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Raymond Carverコミュのabout 「Cathedral」

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コメント(2)

そっけない語り手と、ひょうきんな感じの盲目の男性が真摯に語り合って、お互いとの距離を縮めていく過程が好きです。
何も期待していない相手からも、心を揺り動かされたり、これまで見えなかった世界を見せてもらったりすることってありますよね、その瞬間がばしっと伝わってくるのが好きです。
そして、最後に主人公がつぶやく言葉の意味合いが、読んでいる自分の心の状態によって違うところが、面白いです。

確か村上春樹は、「まったくこれは」と訳していたと思いますが、原文は「It’s really something」です。これは、たいしたことでもないのに大げさに話す人の話を聞いたりしたときに皮肉っぽく「すごいね」というときにも使うし、本当に心を打たれたときにも使う表現です。
何かに苛立ったり、自分に違和感を感じているときにこの小説を読むと、主人公が閉じていた目を開けて、目に入ってきた絵を見て、なんだ、どうってことないじゃん、という白けた顔をしている、という場面が目に浮かびます。
でも、カーヴァーが描いたのは、目を閉じたまま、今自分が体験していることの感動をかみ締めて「本当にすごい」とため息をつきながらつぶやいている主人公ですよね。

みなさんは、この作品の、どういうところが好きですか?
盲人にいざなわれて絵を描いた男は、その手と盲人の感覚世界によってこれまで認識すらしていなかった世界へといざなわれていきます。男にとっては未知の感覚を得始めたところで小説はクライマックスを迎え、その瞬間エンディングを迎える。読んでいるこちらも思わず“It's really something,”と声がもれました(実際には日本語で)。

著者の描いた物語を文章から映像的に(さらに言うなら五感的に)想像する読者はある意味では盲人と似た感覚で小説世界に触れていきます。

読書を自らの読解力で盲目的な自らをいざなう行為だとするならば、読者は盲人であり、それと同時にいざなう男であるとも言えます。

「Cathedral」では、いざなう手といざなわれる手が現れ、読者はその両方に感覚移入することができるのですが、小説世界の後半では本来とは逆の立ち位置(盲人にいざなわれて男は絵を描く。盲人が盲導犬を導いて歩くかのように)で物語は終結(村上春樹の言葉よると『決定的な転調』)に向かいます。

始めは奥さんにぶーぶー言っていた男が盲人とともに食事をし、その個人的人格に触れ、最後には著しい変化をみせる。簡単に言ってしまうとそういうことなのですが、そういうところが見事に見事です。



村上春樹訳では1983年刊行の『ぼくが電話をかけている場所』(中央公論社)に収録されたバージョンでは『たしかにこれはすごいや』と訳されており、1994年刊行の『Carver’s Dozen』(中央公論社)では『まったくこれは』で、2007年刊行の『村上春樹 翻訳ライブラリー 大聖堂』(中央公論新社)では『たしかにこれはすごいや』に戻っています。

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