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豊臣一門コミュの豊臣秀長

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天文9年〜天正19年(1540〜1591年)
父:木下弥右衛門(義父:竹阿弥)
母:なか(天瑞院)
兄:豊臣秀吉
姉:日秀(とも)
妹:旭(あさひ)

小竹・木下小一郎・木下長秀・羽柴長秀・羽柴秀長・豊臣秀長
従五位下美濃守→(宰相)→従四位上参議右近衛権中将→従三位権中納言→正三位中納言→従二位権大納言
近江浅井8千500石。
但馬7郡10万5千石。
但馬・播磨25万石。
紀伊・和泉64万石。
紀伊・和泉・大和108万石。

正室:某
子女:おきく(秀保室)、大善院(毛利秀元室)
養子:秀保、仙丸

コメント(18)

略歴
天文9年(1540)に尾張国愛智郡中村に生まれる。秀長は永禄5年(1562)に、秀吉の家臣となる。秀長19歳。初陣は永禄7年(1564)の美濃方大沢次郎左衛門正秀の鵜沼城攻めの際で、その後、黒俣築城の攻防戦、金ヶ崎の退却戦、小谷城攻め、長島攻め、播磨攻略戦にも出陣している。但馬攻略戦では、大将となり但馬攻略に全力を尽くした。他丹波攻略にも手をつけた。本能寺の変後も秀吉を補佐し、山崎の戦い、賎ヶ岳の合戦、四国征伐、小牧・長久手の戦い、九州征伐に参加した。九州征伐後は、豊臣政権の中で、千利休とともに柱となり、活躍した。大友宗麟は、上京した際秀長に会い「内々の儀は利休に、公儀は秀長に」と言われ感激した様子を国許へ書き送っている。秀長は、九州平定後の天正15年(1587)11月30日に京都で発病し、この時はすぐに回復したが、天正17年(1589)12月に再び発病し、天正19年(1591)1月22日に大和郡山城内で52歳で没。葬式には約20万人の見物人があったという。法名は「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」
お勧め図書のご紹介。

・堺屋太一著『豊臣秀長〜ある補佐役の生涯〜』
・司馬遼太郎著『豊臣家の人々』より「大和大納言」

二冊とも、秀長好き必携の本に間違いありません。
彼のことが知りたければ、まずは上の二冊ですね。

また、新人物往来社より
・『豊臣秀長のすべて』
という書籍も出ています。現在絶版。私も持っておらず、喉から手が出るほど欲しい一冊であります(笑)
私書−仮説1

◆もし秀長が秀吉より長生きしたら。

秀長を語る場において、必ずと言っても過言ではない話題「もし秀長が長生きしていれば」これを私見に基き仮説してみる。
秀長が病死したのは小田原の陣の後、天正19年のことだった。その時に病気から回復していたら・・・。

まず、ほぼ間違いなく朝鮮出兵はなかったであろう。出兵がなければ豊臣秀勝も秀保も若死にするようなことはなかったかもしれない。また、秀頼は秀吉の種ではないという説があるが、もしこれが本当だとした場合、秀長存命ならそのような工作は行われなかったのではないか。そして、実際に秀吉の子として秀頼が生まれてきた場合にも、史実のような凄惨な事態になることは絶対になかったと言えよう。

秀次が関白になったのは、秀長が死去し、鶴松が夭折した後正式に養子となり、職を譲られたのだから、秀長が元気でいたなら秀吉は最も頼りにしていた身内である秀長に関白職を譲っていた可能性も大いにありうる。だが秀長のこと、関白職を辞退し秀次を推挙、補佐に回っていたかもしれない。いずれにしても、秀長が枢軸にあったならば、諸大名たちは彼に敬服し立派な統治者たりえただろう。

また、結城秀康や小早川秀秋といった豊臣家を追い出された人々も、豊臣氏として残っていた可能性も高い。河内に所領を形成していた豊臣秀康、丹波に所領をもった豊臣秀俊(秀秋)、彼らがその史実である家を継いでいない場合、小早川家は本来の継嗣である秀包が継いだろうことは想像に難くない。また、結城家にも実際養子はいたのであり、断絶の危機に瀕していたというわけでもない。あるいは、丹羽長秀の庶子にして秀長・藤堂高虎の養子となった仙丸高吉が結城家に出されたということも想像できる。

豊臣秀勝は美濃岐阜に所領を持っていたが、これが継続するとなると後に岐阜に入った織田秀信の所領問題はどうなるか。おそらくは織田信雄が出た後の尾張清洲あたりに入ったのではないだろうか。各人所領問題については、まだいくつか詰めが必要である・・・。

秀長が存命しておれば、秀次・秀勝・秀保兄弟の改易処分はなかっただろうし、もちろん関ヶ原の合戦なども起こらなかったであろう。豊臣氏の一氏独裁制になったか、秀吉政権晩期のような合議制になったかはわからないが、独裁にはならなかったように思う。関白秀次を首魁とし、大老に豊臣秀長・徳川家康・前田利家・上杉景勝・毛利輝元。一族衆として、豊臣秀勝・秀俊・秀康・宇喜多秀家・織田秀信など。御傍衆に伊達政宗や最上義光、毛利秀元などとこれも詰の勘案がいりそうである。


大変乱文長文になってしまった。
またいずれ整理し、整然とまとめる所存である。
長秀と名乗ったことがあるんですか?
当初は丹羽長秀の「長」と秀吉の「秀」で長秀と名乗りました。
そして天正12年(1584)に秀長に改めました。

改名の理由の一つとして、丹羽長秀と紛らわしいから秀長に改めた、とか何とか・・・。
秀吉の一族は皆基本的に「秀」を頭に揃えているので、それに揃えたのかもしれませんね。
長秀と名乗ったのはいつ頃のことでしょうか?
天正11年頃、兄の秀吉に倣って木下小一郎から羽柴長秀に改名したようです。
また、この年2月に美濃守の官位を貰っているので、それを機に諱(名前)をつけたとも考えられます。
>秀頼は秀吉の種ではないという説があるが
小和田氏をはじめ、豊臣家などの御奥制度からそれは俗説であるとされています。
御本意か不本意か存じかねますが、秀頼の出生が豊臣家の滅ぶ原因だったと受け取れました。

確かに秀長は優秀な政治家だったと思いますが、秀頼がいてもその補佐役として豊臣家が永続したと思います。
他の説が客観的なのに、こちらだけ従来のまま批判されているのは残念です。

目障りな苦言を呈して申し訳ありません。
>たまかさん
はじめまして、書き込みありがとうございます。

秀長の正室については、詳細は伝わっていないのですが、智雲院(ちうんいん)という人物名(出家後か)が伝わっています。この人物の真名はもちろん、どういった人物かも分かりません。
ただ、逸話の一つとして秀長の正室には毛利輝元の娘(養女か)が嫁いだという話があり、さらに山口及び岩国の方に智雲院という地名があることから何か関係があるのかもしれないと思っています。もちろん何の関係もないかもしれないのですが、当地出身の娘か、或いは秀長没後出家して当地に移り住んで毛利家の加護を受け余生を送ったのかも・・・と推察できますね。
これに関連して、秀長の娘が毛利秀元に嫁いでいることも、ひょっとすると何か関係があったのかもしれません。

秀長を始め、豊臣一族は未伝承の類が多く、伝わっていることも伝説の域を出にくいものが多いのが特徴と言えるかと思います。
なお、一次資料としては『多聞院日記』に多く大和大納言秀長のことが書かれているようです。
>おゆずさん

>御本意か不本意か存じかねますが
えー、甚だ不本意です。
自分の稚拙な作文能力に恥じ入るばかりですが・・・。

豊臣家を語る以上、正式な嫡流である秀頼を否定したりはしません。ただ、秀長が存命であれば、間違いなく秀頼が関白になれたかどうかも疑問ですよね。もちろん豊臣家の永続は間違いないと思いますが。

