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夢の小料理屋のはなしコミュの夢の小料理屋のはなし

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コメント(113)

日曜日が終わってしまった。

サザエさんのエンディングを聞くと、「あー、また月曜日かー。」ってな気分になって憂鬱になるよね。
ここからまた、最低5日も働かなくちゃいけないんだよ?
普通死んじゃうよね、そんなに働いたらさ。
でも、死なないんだよね、僕は。
何故って?
そりゃあ、あの小料理屋があるからだよ。

僕は死にましぇん。
お酒が、好きだから。

「もう流石にちょっと朝晩寒いわよねぇ。」
女将さんが鮭を焼きつつこっちを見る。
「うん、でもコート着るほどでは無い気もする。」
「私はレザージャケットが着られる季節になって来たからちょっと嬉しいわ。」
そうなんだよね。
女将さん、和服じゃ無い時は案外レザージャケットを着ている。
そして、似合う。
でも、今は和服姿。
そして多分僕は、和服の女将さんが好き。

「秋鮭って脂は乗ってないけど、それはそれで美味しいわよねぇ。」
鮭の焼ける香ばしい香りが店の中に広がり、そしてそれは僕らの嗅覚を目一杯刺激する。
猫娘のミーちゃんと田中さんも、カウンターでその香りを楽しみつつ酒を舐める。
「秋鮭って、麹漬けにしたり山漬けにしたり、何にしても美味しいですよね。」
「ん?山漬け?」
「はい、北海道の方では結構ポピュラーな鮭の加工らしいです。塩漬けの一種らしいんですけど、まあ塩鮭ですよね、早い話。」
「流石に魚は詳しいねえ、ミーちゃんは。」
「お魚大好きですもん。」
「昔からねー。」
「え?昔から?」
「いや、なんでも無い。」
「変なの、お兄さん。」
何の事かわからないと言った顔をしつつニヤリと笑うミーちゃん。
いつか化けの皮を剥いでやるぞ、覚悟しろミーちゃん。
「じゃ、その山漬けの鮭を堪能してみて。」
切身をそれぞれに出す女将さん。
確かに脂身は少ない。
だけど、旨味がギュッと詰まっている感じがする。
良いねえ、酒と合う。
そして多分、米とも絶妙なマッチングを見せるに違いない。

「女将さん、お茶漬け欲しいです。この鮭でお茶漬け食べたくなっちゃった!」
流石は田中さん。
米の旨さを熟知する男。
「フフフ、流石田中ちゃんね。でも、多分そう来ると思ってちゃんと用意しておいたわ。」
間髪入れずに出て来る茶漬けのセット。
「今日のお茶は加賀の棒茶ね。お茶の茎だけをほうじて作った良いお茶よ。」
鮭をほぐしてご飯の上に乗せ、お茶を掛ける田中さん。
上から刻み海苔をふりかけ、わさびを少々溶かす。
完璧なお茶漬けの出来上がりだ。
一口二口すすり、こっちを見て親指を立てて見せる田中さん。
やばいね、これを我慢する術を僕は知らない。
「女将さん、僕もお茶漬け食べたい。」
「私も!」
「フフフ、みんな田中ちゃんのお茶漬けにやられちゃったわね。じゃ、お茶入れるからちょっと待っててね。」

「でもさあ、鮭って脂乗ってなくたって美味しいんだよなー。」
「熟成すれば旨さが濃縮されますからねー。」
「ギュッと、ね。美味しいところがね。」
そんな話をしていると、女将さんが笑いながら言った。
「そうね、熟成すれば旨味も増すのよ、多分、人間もね。フフフ。」

一瞬、女将さんと目が合った気がした。
今日の新宿FMの特集は「懐かしの昭和歌謡特集」だってさ。
さっきから、山口百恵とかゴダイゴとかが掛かってる。
良いねえ、僕たちが子供の頃にテレビで聴いたあんなメロディが耳を掠める。
そんなメロディが、酒を美味しくさせてくれる今宵の小料理屋。

「子供の頃、ラジカセ持ってテレビの前で歌番組録音しなかった?」
「したした!でさ、良いとこになると必ず母親の声が入り込むんだよね。『あんた、宿題やったの?』とかさ。」
「そうねぇ、フフ、懐かしいわね。」
そう言う昔を振り返った時の女将さんの笑顔って、僕はちょっと好きだ。
細い目の奥の黒目が、どこか遠くを見ている。

「続いての曲は1979年のヒット曲で、沢田研二のこのナンバー、カサブランカダンディー!懐かしいわよねえ。」
今日のDJは瑶子さんだ。
ちょっと酒焼けしたような大人のセクシーボイスが、こんな特集にぴったり合っている。
きっと今、新宿中のリスナーのハートを鷲掴みにしている事だろう。

https://m.youtube.com/watch?v=VgcpLChUMwY

カサブランカダンディー。
映画「カサブランカ」に出てきたハンフリー・ボガードのダンディズムを羨む現代の…と言っても、もう35年も前の現代だが…青年の歌だ。

ボギー、あんたの時代は良かった。
男がピカピカのキザでいられた。
…そんな、ふた昔も前のダンディズム。

沢田研二の時代の後から世の中は急速に軽薄になり、そして、世間は今では更にうるさくなった。
今やジェームズボンドですら禁煙する時代だ。
ハードボイルドなんて世界に憧れようものなら、福島瑞穂が黙ってないですぅ。

「ねえ、女将さん。」
「なあに?」
「この歌の頃より、今って男って男らしくなくなっちゃったじゃない?」
「例えば?」
「亭主関白なんか今や都市伝説になった。」
「え?急に関白宣言なんかされたら私困るわ。」
「どうして?」
「『俺より先に寝てはいけない』なんて言わなくても、あなた私より先に寝てるもの。」
そりゃあ失礼。
「でも、男の人ってマイルドになったわよね、昔より。」
「例えば?」
「心優しい男の人が増えたわ。」
「それは良い事?」
「んー、たまには荒々しく…あ、変な意味じゃ無いわよ。」
「じゃあ、どんな意味で?」
「さぁ、どんな意味かしら?フフフ。」
逃げるように厨房の暖簾の向こうに行く女将さん。
「でもね。」
「ん?」
「普通女だったら、やっぱり一番好きな人にはカッコ良く居て欲しいと思うもんじゃないかしらね。」
「じゃあ、僕も今から酒を止めてライザップにでも入会しようか?」
「それも悪くないけれど、でも、カウンターにあなたが居ない毎日もそれはそれで寂しいものだわ。」
手酌でグラスに焼酎をなみなみと入れ、飲み出す女将さん。
ヒュー、決まってるね。
僕も、この光景が日常から無くなってしまうのは嫌だ。
例え、家に帰ればまた一緒になるとしても、僕はここでこうして他愛も無い話に花を咲かせて幸せな時間を噛み締めたいのだ。
その為に昼間頑張って働いてると言っても過言ではない。

「さーて、今宵は懐かしい名曲に耳を傾けながらお送りしてきましたが、残念ながら最後の曲の時間になりました。んー、もっと沢山掛けたいんだけれど、まあしょうがないわね。今日はこの曲でお別れしたいと思います。お相手は前田瑶子でした。じゃあ皆さん、素敵な週末の夜を。」

https://m.youtube.com/watch?v=3F35HpMRhMI

「女将さん、もう一杯だけ何か飲もうかな。」
「多分、今の気分はウイスキーってところかしら?」
「よくご存知で。」
「そりゃあ、ねぇ。これだけ毎日一緒に居たら。それに…」
「それに?」
「今のこの歌は、お酒が美味しくなる歌だもの。」
猫娘のミーちゃんが、一人ちょっと切ない顔で飲んでる。
あのいつも元気な彼女にしては珍しい。
こう言う時ってのは、おっさんに出来る事は優しく話し掛けるぐらいしか出来ない。
「ミーちゃん、ちょっと半分食べるの手伝わない?おっさん、頼んだは良いけど腹パンでさあ。」
勿論、腹パンは嘘である。
でも、彼女が「あのミーちゃん」ならば、この鮭ハラス焼きは好物な筈だ。
「あ、お兄さんありがとう。」
ベリーショートがよく似合う、物憂げな彼女。
「どうしたのさ、おじさん気になってしょうがないよ、へへへ。」
「いや、今朝ね、昔の彼氏の夢を見たんですよ。そしたら、何か急に懐かしくなっちゃって電話してみたんです。」
「おう、大胆だねぇ。」
「そしたら彼、最近結婚したんだそうです。」
「あちゃー。それは残念だったね。」
「何かね、失恋したみたいな気分になっちゃって。」
ふと女将さんに目をやる。
何か言いたげな女将さん。
「私、彼が大好きだったんですよ。大好きだったから、強がって別れちゃったんです。まぁ、そう言うのってあんまり分かって貰えないかも知れませんけど。」
何か、オトナの恋だった訳ね。
理解出来ない訳じゃ無いけど、美富久と鮭ハラスが超絶うめえ。
箸で皮を剥がし、身をほぐす。
そしたら、ミーちゃん皮をつまんでペロっと食べた。
こいつめ。
「昔の恋なんか思い出しちゃダメだなんて良く分かってるのに、私何やってんだろうって。」
「でもさあ、夢で見ちゃうと心が動く気持ちは分からんでも無いけどさ。」
骨を避けて皿の端っこに積み上げる。
食べやすくしたところで、すかさずミーちゃんが食べる。
こいつめ。
「あら、あなたもそんな気分になる事あるの?」
女将さんが笑う。
目は笑って無いのが本当に怖い。
「あ、いや、そんな気にもなる事もあるかなーって、へへへ。」
こう言う時は、とりあえず笑って誤魔化すに限る。
「でもね。」
女将さんが、熱燗を差し替えながら入ってくる。
「過ぎた日々の愛を今更なぞるなんて止めた方が良いわよ、ミーちゃん。悲し過ぎるわ。」
おお、女将さんこう言う時カッコ良い事言うねぇ。
「無くした夢よりも、芽生えた喜びを抱きしめる方があなたらしいと思うけど?」
「でもね女将さん、私今良い人なんか居ないもの。」
ほぐれたハラスをがっつり食べるミーちゃん。

こいつめ!

