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豊臣一門コミュの豊臣嫡流伝説

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豊臣秀吉から豊臣秀頼の二代が公式での豊臣家正嫡である。
豊臣秀次は、秀吉の養子となり関白を譲られはしたが、結局罪を着せられ失脚、秀頼への継投はなっていないので嫡流からは除外するのが一般的であろう。
豊臣秀頼は大坂の陣で滅び、豊臣家嫡流は滅んだ、というのが公式の歴史上の出来事である。

が、伝説がある。
信憑性云々を語ると証明の仕方が難しい為先細りにしかならい。よって、信憑性などは無視し、ただ、伝説を。
豊臣秀頼には庶子があった。正室の子ではないので基本的に嫡子ではないが、もし秀頼が生きており、正室に男子ができなければ、この庶子(国松)が嫡子となっていたであろう。
ここでは、上記を以って前提として語ることにする。

ここで伝説上で豊臣秀吉の孫とされる男子を挙げる。
伝説をそうまとめにして見ると、秀頼の男子は総勢9人である。以下、箇条。
・延由(羽柴延次)
・時忠(木場松千代)
・時広(時国)
・善右衛門(木下)
・誉之右衛門(清野)
・正之(橘誉三郎)
・秀綱(羽柴天四郎)
・求厭(僧籍)
・久尚(伊集院菊丸)

なお、
羽柴延由は豊後立石羽柴家として実際に存在するが、この延由が秀頼の子、国松であるという説がある。
木場時忠は、秀頼の子で、木場家には一子相伝の秘事として豊臣家正統である、というものがあるらしい。
羽柴天四郎秀綱というのは、島原の乱で有名な天草四郎時貞のことだという。
求厭は僧であるが、国松が寺に匿われて出家したという説と、国松の弟である説がある。いずれも伝説の粋を出ないが。
伊集院久尚は、秀頼が薩摩に逃れてきて、その地で男子をもうけ、伊集院家に入ったというものである。

以上を踏まえると、伝説上での嫡流は木場時忠か、国松系羽柴延由かということになる。
どちらの家も一子相伝、ということで豊臣正嫡と伝わっている。ここでどちらを、あるいは別のどこか、と判断するのは極めて難しい。こういう伝説もあるよ、程度に軽く読んでいただけると幸いである。

天草四郎が秀吉の孫だとする伝説は、徳川の支配に対して戦を起こしたことから、豊臣の意趣返しだと考えることができるため生まれた伝説ではないだろうか。しかし、ほとんどの伝説はあくまで伝承でしかなく、立証は困難なのだが・・・。
これらを考えることは歴史ロマンもあるし、とても面白いものである。今年はまた豊臣氏の研究書が発表されるらしく、今からとても楽しみだ。新説を期待している。

コメント(6)

秀綱の件に関してですが、天草の乱ではほとんどの人が殺されたそうですが、普通、一揆の平定というのはそこまでしないそうです。さらに、天草の乱の軍資金はどうしたのかという謎もあります。これは考えすぎかもしれませんが、それが俗にいう秀吉の莫大な埋蔵金からでていた可能性はなくないと思います。つまり、徳川サイドは秀吉の子孫だと知っていたために一揆を起こした人たちを皆殺しにしたのではないかと思えるのです。
研究書というのはどこでみれるのでしょうか?
↑で私が言った研究書とは、平成18年6月刊行予定である

『豊臣氏存続・豊臣家定とその一族』 (今日の話題社)

のことを指しています。
著者は日本家系図学会理事である早瀬晴夫氏で、氏が研究したものは今までにない見地からの研究であり、とても興味深いものがあります。
当初は今月刊行予定でしたが、ずれ込んでるみたいです・・・。
現在発刊されている同氏著の『織豊興亡史』も大いに参考になっています。

