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豊臣一門コミュの【準一門】・【一門格】

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準一門や一門格というのは、豊臣家一門に連なる、一族以外あるいは遠戚の連枝衆的存在のことを指す。

なお、一門と準一門の違いに関しては微妙なところであり、明確な線引きはしない。

例えば結城秀康や八条宮智仁親王など一度養子になりながら、その後解消され他家に出されたり本家に戻ったり別家を立てたりした人たち。
宇喜多秀家や小早川秀秋は豊臣一門として有名であるが、これらも立場的には準一門と言うことができる。ただ、こちらは先の結城秀康などと違い、血や家として豊臣家と縁があるために、準ではなく一門と言っても何ら問題はない。

そして一門格とは家として豊臣家との接点は少なかったり、あるいはほとんどない場合もある。秀吉などが気に入った人物に対して豊臣の姓を授けた者たちもこちらに分類する。
例えば、真田信繁(幸村)、池田輝政や吉川広家などである。
他の一門格(大名)を列挙してみよう。
・前田利家、織田長益、織田秀信、木下利勝、京極高次、森忠政、筒井定次、大友義統、稲葉貞通、丹羽長重、蜂屋頼隆、毛利秀頼、細川忠興、蒲生氏郷、堀秀政、長谷川秀一、里見義康・・・

豊臣政権で大きな勢力を持っていた毛利輝元や徳川家康は豊臣姓を貰っていないが、その子や一門には準じる地位や格を持った者もいた。しかし、これら一門格にあった大名たちは豊臣家滅亡後、その姓を捨て豊臣一門格を持つ者は消え去った。

江戸時代も残ったのは、準一門に区分けされる人々だけであり、大名家では豊後日出藩木下家と備中足守藩木下家の二家に過ぎなかった。
(木下家は一門であるが、細かく区分すると準一門とも・・・。)

コメント(34)

毛利輝元は天正十六年に豊臣姓を下賜されているようですが……。

豊臣姓を下賜された人数では徳川家と比べると毛利家は圧倒的に多いですね。
徳川家は結城秀康に徳川秀忠、そして家臣団で数人。
一方、毛利家は毛利輝元をはじめとして、小早川隆景、吉川広家、穂田元清、毛利秀元、毛利元政、毛利秀包。そして家臣団でも十数人。

よほど毛利家を繋ぎとめておきたかったのでしょうか……。
お、輝元のことは知りませんでした。
まだまだ勉強不足です(^^;

秀吉と毛利家とは長い付き合いがあり、
また、毛利家は天下を狙わず。
という傾向にあったため、重要視したのではないでしょうか。
毛利輝元と小早川隆景は大老。
吉川広家は宇喜多秀家の姉婿。
毛利秀元は豊臣秀長の娘婿。穂田元清はその父。
毛利(小早川)秀包は秀吉お気に入り。

徳川氏の方は、徳川秀忠の正室が豊臣秀勝の正室の再嫁。
結城秀康は秀吉の養子であり当然のことと。
家康は秀吉の義弟であるので貰ってもいい立場ではあるのですが、やはり何かしら警戒していたのでしょうか。あるいは家康が源氏であることを捨てたくなくて固辞したのかも知れません。

そういえば豊臣秀次の実父三好吉房も豊臣氏にはなってませんね。
豊臣氏一族の妻の家系(姻族?)はどんな感じなんでしょーかー?
秀次さんには大量の嫁がいたようですが、その一族はどういった立場にあったのか、とか・・・。
秀吉の弟・秀長の妻も、一族は日の目を浴びたりはしなかったのでしょうか。
秀吉の妻ねね関連はたまに聞きますけど、他はさっぱりなのでちょっと気になりました。知ってる方いらっしゃいましたらご教授ください!
現代日本の民法上の規定によれば、親族には直系・傍系それぞれ血族・姻族が存在する。一般には傍系の三親等か四親等あたりまでが一族とされるのではないだろうか。

秀吉の直系血族には、
妻・ねね、長男・秀勝、次男・鶴松、三男・秀頼
秀吉自身の尊属及び妻ねねの尊属がいる。
傍系血族に、弟秀長、甥秀次・秀勝・秀保
傍系姻族に、甥秀俊、義弟浅野長政などがいる。

こうした手法で広げて行くと、一門に値する人がどこまでどれだけいるかを見ることができると思われる。
養子養女の類を付するとこれまたかなりの量になるだろう。

一族の少ないと言われる豊臣家だが、こうした見方をすると、結構な人数に登る。尤も、いくら一族が多かろうとも有力一門に成り得なかったのは史実が示すとおりである。
妻子の多かった秀次を中心としたら、姻族一族から模擬的連枝衆を形成させることもできるだろうか。

簡単に史実上の結論から述べると、秀次の姻族らは、秀次が本格的な権威を持つ前に失脚してしまったので日の目を浴びることはありませんでした。もし、秀次が関白として、あるいは有力一門として存命していたら、姻族衆が有力連枝として形成されていたかもしれませんね。
【豊臣一門(一時期のみも含む)】
豊臣秀吉、豊臣鶴松、豊臣秀頼、豊臣国松、豊臣秀長、
豊臣秀次、豊臣秀勝、豊臣秀保、豊臣秀俊、豊臣秀家、
豊臣秀康、
羽柴秀勝、羽柴秀元、羽柴秀宗、羽柴高吉、羽柴秀以、
羽柴秀政、
豊臣家定、豊臣勝俊、豊臣利房、豊臣利定、豊臣秀規、
豊臣利次、豊臣延俊、豊臣利直、豊臣延由

【擬似一門(豊臣氏)】
前田利家、池田輝政、織田長益、織田秀信、京極高次、
森忠政、筒井定次、大友義統、稲葉貞通、丹羽長重、
蜂屋頼隆、細川忠興、蒲生氏郷、堀秀政、長谷川秀一、
里見義康

【擬似一門(羽柴氏)】
小早川隆景、毛利輝元、徳川家康、京極高知、前田利政、
最上義光、長宗我部元親、島津忠恒、立花宗茂、堀秀治、
佐竹義宣、前田利長、上杉景勝、徳川秀忠、織田秀雄

【秀吉縁者】
加藤清正、福島正則、青木一矩、小出秀政、浅野長政、
杉原長房
>秀吉の直系血族
孝蔵主の姪、「川副徳子」(おそらく「とく」という女性だったのでしょうね。)にも女児がいますよ。
どこに嫁いだんだっけなあ…

>秀次の直系血族
秀次の遺児は於菊(山口兵内室。母は淡輪隆重女「小督局」こと於小督の方とも武藤長門女於沙奈の方とも。)
梅小路家室(母は小浜御坊善助女「中納言」こと於亀の方「中納言」か)
隆清尼(真田信繁側室。母は捨子であった於竹の方か)
於美屋(母は北野松梅院禅永女於佐古の方)
の四人が伝えられています。
(亡くなった姫は清洲姫君だけのようです。)

ちなみに亡くなった若君・姫は
竹中与右衛門女於長の方腹に男児(懐胎)と仙千代丸、
山口升雲女於辰の方/於竹の方腹に百丸と「清洲姫君」(秀頼室)、
北野松梅院禅永女於佐古の方腹に十丸
浅井時雲女於古和の方腹に土丸
あと、甘丸、水丸(生母不詳)
が記録されているようです。
>おゆずさん
情報書き込みありがとうございます!

ところで、孝蔵主は豊臣家と血筋的な繋がりが何かあるのでしょうか・・・?あるいは川副家の方でしょうか。
孝蔵主は蒲生家中の出で、秀吉や北政所の信任が厚かったということは知っているのですが。
姪御が側室か何かだったのでしょうか・・・って調べてみたら秀吉の側室だったのですね。そこで夭折した女子を産んでいると。・・・あれ、夭折してないのでしたか。何かの資料で夭折という記述があった気がしたのですが・・・。
秀吉の一女・徳は丹羽家の家臣・鳥井伝右衛門に嫁ぎ三人の娘を産んだようです。この情報ソースは白川亨氏の『石田三成とその一族』(新人物往来社)です。

まだまだ知らないことが沢山あります。精進しなければ・・・
えーと。
加藤清正と福島正則はたしか「大政所」於仲(関氏)の血縁(いとことかいとこの子とか…)だったと記憶しておりますが…
孝蔵主は…?
川副氏ということは確かですが、北政所の侍女という関係しか分からないですねえ。
お役に立てず申し訳ございません。
一門ではないのですが。

毛利高政 (?〜1624年)
 森友重の子。豊臣秀吉の庶子とも伝わる。

この、伝・庶子についてご存知の方いらっしゃいませんか?
もしいらっしゃりましたら詳しく教えていただきたく。
毛利高政
永禄二(1559)年〜寛永五(1628)年十一月十六日 享年七十

『毛利家譜』に「一説ニ太閤ノ庶子トモ云フ」とありますが、毛利家の記録以外で裏付けられないので、伝承の域を越えるものではありません。
何に拠るものか分かりませんが、本能寺の変後、秀吉が毛利家と和睦したとき人質として毛利高政(当時の苗字は森ですが)兄弟が出されたのは、高政が秀吉の庶子だったから、なんて説も。
孝蔵主の姪、徳子が嫁いだ鳥井家と思われる家を丹羽家臣の記録から探し出しましたが、残念ながらそちらには伝右衛門の妻は書かれていませんでした。伝右衛門は旧蒲生家臣で、蒲生家が無嗣断絶後に丹羽家へ仕えたとありますから、川副氏と接点があったことは十分考えられます。
加藤清正と福島正則ですが、通説では