「フフフ、分からないわよ。案外新しい恋なんて意外なところから急に始まるものかも知れないし。」
その時、入り口が開いた。
「あ、田中ちゃんおかえり。」
「あるぇ?何今日ハラス?まだ残ってます?」
「あるわよ。」
「じゃあ、僕にも焼いて下さいよハラス!すげー食いたい!」

もしもここから始まる恋があると言うなら、それも悪くない気がしてきたよ。
お店の開店前。
仕事も早く片付いたんで、ちょっぴし早く会社を後にして、お土産なんか買いつつあの小料理屋へ。

「ただいま。」
「あら、今日は随分早かったわね。ちゃんと仕事してきたの?ダメよ、せめて給料分ぐらいは働かないと。」
にっこり笑う女将さん。
そう言う女将さんは仕込みの真っ最中。
この季節でも、厨房の中はちょっと暑そうではある。
「女将さん、プリン買って来たから、ひと段落したら食べない?」
「あら、良いわね。じゃあ、紅茶入れてあげるね。」

実は、女将さん案外プリンが好きなのだ。
そして、プリンを美味しそうに食べる女将さんを見るのが、僕は結構好きなのだ。

「プリンってさ、大人になってもやっぱり大好きなのよね。」
カウンターに座って、僕の横で凄く愛おしそうにプリンの蓋をあけ、小さな銀のスプーンでプルプルとした黄色い塊をすくい、そして半ば吸い込むようにプリンを口に入れる。
そして、舌の先で唇を一瞬ペロっと舐めて、そして笑う。
とびきりのいい顔で。

そう、その瞬間を見るのが、密かに好き。
笑顔が見たくてなのか、舌の先が見たくてなのかは想像におまかせするとして、半分はそれが見たくてプリンを買ってきたようなものだ。

「あなた、たまにプリン買って来るわよね。あなたも好き?」
「うん、割と。」
全力でそう思ってないところは少し申し訳ない気がするのだけれど、でも、プリンが好きなのは間違いない。
「美味しいわよね、濃厚な甘さと柔らかさが大好き。」
僕も、濃厚な甘さと柔らかさが大好きです。
「夢中で食べちゃうのよね、何かね。」
そんな事を言いながら、紅茶をすする女将さん。
プリンを食べる時は、女将さんは決まって紅茶を飲む。
まあ、そうは言っても黄色いティーバッグの紅茶なんだけど、それでも最近の黄色いティーバッグは侮れない。
僕も紅茶を口に流し込む。
甘さがすっきりと流されていく。

そして、再びプリンを食べはじめる。
「でも、ちょっとだけプリンって切ないわよね。」
「どうして?」
「え?だって。」
「だって?」
「だって…」
カラメルをすくって、スプーンをペロリと舐めて女将さんは言った。
「幾ら甘くて濃厚でも、最後はほろ苦く終わってしまうもの。」
「金曜日、今週はどんなスタートになるのかねぇ?」
相変わらず女将さんと僕でスタートの神楽坂の夜。
「こんな時に新規のお客様なんか来てくださるとちょっと楽しいのにね。」
「どうして?」
「あなただって、たまには違うお客様と話してみたいと思ったりするでしょう?」
えー、僕は女将さんのお尻の辺りを眺められるんだったら、どっちでも良いんだけどなー。
そんな事をボーっと思いながら、ウイスキーのロックグラスを揺らす。
そんな時、カラカラと入口の引き戸が開く。
「こんにちは、じゃなくて、こんばんは。」
おや、ちびっ子の声だ。
「おばちゃんが、ここに行ってごはん食べてなさい、って言ったんで、来ました。」
小学校入りたてぐらいの女の子だ。
「あら、どこのお嬢さんかしら?」
「まえだかおるこって言います。」
前田…ああ、居たね、前田さんっておばちゃん。…おばちゃん???
「あら、瑶子さんの姪っ子さん?」
「よろしくおねがいします。」
「じゃ、入って。今日は好きなもの食べて良いわよ。」
「おばちゃん、ありがとう!」
そうか、ちびっ子から見たら、この麗しき女将さんもおばちゃんになっちゃうのか。
トホホだね。
「お嬢ちゃんは何食べたい?」
「んーと、んーと、卵焼き!それと、牡蠣雑炊が美味しいから2人前頼んでおいて、って、おばちゃん言ってたの。」
随分子供らしからぬオーダーではある。
「あ、瑶子さんからメール来てたわ。姪っ子が先に行くからよろしく、私もすぐ行くから、だって。」
瑶子さんに姪っ子が居たとは少々驚きだね。
そう言うのと無縁に生きてるのかと思ってた。
「おばがいつもお世話になっているそうで、すいません。」
子供っぽくない挨拶をしてペコリとお辞儀するかおるこちゃん。
番茶をすすりながら、「おばちゃん」が来るのを待つ。
ちっちゃいけれど、目の辺りが瑶子さんそっくり。
多分、十年後は美人さんになってるだろうさ。
十年後…僕は55か。
そろそろ老後なんかを真面目に考えたりしてるんだろうな。
でも、さ。
十年後も僕はここでこうして飲んでる気はするんだけどね。
女将さんと他愛ない話をしながら、さ。
「はい、卵焼き出来たよ。おばちゃんの卵焼き、美味しいのよ。」
あー、女将さん、遂に自分を「おばちゃん」て言っちゃった。
なんだろ、自分はいくらおっさん呼ばわりされても気にならないんだけどね、このモヤモヤは。
美味しそうにだし巻きを食べるかおるこちゃんの横で、腑に落ちない僕が居る。
君がおばちゃんって呼んでる女性は、僕が一番夢中になってる僕の奥さんなんだぞ!

「ごめんごめん、チビだけ先に来させちゃって。」
瑶子さんが入ってくる。
「かおるこ、美味しい?」
「うん!」
「そっか、アタシもここの卵焼き大好きなんだー。おばちゃんにもちょっとちょうだい。」
「いいよー!」
いつもの、都会の女性を絵に描いたような表情の瑶子さんとはどこか違う。
柔和な、優しい顔の瑶子さん。

「でもさ、なんか不思議なもんだね。こんな美人が二人も揃って自分は『おばちゃん』だって言うんだから。」
つい、思ってた事を言ってしまう。
「あら、あなたがそんな事を言うとは思ってなかったわ。」
「大体、僕にはおばちゃんに見えない。」
「でも、薫子から見たら、アタシは十分おばちゃんだもん。」
「そうかも知れないけどさー。」
「でも、歳を重ねることはそんなに悲しい事でも無いと思うけどな。」
牡蠣雑炊を作りながら、女将さんが言った。
「若い頃には分からなかった事を、深く楽しめるようになったりするもの。私は、若い頃の自分より今の自分の方が好きよ。それに。」
「それに?」
「多分私、昔より今の方が着物が似合うわ。」
そう言ってニッコリ微笑む女将の目に、嘘は無かった。
なるほどね、でも、それは男もそうだもんね。
酒の旨さなんかを噛み締められるようになったのは、この歳になったからだろうし。

ウイスキーの氷が随分溶けてしまった。
だが、このちょっと緩くなったウイスキーもまた、優しくて美味しい。
ストレートで飲んだ時には分からなかったまろやかさに気付かされる。

若い頃には分からなかった楽しさ、か。

「でも、そうやって大人になっていろんなことを知ってみると、かつての自分が恥ずかしくなったりする時って無い?」
すると、振り返って女将さんは、噛み締めるように言った。
「あなた、忘却は美徳だわ。」

昼ごはんに季節外れのそうめんを食べた後、小料理屋の二階にある休憩所の窓際で煙草の煙をくゆらす。
煙が冬に限りなく近い秋の空に向かって昇って、そして、消えていく。
女将さんが、正座して洗濯物を片付けたりしている。
建物のせいもあると思うんだけど、昭和っぽい光景だ。
和室の六畳間。
多分、この木造のお店の中でここが一番昭和っぽい。
自宅のマンションには無い、別の落ち着きがここにはあるように思う。
さて、この窓から見る神楽坂の景色も、すっかり冬の一歩手前と言った感じだ。
今晩も熱燗で一杯かねぇ。
でもその後は、たまにはこんなところで寝てみたい気もする。
天井からぶら下がる電球の明かりを眺めながらね。
ふと女将さんに目をやる。
今日も背中が綺麗である。
煙草の火を消し、後ろから女将さんを抱きしめてみる。
首筋から良い香りが漂う。
「まだ明るいからダメよ。」
「いや、そういう気持ちになったんじゃない。」
「じゃあ、どう言う気持ち?」
「この季節に蝉が居たら、何を思うのかなって不意に思ったのさ。」
「じゃあ、私は木の枝か何かなのね?」
「木の枝にしちゃ、少々よく喋るけどね。」
女将さんから離れ、僕はお茶を二つ入れてみる。
「今晩ここに寝てみたい気がするんだよ。」
「あら、どう言う風の吹き回しかしら?フフフ。」
「たまには飲んですぐゴロンしてみたいなーって。」
「でもあなた、しょっちゅう小上がりで飲んだ後にゴロンしてるわよ。」
「うん、そう言われると何も否定出来ない。」
「でも、良いわ。今日はゴロンしよっか。」
「え?女将さんもここに寝るの?」
「嫌なの?」
「いや、女将さんは嫌がるかなってちょっと思った。」
「私この部屋好きなんだもん。勤めてた頃よくここで寝泊まりしてたわ。」
「へえ、じゃあ小料理屋から職場に行ったりしてたんだ。」
「ちょっと素敵でしょ、フフフ。職場が近かったから、いろいろ便利だったのよ。」

