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夢の小料理屋のはなしコミュの夢の小料理屋

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Facebookでここのところ書いている「夢の小料理屋」の話を、転載。



夢の中に繰り返し何度も出てくる和服美人の居る小料理屋があるんだけど、そこによく似た雰囲気の小料理屋の写真を見つけたので、メモ代わりに貼り付け。
何しろ、実際には存在しない小料理屋なもんで、そのものズバリを写真に撮る訳にもいかなくてねえ。
入る時、引き戸がカラカラカラって言う音を立てるんだよね。
その音が、お楽しみの時間が始まる合図。
でも、一度もそこから出る夢を見たことが無いんだ。

コメント(18)

例の、夢の小料理屋の話である。

もう少し壁側がスッキリしている気はするが、何となくこんな感じのカウンター。
30年ぐらい前のサンスイのアンプでJBLの小さいスピーカーが鳴っている。
いつも何かしらの音楽が掛かってるのだが、日によって選曲は随分違う。
ピアノ系の明るいジャズの日が多いようにも思うけれど、たまにはラジオが掛かってる日もある。

大抵お店に行くと、夏でも冬でも熱いおしぼりと、キンキンに冷えたサッポロの生がピルスナーグラスで出てくる。
それを飲み干し、しばしのどごしの余韻を味わいつつ和服美人の女将さんの後ろ姿を目で楽しんでいると、「今日は何になさいます?」なんて振り返って笑顔で聞かれる感じである。

もしも今夜行くならば・・・そうだな、西京焼きが食べたいな。
それを肴に、熱燗で一杯。
「クリスマスなのに西京焼きなんですね。」なんて、女将さんは笑いそうな気がするが、美味いものはクリスマスに食べても美味いのだ。
いつもの、あの夢の小料理屋の話である。

今晩もいつものように、あの店で晩酌。
こんな寒い夜は、おでんと熱燗に限る。
もう暮れも暮れだもんね、寒い訳だ。
あと数日で、今年も終わる。

「お正月は、ご実家に帰られるんですか?」
徳利で僕にお酌をしながら、女将さんはそう言った。
「ええ、帰ります。他に行くところもありませんし。」
「そうなんですか。良いですね、離れたところにご実家があると言うのは。」
「帰省ラッシュに巻き込まれに行くようなもんですよ。」
カウンター越しの、他愛無いやりとり。
今日も、熱燗が旨い。

「女将さんは、どこか行かれるんですか?」
「私は、特にどこに行く予定もありません。せいぜいそこの東京大神宮へ初詣に出かけるくらいですかねえ。」
神楽坂、初詣、そして和服美人。
これでもかと言うぐらい絵になるであろう光景を想像しつつ、おでんの大根を箸で切ってみる。
十分に味が染みて居るであろう大根もまた、美しい。

「来年も、いい年になると良いですねえ。」
「そうですね、でも、きっといい年になるでしょう。」
「あら、随分とはっきり仰るんですね。」
「そりゃそうですよ、女将さんが東京大神宮にお参りするんだから、東京のお伊勢さんだって話を聞かない訳にはいかないでしょう。」
「まあ。」
破顔一笑。
やっぱり、笑顔の女性と言うのはいつ見ても良いものだ。
多分それが見たいが為に、僕は夜な夜なこの店に通っているのだ。

・・・そう言う訳で、これが今年最後の夢の小料理屋の話である。
「いやあ、何だかんだと食い過ぎた正月だったよなー。」
少しばかり腹回りがキツい。
休み中の暴飲暴食と運動不足が、確実に体を肥えさせている。
しかしながら、帰省を終えて新幹線で東京駅に戻ってみれば、そこには圧倒的な日常が広がる。

日常。

でもそれは、決して退屈でつまらないものでは無い。
何やかにや忙殺されそうになりながらも、それでも、何かと楽しい事と言うものはあるものだ。
例えば、こうだ。
神楽坂からちょっとだけ牛込方面へ行ったところにあるあの小料理屋の引き戸を開けば、それは瞬時に始まったりする。
「あら、お帰りなさい。あけましておめでとうございます。」
…ほらね。
和風美人の優しくも凛とした声と笑顔が、僕に安らぎとやる気を与えてくれるんだもの。

「あけましておめでとう女将さん。こないだは柚子ありがとう。美味しく使わせて貰いました。」
「今年もよろしくお願いしますね。柚子、お料理のお役に立ちましたか?」
「ええ、とても。あれから帰省中ずっと鞄の中に、仄かにいい香りが漂ってました。」
「ああ、じゃあ良かった。」
「じゃあ?」
「はい。いい香りは旅を楽しくしますから。」

どうやら、この小料理屋がお客に出して居るのは、美味しい料理と酒だけでは無いようだ。
冬休みは、あと数日残っている。
七草粥を食べるまでは、冬休みだ。
それは、例え職場に出ていたとしても。
但し七草粥を食べたら、もういつもの自分のペースに戻らないといけない。

とは言え、今はまだ心も体もリラックスしている最中。
こんな時間、一年のうち何日も無いのだから、目一杯楽しもうじゃあ無いか。
とりあえず、今日は肉じゃがだな。

あの小料理屋は、正月二日からやっている。
嗚呼、結局僕はそこに行ってしまうのだな。
忙しい時も、そうでない時も。

そう言えば、あの店には僕以外にも常連さんは居る。
カウンターの隅っこでいつも楽しく飲んでる岡本さん。
お忍びでやって来てはちびりちびりとウォッカを飲んでる尼さんのハノイさん。
自分の店が暇になると、何かと理由を付けて遊びに来る寿司屋の太郎。
この辺りはカウンターで頻繁に見かける顔だ。
それ以外にも、新宿で会社勤めをしていると思しきミキ姉さんとその仲間や、僕の古い飲み仲間である恵一や泰生なんて辺りも、しょっちゅう出くわしてる気がする。

まあ、みんななんだかんだと酒と料理と楽しい会話を愉しむために、ここへ来て居るのだろう。
僕も、その仲間の中で呑むのが好きだ。
まあ、一種の「仲間愛」なのだろうか、これも。

…ん、愛?