私の考えでは、秀長存命ならば秀次は関白のままであり、秀頼成人まで関白職を退くことはないと思います。そして秀頼と秀次嫡男仙千代丸はほぼ同い年であるから、正式には秀頼が嫡流とは言え、秀次も正式に秀吉の養子となり関白を譲られたわけであるから仙千代丸と秀頼の立場は若干の差異はあれど、ほぼ等しい立場になってしまうと思われ、そこでも秀長が存命であれば秀頼に関白を・・・となるのではないでしょうか。
秀長長命における豊臣一門は、大和秀長家・丹波秀俊家・美濃秀勝家・清洲秀次家と最低でもこの4つと大坂関白家が形成され、言わば江戸幕府における徳川御三家のような役割を果たすことができたのではないかと。関白家が秀吉→秀次→秀頼と続き、後は全て秀頼の後継で受け継がれていくことが当然至極真っ当であり、筋目も正しくなりますね。

自分でも乱文だとは思うのですが・・・。
差し当たって、私はこのコミュの中では全て好意的な方向で見て書いています。一門の人々に対して批判的な内容にはならないよう努力しています。そのスタンスをご理解頂きたく思います。
もちろん様々な批判は甘受しますし、見直し反省もします。

どうぞこれからもよろしくお願いします。
拝読させていただきました。

私の誤解だったようで、大変失礼しました…。最近そのような方向の意見を目にすることが多いので…。

私も、秀次は個人的に好きなので、秀次→秀頼(舅:秀長)という形式が一番豊臣家の繁栄につながったであろうなあと思われてなりません。

批判、というつもりはなかったのですが、どうなのかなあと思いました。
うるさくてすみません…
いつも書き込みを拝見して、勉強させていただいております。私は豊臣家のごく一部しか存じ上げませんので、信親さまの物知りには甚だ感じ入るばかりです。

横槍大変失礼しました。これからもがんばってくださいね。
まちがえました;
舅:秀長 → 舅:秀次 です…

秀頼と清洲姫君に世継が産まれていれば言うことなかったんですが…
秀吉が関白に任命された頃、秀長は姫路城主だったらしいですね。
やはり要所を任せられる人だったんですよね〜。
秀長に娘がいたのは驚きです。毛利家に嫁いだのですね 豊臣家の血は途絶えてしまったものとばっかり・・・なんかホッとしました。先ほど秀吉の養子(猶子?)の宇喜多秀家を調べてたら関ヶ原で負けて八丈島に流罪になったけどその子孫が明治の新政府の計らいにより罪を解かれ東京に戻り士族に加えられたと知りこちらもホッとしたところです。
秀頼には織田家の血が入っているので秀吉は自分の天下をより正当化するために秀頼を後継者にしたかったのでは?

 秀長がもう少し長生きしていれば豊臣家臣団の分裂は避けられ家康もそう簡単には天下を横取りできなかったと思います。
はじめまして。

自分はどちらかと言うと秀吉より秀長の方が好きですし、
秀長が長命であれば…という説にも、
そうあって欲しかったと思うのですが…。

案外秀吉に殺されてたか、秀吉と秀長の間で争いが起こったのでは…とも思います。

秀長は自分の跡目を高吉に決めて居ましたが、秀吉の横槍で秀保と決められ、それ以降、秀吉との仲が険悪になったとされてます。

結局、高吉は藤堂家に引きとられ 事なきを得ますが…。

これはもう、体長を崩していて、やはり兄には逆らえないという気持ちの部分と、逆らう、気力、体力がなかった…の両方だと思うのです。

ですがもし…健康で気力・体力が充実していれば、この時は耐えたとしても、
利休の事、朝鮮出兵の事、秀頼の事、秀次の事と火種は山積みされていますから…秀吉から秀長に仕掛けたかも知れないし、豊臣となってから報われなくなった羽柴家家臣からの不満や要請を受け、
秀長の方から仕掛けたかも知れません。

それこそ場合によっては秀吉対秀長+秀次とかにもなったかも…。

またそうやって考えると、秀吉の秀保暗殺説などもありますが、これが仮にそうだとすると、それこそ秀吉が暗殺した最初の人物が秀長だったのかも知れない…とさえ思います。

秀長の資料が少ないのも…秀吉や三成がそうしたものを葬ったとも思えるのです。

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