そんな話をしていると、窓際に一匹の猫が現れた。茶トラで、赤い首輪をした…あれ?ミー子?僕が学生の頃に飼ってたミー子そっくりだ。

「その子、最近ここによく遊びに来るのよね、昼間。」
ちょっと試しに名前を呼んでみる。
「ミーちゃん。」
「ニャー。」
間違い無い、ミー子だ。
今じゃ生きてる筈の無い、ミー子だ。
お前、やっぱり蘇って俺に会いに来てくれたんだな。
「ね、あなた最近よく来るもんね、テレシコワ。」
「ニャー。」
…テレシコワ?
何故ロシア名。
しかし、テレシコワと言う呼び名に反応するミー子。
もしかして、もしかしたら!
「なーなー、エリザベス。」
「ニャー。」
「あのね、アンジェリカ。」
「ニャー。」
「聞いてるのか?ドミニク。」
「ニャー。」

この猫は、どんな名前の呼びかけにも反応する。
ミー子、ボケちゃったんだろうか。
まあでも、猫が居るとちょっと楽しい。

そんなグダグダした、土曜日の午後の話である。
寒いね。
ホント寒い。
こうなることが分かってるんだったら、コート持ってくるんだった。
逃げるように転がり込んだ先は、勿論あの小料理屋。

「女将さん、寒いよ!」
「今日はホント寒いわよね。もう冬の雨って感じ。」
こんな夜は、鍋から立ち昇る湯気がとても幸せなものに見える。
この感覚は、きっと子供の頃から変わらない。
湯気の向こうが、まるでソフトフィルターが掛かったように柔らかく見えるせいだけではあるまい。

ともあれ、僕の寛ぎの時間はここから始まる。
暖かいおしぼりで顔の筋肉をほぐし、そして、手を拭く。
毎度お馴染みのルーティンワークだ。

「はい、今日はクリームシチュー煮たわ。」
「おほ、いいねえ!」
これこれ、今の僕が欲していたものは。
人参、玉ねぎ、じゃがいも、しめじ、そして鶏肉。
シンプルなクリームシチュー。
しかしながら、暖かさが胃に染み渡る。
「寒いとこう言うのが美味しくなるもんね。さっき、どうしても食べたくなって作っちゃった。」
女将さん、分かってらっしゃる。
とろける寸前の人参を頬張りつつ、ちょっと感動。

でもさ、料理ってそう言うもんかも知れない。
高級食材をふんだんに使った料理も素晴らしいけれど、多少チープでも「今これ食べたい!」って言う時にそれが出てくる幸せって、やっぱり素晴らしい。
それにしても、女将さんは割とジャストなタイミングでジャストなものを作ることが多い。
「女将さんてさ。」
「ん?」
「割と、僕がこう言うの食べたいって思った時に、そう言う料理を出すよね。」
「そう?」
「うん。ちょっと凄いと思う。」
「今日は私が食べたかったから作っただけよ?」
「でも、僕は今日はこれ食べたかった。」
にっこり笑う女将さん。
「ちょっと暖かくなった?」
「そりゃあもう。」
「じゃあ、今日は熱燗やめとく?」
「いや、それはそれで飲みたい。」
「あら、欲張りだこと、フフフ。」
そう言うと、女将さんは二合徳利をカウンターに置いた。
「でもね、フフ、私も今日は熱燗飲みたかったんだ。お客さん来るまで、ちょっと飲んじゃおうか?」

肩を寄せ合って飲む熱燗。
そうだねぇ、寒い夜はそれが一番幸せかもね。
昨夜はよく飲んだ。
閉店したあと更に女将さんとバーに行って、ウイスキーを二、三杯煽って、そんでもって帰って来たんだけどさ、起きたらこんな感じ。
もうね、息が酒臭い。

7時。
朝なのにね。

でも、ふと横を見ると、女将さんが居ない。
ありゃ、ちょっと寝過ごし気味だ。
と言うか、水飲まなくちゃ。
トイレにも行きたい。
てか、シャワー浴びないと。
昨夜そのまま寝ちゃったんだな。
ちょっと二日酔い気味だけど、頑張って起きるぞ、俺。

キッチンで女将さんが朝ごはんの支度をしていた。
「あら、起きられた?おはよう。」
「おはよう。女将さんよく起きたね。」
「私はあなたが出掛けたらもうひと眠りするわ。」
「で、朝ごはんなーに?」
「多分あなた、軽めの方が良いでしょう?」
「女将さんが作ってくれたなら、何でも食べるさ。」
そう言いながら手元を覗き込むと、出ました、だし巻き卵。
僕ねえ、女将さんのだし巻き卵大好きなんだよねー。
他でも美味しいだし巻きって食べられるけど、女将さんのは特別。
トロっと具合とか味が絶妙なんだ。
すんごく優しいだし巻き卵。
「今日はだし巻き卵と鮭ね。ごはんは軽めが良いでしょう?」
完璧な朝食である。
こんな二日酔い気味の不甲斐ない亭主のために、女将さんは起きて朝ごはんを作ってくれたんだねぇ。
頭が下がります。
顔を洗ってトイレを済まし、ダイニングへ行くと準備が終わっていた。
ごはんとあおさのお味噌汁をそれぞれによそい、いただきますをする我が夫婦。

「旅館の朝ごはんみたいだ。」
「しっかり食べないとしっかり仕事出来ないでしょう?」
仰る通り。
先ずは味噌汁で口を湿らす。
続いて、だし巻き卵。
うーん、完璧だ。
大好きなものを朝から食べると元気が湧く。
気持ちがシャキッとするよね。
相変わらず体は酒臭いけど。

「今日は出張だったわね。」
「うん、これから金沢。」
「あら、良いわねぇ。美味しいものが沢山あるじゃない?」
「美味しいものを食べに金沢まで行く訳じゃない。」
「でも、帰りの新幹線は飲んで来るんでしょう?」
「まぁ、ね。」
「頑張って仕事して来るのよ。」
「頑張るよー、日本の労働者の意地、見せて参ります。」
「フフフ、随分背負ってるわね。」

そんな我が家の朝である。
さーて、女将さんに何買って来ようかな。
確かに金沢には美味しいものいっぱいあるもんね。

あ、これか。
女将さんの言ってる「ちゃんと仕事して来い」ってのは。
お土産探しの事なんだと、今気付いた。
僕ら夫婦は、ダブルベッドで寝ている。

と言っても、僕が独身の時から使っているベッドなのだけれども。
どうも広いところでないと眠れない性分で、昔からベッドだけは大きい。
そして、ベッドの上で起きた事は誰かに言ったりしない主義だけれど、今朝起きたら女将さんが居なかった。

ベッドの上で起きた事を言わない主義なので細かい事は言わないけれど、それでも一応起きた時に幾つかの夫婦ならではのルーティンワーク的なものはあったりする。
女将さんが居ない場合、勿論それらはすべて行われない。
歯を磨き、顔を洗い、そして寝癖を誤魔化したら会社に行く。
そんな1日のスタート。
会社にほど近い小諸そばで、かき揚げそばを食べて、いっぱしの企業戦士みたいな顔を作る。

・・・女将さん、一緒に寝るのが嫌になっちゃったのかな。
でも、別に俺、そんな変なコトしてないぞ…多分、ね。
でも、あれかな。
何か思うことあったのかな。
人間だもん、そりゃあそんな日だってあるかもだよねぇ。

「部長、部長!何か顔がショボンとしてますよ。」
山本さんが顔を覗き込んで笑う。
「女将さんに怒られたかなんかしたんですか?」
「いや、そう言うんじゃ無い。そう言うんじゃね。ハハハ。」
当たらずも遠からず、か。
女のカンは怖いねぇ。
「今日ね、女将さんのお店に行きたいと思ったんですよ。良かったら部長も一緒に行きませんか?」
一緒に行こうと誘われた先が自分の家みたいなところと言うのも、何か不思議な気持ちではある。
だけどさ、どうしよう、お店が閉まってたら。
何か一人で帰るの、ちょっと怖いな。
「おし、じゃあ一緒に行くか。今日は残業しない方向でよろしく!」
「よろしくっ!」
娘ほども歳が離れた部下というのは、時に強い味方だったりするのだなと思った。

はてさて。

新宿から残業をせずに山本さんと向かった先は、あの小料理屋。
もう開店していた。

「あら、お帰り。今日は山本さんも一緒なのね、いらっしゃい。」
いつもと何も変わらない笑顔の女将さん。
そして、ちょっぴしビクビクしている、僕。
山本さんがトイレに行っている間、女将さんに話しかけてみる。
「女将さん、今朝早かったけどどうした?俺、何か変なことした?」
きょとんとした後、大笑い笑うする女将さん。
「いやねぇ、そんなんじゃ無いわ。え?もしかして、私がどこかに飛び出したと思った?ウフフ。」
「そりゃあ、いきなり消えてたらびっくりするだろうさ。」
「今日はどうしても朝からしなくちゃいけない仕事があったの。牛すじを、ね、5キロも買っちゃったの。で、下ごしらえしなくちゃと思って・・・。ごめんね。」
どうやら、僕のせいでは無かったようだ。
「はい、そう言う訳で今日は牛すじ大根。」