そう言えば、愛って何だろうね。

改めて考えてみると、世の中はあ「なんとか愛」なんて言葉に溢れている。
でも、その正体が何かと問われたら、意外に答えにくいものかも知れない。

「岡本さん、『愛』って何だと思います?」
僕はカウンターの隅でお湯割りを冷ましている岡本さんに聞いてみた。
「んー、ノー愛ディア。キシシ!」
間髪入れずに駄洒落かよ。
そうだった、岡本さんは駄洒落好きなおっさんなのだ。

愛。

そうだ、女将さんにも聞いてみよう。
「女将さんは、『愛』って何だと思います?」
女将さんはしばし考え、そして、先程僕が注文していた肉じゃがを出しながら、そして、スッキリとした笑顔でこう言った。
「愛。私には、言葉に出来るような愛は分からないわ。」

肉じゃがから立ち上る湯気が、とても優しい気がした。
いつもの夢の小料理屋の話である。

明日から、また会社が始まる。
恐らく、この東京の街も明日からいつもの活気を取り戻すことだろう。
満員電車が地上に地下に走り回り、駅から溢れ出る人たちがそれぞれの職場に向かう、そんな見慣れた朝の始まりと共に、多くの勤め人の一年が始まるのだ。

非常に希望に満ちた一日だとは思うのだが、ちょっと待って欲しい。
それは、毎週月曜日に感じる「また一週間働くのか。」と言う思いの52倍ほどの重さを持っていたりもする。
と言うことは、その前日である今日は、あの月曜日の前の日曜日に感じる憂鬱さの52倍ほど憂鬱だったりするのだ。

道理で朝から気が重い訳だ。
でも、大丈夫だ。
今夜の僕にはあの店があるのだから。
美味しいものを食べれば、そんな気持ちだって和らぐってもんさ。

いつものように引き戸を開ける。
引き戸の内側に暖簾がある。

「今日は、お店お休みなんです。」
奥からそんな声が聞こえてくる。
ああ女将さん、なんて非情な。
僕の心の砦が、まさかの日曜休業とは・・・。
「フフフ、でも、そろそろ来ると思ってましたよ。」
そう言って笑いながら、女将さんは奥から出てきた。
ラフなニットとデニムパンツ。
ああ、確かに休業日ではあるらしい。
それに、BGMがスウィング・アウト・シスターだったりする。
明らかにいつもと違ういつもの店だ。

「まあ、お休みはお休みなんですけど。」
そう言いながら、女将さんはグラスを二つ出してきた。
「なんだかんだ言って、私もここが一番落ち着くんですよね。はい、ビール。」
小さく乾杯した後、半分ほど一気に飲む。
喉を流れ落ちるビールが心地良い。
「くはあ!」
溜まらず、声が出る。
僕の体はビールに正直だ。
いったい誰に似たのだろうか。
きっと僕の前世はビールサーバーか何かだったに違いない。
こんなにもビールが愛おしい。
「明日から、また仕事ですね。」
「はい、また仕事です。頑張らなくちゃねー、バリっとね!」
「とか何とか言って、本当はちょっと憂鬱なんでしょ?」
そう言って女将さんは笑った。
ハハ、お見通しか。
「私も、会社勤めの頃は正月明けの初日の前の日が嫌いでした。」
「あれ?女将さんも会社勤めなんかしてたんですか?」
「登山家でもやってたように見えましたか?フフ。」
今日の女将さんは、何か楽しそうだ。
何か良いことでもあったのだろうか?
でもまあ、いい。
理由はともあれ、女の人が明るく笑ってるのを見ているのは、多分男にとって一番楽しいことの一つだ。
そんな時、電子音が鳴る。
多分タイマーだ。
奥の厨房に戻り、そして、茶碗を持って帰ってくる女将さん。
「今日ね、茶碗蒸しを作ったんです。」
ああ、綺麗な茶碗蒸しだ。
見た目も香りも素晴らしい。
「茶碗蒸し食べると、気持ちまで温かくなりません?私、好きなんですよ。」
そう言うと、女将さんは僕よりも先に茶碗蒸しを食べ始めた。
そうだ、今日はお客じゃないんだもんね。
「んー、この三つ葉の香りがもう!んー!」
木のスプーンで掬い上げられた茶碗蒸しが、滑らかにに女将さんの唇の上を滑りながら口の中に入っていくこの光景。
フランス書院の小説ならこの光景をどれだけ官能的に表現したことだろう、などと一瞬考えたが、それにしてもやっぱり良いねえ、いつ見ても夢中で美味しいものを食べる美人ってのは。

僕も食べてみる。
鶏、椎茸、百合根、銀杏。
それらの味が、上品な出汁の味と共に口の中でとろけながら広がり、そして、三つ葉と小さな柚の皮の香りが嗅覚をくすぐる冬の贅沢。
心も体も、暖かくなる。

「くはあ!」
たまらない。
前世はビールサーバーだと思ったが、どうやら徳利だったような気がしてきた。
「女将さん、熱燗飲みたい!」
いつもの小料理屋の話である。

せりなずな ごぎょうはこべら ほとけのざ すずなすずしろ これぞななくさ

呪文のようであるが、これが春の七草である。

今日は七草。
古い職人は、1月7日の朝に七草粥を食べて初めて「新年」だと言う。
古くから伝わる、ひとつの粋なスイッチなのだろう。

今日、実はちょっとだけ寝坊してしまい、朝食を食べてない。
会社近くの小諸そばで、かき揚げそばでも食べようかと思い、いつもより30分ほど早く家を出る。
例の小料理屋の前を通ろうとした時である。

これが、朝から開いている。
じゃあ、寄らなければ。

「おはようございます。」
「ああ、来ちゃった。負けだ。」
尼さんのハノイさんだ。
「開いてたらあなた絶対来るって女将さんが言うから、じゃあ賭けをしようって話になったのよ、あたしの負けだわ。」
そう笑いながら、ハノイさんは風呂敷包みを女将さんに渡した。
「はい、女将さんにプレゼント。んじゃ、またね。お粥ご馳走様でした、美味しかったわ。」
そう言うと、ハノイさんはお寺に帰って行った。

「はて、これはなにかしらん?」
女将さんが風呂敷包みを開けると、一枚の絵が入っていた。
「あら、素敵な絵。」
どことなくよく晴れた菜の花畑のような、そんな優しい色彩の春らしい絵だ。

「春、ですね。」
「はる…だね。」
「新しい春、か。フフフ。」
「でも、前から思ってたけどさ、新年を新春って言うけどさ、結構真冬だよね。」
女将さんに軽く睨まれた。
僕、何かまずい事でも言ったのかな?

