチ」もあれば、笠井潔的な「アクロバチックなアプローチ」もあって良い。それを前提とした上で、笠井潔的な『虚無への供物』論を批判しないかぎり、それは笠井潔のそれと大差のない「我独り賢し」の押しつけにしかならないというのが、私の率直な感想でございました。

――安藤礼二の今後に期待したいと存じます。
笠井さんの「大量死」理論なるものは、まず『虚無への供物』解釈があり、そこで大量死の陰画としてのミステリという着想を得て、探偵小説史全般に適用していったものだと思っています。
だから、笠井さんの『虚無への供物』論に対するアンチは、「大量死」理論の根幹を揺るがす可能性があります。
しかしながら、安藤礼二氏のような読みに読者が到達するためには、『虚無への供物』執筆当時の新聞記事とか、中井家の家庭事情とかの情報を知る必要があります。
随分前に、推理小説もどきの刊行物で、手かがりとなる物的証拠もセットで売られていたものがありますが、勿論『虚無への供物』はそのようなテクストではなく、それ自体で完結した(というどころか、他の文学作品と比較しても、完成度の高い)作品です。
一般読者は、『虚無への供物』だけを読めばいいのであって、中井氏自身も、読者が『虚無への供物』執筆当時の新聞記事とか、中井家の家庭事情とかの情報を探索するようになることなど要請していないと思います。
勿論、安藤氏のような研究者が、このような調査を行うことは、大変重要なことだと、歓迎します。
笠井さんの『虚無への供物』論を覆すためには、『虚無への供物』というテクストを読むこと自体によって、別の読みができる(さらに、その別の読みの方が正鵠を得ている)ということを示さないと充分ではないように思われますが、安藤氏も含め、それを達成した者は誰もいないように思えます。

※ちなみに、私は笠井さんの『虚無への供物』論に異論はないのですが、探偵小説史全般を「大量死」という一面だけから見て行くマクロ的なやり方に疑問を持っており、個々のミステリの特異性の認識を抹消してゆく危険性・暴力的抑圧性があるように思えます。
そのマクロ的なやり方は、大雑把に時代精神を読み取るルカーチのやり方に似ています。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

笠井潔 ディープ・インパクト 更新情報

笠井潔 ディープ・インパクトのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング