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豊臣一門コミュの豊臣秀次

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永禄11年〜文禄4年(1568〜1595)
父:三好吉房(一路)
母:日秀(とも)
弟:小吉秀勝・秀保

義父:三好康長・豊臣秀吉
義弟:宇喜多秀家・羽柴於次秀勝・羽柴秀康・羽柴秀俊・八条宮智仁親王
義兄:羽柴石松丸秀勝・三好康俊

治兵衛・孫七郎・三好信吉・三好秀次・羽柴秀次・豊臣秀次
従四位下参議→従三位権中納言→従二位大納言→正二位内大臣、関白→左大臣を兼任。
天正11年河内北山2万石。
天正13年近江八幡43万石。
天正18年尾張・北伊勢五郡100万石。

正室:右大臣菊亭晴季の娘
側室:最上義光の娘・駒姫、淡輪徹斎隆重の娘・小督局、大島新左衛門の娘・お国、など他多数
子息:仙千代丸、土丸、百丸、十丸、水丸、甘丸
子女:姉小路氏室、真田信繁(幸村)室(四男幸信母)隆清院、拾許婚など

コメント(10)

豊臣秀吉の甥(姉・日秀の子)。はじめ、三好康長(笑岩)に養子入りして三好信吉(みよし のぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次と改名。
本能寺の変後、織田信長の後継者として台頭する羽柴秀吉(豊臣秀吉)の数少ない肉親であることから重用され、近江国の一部40万石余を領した。総大将を務めた長久手の戦い(天正12年)において岡崎奇襲部隊の大将として進軍途中、逆に徳川家康の奇襲攻撃を受け、大敗する失態を演じるものの、その後は四国征伐や小田原征伐において軍功をあげ、居城近江八幡の城下町運営でもその手腕を発揮した。天正18年(1590年)に織田信雄除封後の尾張・伊勢に転封され、清洲城主となる。
天正19年、嫡子鶴松を失った秀吉に関白職を譲られて聚楽第に居住し、秀吉との間に二元政治をひく。その後、朝鮮征伐に専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。
文禄元年(1593年)、秀吉に新たな子秀頼が生まれると関係が決定的に悪化。文禄5年に秀吉によって謀反の疑いをかけられ失脚、高野山に追放され、そこで切腹させられた。

同年、三条河原にて秀次の遺児(4男1女)及び正室・側室併せて39名が処刑されたが、子女3名は逃れ子孫を残している。また、子息のうち水丸と甘丸は処刑されたとの記述がないため、夭折したと見られる。
秀次主題小説

◆渡辺一雄『封印された名君 豊臣秀次』
→秀吉を悪として秀次の悲劇を描いた作品。
ありえないとは言い切れない、上手い背景です。

◆澤田ふじ子『有明の月−豊臣秀次の生涯−』
→石田三成を悪として、秀次を悲劇の名君として描いた作品。
秀次が好きならば読んで良いと思います。
鵜呑みにしたらきっと価値観が逆転するでしょう。

◆司馬遼太郎『豊臣家の人々』より「殺生関白」
→通説に沿い、権力の波に飲み込まれた様を描いた作品。
特別敵対者という存在を示さず、あえて言うなら彼が生きた時代状況が彼の最大の敵、といった感じ。
淡々と読みたい人にお勧めでしょうか。
出水康生『天下を制す 三好長慶VS織田信長』教育出版センター
によると、秀次が阿波蜂須賀家にかくまわれて余生を全うしたなんていう話があるそうです。
まぁ、生きていたならそれでいいのですが、そうなると殺された側室や家臣たちは何なの? と悲しくなるのも事実で。
おお〜。そういう話があるとは知りませんでした。
本も、探してみたいと思います。絶版になってそうな気もしますが・・・(汗
確かに、秀次本人だけ生き残っても他が殺されてしまっていては、むしろ余計残酷な話になってしまいますよね・・・。
秀次の悲劇は、彼だけでなくその周りの人たちにも総じて悲劇が襲っているということを含めての悲劇ですからね。なんとも凄惨な話です。
娘たちが生き残ったってことは、秀次の血は残ったってことですよね。そこらへんも詳しく知りたい・・・
秀次にまつわる女たち、みたいな感じで(笑)
>ぶきっちゅさん
秀次が阿波蜂須賀家に匿われて〜って話は、秀次の実父・三好吉房が秀次に連座して阿波に流されたことと何か関連があるのかもしれませんね。一緒に行ったか、あるいはどちらかの誤伝か・・・わかりませんが。

>白銀さん
秀次の血統は女系で2つ・・・。(+俗説1つ)
そのうち一人は真田信繁(幸村)に嫁ぎ、信繁の四男(三男?)幸信を生みました。幸信は秀次の名跡「三好」を受け継ぎ三好幸信と名乗りましたが、幸信の息子から真田を名乗り代々出羽亀田藩岩城家に使えました。また、幸信の姉は同藩岩城宣隆の正室になりました。岩城家に根付いたということですね。
もう一つは、梅小路氏に嫁ぎました。こちらに関しては目下調査中・・・資料が少ないのです。やはり公家だからだろうか・・・。
初めまして、秀次を巡る女性達の生き方に興味をもって
色々調べております。

秀次粛清の際に、妻(一の台)の連れ子(お宮の方13歳)にも
手をつけた事をして「畜生」と糾弾し、
故に妻妾子女虐殺の跡を「畜生塚」と名付けた、と言われて
いる様なのですが、秀次は本当に義理の娘に手を出して
しまったのでしょうか?万が一濡れ衣だとしたら何故連れ子
まで殺されなければならなかったのでしょうか?

しかし、もし真実だとしたら時代が違うとは言えやはり眉を
ひそめる行為ですよね。
実際、側室の中には13〜15歳の者もいた模様ですし…
秀次は、若い子が好みだったのかなあ…?
現代だったら犯罪ものなんですけどね(^^;
>ひるねさん
はじめましてー。返信遅くなって申し訳ないです(−−;
やはり秀吉と秀次を語る上では女性関係は外せませんね。

殊に秀次に関しては、その最後の状況も相俟って事実なのかどうなのかそれすらも良く分からない逸話が沢山残っています。側室に関することもそうですね。
当時の風俗と照らし合わせても尚、眉をひそめるようなこともあったかと思います。年端も行かない少女に手をつけたり、近親婚なんてのもあった時代です。調べれば調べるほど深みに嵌って行くような気がしてきます(笑)
また、妻子のほとんどが殺された中、娘が2、3人生き残っているという事実もありますし、研究のし甲斐がありますね。

どうぞ今後ともよろしくお願いします〜。
 ひるね殿

 前田利家の妻、まつは数え12歳(現在だと11歳)で利家に嫁ぎ翌年には長女を出産しています。現代とは違い男も女も早熟な時代ですから13歳の側室がいてもおかしくはない。

 殺生関白は完全な濡れ衣、現代でも近江八幡では街の礎を作った恩人として市民から慕われています。

 
自分は確かに秀次の側室や子供たちの処刑は残酷極まりないと思いますが…。

秀吉が一番畏れ、許せなかったのが、秀次のこの生殖能力だと思うので、秀吉側から見たら当然の処置だったと思います。

またよく言われる様に 秀次事件の黒幕が三成だとしたら…淀や秀頼の事よりも、むしろ秀次の朝鮮出兵の阻止が狙いだったと思います。

せっかく小西行長と謀って 唐入りを中止、和議を結んで兵を引き揚げさせようとしてるのに秀吉は秀次を総大将とか言い出すし、小牧長久手以外は一応の武功を立てている秀次が清正と手を組んだら…。和議なんて結べませんから…。

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