「あーもう。じゃあ、これ食べて仕事行って下さい。」
出て来たのは七草粥だった。
食べてみる。
ほんのり甘くもあり苦くもある、大人の春の味と言った感じだろうか。
どこか懐かしく優しい味だ。
僕は、一気に平らげてしまった。
「ご馳走様。」
「あら、もう食べちゃったんですか?じゃあ、今日も一日頑張らないとね。」
「朝から凄く贅沢な気分。」
「でも、今日は多分割とどこにでもある光景だわ。」
いや、朝から小料理屋で飯を食う男なんて世の中にそんなに多くは無いだろう。
女将さんも妙な事を言う。
「じゃあ、行ってきますね。お粥ご馳走さん。」
「気をつけて、行ってらっしゃいませ。」
そうして僕は、和服美人に見送られつつ仕事場へと向かう。

しかしどうだ、冬の朝の小料理屋の外の世界と言うのはこんなに眩しく、そして寒いものなのか。
僕にとっていつもと何も変わらない世界の筈なのだが。
・・・寒い。
兎に角寒い。

こう言う寒い夜は、熱い屋台の中華そばなんかが恋しくなる。
でもねえ、もう神楽坂まで帰って来ちゃったんだよね、僕は。
とは言え、こんな寒い夜に自分の部屋で一人で飯を食いたくない、と言う気分もある訳で。

そう言う訳で、いつもの夢の小料理屋の話である。
休日の夜だと言うのに、例の小料理屋は開店していた。
「うーっ!女将さん、今日も寒いですねぇ。」
僕はちょっと大げさに言ってみた。
「あら、おかえりなさい。さっきまで岡本さん居たけど、帰っちゃったところなの。今日はもうおしまいかしらねえ。」
女将さんは、そう言いながらビールをグラスに注いだ。
いかにも美味そうな泡のビールをカウンターに置く女将さん。
「あ、すいませんね、と。」
小さく乾杯のポーズをとりつつ、一気に半分ほど飲んでみる。
「くはあ、寒くてもビールは旨いねえ。」
最早、僕はこの一杯目のビールのために今日一日を生きてきたと言っても良いだろう。

でも、考えたら今日の昼から何も食べてない。
やっぱり暖かいものが食べたい。
出来たら、ご飯もの。

「女将さん、暖かいものが食べたい。」
「私もまだ夕ご飯食べてないのです。良かったら一緒に食べませんか?」
ほう、女将さんと晩ご飯。
悪くない。
晩ご飯は、やっぱり美人と一緒に食べるに限る。
「喜んで!」
「じゃあ、今から作りますね。」

程なくして、鍋が出てきた。
「はい、今日の晩ご飯。美味しいわよ。」
うわあ、こりゃあ美味しいに決まってる。
鶏雑炊だもの。
「遅い時間だから、胃に優しいものの方が良いかと思って。」
女将さんは、そう言って僕の分と自分の分を取り分けた。
葱の香りと鶏ガラの香りが、どこまでも食欲を誘う。
「いただきます。」
蓮華で雑炊をかき込む。
熱い。
でも、旨い。

昔から思うのだ。
何でこう、鶏雑炊ってのは旨いんだろう。
派手さの無いシンプルな料理だけど、奥が深い。
そして、飽きることが無い。
特に寒い夜の鶏雑炊は、とても温まる。

「女将さん、今日はどうしてまた鶏雑炊?」
「あら、寒い夜の鶏雑炊ぐらい美味しい料理は無いですもの。それに。」
「それに?」
「今頃は年末年始の疲れが出てくるでしょ?気は張っているつもりでも、体の中は優しいものを求めているわ。」
そう言うと、女将さんは屈託無く笑った。

美人の笑顔と鶏雑炊、ごちそうさまでした。
連休明けの今週も、何だか元気に過ごせそうな気がしてきたよ。
足がしんしんと冷たい。
予報では、明日の昼頃は雪になるそうだ。
道理で寒い訳だ。
こう寒くては、一杯引っかけなければ凍えてしまうよね。
・・・まあ、寒くなくても引っかけちゃうんだけどさ。
でもあれだ、こんな寒い夜でも猫ってのは街を徘徊して歩くんだねえ。
鈴の付いた赤い首輪をした茶トラの猫が、今建物の間から出てきて僕の目の前をテクテク歩いている。
んでも、待てよ?
あの猫、見覚えあるぞ。
そうだ、僕が昔、下宿していた頃に飼っていた「ミーちゃん」そっくりだ。
何度か下を鳴らしてみると猫は少し振り返り、そして、どこかへ走っていってしまった。

今日は、そんなスタートの「夢の小料理屋」の話である。

「へえ、そんなにその猫ちゃん似てたの?」
女将さんは煮物を作りながら振り返った。
「そうなんだよね、学生の頃に下宿でこっそり飼ってた猫にそっくりでさ。可愛い奴だったんだよね、こう、寒い夜なんか布団に入って来ちゃったりしてさ。」
「あら、ホントに猫ちゃんだったのかしら?」
女将さんがクスリと笑う。
「いや、猫ですってば、ホントに。その時は。」
熱燗の入ったぐい飲みを丸く揺らしてみる。
熱燗の湯気が、鼻の下辺りで揺れる。
幸せの香りがする。

そんな時だった。
「まだ開いてます?」
ショートヘアの小柄な見慣れない女性が入ってきた。
恐らく一見さんだろう。
「いらっしゃい、お好きな席へ。」
と言っても、5人も座ればいっぱいになってしまう小さなカウンターだ。
それほど彼女にお好きな席を選ぶ余地は残っていない。
一つはさんで左側の席に、彼女は座りながら、彼女は言った。
「すいません。まずはビール下さい。」
少し高めの、転がるような声が可愛らしい。
歳は30行くか行かないか、と言う辺りだろうか。
グラスビールで喉を潤し、彼女はにっこり微笑んだ。
「今日はお仕事ですか?」
女将さんが彼女に声を掛ける。
そこら辺のタイミングが絶妙だ。
「ええ。初めてこの辺に仕事で来ました。この辺で一度飲んでみたかったんですよね。」
「いつもはどちらで?」
「本郷の辺りでたまに飲んだりしています。あの辺が地元なので。」

本郷かあ。
僕が学生の頃下宿していたのも、本郷だった。
奇遇だねえ。
横で話を聞きながら、ボーッと当時のことを色々思い出していた。
下宿のこと。
銭湯のこと。
それから、ある夜を境に二度と帰って来なくなった、飼っていた猫のこと。