本格的な研究書となると、史学会の会員になって会報を取るとかそういう手段になってきますね。

島原の乱の凄まじさに関しては、同県に住む者としてよく知っているつもりです。乱後、島原の土地には住民が(虐殺されて)いなくなり、他所から移住してきた人が多くなったため特有の島原弁というものがない、という話を聞いた事があります。話がずれましたが・・・。
秀綱の真否に関しては、かなりの確率で否定されます。天草四郎は、益田四郎という小西家(キリシタン大名・関ヶ原の後改易)浪人の子息であるというのが通説であり、それなりの史料も出ていますから。ただ、GOさんが仰ったように、乱の情勢・状況様々な点を鑑みて、豊臣の影を人々が思ったとしても不思議はありません。伝説が生まれる土壌は十分すぎるほどあったと言えるでしょうね。軍資金に関しては、朝廷関与説や大坂商人関与説・南蛮人関与説など色々あります。秀吉の埋蔵金というのは、正直信用性は低いと思います。徳川埋蔵金の方がまだ可能性は高いと思います。なぜならば、秀吉は・・・というより豊臣家の経済的地盤は極めて脆弱であったということです。さらに大坂の陣を起して、おそらく全て放出してしまったのではないでしょうか。

ああ、伝説を提起した私が否定的な意見になってしまって申し訳ないです・・・。否定する材料の方が多いのは当たり前なんですけどね(苦笑)
地元の方でしたか!さすがにお詳しいですね。ただ、大坂の陣後にも城内からは莫大な金銀がみつかったようなので、全て放出したとは思えません。
では、幕府はなぜそこまでの虐殺をしたのでしょうか?


話はそれますが、信親さんほど歴史に精通した方にネットを通してではありますが、出会えたことがとてもうれしいでです!大学では英語が専門なので、歴史は専ら独学ですが、高校の先生でもここまで精通している方はおらず、とても退屈でした。そのため、自分が知りたい歴史の核心を訊ねても曖昧な答えしか得ることができませんでした。知りたいことはたくさんあります!今後もいろいろ教えてください!
>大坂の陣後にも城内からは莫大な金銀がみつかったよう
おお、それは知りませんでした!
秀長が溜め込んだ金銀も大坂城に入ってたのかなぁ、とかまた新たな疑問が・・・。調べ尽すなんてことは生涯なさそうな感じがします(笑)

虐殺に関して。
キリシタンの温床となっていた島原・天草地方、しかも派遣された板倉氏を戦死させてしまった一揆勢に対して、幕府もその権威を守る為に断固とした態度をとる必要があったのでしょう。一揆の虐殺と言えば、信長がやった伊勢長島一向一揆がありましたが、宗教色の強い一揆には、為政者にとっては何かと不都合が多く、見せしめの色合いもあったのではないでしょうか。乱当時の幕府には、知恵伊豆と賞賛された老中松平信綱がおり、乱への対応も彼があたりました。その彼があのような仕打ちをしたからには、やはり為政者の立場として、禁教への見せしめ的な弾圧が必要だと考えたからではないかと思います。また、幕府としても棄教した人(特に農民)は許していたことから、棄教しない強行な勢力は抹殺するしかないと考えたことから、虐殺という行為に至ったのではないかと推測します。

ちなみにこの乱の後、キリスト教布教国であったポルトガルの来訪を禁止し、鎖国の時代に入ります。

えっと、お褒めに預かり恐悦至極、です・・・(^^;
歴史は、中学高校で習う程度のもの以外は、まあ雑学に分類されてもいいような分野ですからね。がっつり歴史をやって高校の教員になるような人はあまりいないと思います。だからまあ、やはり歴史をちゃんと深く学びたいとするならば、大学などへ行くしかないんでしょう。私の大学の講義に近隣の老齢の方がよく講義を聴きにきていたことが印象に残っています。
私も大学では歴史の「学び方」や「捉え方」は学びましたが、ここでやっているコミュなどの知識は趣味の範囲であり、独学なのであまり偉そうなことは言えないのですがー。
それでよろしければ是非、じゃんじゃん聞いて下さい(笑)
あと文章の拙さは勘弁してください。文学部出身のくせに文章力がない人なのです・・・(−−;
そろそろ大河ドラマせごどんに木場伝内が登場します。秀頼末裔言われる木場家だと思います。西郷隆盛の倒幕に何か影響を与えたかが注目されます。ドラマではそのような影響を与えた事実は描写されていないでしょうが興味持ってみてみたいですね。
薩摩木場家は1600年代から始まっています。この2枚の書状は1704年に発行された書状で木場家に残る家系図では初代が伊左衛門、2代目が伊太夫のようです。この書状はこの名を名乗った証明書のような物だと考えられます。何故、どこが発行したものなのかご存知の方がいらっしゃれば是非コメント下さい。また、豊臣秀頼との関係がこの中に隠されているのかどうかも興味深いところです。

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