やばい。
もう、見た目が旨そうだ。

「牛すじを美味しくするポイントは、あく抜きなのよね。そして、その時の匂いがちょっと凄い匂いなの。朝のうちにそれを済ませないと、開店するまでに匂いが残っちゃうと思ったのよ。」
うん、臭みなんか全く無い、物凄く上品な牛すじ大根。
きっと女将さんのことだ、下ごしらえに沢山の手間暇を掛けたのだろう。
牛すじが旨味と一緒に口の中でとろける。
味の染みた大根が追従する。
それはもう、芸術的と言っても良いほどの衝撃。
「女将さん、お酒が欲しくなるね、これ。」
「そう来ると思ったわ、今日は大七のお燗なんてどう?」
「いいねぇ!」

そんなところで、山本さんがトイレから帰ってくる。
「わあ、牛すじ大根!私大好きなんです。」
わしわしと食べ始める山本さん。
「こんな美味しい牛すじ大根を作る奥さんを怒らせたらダメですよ、部長。」
「え?何のこと?」
「女将さん、部長今日一日しょぼくれてたんですよ、まるで子供みたいに。」
「あら、そうだったの?」

こら、山本。
余計なことを言うんじゃない。

「女将さん、彼女にも一本つけてあげて。口止めしないと何言い出すか分からないよ。」
「あら、あなたの口止め料はお燗なのね。」
笑う女将さん。
「山本さん、うちの人ね、寝言が凄い面白いのよ。夜中にガバッと起き上がったと思ったら・・・」
「うわぁ、女将さん、ベッドの上での話は・・・。」
「ウフフ、じゃあ私も口止め料貰うわね。」
こっちを見ながら徳利を二本揺らしてみせる女将さん。
僕の女房は、とてもちゃっかり物だ。

まあでも良いよね、一日の締めくくりが笑顔だったならば。
それに、この牛すじ大根に込められた気遣いの数々は、紛れもなく本物だし。
口の中で炸裂する旨味の後ろに、女将さんの真心を感じた。
女将さん、実は揚げ物が結構上手かったりする。
たまに女将さんが作った揚げ物を食べると、妙に心が落ち着いたりする。

そう、男は揚げ物が好き。
だって、男だから。
揚げ物に罪は無い。
例え、ジーンズの上におなかがポコッと乗っかることがあったとしても、それは自己責任であって揚げ物のせいじゃない。

今日は、初めて来たと思しき二人組がカウンターで飲んでいる。
良いねえ、初めてのお客さんが増えると、カウンターも盛り上がるよねぇ。

「でさ、ヤス。お前作った蕎麦、あれ不味かったよなー、ヤスそば。」
「ごっしー、あれは俺のせいじゃないって、新ちゃんが悪いんだって。」
「そう言えば、新ちゃんが塩焼きそば作ってたときに、後ろからソース入れた事あったよね。」
「あったあった。懐かしいよね、新ちゃん。よく誠が新ちゃんちの畳焦がしてたよね、煙草で。」
「まこちゃんは、学習しないからね。」
ヤスと呼ばれるちょっとネクタイが苦しそうな男と、ごっしーと呼ばれるネクタイをすることをとっくに放棄した男が二人、昔話に花を咲かせている。
「そういえばさ、ごっしー。タカちゃん最近見ないよね。」
「タカちゃんねー、たまには帰ってきてるみたいだけどね、あの人案外チョロチョロその辺歩いてるよ。」
「タカちゃんさ、よくガード下のトンカツ屋でトンカツ食ってたよね。」
「『明日もカツ』とか言って、カウンターで胡麻すってたよなー。」
「でも、トンカツ良いね、たまに食べたくなるよね。」

とんかつに思いを馳せる男達。
そろそろ女将さんの出番かねぇ。

「あら、じゃあトンカツ作りましょうか?」
「出来るんですか?メニューに無いけど。」
「材料があるから作れますよ。」
「凄いね、まるで小林薫の食堂みたい。」
「うちは、深夜はやってないわよ、フフフ。」

厚切りの豚ロースにパン粉をまぶして、手際よくトンカツを揚げる女将さん。
油の音が食欲を誘う。
「トンカツをアテにしながらお酒を飲むって言うのもたまには良いものよ。」
そんなこんなで、アツアツのトンカツが登場。
サクサクっと言う音と共に、豚のジューシーな味が口いっぱいに広がる様子が、横で見ていてたまらない。
喉が鳴りそうだ。

「しっかし旨いな、これ。」
「肉の厚みがちょうど良いよねぇ、やばい。通いそう。」
「そう言えばさ、俺ら子供の頃ってちょっと贅沢な気がしたよね、トンカツって。」
「まぁ、今も贅沢っちゃ贅沢な食べもんな気はするけどね。」
「庶民の贅沢って感じはあるけど、もしも凄い金持ちになっても、多分トンカツって食べるよね。」
「食べるだろうね、特にタカちゃんみたいな人は。」
「あの人、食うために生きてるもんな。」
「でもさぁ、何の気なしにトンカツ食えるぐらいの懐具合ってのが、一番幸せなのかもね。」
「それは言えてる。あんた良いこと言うね、伊達にブクブクしてないねー。」
「ブクブク言うな。」

まるで漫才の掛け合いのような二人のやりとりを聞きながら、熱燗をなめる。
鰹の酒盗がまた熱燗に良く合う。

「そう言えば女将さん、誰かに似てますよね。」
「え?誰かしら。あんまり誰かに似てるなんて言われたこと無いわ。」
「んーとね、女優のほら、あの人。」
「誰かしら。」
「えーと、・・・もうここまで出かかってるんだけどなぁ。」
自分のこめがみの辺りを指さすヤスさん。
「あんたさ、普通『ここまで出かかってる』って言ったら喉の辺りじゃね?行き過ぎじゃね?戻して戻して。」

今宵の小料理屋の夜も、こんな感じで更けていくんだねぇ。
師走。

ボーナス!
やっと出ましたボーナス!

とは言え、封筒が立つほどは入ってないところが寂しいところなんだけども、それでも、僕らサラリーマンの冬の楽しみの一つであることは間違いない。

「ボーナス出たよ。」
「あら、素敵。」
「女将さん、どこ行きたい?」
「そうね、温泉なんかが良いわね。温泉入って、美味しい物食べてお酒飲んで・・・。」
「それから?」
「全部言わせる気?フフフ。」

・・・フフフ。
たまにはね、良いよね、夫婦だもんね。
どこか遠くの温泉宿で、あんなことやこんなことになっても、ね。

そんなやりとりを期待しつつ、心も軽やかに向かう先はいつもの小料理屋。
懐は多少温かいけれど、外は寒い。
こりゃ、今夜はおでんで一杯かね。

店に入ると、田中さんもミーちゃんも瑤子さんも居る。
うちの会社の山本さんまで居る。
「あ、おかえりなさーい。」
何だ何だその全員揃っての歓迎ムード。
「お兄さん、ボーナス出たらしいじゃない?山本ちゃんから聞いたわ。」

こら、山本。
余計な事を言うんじゃない。
それにしても、しゃあないな。
じゃあ、みんなに何か奢るか。

「小笹屋竹鶴、入れておいたわよ。お燗で良いわよね?」
女将さんが一升瓶を持って笑っている。
あー、僕の冬の楽しみが・・・。
「じゃあ、みんなに差し上げて。」
そう言うしかないよねぇ、トホホ。

揃ったところで、みんなで乾杯。
気がつけば、何故か女将さんまで竹鶴を楽しんでいる。
急にアドリブでジャズを歌い出す瑤子さん。
田中さんは、ネクタイを頭に巻き始めた。
もうすぐ彼の十八番、カウンターパーカッションが始まるだろう。

でも、この雰囲気嫌いじゃないなぁ。
僕は、多分このみんなが和やかに笑ってる光景が好きなんだろうね。
ずっとこんなのが続けば良いねぇ。

女将さんが、みんなにおでんを取り分ける。
女将さんのおでん、お汁が染みてて美味しいんだよ。
スジなんか、もう絶品。
トロっトロ。

おでんがみんなにまわると、珍しく女将さんがカウンターで飲み始める。

「今日、久しぶりに餅巾着作ってみたのよ。実は私、これ大好きなの。」
そう言って美味しそうに頬張ってみせる女将さん。
「あふ、あふ。」
ああ、熱々のお餅がとろけだして来たんだろうね。
手をパタパタと振りながら熱さに耐えるその姿は、まるで往年の片岡鶴太郎のようだ。
珍しくそそっかしい姿をさらけ出す女将さんが、ちょっと可愛いと思った。

「そう言えば、ボーナス出たのね。お疲れ様。」
そう言いながらお酌をしてくれる女将さん。
小さくお辞儀をしてみる。
「どこか遊びに行こうか?」
「そうね、たまにはどこかに行きたいわね。」
「新婚だしね。」
「お互い見た目は随分くたびれちゃってるけどね、フフフ。」
そうだねえ、僕も女将さんも、世間的にはおっさんとおばさんだものねぇ。
気持ちは若いつもりなんだけど、ねぇ。
「でもね、おばさんになるって言うのも楽しいものよ。」
「和服が似合うようになる以外でも?」
「熱燗の楽しさが分かるようになるわ。」
まぁ、確かにそれはある。
僕はおばさんでは無いけれども、本当に熱燗の良さが分かるようになったのって、やっぱり40を超えてからだもんな。
そんな事を漠然と思いながら口の中で転がる小笹屋は、やはり旨い。
カウンターの向こうで、田中さんが乳首を出して踊りながら、山本さんをキャーキャー言わせている姿が目に入ったとしても。

「それにしても寒いわね、外。」
「寒いね。今日はおでん食べたい気分だった。」
「そうじゃないかと思ったわ。」
「寒い日は、熱々のおでんに限るよ。」
「じゃあはい、あーん。」
そう言って、餅巾着を笑顔で僕の口に入れようとする女将さんに、コントの才能を感じた。
やばい、この忙しい時期に風邪を引いたらしい。