「お兄さんはいつもここで飲んでるんですか?」
「・・・ん?僕?そ、そう、うん。」
「あら、どうしたの?若い女性が来たからドキドキした?」
女将さんが笑う。
「や、でもさ、最近僕に急に話しかけてくるお姉さんなんか、ティッシュ配りのパチンコ屋か電気屋のキャンギャルぐらいしか居ないからさあ。」
「まあ、嘘ばっかり。ほら、お酒無くなってますよ。次、どうするの?」
女将さんが空の徳利を振りながら言った。
「じゃあ、おかわり。ついでに、そっちのお姉さんにも。」
「あ、『あちらのお客様からです』ってやつですね。」
「そうそう、何分古いモンでね。」
「でも、お兄さん初めて見る気がしないわ。どこかでお会いした気がします。」
「そうかねえ、夕方駅前歩いてるおっさんなんて、大体こんな顔してるさ。」
隣の女性が笑う。
「君、何て呼べばいい?」
「私。 美依って言います。」
「ほう。ミーちゃん。」

本郷、ミーちゃん。
偶然ってのはあるのかも知れないね。

女将さんが熱燗を持ってくる。
しばし、若い女性を囲んでの、幸せの時間。
女将さんも何か楽しそうだ。

どれぐらい話に花が咲いただろうか。
そんな時、携帯電話のベルが鳴る。
ミーちゃんの携帯だ。
「あ、すいません。」
鞄から電話を取り出す。
携帯電話のストラップが、鈴の付いた赤い革製のストラップだ。

いや、いやいや、まさか。
いくら何でも、いやいやいや。

「私、用事が出来てしまいました。またお邪魔します、ご馳走様。」
ミーちゃんは、支払いを済ますと、ぐい飲みに残った熱燗を飲み干した。
「本当に楽しかったです。また、遊びに来ますね、お兄さん。」
そう言って小さくお辞儀すると、彼女は満面の笑みで帰って行った。

「女将さん、女将さんは猫って化けて出てくると思うかい?」
すっかりぬるくなった熱燗を舐めながら、僕は女将さんに聞いた。
「さあ、どうかしら。でも、この街は猫の街だわ。夏目漱石の『吾輩は猫である』って、神楽坂が舞台の話よ。」

なるほどね。
ここが本当に夢の小料理屋なら、あのミーちゃんだって飲みに来るかもねえ。
しかしあれだね、ミーちゃん、暫く見ない間にすっかりいい女になったもんだなあ。
雪が降る雪が降るって、何回も聞いた割には雪降らないよねえ。
でも、寒い事は寒い訳だけれども。
まあ、寒いなら寒いで僕は構わないけどね、だって、それを口実にあの店に行けるからねえ。

さて、夢の小料理屋の話である。

「岡本さん、面白いんですねー、ククク!」
「だってさ、長男なのに甘えん坊って、なあ。」
カウンターの隅で大爆笑する二人。
常連の岡本さんとミーちゃんだ。
その後、ミーちゃんはちょこちょこ例の店に顔を出すようになった。
女将さんとも他の常連さんとも仲良くやってるように見える。
顔を出しては、二、三杯飲んで、明るく楽しく帰って行く。
や、実に正しい酒飲みである。
やっぱり、酒は陽気に飲まないとね。

「しかしあれだねえ、若いってのはいいもんだねえ。元気でさあ。」
燗冷ましを舐めながら、楽しく呑んでいる彼女を眺めてみる。
「ふふふ、年寄りみたいな事を言うわね。何か昔の事でも思い出した?」
女将さんが熱燗を作りながらそう言った。
「いや、しんみり思い出すような思い出なんかそれほど多く無いですよ。むしろ、顔から火が出るほど恥ずかしい事ばっかりでねえ。引火が怖いから、思い出す時は燃えるものが近くに無い時にしてるんですよ。」
「まあ。でも、思い出したく無い事って言うのは、誰にでもあるかもね。」
そう言って女将さんが笑う。
「あの頃に戻ってやり直せたら、なんて思ったりもしない?」
「うん、難しい問題だなあ。」
僕は、徳利から酒を注いだ。
国権純米吟醸。
南会津の誇る熱燗が旨い酒だ。
「僕は多分、やり直したいとは思わないかな。また膨大な時間をやり直しなんてうんざりするよ。それに、もう一度やり直した人生の先に、こんな旨い酒があるとは限らないだろうしね。」
「あなたらしい答えだわ。」
女将さんが目を瞑りながら、頷く。
何を見ているのだろうか。
僕には分からないけれど。
「まあ、そう言う事はタイムマシンでも発明されたら考えるようにしますよ。」

やり直したい事ややり残した事があ無い訳では無いのだ。
脛だって傷だらけだ。
そう言う心のささくれは、誰にだってあるものさ。

「でもね、思い出はこれから沢山作れるわ。」
そう言いながら女将さんは、僕のぐい呑みに熱燗を注いだ。
まるで、僕の心にある自分でも気づかないようなほんの小さな隙間を酒で埋めるかのように。

「今日ね、良い鮟肝があるんだけど、食べない?美味しいよ。」

鮟肝かぁ。
今日はいろいろ見透かされてる気がするねえ。

国権、鮟肝、女将さんのうなじ。
いやもう、今日はとことん癒されて帰ることにするよ。
前田瑤子って歌手知ってる?
そう、ちょっと昔に流行ったバンドのヴォーカルだった女の子。
ハスキーボイスで、「大人のお姉さん」ってイメージだったんだけどさ。
まあ、人気絶頂の時に脱退して、今は違う人がヴォーカルやってるんだけど、まあ、どっちかって言えば今はその人のイメージの方が強いかもね、そのバンド。
で、その瑤子さんなんだけどさ、どう言う訳か例の店の常連さんなんだよね。
だけど僕は、酒で溺れて大騒ぎしてる瑤子さんしか知らない。
でも、いい女。
え?例の店っていい女しか来ないのかって?
そらそうさ。

