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豊臣一門コミュの謎な事…

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すみません、勝手にトピ立てさせて頂きます。


秀次遺児「隆清院」の姉の事なんですけど関白粛清の前後?に
「梅小路家」に嫁ぎ眞田家に嫁いだ妹ともども難を逃れた、と
多くの資料に出ているのですがこの「梅小路家」の事を調べた所、
その初代当主は1619(元和5)年生まれ、となっていたのですよ。

…確か大阪城落城が1615(元和1)年で、隆清院は娘の「なほ姫」をつれて
身重の体で落城前の大阪城を抜け出し、最初は祖日秀院(秀次母)の元へ
身を寄せ、次に「姉の嫁ぎ先である梅小路家」に身を寄せてそこで
幸村公三男の幸信を生んだとされているのですが・・・
当主がこの4年後生まれではこの時点ではまだ「梅小路家」は存在していない事に
なるんですけど・・・一体、隆清院姉はどこに嫁いでいたのでしょうか?
その事が気になって夜も眠れません(^^;

コメント(5)

早速調べましたら、1584年〜1640年。豊臣秀次の娘。真田幸村に嫁ぐ。出羽亀田藩関係の史料で法号隆清院とされており、妙慶寺には隆清院の位牌がある。幸村の側室となり、5女御田姫、3男幸信を産んだという。周知の通り、秀次は文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって自刃を強いられ、その妻妾、若君なども同年8月2日に京三条河原で斬られている。幸村の側室となったというこの女性は女児であったことからこの惨劇を潜り抜けて成長していたのであろうか。ともあれ、大阪の陣の際、御田姫とその母隆清院は秀次の母(秀吉の妹)瑞龍院(智殿)の許に身を寄せ、難を逃れたという。その後の秀次の娘隆清院の行動は不詳だが、妙慶寺に位牌があるところを見ると、亀田に身を寄せた可能性もある。
とあります。きっともっと詳しい人がコメントしてくれると思いますがいずれにしても豊臣と真田の繋がりの話しでうれしいかぎりです。
>まんぷくさん
初めまして、わざわざお調べ頂き誠にありがとう御座います。
御覧の様に隆清院も謎の多い人物でして、秀次正室一の台の
娘でありながら何故か処刑は免れていますし(側室子の清洲
姫君という異母妹は処刑されている)まず家の格からして
あまりに違い過ぎる真田家に嫁いで来た事、そして大阪城
落城後の去就についても不可解な事ばかりですしね。

ましてや法号すら伝わってなく、「梅小路家室」と
その関係性でしか存在を明らかにされていない「姉」となると
本当に資料が少なくて、一時はその存在すら疑問に思えて
しまった程です(「駒井日記」に秀次が隠し子二人の存在を
記した手紙を北政所に送ったと書かれているのでこれがおそらく
隆清院とその姉、かと推察されます。隠し子扱い故に粛清も
かいくぐって逃げられたのかも、と…)

そして梅小路家の謎ですが…私の友人の推理に曰く、
「隆清院と幸信を守る為に何者かが裏工作をしたのかも?」と
いうのです。
つまり…おそらく姉に匿われたのは真実なんでしょうけど
その事で姉の婚家に迷惑が掛かるのを畏れた庇護者が後年
経歴操作をしたのではないか、という事なんです。

詳しく書くと長くなりますがつまり梅小路家という分家を
作ることで元からの婚家に咎が行かない様(発覚した際には
分家の断絶で済む様に)いわばダミー的な存在が「梅小路家」
ではなかったのでは?という推理でした。
そしてこの裏工作を行ったのは隆清院の母方祖父にあたる
菊亭晴季だったのでは、と私は推察しているのですが
(晴季本人が表立って動くと目立ってしまうので)
如何なものでせうか…

失礼しました。疑問だったのは姉の方だったんですね。
確かに「姉の嫁ぎ先の梅小路家の所に身を寄せて・・・。」と殆どこれが書かかれてますね。
隆清院さんが頼らなかったら姉の存在もわからなかったような。
結局お役に立てずすみません_(_^_)_

菊亭晴季は真田家と親戚だからありうる話ですね。
かいくぐって逃げられたのですからしてやったり菊亭晴季ですね。
藤原北家勧修寺流・清閑寺共房の三男・定矩が初代梅小路家の当主ですね。
(少なくとも当流は)

清閑寺共房(1589〜1661)
梅小路定矩(1619〜1695)

共房の代に遡って記したのでしょうか。
また、共房自身も出身は別(中御門)家なので、改ざんが行われた可能性もありますね。
公家と親交の多かった秀次ならではの繋がりなど・・・
>まんぷくさん
菊亭晴季は自分の養女(元は正親町家出身?)を真田昌幸の
正室として輿入れさせている関係から真田家に隆清院を
送り出して保護を頼んだのかもしれませんね。

ところで、この昌幸正室「山手殿」の出自にも謎が多いんですよね。
出身だけでも「宇田頼次」の娘とか「石田三成」の正室の姉妹
とか色々言われていますし…ただ「山手殿」は「京御前」とも
呼ばれていた様なので京都の公家出身というのは間違いなさそうです。

>信親さん
その梅小路←清閑寺、の流れですがさっと簡単な図にして遡って
ゆきますと…

梅小路定矩(1619〜 1695)→清閑寺共房( 1589〜 1661)→

→中御門資胤( 1569〜 1626)→庭田重保(1525 〜 1595)、と
なっております。
そしてこの3代前の庭田重保の母親が「今出川季孝娘」となって
いるのですが、この「今出川季孝」(1479〜1519)というのは
今出川(菊亭)晴季の祖父に当たる人物なのです。
つまり、晴季と庭田重保は「いとこ同士」という極めて近い
親戚関係にあったのです。
故におそらく晴季は親戚の家を頼り、その分家筋に当たる
中御門家に預け、更にその又分家すじの清閑寺家に孫娘を避難
させたのでは、と推察致します。



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