クラクラする。
寒気もする。
そう言う訳で、残りの仕事を山本さんに任せて、早退。
まっすぐ家に帰りたいところだけれど、おなかが空いている。
女将さんのところにちょっと顔を出そうかな。

「女将さん、ただいま。」
「あら、どうしたの?顔色が悪いわよ。」
「風邪移されちゃったみたい。」
「じゃあ、早く帰って寝なくちゃね。お医者さん行ってきた?」
「ううん、これから。」
まるで、母親と子供のような会話。
女将さんが僕の額に手を当てる。
「まぁ、結構な熱ね。」
「ぐわんぐわんする。」

ダメだね、僕は。
熱が出ちゃうとバカになったみたいに動けなくなる。
と言うか、会社を出たときより悪化してる。

「女将さん。」
「なあに?」
「だっこ。」
「・・・馬鹿ね、もう。」
苦笑いする女将さん。
「上に布団敷いてあげるから、ホントに寝た方が良いわ。ちょっと待っててね。」
自分でやるから、と言おうとしたが、もうそんなパワーも無い。

しばらくして、布団に促される。
「今日は良い子にして寝てるのよ。ほら、スマホなんかいじってないで。」
スマホを取り上げられる。
これじゃ、まるっきり子供だ。
仕方なく、すっぽり布団に包まれて寝ることにする。
女将さんが、横に座っているので顔を見上げる。
水枕や濡れタオルを手際よく準備する僕の女房の顔は、やはり美しかった。
表情の軟らかさに内面の優しさが滲み出ている、そんな顔。
毎晩見ているつもりだけれど、こんな風にまじまじと見る時間ってそんなに無かったかも。
「女将さんさぁ。」
「だっこは禁止よ。」
「そうじゃない。」
「じゃあ、何かしら?」
「好き。」
「・・・どうしたの?熱のせいかしら。兎も角、冗談言ってないで早く寝ることね。この小料理屋の女将は、これでも案外忙しいのよ、フフフ。」

なんだろ、こんな風邪で寝込もうとしている時ですら、女将さんを笑わせようとする僕は。
一体誰に似たのかね。

「じゃあ、私は下に行くわね。仕込みしなくちゃ。」
鼻詰まりで苦しい状態で、女将さんを目で見送る。
風邪移しちゃってもまずいもんね。
もうちょい側に居て欲しい気持ちはやまやまなんだけどさ。

でも、それにしてもお腹空いたなぁ。
でも、多分食べられないな、この調子じゃ。
でも、鼻詰まりでも分かっちゃうぐらい良い匂いがするんだよなぁ、畜生。
天井の節を数えながら考えることは、この良い匂いの正体。
優しい匂いだけど、強烈に心を揺さぶる。

外はそろそろ夕暮れ。
気が付けば、そう言う季節だ。
そう言えば、まじまじと空なんか眺めたの久しぶりだな。
子供の頃さ、これぐらいの時間になると夕ご飯の匂いがしてさ、ワクワクしてたっけな。
まぁ、大人になっても料理の匂いでドキドキしてる訳だけれど。

階段を上がってくる女将さんの足音が聞こえてきた。
ススッと襖が開く。
「あなた、どう具合は?天使がやってきたわよ。」
「おお、天使か。最近は随分年増の天使が居るんだね。」
「まぁ、折角美味しい物もって来たのに。」
女将さんは、お盆の上にそば猪口のようなものを乗せて運んできたのだ。
「元気が無くても、スープぐらいは飲めるかなと思ったのよ。」
そうか、これの匂いか。

それは、炊きたての鶏ガラスープ。
鶏のコクと塩味が絶妙なのだ。

「そろそろ寒いでしょ?鳥雑炊をメニューに戻したのよ。」
「やっぱ、天使だな。我が女房は。」
「フフフ、あなた、これ好きだもんね。」
スープをすすってみる。
口いっぱいに広がる、鶏の旨味。
そして、温かさが食道を通って胃にストンと落ちていく。
心が、安らぐ。

「風邪薬も持ってきたから、ちゃんと飲んでね。」
「あ、ありがとう。」
「あなたが居ないカウンターは、寂しいものだわ。じゃ、仕事に戻るわね。」
「女将さん。」
「なぁに?」
「好き、やっぱり。」
「老けた天使でも?」
「うん、天使は天使。」
「フフ、ありがと。」
そう言いながらウインクする、女将さん。

さて、本気で風邪治そうか。
明日は、カウンターに戻るぞ。
・・・例え、会社のデスクに戻れなくとも。
やっぱり今日は会社を休んだ。

僕はあのまんま、小料理屋の二階で一晩過ごした。
女将さんも一緒に寝るとは言ってくれたけれど、風邪を移すと悪いし、マンションに帰って貰った。
実は、体調はだいぶ良くなってきた。
夕べ会社から、「お前最近ちっとも休んでないだろう、こういう時は休め」と、電話が来たのだ。

ありがたい。

普段ちゃんと仕事していると、こういう時に会社は優しい。
ま、神様がくれた休暇だと思って、体を休めようかね。
とりあえず重い布団を楽しみながら10時過ぎまで寝腐って、のこのこと起きてみる。
顔を洗ってから一階に下りてみると、丁度女将さんが入ってきた。
「あら、もう大丈夫なの?」
「もう少し病人みたいな顔をしてたら女将さんが優しくしてくれるかと思ったけど、どうも寝てるのが性に合わなくてね。」
「まぁ、困った人ね、フフフ。はい、でも油断は禁物よ。」
風邪薬を差し出し女将さん。
とりあえず、それを飲んでみる。
でも、多分効いてるんだよね、これが。
普段、薬なんか飲まないからかねぇ。

「お腹空かない?何も食べてないでしょ?」
「ペッコペコ。あったかいもんが食べたい。」
「じゃあ、何か作ってみるわね。」
紅茶をすすりつつ、女将さんは手際よく料理を始める。
「女将さん、夕べはベッドが広くてゆっくり休めたでしょ。」
「そうね、たまには良いかもね。」
「じゃあ、しばらく一人で寝る?」
「うーん、それはそれで寂しいものよ。あなたの寝言が聞けないのは、残念だもの、フフフ。」
「僕、そんなに寝言言ってるの?」
「何かムニャムニャ言ってるわね、苦悶の表情で。」
「おお、恥ずかしい。」
無防備なところを見られると言うのは、割と恥ずかしいものだ。
それが、女房だとしても。
「さて、出来た。はい、豚汁うどん。」
「豚汁うどん?」
「こないだね、お客さんのフェイスブックを見てたらこれが出てきたのよ。旨そうじゃない?」
「お客さん?」
「うん、あなたが居ない時に、たまにいらっしゃってるお客さん。」
「僕が知らない常連さんって居るんだなぁ。」
「いつもお友達の方を何人か連れていらしてるから、賑やかなんだけどね。」

はてさて、噂の豚汁うどん。
いやこれ、野菜たっぷりで何だか楽しい。
しかも、うどん入りである。
そして、急速に体が温まっていく。

「どんなお客さんかは知らないけど、美味しいものを知ってるね。ちょっと好きになりそう、豚汁うどん。」
「美味しいでしょ?元気出た?」
「だいぶ。」
「じゃあ、これ食べたらさ、銀座にでもブラブラしに行ってみる?」
「おほ、良いね。平日の銀座。」
「今年は新しいコート買おうかなって思っててね。」
あー、これは長くなるパターンだ。
多分、なかなか決まらなくて数回銀座に見に行く羽目になる。
でもさ、嫌いじゃないんだよ、女将さんの買い物に付き合うの。
自分の女房が新しい服を選ぶのにとっかえひっかえ服を試着してるのをちょっと遠目で見てるのって、それはそれで結構楽しいもんさ。

さて、じゃあ僕もついでに、新しいジャケットでも見てみようかね。
明日はクリスマスイブだ。
道理で寒い訳だ。
もう、真冬だもんな。

天皇誕生日の今日、会社はお休み。
女将さんは、朝からタイヤをスタッドレスに交換しているので手伝う。
どうやら、今年の正月は僕の実家まで運転していくつもりらしい。
「やっぱり、冬は四輪駆動車の方が安心よねぇ。ねぇあなた、四駆買わない?フフフ。」
僕にクルマ買わせて、自分で使うつもりだな、さては。
白い息吐いて頬を赤らめながら上目遣いでそんな事言ったって、その手には乗らないぞ。

無事、交換完了。
夏タイヤを洗って、陰干し。
乾いたら、スプレーを吹いて倉庫にしまう。

さて、かじかんだ手を温めつつ小料理屋のカウンターでコーヒータイムにしようか。

「午後から雨でも降りそうな雰囲気の空だったわね。」
「寒かったね、もう、縮こまってちっちゃくなっちゃった。」
「ん、んー!」
咳払いをしながら、こっちを睨み付ける女将さん。
ん?僕、何か変な事言ったかな?
・・・あー、そう言う事?そりゃ失礼。
「や、そうじゃなくて、体が。」
それでも睨む女将さん。
でも、睨んだ顔も綺麗だよねぇ。

「それにしても、冬ね。」
ハンドクリームを手に塗りながら、女将さんがつぶやく。
一通り手になじませて、コーヒーカップを包むように持つ我が女房の手を、まじまじと見てみる。
細くて白い指がいかにも女性の手、と言う感じではあるけれど、日頃の水仕事のせいでちょっとだけくたびれていたりする。
デスクワークがメインの僕の男の手の方が綺麗だったりする事に、一抹の後ろめたさのようなものを感じながら、そっと左手をパーカーのポッケに隠してみたりしてみる。