だって、あそこは夢の小料理屋なんだから。

今日も、瑤子さんは酒浸り。
ウイスキーをロックでグビグビ飲んでいる。
「うーっ、効くー。」
声にならない声を出しながら強い酒を飲むのは、もうお馴染みの光景だ。
「お酒は良いよねー。ぜーんぶ忘れられるもんねー。ねー。フフフ。」
白いパーカーの袖が、カウンターにこぼした醤油で汚れている。
「瑤子ちゃん、あんまり脚を開いて座ってると、お菱の形が崩れますよ。」
女将さんが笑いながらたしなめる。
「あーら、女将さんエッチー!ウフフフ。」
構わず飲み続ける瑤子さん。
まるで、生きている事を忘れるかのように。
泥酔する美女ってのは、側で見ていてなかなか心が痛いものでもある。
「じゃ、そろそろ私帰ろうかなー、ウイーッ!」
瑤子さんはよろよろと立ち上がると、急に僕の背中に覆いかぶさるようにもたれ掛かった。
微かにアナスイの香りが、圧倒的なウイスキーの中に香る。
そして、彼女は僕の耳に唇が触れるくらいまで近づき、とびきり甘い声で囁いた。
「ねえ、お兄さん。あのね、吐いてもいい?シャツの襟の中に。」
「だ!ど、どわーっ!」
「キャハハハ、うそー!じゃねー!」
そう言うと、手を振りながら跳ねるように帰って行った。

「瑤子ちゃん、いい子なんだけどね、本当は。」
女将さんがカウンターを片付けながら、少し寂しそうにつぶやく。
「彼女、もう酒に逃げちゃってるように見えるんだけど、僕には。」
「…まあ、ね。良い時の瑤子ちゃん知ってるだけに辛いわね。」
そうなんだよな、テレビで歌ってる時の彼女と今の彼女は別人みたいだもんな。
テレビで見る彼女は、どっちかって言うとカッコいい感じすらあるのにね。

「そう言えば、ミーちゃんから出張のお土産だってこれ貰ったわ、はい。」
女将さんは、そう言って小皿を出した。
鮭とばだ。
そうそうそうそうこれ、熱燗に合うんだよな、案外。
固いんだけどさ、噛めば噛むほど味が出てねえ。
そう言えば、うちの猫にも昔よく食べさせてたっけな、大好きだったんだよね…。

…あいつめ。
今日は、会社の帰りに久しぶりに飯田橋の新兵衛寿しに立ち寄った。
若い頃よく先代の大将に遊んで貰った寿司屋でさ。
今は太郎って言う腕のいい長男坊が切り盛りしてるんだけど、まあ僕には酷い事をする男でさ、ワサビの軍艦巻きとかアホみたいに辛い寿司出したりするんだよ。
モノはいいワサビだから旨いんだけど、辛いよねえ。
でさ、人が泣きながら食べるのを見て笑ってやがるの、全くねえ。
カウンターの棚の上の方にちっこいブラウン管のテレビが置いてあるんだけどさ、不意に見たら瑤子さんが歌ってたよ。
カメラ目線がカッコいい。
流石だねえ。
でも、さ。
女将さんもテレビに映ったらこんな感じでカッコよく見えるのかね?

さて、やっぱり今日も夢の小料理屋に行かなくちゃかな。

「あんこも旨いけど、醤油も旨いんだねぇ。」
入口の引き戸を開けると、瑤子さんとミーちゃんが何かに取り憑かれたように、ボクシングの輪島の物真似をしていた。
その奥で、女将さんが何事も無いと言う顔で仕事をしている。
異様な光景である。
と言うか、瑤子さんはさっきのテレビと明らかに別人だ。
「あら、お帰り。今日は遅かったね。」
「うん、新兵衛さんで一杯引っ掛けてた。」
「ああ、太郎ちゃん元気だった?」
「あいつは病気にならない病気だからねえ。困ったもんだよ。」
「まあ。」
太郎は暇な時に結構ここで飲んでたりするんだけど、最近は忙しいのかあんまり来ないもんなあ。
まあ、それはそれでいい事なのかね。

「あ、そうそ、ミーちゃんこないだ鮭とばありがとね、美味しかったよ。」
「あ、食べました?私も大好きなんですよ、あれ。」
「熱燗が進んで進んで困ったよ。」
「ですよねー。作戦通りです、へへへ。」
…こいつめ、今度試したらマタタビ粉掛けちゃうぞ。
「こないだは飲みすぎちゃってたわね、はい、ビール。」
女将さんのビールは本当に美味い。
泡が尋常じゃないぐらいクリーミーなのだ。
「いただきます。待ってました。」
新兵衛寿しの後の、今日二度目の幸せ。
くはあ、やっぱり旨い。
「女将さんのビール、ホントに美味しいんですよね。」
「注ぎ方?これね、知り合いのバーテンダーさんに習った注ぎ方なの。」
「へえ、バーテンダーさん仕込みかあ。凄いね。」
「多分、注ぎ口までチューニングするバーテンダーさんはその人しか居ないんじゃ無いかしら。車好きな人なんだけど、サーバーまでチューニングしちゃうとは流石よねえ。」
へえ、そんな事考える人居るんだ。
どんなバーテンダーさんなのか会ってみたいもんだね。
ともかく、旨いビールが飲めることは有難いよ。

それにしても、いつまでこの二人は輪島の物真似するつもりだろうね。
信号待ち。
通りゃんせのメロディと言うのは、会社帰りのサラリーマンの残り少ないエネルギーを確実に奪っていく。

行きはよいよい帰りはこわい
こわいながらも通りゃんせ通りゃんせ

これ、絶対何かの呪いだよね。
ダメだ、もう家まで帰る力は吸い取られた。

あの小料理屋に寄って行かなければ、僕は死んでしまうよ。

その時である。
神楽坂を凄い勢いで登ってくる車の音がする。
銀色の430グロリアだ。
こんな骨董品みたいなクルマまだ走ってるんだねえ、などと思って見ていたら、その車は僕の目の前で派手に右折し、そして止まった。
窓が開く。
「早く乗って!」
何と、女将さんである。
とりあえずドアを開けて乗りこむと、ドアを締める前に車はホイールスピンの音と共に動き出した。
「女将さんらしからぬ登場ですね。何か西部警察みたい。」
「たまにはこう言うのもいいものだわ。」
それにしても見事なシフトさばきである。
まるで高橋レーシングみたいだ。
この先にジャンプ台がある気がしてきた。
「ところで女将さん、目一杯急いでるけどどこか行くの?デートって感じじゃあ無さそうだけどさあ。」
「瑤子ちゃんが怪我したの。」

御茶ノ水駅の北側にある病院に着くと、待合室に足にギブスをした瑤子さんが立っていた。
「見て見て、ガンダムみたいでしょ。」
瑤子さんは笑った。
「どうしたの?大丈夫?」
「わざわざゴメンなさい。あのね女将さん、階段踏み外しちゃったのよ。まさかこんな大袈裟な事になるとは思わなかったわ。」
バツが悪そうな瑤子さん。
おどけては居るが、いつもの酒浸りな瑤子さんとは雰囲気が違う。