・清正母と秀吉母が従姉妹
・正則母と秀吉母が姉妹

とされています。
血縁関係に関しては異説もありますが、二人の待遇(領国の位置、石高、豊臣姓下賜の有無)から考えて清正より正則の方が秀吉との血縁が近かったのは事実でしょう。
一門衆形成領地(※最終領地石高。時代重複あり)

豊臣秀次(尾張清洲100万石)
豊臣秀勝(美濃岐阜20万石)
豊臣秀保(大和郡山100万石)
豊臣秀長(大和郡山112万石)
宇喜多秀家(備前岡山57万石)
羽柴秀勝(丹波亀山13万石)
結城秀康(下総結城10万石)
三好吉房(尾張清洲12万石)
三好康長(阿波勝瑞3万石)
毛利秀元(周防山口20万石)
小早川秀秋(筑前名島52万石)
小早川秀包(筑後久留米13万石)
吉川広家(出雲富田14万石)
福島正則(尾張清洲24万石)
福島正頼(伊勢長島1万石)
加藤清正(肥後熊本20万石)
京極高次(近江大津6万石)
京極高知(信濃飯田10万石)
青木一重(摂津麻田1万石)
青木一矩(越前北庄20万石)
木下俊定(丹波国内1万石)
木下家定(播磨姫路12万石)
木下延重(播磨国内2万石)
木下延俊(播磨国内2万石)
木下勝俊(若狭小浜6万石)
木下利房(若狭高浜2万石)
木下頼継(越前国内2万石)
小出秀政(但馬出石6万石)
杉原長房(但馬豊岡2万石)
森忠政(信濃川中島14万石)
浅野長政(甲斐府中22万石)
前田利長(加賀金沢83万石)
前田利政(能登七尾20万石)
『戦国人名辞典』より
一族・一門ではないけれど、名を下賜された人物たち。

・羽柴長吉
秀吉の小姓。後、秀頼に伺候。

・羽柴秀直
内記。
秀吉の馬廻、及び使番。

何れも本姓名・生没年不明。

・豊臣国綱
文禄三年(1594)七月十七日
従五位下木工頭に叙任。

宇都宮国綱のことだろうか。
>羽柴長吉

長谷川秀一の長男は羽柴長吉(ちょうきち)といって、秀吉・秀頼に仕えたそうですが。
>羽柴長吉
長谷川家は秀一が死ぬと、無嗣断絶しましたが、息子がいて秀吉に仕えることになったのに、なんで家を継がなかったのでしょうね。庶子だったとか、幼少の為とか、あるいは長吉を手元に置いておきたかったから、とか・・・でしょうか。

羽柴長吉は「ちょうきち」と読むようなので、ぶきっちゅさんの仰る通り秀一の子息となりそうですね。

>羽柴秀直
羽柴内記というと小早川秀包をさしていた時期があったようなので、ひょっとすると彼が大坂にいた頃その役を給わっていたのかも知れません。
>羽柴長吉

『寛政譜』によると京極高知の娘は羽柴長吉某の妻とあります。この羽柴長吉(ちょうきち)と同一人物でしょうか。

ついでに羽柴長吉の子孫は松代藩士になったということですので、調べれば詳細が分かるかもしれません。
私は、豊臣は姓で羽柴は苗字だと思っているのですが、その認識は正しいのでしょうか。
>草津少将さん

その認識は間違っていないと思います。

しかしながら、ここで私は敢えて突っ込んで考えてはいません。
なぜなら、秀吉自身は豊臣姓を下賜された後は羽柴を名乗っていないため、姓と苗字の原則を当てはめて良いものか分からないからです。こと豊臣時代は、秀吉が豊臣と羽柴姓(苗字)を乱発したので、その境目も判別し難いものとなっているように思えます。

後世の判断から原則を当てるならば、
豊臣朝臣羽柴秀吉ということになりますかね。
下賜された人々はどうなっていたのでしょうか。
まさか羽柴朝臣と名乗ることはないですよね。
平朝臣羽柴〜でしょうか。

これもはっきりとしたことはなんとも言えないですか。
えっと、表現おかしかったでしょうか。
羽柴秀吉が天皇から豊臣姓を賜ったということでした。

羽柴はいわゆる姓ではなく苗字なので、羽柴朝臣とはなりません。
平朝臣羽柴某〜というのはありえることでしょう。
秀吉も藤原・豊臣姓を名乗る前は平氏などを名乗っていたこともありますから。ただその時に平朝臣羽柴秀吉と名乗った形跡はないようです。