すいません、毎晩毎晩あなたが一生懸命に働いているそのカウンターで酒をあおるばかりの亭主で。
いや、別に仕事をしていない訳では無いんです、僕も。
だけど、すいません、結果として僕の手は綺麗です。
男のくせに。

「ねぇ、あなたの実家行ったら、今年はお父さん達とみんなで温泉でも行かない?」
「女将さん、温泉好きだよね。」
「あら、大概の女は温泉好きなものよ、フフフ。」
そう言えば、今年は温泉で初日の出を見たっけな。
去年の正月、まさか僕らがその年の暮れに夫婦になってるとは思わなかったけれども。
「いいねえ、温泉。行こうか、みんなで。」
「やったぁ!」
無邪気に笑う女将さん。
いつものクールな笑顔も好きだけど、こういう無邪気な笑顔もまた、それはそれで良いもんだ。
ひょっとしたら、僕は自分の女房に時折こういう顔をさせたいがために生きてるんじゃないかという気がしてきた。
例え、手は少し荒れさせてしまっているとしても。

「しかし、あれだな。」
「なあに?」
「腹が減った。」
「じゃあ、何か作るわね。」
「ううん、今日は僕が作る。女将さんは、じっとここでコーヒー飲んでテレビでも見ているが良いさ。」
そう言って立ち上がり、女将さんの小さくて冷たい両手を握りしめて笑ってみる。
「あら、どういう風の吹き回し?」
「いや、あのね。」
前掛けをして厨房に入りながら、僕は満面の笑みで答えた。

「急にチャーハンを作りたくなったのさ。」
もう数時間すると、仕事も終わる。
お待ちかね、クリスマスイブの夜である。

これは内緒の話だけれど、普通のカップルがクリスマスイブの夜にするような濃厚なイベントを、僕たち夫婦は朝済ませてしまった。
まぁ、そう言う気分だったんだもの、しょうがない。
だってさ、朝方寒かったんだもん。
多分、多分今晩はそんなロマンティックな時間無いもん。
・・・え?
どんなイベントかって?
それは、聞くだけ野暮でしょ。
頼むよ。

はやる心を抑えつつ、向かうはいつもの小料理屋。
田中ちゃん。
瑤子さん。
瑤子さんのバンドのギターとベースの二人。
ミーちゃん。
そして、何故かうちの会社の山本さん。
提灯の明かりが消え、暖簾の無いお店の中には、いつもの顔ぶれだ。
だが、それで良い。
気心の知れた仲間と飲む酒は、やはり楽しい。

「リア充爆発しろー!ぼえー!」
「うぉー!」
アフロパーマをかけたベースの彼と、田中ちゃんが盛り上がる展開は新鮮ではある。
何故か二人とも、肩を組んでビールをラッパ飲みしている。
これ、10時ぐらいに寝ちゃうパターンだよね。

そうかと思えば小上がりのところにある柱で、ギターの彼が持ち込んだおもちゃのキーボードの伴奏に合わせて、ポールダンス風の踊りを披露する山本さん。
いつもの真面目なキャラクターはどこへ行ってしまったのだろうか。
豪快なダンスが笑いを誘う。

そんな中、瑤子さんは珍しくミーちゃんと肩を並べて談笑しながらカウンターで飲んでいる。
「瑤子さん、そろそろ私にも彼氏とか出来ても良くないですか?」
「そうねぇ、居てもいいお年頃ではあるわよね。」
「瑤子さんは、どうなんですか?彼氏とかそう言うのは?」
一瞬、瑤子さんの目が遠くを見た。
「あたし?あたしは・・・暫く一人でいいわ。アハハハ。・・・さ、飲むか、飲もう。イェー!」

見えちゃったんだろうね、何かさ、昔が。
でもまぁ大人なら、今じゃ言えない話じゃないけど、出来る事なら言いたくない事の一つや二つ、誰でも抱えているもんさ。
・・・え?
僕はどうなのかって?
・・・さ、飲むか、飲もう。イェー!

そうは言うけど、僕だって自分に可愛い彼女が出来るとか、美人の女房が出来るなんて思っていなかったんだよね、つい最近まで。
でもさ、気がつけばとびきり美人でクールなカミさんが出来てたりする訳で、人生なんて分からないもんだよねぇ。

ほら、見てよ。
慌ただしい中一人で切り盛りしている、クールな僕の女房・・・

「プッハー、じゃ、今日は飲んじゃうわよー!」
そこには、どじょう掬いの準備を整えてジョッキのビールを飲み干し、手ぬぐいでほっかむりしてちょび髭まで書いた女将さんが立っていた。
「田中ちゃーん。ミュージック、スタート!」
「はーい!」
ラジカセで安来節を再生する田中さんが、こっちを見ながら言った。
「さっき、『来年はこういうキャラクターで行こうかしら、フフフ。』とか何とか言ってましたよ、女将さん。どうなんですか、旦那さん的には、それって。」
「うーん、それにしても、何で女将さんはクリスマスにこれをやろうと思ったんだろうね。」
女は、分からないもんだ。

ふと、入り口辺りに店の中の様子を覗いているような視線を感じたので、そちらを見やった。
格子戸の磨りガラスごしに、赤い服を着た白ひげの老人の後ろ姿が見えた。
そりゃあ、サンタクロースも逃げていくわな。

このカオスとも言えるお店の中で、一人嬉々としてどじょう掬いを舞う女将さんの姿が印象的な、今年のクリスマスイブの話である。
今日で今年の仕事が終わった。

女将さんのお店も、今年は今日が最後の日。
でも、多分常連さんは誰も来ない。
みんな、もう既に帰省したみたいだ。
そう言えば、去年の最後の営業日も女将さんと二人きりで過ごしたっけな。

「ただいま。」
「あ、あなた、今年一年お疲れ様。」
「女将さんもね。今年もまた、二人きりだね。」
「なんとなく、そんな気はしてたけれどね。」
手際良くお燗の準備をする女将さん。
「今日ね、酒屋で今晩飲むお酒を買って来たの。」
「ほう。」
「それでね、酒屋でよくお会いする月島さんって方が、『このお酒は美味いから飲んでみてよ』って勧めてくださったお酒を買ってみたわ。」
カウンターに置かれた瓶は、三千盛。
お燗で旨い純米吟醸、か。
「合うかどうかは分からないけれど、いろいろアテは容易したわ。」

蓮根の天ぷら。
さわらの西京焼き。
いさきのお造り。
豪華、三本立て。
そこに、烏賊の塩辛とあん肝がそれぞれ少々。
「残りものでゴメンね。」
「ううん、上等上等。凄いご馳走。」
「じゃあ、今日は一緒に食べるわね。」

二合徳利をお湯から引き揚げると、それを持って女将さんもカウンターに座る。
お互いのお猪口にお酌し合って、乾杯。
旨味の塊と絶妙な辛さが調和するこのお酒特有の味が、口の中に流れ込んで来る。
「良いね、これ。飲みやすいけど味がちゃんとある。」
「多治見のお酒なんだって。美味しいわよね。」
「食事を邪魔しないし、でも、ちゃんと存在感はある。」
「あら、そう言うとまるで田中ちゃんみたいね、ウフフ。」
うん、確かに。
でも、だ。
「食事を邪魔する大人って、そんなに居ないよね、考えてみたら。」
「ヨネスケさんぐらいだわね、確かに。」
「でも、これを勧めてくれた方には感謝かな。お陰で良い時間を過ごせてる。」
「あら、今度ここへ飲みに来るって言ってたわ。」
「へえ!」
「どんな顔しながらお店に行けば良いのか分からないです、って言われたから、笑えば良いと思うよ、って言ったわ。」
女将さんもアニメなんか見るんだねぇ。
ちょっと驚いた。

今年あった事の話に花を咲かせる我が夫婦。
毎日毎日ここで同じような日々を過ごしているような気になっていたけれど、案外いろんなことがあったんだねぇ。
「時は流れない、それは積み重ねる、なんてね。」
「昔のサントリーのキャッチコピーみたいね。」
「人間もまた、そうなのかもね。」
「私たち、おじいちゃんとおばあちゃんになってもこんな風なのかしらね。」
「それはそれで楽しい老後って気がするけど?」
「まぁ、ね。でも、今はちょっとだけ時間を止めてみたい気分になったわ。」
「どうして?」
「それは、年末の恒例行事だからよ。」

女将さんの顔が近付いてくる。
今年は三千盛の味が入って来た。
三千盛の味を押し返す。
深く、深く…。
ああ、俺、とろけちゃうかもな。

「時間が止まったね、今年も。」
「罪なやつさ、OH、パシフィック。フフフ。」
「女将さん、古いね。」
「時間が止まってるんですもの。」
「もう少し、時間止めてたい気分になって来たよ。」
「そうね、私的にも、もう少し。時間止まる、これ、最高。」
「女将さん、こんな時にどうして矢沢永吉なの?」
「さぁ、どうしてかしら、フフフ。」
「多治見の辛口のせいかな。」
「岐阜のお酒は侮れないわ、ね。」

ちょっと失礼して、僕ら夫婦はもう少しだけ二人だけの時間を楽しむ事にするとして…。

皆様、今年一年ご愛読ありがとうございました。
皆様の次の一年が、今年よりも素晴らしいものになることをお祈りしつつ、今年はこれでお別れしたいと思います。

良いお年をお迎え下さいませ。
なんとなく冬休みが終わってしまった。
休みが終われば、あとは圧倒的な現実がやってくる。

仕事である。

とは言っても、案外冬休みってのは休める時間が無い。
女将さんと買い物行ったり、実家帰ったり、飲み過ぎて休息にならない休息を過ごす羽目になったり。
そんなこんなでどうにか今日一日中、仕事をしているフリをしつつやり過ごして、向かうのはやっぱりあの小料理屋。