ともかく、瑤子さんを車に乗せてひとまず病院を出る。
神田川の向こうに中央線が走る。

「私ねぇ、何か新しい事を始めようとすると、必ずこうなのよね。嫌になっちゃう。」
瑤子さんが後ろの席でボソッと言った。
「何か始めるところだったの?」
「うん、新しいアルバムを録音する事になったの。」
「お!凄いじゃん瑤子さん!」
「そうね。美人歌手前田瑤子復活よね、ガンダムみたいな足で。」
瑤子さんは自嘲気味に笑った。
「でも、みんなあなたの新しい歌を待っているわ。」
ルームミラー越しに女将さんは瑤子さんに語りかける。
「あなたの歌は、みんなを元気にする力があるんですもの。充電した分、吐き出さないとね。」
「…そうね。」
外を見ながらそう言った瑤子さんの横顔は、どこか力に満ち溢れていた。
それは、お店で見せた事の無い、あのテレビの中の瑤子さんの顔だった。

凄いねえ、女ってのは。
一度スイッチ入るとこうも変わるんだねえ。
そう言えば、さっき何かのスイッチが入った女性がもう一人居たっけな。

「それにしても、女将さんお腹すいたよー。今日晩御飯なーに?」
瑤子さんのスイッチはもう切れたようだ。
もう少しだけ「テレビの顔」を見たかったな。
「そうね、鮭ハラスの美味しいのがあるわ。それと、生姜醤油で焼いた焼きおにぎりの茶漬けなんてどうかしら?」
うわ、うまそうだ。
美味いに決まってる。
ずるい。
でも、これから一仕事する人は美味しいものをちゃんと食べなくちゃだね。
「うん、それがいい。食べたら明日から本気出す。」
「本気出せー!」
女将さんが笑う。
「出すーっ!」
瑤子さんも笑う。

それにしても、あれだ。
やっぱり、美人の笑顔ってのはいいねえ。
瑤子さんは、あれから顔を見せなくなった。
女将さんの話では、何でもレコーディングの真っ最中だとか。
女将さん、たまに差し入れのお弁当持って代々木のスタジオまで行ってるみたいだけど、今のところ真面目にやってるみたい。
まあ僕は、彼女がどんな事をやってるのかは分からないけれど、ギブスしたまま歌ってるんだろうな。
アルバムが出来上がるのが今から楽しみだね。

さて、今日は雪だよ雪。
寒いったらありゃしないよ全くさあ。
こんな寒い夜、やっぱり女将さんは白い息なんか吐いてるのかね。
想像すると絵的にドキドキしちゃうね。
「女将さん、ちょっと手を出してください」なんつって手を握りしめたら冷たくてさ、「じゃあ、僕が暖かくしてあげましょう」なんつって見つめ合ってキシシシ…いかんいかん、これじゃエロ劇画だね。

僕のあの小料理屋は、もっと品がいいお店なんだから。

玄関先にある南天の植木鉢も雪化粧。
見るからに冬だよね。
今日は熱燗しか思い浮かばないよねえ。
ガラガラガラガラ。
扉を開ける。
「あ、お帰り。寒くなっちゃったわね。」
女将さんが仕込みしながら微笑む。

一人暮らしし始めてもうどれだけ経っただろうか。
東京に出てからもう四半世紀も経つから、結構な時間だね。
多分僕がここに来る理由は、仕事を終えて明るいところに戻って「お帰りなさい」って言われたいからなんだろうと思うんだ。
出来たら美人の女性に。
まるで、母親の元に帰る子供のようにね。
でも、そんな環境にいる人ってどれぐらい居るのだろう?
都市伝説じゃないかと思うぐらい、僕には想像出来ない。

「どうしたの?ボケっとして。」
「あ、いや、なんでもない。何でも無いですよーっと。へへへ。」
「変なの。頭でもぶつけた?」
女将さんは笑う。
たったそれだけのやりとりでも、何だか心は暖かくなる。
あ、いや。
別に仕事で辛い事があったとか、悩み事があったとか、そう言うんじゃ無いんだ。
悩み事が無い事が悩みなぐらいでさ。
ただねえ、寒い夜は一人で居たくないだけなんだよ。

「今日は何かおとなしいねえ。」
女将さんが熱燗を注ぎつつ、カウンターの向こうから僕の顔を覗き込む。
「ダメですよ、男は辛気臭い顔をしてちゃ。そう言う子にお母さんは育てた覚えありません!なんてね。」
そう言って、女将さんは笑った。
近距離で、しかも真っ正面から女将さんの顔をこんな風に見たのは初めてかも知れない。
しかし、美しい人だなあ。
その直後である。
女将さんから笑顔が消えた。
「…。」
「…。」
何か不安になってくる。
僕は、何か怒らせたか?
「…。」
「…。」
「ね、ぎゅーにぢがくでごんながおされるど不安になるでじょ?」
女将さんがダミ声でそう言った。
「う、うん。そうだね。」
予想外の展開に、僕は吹き出しそうになった。
「そうそう、その顔。笑ってるあなたはいい男だわ、フフフ。」

してやられた。

でも、そうだな。
笑わなくちゃ。
せめて、酒飲んでる時は、ね。

「はい、遅くなってごめんね。今日のお通し。」
ほうれん草の胡麻和え。
よく母親も夕食に出してくれたっけな。

弱虫だった。
よく泣かされて学校から帰ってきた。
「男はな、そっだ泣いて帰って来るもんじゃねえべ?しゃんとしろ、しゃんと。」
そう言って、母によく叱られたが、母はどんな日も僕らの為に夕食を作ってくれた。
どんなに具合が悪い日も、どんなに悲しい日も、母は18年間一日も欠かさず笑顔で夕食を出した。
「美味しいもん食うど、元気出っぺ、ない?明日は笑って帰って来っせよ。」

ああ、俺は馬鹿だ。
母親の愛情に今気付いた。
ほうれん草を箸で掴みながら涙が溢れてきた。

「悲しいから泣くんじゃないんです。泣くから悲しい気持ちになるんです。さ、食べて食べて。」
女将さんは言った。

それは、かつて僕が母親に言われた言葉と一緒だった。

「いただきます!」
僕は夢中でお通しを食べた。
お母さん、元気ですか?
今日東京は雪が降りました。
さあ、今日もやってきましたよ、会社の後のハッピータイムが。
まあ、会社に行ったからって仕事してるとは限らないんだけどさ、暇な時ってのも案外疲れるもんなんだよね。
でもさ、男児たるもの「いかにも仕事しました。」って顔をしなきゃいけないのさ。
「武士は食わねど高楊枝」…あれ、これちょっと違うね。