家臣で豊臣姓を下賜されず、羽柴を名乗った大名例として、
土佐の大名・長宗我部元親(姓:秦氏)は、
秦朝臣羽柴土佐侍従元親となったようです。

また、豊臣姓を下賜され、羽柴を名乗らなかった大名例として、
肥前の大名・鍋島直茂は、
豊臣朝臣鍋島加賀守直茂と名乗ったようです。

豊臣姓を下賜され、羽柴も名乗った大名例は、
筑後の大名・小早川秀包
豊臣朝臣羽柴筑後侍従秀包となったようです。

文章力なくて申し訳ないです・・・。
いえいえとんでもありません。
恐れ入ります。
姓だけ豊臣を名乗るとか苗字だけ羽柴を名乗るといったような、いくつかのパターンがあったことは知りませんでした。
勉強になりました。

おっしゃる通り、秀吉が豊臣や羽柴の下賜を乱発したのは存じておりましたが、誰がどう名乗っていたのか (信親様が例を挙げられたような人々の名乗り方の違い) については全く知りませんでしたし、一度何かの資料などで署名を見ても忘れてしまいます。
いつも後になって非常に気になるのですが、どこで見たかすら忘れてしまいして。

誰がどう名乗っていたか、一覧になっているような都合のよい資料なり本は、ご存知ないでしょうか。

信親様は記憶されていらっしゃるのでしょうか。
よく見たらこのトピの前の方に一覧がありますね。
すみません確認不足で。

参考にさせていただきます。
>草津少将さん

流石に全部記憶はしていません。
また、一覧なる資料や書籍などは私が知る限りありません。
なので、個人的に現在研究中ということになります。
どうぞよろしくお願いします。
そうですか。わかりました。そんな都合のよいものはさすがにありませんよね。

ありがとうございました。

研究結果期待しております。
訂正

>平朝臣羽柴秀吉と名乗った形跡はないようです。

ありました。
天正十年十月「従五位下左近衛権少将」に叙爵した時、翌年「従四位下参議」に、同十二年十一月「従三位権大納言」に進んだ時、そして十三年三月に「正二位内大臣」に昇進した時の口宣案などには、「平秀吉(朝臣)」と記されていました。
>羽柴長吉
長谷川秀一の子、長吉(ちょうきち)の本名は長谷川則秀らしいです。
妻は京極高知の娘で、子孫は松代藩士とのことだが、子の名前は確認できず。
寛文12年(1672)御役人帳にある長谷川与右衛門や伝左衛門、
幕末に活躍した長谷川昭道などはその裔だろうか。
現在各地におられる豊臣氏及び羽柴氏の方々は、そのほとんどが秀吉と係りないようです。
江戸幕府により羽柴氏公称は禁じられましたしね。
明治維新、平民苗字申請時江戸時代前期に亡んだ名を名乗る人が少なからずいたようで、特に豊臣氏・羽柴氏はその例が顕著のようです。

個人的に考える正統の羽柴氏は、豊後立石羽柴木下氏で五千石の旗本ですが、大正期に途絶えています。
とは言え、女系ならば秀次、秀勝系が続いていますし、秀吉らに下賜された豊臣・羽柴の名を密かに持ち続けた家がないとも言い切れません。

それと、東北には秀吉らと何の関係もない羽柴氏がいたという話もあります。
一概には結論付けられませんが、参考にして頂ければ幸いです。
◆木下昌利

木下将監。
但馬出石城主(城代)

羽柴秀長の一族と伝わる。
「秀吉の」一族でなく「秀長の」一族とされているが、
昌利は秀長の舅、或いは義兄弟にあたるということであろうか。
妻の家系であるならば、「秀吉の」ではなく「秀長の」一族となる。
城を任されているので舅と考えるが、義兄弟でも有り得ることか。
いずれにしろ推測の域は出ない。
いつから秀長に従ったのかは不明。
1576年近江長浜城の留守居役を杉原家次及び一柳直次と勤めたらしい。
播磨三木城攻め、備中高松城攻め及び賤ヶ岳の戦いに従軍している。

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何か情報お持ちの方おられればご教授頂きたく。
私の父方家は「ねね」方の木下家定の末裔と
聞いています。
刀や甲冑や小判などが残存する事や
祖父から口伝で聞いている話などから
本当の事ではないかと思いはじめ
自分のルーツに興味を持ち
このコミュニティに参加させていただきました。

13の方の記述に関係するかもしれませんが
なぜか家には福島正則の甲冑や遺物が多く
祖父に聞いたところ、関ヶ原の戦いの後に
福島家に属して守られ、福島家が改易→取りつぶされた後は
今の岡山に移り守護代になったと聞いています。

明治時代は子爵だったとの事ですが
子供のころ、回りの友人に話したら嘘つき呼ばわりされた為
自分の中でも自信が持てず家の話はしないようになりましたが
私自身も40歳近くなり、最近祖父が亡くなった頃から
祖先に興味を持ち、知りたくなりました。
もしこの手の話詳しい方いたら是非教えてください!!

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