「今日一日仕事をしているフリ、お疲れ様、フフフ。」
女将さんはその辺を良く知ってる。
とりあえず、ビールで乾杯。
でも、飲み疲れであんまり酒を飲もうと言う気が起きない。
むしろ、ちょっと体に優しいものを食べたい。
「そう考えると、昔の人は七草粥ってうまい事考えたもんだよね。丁度疲れた頃の朝に、あんな優しいものを食べる仕組みなんだからさ。」
「脂っこくないところが粋よね。」

そう、粋。
酒飲みは、粋であれ。
季節の酒と肴を適度に楽しんで、時々は、男であれ女であれ、カウンターの仲間を笑わせたりしながら、お店で潰れるほど飲まない。
楽しく飲まなくちゃね。
折角飲むんだからさ。
そんな事を、ここでは学んできた気がするよ。
今年も、粋な酒飲みを目指しますかね。

そんなこんなで、熱燗が登場。
国権の純米酒。
今年も国権でスタートかー。

「飲み慣れたお酒でスタートしたいもんね、新年は。」
「まあ、正月にいっぱい飲んじゃってるけどねー。」
「でも、休みの日のお酒と仕事の日のお酒は違うわ。」
「まあ、そりゃそうだ。」
「さ、明日からは本気出すのよ、フフフ。」
「女将さんにそう言われちゃうと、出さない訳にいかないよねぇ、本気。」
「うまいこと亭主の尻を叩くのも、女房の務めなり、なんちゃってね。」
「じゃあ、名ジョッキーに乾杯。」
そんな、今年最初の小料理屋である。

皆様、今年もよろしくお願い致します。
東京も雪が降ったねぇ。
暖冬だなんて言ってたけど、冬は冬だもんな。
まぁ、冬らしくていいけど、寒いのは嫌だよね。
とは言え、心まで凍てつく東京砂漠に雪が降る訳ですよ。
熱燗でも飲まないと僕は死んじゃうかもね。

さ、用事を切り上げたら行きますか、あの小料理屋にね。

「おかえり、フフン。」
妙に女将さんがご機嫌だ。
「どうしたの?女将さん、雪が降るってんでおかしくなっちゃった?」
「違うわよ、フフン。あのね。」
そう言うと、女将さんは雑誌のページを僕に見せた。

ワイルドホッグス、20年ぶりに遂に復活。

俺が学生の頃大人気だったロックバンドだ。
僕でも知ってるぐらい有名なバンドだけど、まさか女将さん、ファンだったのかね?
「もうねぇ、私ファンクラブに入って追っかけやるぐらい好きだったのよ。再結成なんか無いって思ってたわ。ギターの人の大ファンでさぁ。」
へぇ、女将さんの意外な過去だね。
と言うかギターの人、背が大きくてホネホネした感じ。
レザーパンツがよく似合ってる、いかにもロケンローな感じ。
その後も女将さんの話は身振り手振りを加えながら楽しそうに続く。

こう言うタイプの男が好きだったのね。
ちょっと意外。

雑誌をめくりながら、熱燗を舐めてみる。
「全国ツアー、なんてやるんだ。凄い勢いで復活するね。」
「もう、行かなくちゃよね!何だかワクワクするわ。」
和風姿で右腕をぐるんぐるん回しながら、ギターを弾く真似をする女将さん。
ハハハ、よっぽど嬉しいんだねぇ。

ギタリストに心を奪われてるのは若干シャクではあるけれど、女将さんが楽しそうにしてるのを見るのはやっぱり楽しい。

「それはそうと、豚汁食べる?」
「お、良いねぇ。」
「こう言う寒い夜は、豚汁食べるとあったまるわよね。」
出てきたのは、具沢山の豚汁。
ほこほことしたジャガイモが、いかにも温かくなりそうな見てくれである。
「きっとあなたは、豚汁が食べたいだろうと思ったのよ。」
流石です、女将さん。
僕が欲しいものをジャストで出してくる。
「よく分かったねぇ、まさにこう言うのが食べたかったんだよ。」
「ロックバンドだって、長い事やってれば阿吽の呼吸でジャストな音を出すんですもん、私だって、ね。」
「ほう、ロック魂で豚汁が出てきた訳だね。」
「フフフ、私達だってロックバンドみたいなもんですもん。」
「ほう、ロックバンド?」
すると、女将さんは熱燗のお代わりを出しながら言った。
「ええ、お互いにお互いのパートを支え合ってお互いを引き立ててるわ、私達も。」
そう言って笑う女将さんが、まるでロックスターのように見えた夜であった。
「昼ご飯、どうしようか?」
「そうだねぇ、たまにはさ、その辺の知らない中華屋とか行ってみない?」
「中華屋さん?良いわねぇ。私案外ああ言う定食屋さんって好きなのよね。レバニラ定食とか食べたくなったりするのよね、急に。」
「でもね、僕は中華屋だったら、ちょっと食べたいもんがあるんだよね、へへ。」
「あら、あなたが何を想像してるのかは分からないけれど、それを注文するまで予想してみる事にするわ。」

そうしてそれから一時間後、僕の前に現れたのは餃子定食。
ビールを飲みたい気持ちはグッと抑えて、餃子に意識を集中。
バリっと焼いた皮の中から、ジューシーな具が出てくる。
口の中いっぱいに肉の旨みが広がる。
「あら、今日は餃子とにらめっこなのね、フフフ。」
レバニラを美味そうに食べながら、女将さんが笑う。

ふと、テレビの画面に目をやる。
ワイドショーは今週一週間、ずっと清原の話題だったけど、今日も清原の話題だ。
「残念よねえ、清原さん。西武時代に随分所沢で見てたわ。」
「あれ?女将さん西武ファン?」
「昔はね。」
意外な過去である。
とは言え、清原ねぇ…。

1987年10月30日。
日本シリーズ第5戦の日の朝。

「今日は巨人勝つでしょうよ。」
「いや、手負いの東尾がね、ここはピシャリと仕事してくると思うね。」
ニワカ野球評論家のクラスメート達が、今日の試合の行方を予想している。
この日本シリーズでは、桑田と清原のKK対決が話題になっていた。
第1戦でその因縁の対決は既に実現はしていたが、清原が安打を奪ったものの、巨人が勝った。

「私は、今日も清原が打つと思うな。」
転校してきて半年ですっかりクラスに馴染んだ石田幸子が言った。
「だって、清原カッコ良いもん。きっと、清原がホームラン打ってここで西武が王手掛けると思うな。キャー、清原!」
へぇ、石田さんってああ言う男が好きなのかー。
僕は中畑みたいな男の方が好きだけどなぁ。
カッコ良いじゃん、中畑。
真珠米で絶好調だぜ?
それに、後楽園球場は今日で公式戦最後だ。
来年はドーム球場になるんだもんな。
今日は、巨人が勝つに決まってるさ。

3−1
西武が勝った。
西武が、一回の表に3点入れた。
桑田は、一回で降板した。
中畑は、打たなかった。
けれど、清原も打たなかった。
東尾が勝ち投手で、工藤が抑えで出てきた。

「でもねぇ、次の試合も西武勝つよ。だって清原が居るもの。」
教師のテレビでヒーローインタビューを受ける工藤を見ながら、石田さんは言った。
この清原と言う今日打てなかった男は、この転校生の心を鷲掴みにしてるんだな。

打て、中畑!
明後日は打て!

その年の日本シリーズは、結局最後工藤が勝ち投手になって西武が優勝した。
「キャー、清原。泣いてもカッコ良い!」
石田さんを喜ばせるだけ喜ばせて、その年の野球が終わった。

…あれから29年。
石田さん、今頃どこで何を思ってるもんなのかねぇ。
あの頃の清原みたいなカッコ良い男と一緒になれたのかねぇ。

「ねぇ、餃子一つ頂戴。」
気がつくと、女将さんが僕の餃子をねだっている。
「やっぱり、ちょっと餃子も食べたくなったのよね。あ、レバニラも食べて。シェアしよ?」
ほらきた、お馴染みの光景だ。
「ところで、さ。」
「え?」
「女将さんって西武の誰のファンだったの?」
「え?そりゃあ勿論、鈴木健さんよ。」
「鈴木健?!」
「そう、健さんカッコ良かったなー。」

お、女将さん、ああ言うタイプが好きなのかー。
今日は比較的暖かい日だった東京。
こう暖かいと、軽いコートにしたくなるよねぇ。
本屋を覗いたり、小諸そばに寄ったりしつつ都心を徘徊して夕方に向かう先は、勿論、あの小料理屋である。