そんなこんなで、今日も例の小料理屋の話である。

「あら、お帰りなさい。」
いつも通り、女将さんはにっこり微笑んで迎えてくれる。
「おうっ!今帰ったよ!今日は疲れちゃったよー。頑張り過ぎたかな、へへへ。」
「へー、そうは見えないわ、頭に寝癖が付いてるわよ。」
あちゃー、女将さんは怖いねえ。
店に入って5秒で今日何やってたか見抜かれてやんの。
「今こう言う髪型流行ってるんだよ。ピョコンと立ってて可愛いでしょ?」
「とても流行に敏感な男性って感じにも見えないけど?」
「やだなあ、でも、一年間トータルで見たら僕は頑張ってますよー?世のため人のため、そして国のため世界のため、人様より多く酒税を払って明日の社会を支えてるんだから。」
「まあ、しょってる事、フフフ。じゃあはい、世界の救世主様にビール。」
「お、ありがとうございます、と。」
頑張っても頑張らなくてもビールは美味い。
特に女将さんのビールは。
そして、死んでもいないのに生き返った気がする、くはぁ。
一日で一番リラックス出来る時間だねぇ。

「あなたはホントに旨そうにビール飲むわよねえ。」
ハノイさんがウォッカをちびちび飲みながらそう言った。
「だって、美味しいんだもん。」
「あーら、ホントにそれだけなのかねぇ。違う理由もあったりしてね。」
ハノイさんは笑う。
いや、無いとは言えないけどさ。
むしろ、あるんだけどさ。
でも、さ。
「あんた、『これだ!』って思った時は、絶対手を離しちゃダメだよ、男なんだから。」
ん?どうしたハノイさん。
「あんた、この店大好きなんでしょ?大好きなものってのはね、黙っててもいつもそこにあるとは限らないんだよ。失くしてから後悔してもね…遅いんだよ。」
流石だ、尼さんが言うと説得力が違うねえ。
まさしくお説教だ。
ちょっとばっかりウォッカ臭いけど、間違った事は言ってない。
「じゃあ、あんた、それをいつ守るの?…今でしょ!」
うわー、そう言うオチかい。
微妙に懐かしい感じがする。
「ケケケ、これちょっと面白いでしょ?これね、法事で言うとウケるのよー。」

でも、そうだよな。
毎日のように当たり前にここにあって、最早生活のリズムに組み込まれているこの店がなくなったら、どうしよう。
もう、こうしてハノイさんとカウンターで飲むことも無くなってしまうかも知れない。
ミーちゃんとも瑤子さんとも会えなくなるかも知れない。

そして勿論、女将さんとも。

「あんた、今すご〜く暗い事考えたでしょ?」
「うん、や、まあねえ。」
「バカだねー。そう言う事だってあるんだよ、って話だよ。だから、一日一日を大事に生きるの。ね?尼さんいい事言うだろ?」
ウォッカ臭いけどね。

「じゃあ、今日のご馳走ね。はい、鯖味噌。熱燗にも合うわよ。」
女将さんは二人分の鯖味噌を出した。
何の変哲も無いけれど、独特の香りと絵が凄く食欲を掻き立てる。

ゴクリ。
喉が鳴る。

「いいかい?これが幸せってもんだよ。幸せってのは追いかけるもんじゃなくて、もうここにあったりするもんなんだよ。」
幸せ、か。
今日は納得する事が多い。
「何でも無いような事が、幸せだったと思う。ってね。アタシ、この歌歌ってるやつ大嫌いなんだけどさ、同業他社だから。でも、そう言うことだよ。」
やばい、ちょっとジーンとしてきた。
これだからウォッカ好きは侮れない。
「ダメだよ、たまにゃそう言う事も考えて生きないと。そんなね、鼻の下伸ばして女将さんのケツばっかり見てるんじゃないの。分かった?」
「え?呼んだ?」
女将さんが振り返る。
「やーやーやーやー、女将さんこっちの話こっちの話。」
「嫌ですよ、二人で内緒話は。」
聞いてるのか聞いて無いのか、女将さんが笑いながら、何か作っている。
「それにしても、いいお尻よね。」
「ええ、いいお尻です。」
「でもあんた、見過ぎだよ。」
「えー?話振っといて?」
「お乳も見てあげなよ、あれで案外大きいんだから。」
「今見んなっつったばっかりじゃん。」
「じゃあ、アタシの見るー?」
「いやもう全っ然話見えないでしょ。!」

ヒソヒソと会話するカウンターの
二人。

これだよね、小料理屋のカウンターの楽しさってのは。

この幸せが、いつまでも続きますように、と。
雪、路地裏なんかは全然溶けないよねえ。
道路がグチャグチャグチャグチャしてて気分悪いんだけどさ、でも、そう言う時は気分転換しないとだよね。
え?どうやって気分転換するかって?

そりゃ、あの小料理屋で美味しいものを食べることさ。

「あら、お帰り。」
女将さんが笑う。
もうお馴染みの光景だ。
「ただいまー。今日は何がある?」
「ふふーん、今日はちょっと美味しいの作ったの。これ食べながらちょっと待っててね。」
そう言いながら、女将さんが熱燗と秩父おなめを出す。
そうだよねえ、おなめなら熱燗スタートだねえ。

竹鶴山廃純米。
広島は竹原の名酒だ。
いやあ贅沢だねえ。
舌がとろけるぐらい、美味い。
おなめのもろみとの相性も抜群だ。
疲れた日にはこう言う本当に美味い酒が嬉しい。

そうなんだ、実は最近忙しくなりつつあるんだよ。
どうやら、うちの商品が急にヒットしちゃったみたいで、会社がてんてこ舞いなんだよね。
テレビでさ、瑶子さんが「私もよく使ってるんですけど、凄く良くて」とか何とか言ったのがきっかけらしいんだけど、人んちの製品売る前に自分のアルバム売れよ、って思うよね。
でもまあ、瑶子さんのお陰で嬉しい悲鳴だよ。

「はい、おまちどうさま。今日は牛肉大根。美味しいわよ。」
うわ、見た感じ既に旨そう。
大根に、出汁と牛の旨味がしっかり染みていて、噛むとじゅわーっと口いっぱいに広がる。

幸せだ。
あまりにも幸せだ。

「これ、美味しいわよね。私も好きなんだ。」
美味しいものを出す時の女将さんて、本当に楽しそうなんだよね。
いい顔で笑う。
その顔見てるの、本当に好きなんだよねえ、僕は。
僕はねえ、僕は

トゥルルルルル
トゥルルルルル

うわ、こんな時間にケータイ電話か。
部長からだ。
「はい、どうしました?」
「おい、お前来季昇進だってさ、おめでとう!」
「うわ、そうなんですか。ありがとうございます。」
「それからなあ、福岡に転勤だってさ。栄転だぞ、よかったな!」

へ?
テンキン?
転勤!?

次回、夢の小料理屋、最終回に続く!
まあ、次回で最終回な訳ですが、フィクションとは言え、話の中に出てくる人や物には、モデルになったり実在したりする方や物というのが結構ありました。

■ビールサーバーを改造する、車好きのかっこいいバーテンダーの居る店
http://tabelog.com/gunma/A1002/A100203/10008303/
まぁ、言わずと知れたBar BEACHです。
スタッフさんに女性バーテンダーのますみさんと言う、ホントにお綺麗なバーテンダーさんが居るんですけれど、今後どこかで彼女が登場するエピソードを書きたいと思っております。
因みにますみさんは、ペヤングの謎肉が好きだそうです。

■飯田橋の寿司屋
http://r.gnavi.co.jp/e573200/
西葛西すし銀。
因みに「寿司屋の太郎」はここの親方がモデルです。
お父さんも腕利きの寿司職人だったのですが、「いけすの魚に名前を付けて餌やってたら情が移って食えなくなった」などと、ちょっと意味が分からない事を言う素敵なおやっさんでしたw。

■竹鶴
http://osake-style.com/SHOP/67251/67257/list.html
小笹屋竹鶴、もうサイコー!

■国権
http://www.kokken.co.jp/
我が地元福島県で一番好きな蔵。
個人的には、飛露喜よりぜんっぜん好き。
南会津最強の蔵っすね。

■前田瑤子
http://www.youtube.com/watch?v=XUYzs8MaHbk
故・前野曜子さん。
一度一緒にお酒飲んでみたかったっす。
http://www.youtube.com/watch?v=pbBwIOsTAaA
因みに、今回の瑤子さんのイメージは、この歌から随分そのイメージを頂きました。
「女将さん、僕、春から偉くなるんだって。」
「あら、昇進?おめでとう。お祝いしなくちゃだわね。」
「うん、でも、転勤だってさ、福岡に。」
「えっ!」
料理を作る女将さんの手が止まる。
数秒の間、ジャズの音だけが静かに流れる。
「そ、そうなんだ。」
「うん、2年ぐらい東京に帰って来れないんだってさ。女将さん、熱燗お代わり。」
「あ、うん。」
また会話が途切れる。

「楽しかったなあ、ここんち。」
僕は、どうにか沈黙を埋めようと話をし始めた。
「毎日毎日ここ来るのが楽しくてさ、んで、ここで美味しいもん食べて、美味しいもん飲んでってのがさ、大好きだったの。もうさ、時間なんか止まっちゃえば良いのにな。」
「そうね、じゃあ、時間止めるわね。」
女将さんは、外の提灯と看板の電気を消した。
「…飲みますかっ、今日は。」
前掛けを外し、竹鶴の一升瓶を持ちながら、女将さんはカウンターの外に出てきた。
「いい旅になると良いわね。」
「そう、旅。」
そう言いながら、女将さんは徳利に酒を注ぎ、徳利から僕のぐい飲みに注ぎ、そして、肩を寄せるように僕の隣に座った。
「だって、帰って来るんだもの。旅だわ。」
僕も女将さんのぐい飲みに酒を注ぐ。
小さく、乾杯。
「いろんな事があったわねえ。」
「うん、あった。」
カウンターに目を落とす。
いろんな記憶が蘇る。

お店でのこと。
料理のこと。
酒のこと。
常連さんのこと。
それから、女将さんのこと。
楽しかったねぇ。

「一人暮らししてるとさ、家の中の会話って無くなるんだよね。それがさ、結構辛いんだよね。これから二年、またそう言う生活に逆戻りかと思うと寂しいねえ。」
「会話があるって、それだけで安らぐことってあるものね。」
「うん、人の温もりとか暖かさみたいなのって、やっぱり感じてたいじゃない。」
「そうね。」
「それをさ、感じる場所がここだったんだよねえ、僕にとっちゃ。」
「じゃあ、ちょっとまとめて温もりみたいなのを持って行かないとね。」
女将さんはそう言って、僕にキスをした。

とろけるような、大人のキス。
唇が、柔らかい。

ああ、止まったねえ、時間が。
本当だ。
時間て止まるんだな。
流れてるのはジャズの音だけだ。

「良い旅を。」
「ありがとう、行って来るよ。」
女将さんが、小さく頷く。

言葉を交わしたくてここに来ていた筈だった。
それなのに、何だろうな。
言葉を交わさなくても、分かり合えるってのは。

「さて、私もきちんと旅をしなくちゃだわ。」
「えっ?女将さんもどっか行っちゃうの?」
「私はどこにも行かないわ。でも、私の旅はこのお店そのものですもの。」
そうか、ひょっとしたら、旅ってのは人生そのものなのかもね。

「良い旅を。」
僕は女将さんの言葉を真似てみた。
「お互いにね。」
女将さんは笑った。
本当は、「夢の小料理屋」の話は20話目まであったんです。
で、既に全部書き切ってたんですけど、3話分没にしました。
「夢の小料理屋」に出てくる女将さんのキャラって、当初もう少しホワッとした感じを想定してたのですが、ちょっと変わってしまったかなと。
途中で、70年代の赤坂を舞台にした話を思いついて、そのキャラクターをいろいろ考えているうちに、そっちのキャラクターをこっちの話に投入してしまったのが原因ですかね。
瑶子さんや430グロリアなんかはまさにそっちのキャラクターでした。
結果、割とバラエティに富んだお話にはなったのですが、ちょっと最初の構想からはズレてしまったな、と。

そう言う訳で、この大人優しい「女将さん」って言うキャラクターが大好きなので、一度女将さんを温存することにしました。
次回復活する時は、設定に忠実な女将さんを書こうと思います。

ただ、瑶子さんは瑶子さんで元気に書きたいんですよねぇ。
70年代の赤坂や東京を縦横無尽に走り回る瑶子さんを見てみたいと言うか。

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