「おかえり、休日のパトロールお疲れ様です!」
厨房の中から僕の方へ、菜箸を持ったまま敬礼して笑い出す女将さん。
まぁ、特に都民の安全の為に徘徊していた訳でも無いし、むしろただ一日中遊んでいた訳だが、何となく一仕事したような気分になってくる。
「仕事の後は、やっぱりビールかねぇ、ナンチャッテ。」
「そう来ると思っていたわ。はい、ビール。」
何故か自分も中生を取り出して乾杯する女将さん。
そして、何やら包み紙を出す。
「はい、チョコレート。今日はバレンタインデーだもんね。」
「あ、もう菓子業界の策略に乗せられちゃって。」
「じゃあ、要らない?」
「貰う貰う、貰いますとも。」
正直な話、この歳になってもチョコレートを貰うのはやっぱり嬉しい。
ましてや、女房からなら尚更だ。
「開けてみてもいい?一緒に食べようよ。」
「あら、頂戴しても良いのかしら?じゃあ、今日は日本酒じゃない方が良いわね。」
そう言って女将さんが出してきたのは、岩井・ワインカスクフィニッシュ。
最近女将さんが痛く気に入っているウイスキーだ。
二つのロックグラスに、シングルとは言いがたい量のウイスキーを注ぎ、もう一度乾杯をし直す。
チョコレートは、おほ、北海道のあのお店の生チョコである。
一つ摘み上げて口に放り込み、チョコレートのとろける舌触りを楽しむ。
甘さとほろ苦さが口いっぱいに広がったところで、ウイスキーを舐めてみる。
これでもかと言わんばかりの、大人の味。
ふと女将さんを見ると、女将さんも同じことをしていて、恍惚の表情を浮かべている。
あ、僕その表情が好きなんだ…まぁ、大体の男は女性のその表情が好きで一生懸命に…いかんいかん、別に変な意味じゃ無いんだからねっ。
「美味しいわよね、この組み合わせって。」
どうにかこちらの世界にもどってきた女将さんが、口を開く。
「たまんないよね。」
「ねぇ、ウフっ。」
「もう一つ、どう?」
「え、良いの?」
再びチョコレートを口に入れ、目を閉じて味に身を任せる女将さん。
「わぁ、もう堪らないわね、これ。こう、美味しさがね、ねっとりと舌に絡みついて来るのよねぇ。もう、どうにでもして、って感じ。」
「堪らないよね、もう。」
今日のウイスキーは、一段と旨い気がする。
いや、旨い。
確実に。
そして、男で良かった。
「もう一つ、どう?」
すると、女将さんは目を開けて笑った。
「そうしたいのは山々だけど、いつまでもここでチョコレートを楽しんでる訳にもいかないわ。お客さんだって来るもの、フフフ。」
あーあ、僕のお楽しみもここでおしまいか。
岩井のふくよかな味と香りが、チョコレートを洗い流す。
「この続きは、帰ってからにしましょう、ね。」
そう言って、ロックグラスを小刻みに振りながらウインクしてみせる女将さん。

おほ、明日は月曜日だってのに、今日はちょっと長い夜になり…いや、べ、別に変な意味じゃ無いんだからねっ。
梅は咲いたか 桜はまだかいな
柳ャなよなよ風次第
山吹や浮気で 色ばっかり

そんな感じで、東京も梅が咲いた。
小唄を口ずさみながら神楽坂を登ってみる。
すれ違った芸者さんの香りに、心をしばし奪われそうになる。
ダメだダメだ。
しょんがいな、じゃ無いよね、全く。

そうして辿りついた先は、ご存知例の小料理屋。

薄紅色の着物が可愛いらしい今日の女将さん。
春だねえ。
「今日の着物、春っぽくていいね。」
「でも、商売ものとは言えちょっと若向きな柄な気もするわよね。」
少し照れる女将さん。
「でも、よく似合ってるよ。」
「ありがとう、嘘でも嬉しいわ。」
いいや、よく似合ってるさ。
綺麗な女房を見て心踊らない亭主なんか居るもんか。
酒を舐めながら、まじまじと我が女房の腰の辺りのなだらかな稜線を見てみる。
「でもあなた、ちょっとお尻見過ぎだわ。」
「いいじゃない、別に減るもんじゃなし。」
「じゃあ、増えるの?」
うん、会話が、訳が分からなくなってきた。
でもきっと、こんな他愛の無い会話が楽しいって言う状態を「幸せ」と言うのかも知れないと最近思ったりする。
もちろん、何処かへ遊びに行くとか、それも幸せだろう。
夜更けに二人で肌を合わせて果てるその時だって、幸せそのものだ。
でも、こう言う何気無い日常の一コマに、最近はとても幸せを感じる。

歳、なのかね。

「遥子さん達がね、後で来るんだって。バンドの子達と。」
そうか、遥子さん達も覚えてたのか。
「じゃあ、遥子さん達が来る前に、これ。」
ジャケットの内ポケットから、包み紙を出してみる。
「はい、お誕生日おめとう。」
「あら、覚えてたの?フフフ。開けていい?」
「勿論。似合うと良いんだけどね。」
「あ。…ウフフ、ありがとう。大事にするわね。ねえ、付けてみても良いかしら?」
「気に入った?」
「ええ、こんな感じのが欲しかったのよね。よくこれを選んだわね。」
「旦那ですもん、貴女の。」

それは、小さな飾りのついた簪。

鏡の前で振り返りながら、何やらニヤニヤする女将さんを見ながら、僕は良いものを贈ったのだと一安心した。
「可愛らしくて素敵だわ、ウフフ。」
「良かった。」
「じゃあ私も、遥子さん達が来る前に。」
そう言って女将さんも何やら出してくる。
「はい、蛤の酒蒸し。浅蜊とれたか 蛤ャまだかいな、なんてね。」
「ほう、春だねえ。蛤の季節なんだねぇ。」
蛤には、夫婦円満って意味があったりするんだよね。
知ってか知らずか、女将さん。
でも、ちょっと照れ臭そうに笑ってるところを見ると、多分知ってるんだろうね。
「美味しいわよね、蛤の酒蒸し。」
「でも、よく僕が今食べたいものが分かったね。」
すると女将さんが、ちょっとだけ真顔で言った。
「女房ですもん、貴方の。」

しょんがいな。
実は今日、久しぶりに休暇を取った。
年休を消化してくれと言う会社からのお達しがあったのだ。
平日の晴れ渡る空。
いい天気だ。

「明日さ、急に休みになったんだよ。」
「あら、良いわねぇ。ズル休み?」
「違うよ、頑張って働いたご褒美みたいなもんさ。でさ、どっか行こうか?」
「あら、良いわね。私ね、鰻がね、食べたいわ。」
「鰻?じゃあ、向島にでも行く?」
「ううん、成田行きたい。」
「鰻のために?」
「鰻のために、ウフフ。」

そんなこんなで、女将さんの運転するグロリアでお出掛けだ。
和服美人な女将さんも好きだけれど、こうして白いニットにデニムパンツにサングラスと言う出で立ちの女将さんもまた良い。
「平日は流石に空いてるわね、成田方面。」
ナルディのウッドステアリングを握る女将さんの白い手が、妙に色っぽい。
ああ、そうか。
普段はマニキュアなんかしてないもんね。
爪に塗られた深い赤が、フロントガラス越しに見える青い空に映える。
「いつ塗ったの?爪。」
「朝。」
「珍しいね。」
「駄目?」
「いいや、それはそれで新鮮だなと思ってさ。」
「たまには良いもんだわ。」
うん、見慣れはしないけれど、それはそれで女将さんらしいや、と思った。
そしてその女らしさがL型エンジン独特のスポーティな音とマッチする奇妙さを、しばし堪能する。
「ところでさ、この車って男だと思う?女だと思う?」
朝ポットに淹れたコーヒーを飲みながら、質問してみる。
「多分、女の子だわ。」
「へぇ、外見は兎も角、中身がこんなスパルタンな車なのに?」
「女の子って、一旦走り出すと案外過激なものよ、フフフ。」
ああ、なるほどね。
そう言うもんかもね。
いい女は、特に。
妙にストンと落ちる。

そうこうしている間に、目的地に到着。
成田山新勝寺の参道にある鰻屋・川豊である。

歴史を感じさせる木造の鰻屋。
広い座敷で他のお客さんと相席になりつつ、鰻重を待つ。
骨せんべいをバリバリと嚙み砕きながら、お茶を飲む。
「昔さ、秋刀魚の骨とかもよく焼いて食べたりしなかった?」
「あ、やったわ。香ばしくて美味しいのよね。」
「そうそう、醤油なんかピッと掛けちゃったりしてさ。」
「最近そう言うのもしなくなったわよね。」
「酒のつまみにも良いと思うんだけどな。」
「じゃあ、うちもやろうかしら。私が身を食べるから、貴方は骨担当なんてどうかしら?」
「出来たら身も食べられる係だとありがたいけど、どうだろう?」
「そうねぇ、欠員が出たらそうしましょうか。」

ここで本日のメインイベントである、鰻重と肝吸いがやってくる。

「キャー!鰻重様がお出ましよ。写真撮っちゃえ。」
スマホで鰻重を接写する女将さん。
そして、バッグから何やら取り出す。
「知ってた?山椒のミルがあるのよ、最近。」
そう言って、マイ山椒をゴリゴリと削る女将さん。
マイ七味を持ち歩く人は見た事あるけど、マイ山椒を持ち歩く人は初めて見た。
試しに僕もミルを借りて削ってみる。
鰻の何とも言えない香ばしい香りと、碾きたての山椒の香りが、有無を言わさず食欲を刺激する。
ああ、もうこりゃ駄目だわ。
負けました、鰻様。
しばし、無言で鰻重に集中する中年男女二人組。
口の中でとろける鰻の身が溜まらない。
そして刹那、凝縮された程良い脂と旨みが爆発する。
「やっぱ鰻重は美味いな。」
「ね。成田まで来た甲斐があるわよね。」
ふと女将さんの顔を見やると、満面の笑みを浮かべたその右の頬にご飯粒が付いていた。
普段は滅多に見られない、無防備過ぎる我が女房のその顔をもう少し眺めていたい気はしたが、指でそっと教えた。
「ま!やだ、フフフ。」

何か、心無しか元気が出て来た気がするけれど、それは恐らく今食べた鰻のせいだけでは無いと思った。
毎日寒いねー、ラジオの前のみんなは風邪なんかひいてない?
大丈夫?
まだお仕事中のみなさんも、お外寒いと思いますけど、頑張ってくださいねー。
そんな感じで今日も始まりました「ヨーコの部屋」、パーソナリティはアタシ、前田遥子です。

さて、今日はメロディ・ガルドーのこの曲からスタート。
https://m.youtube.com/watch?list=PLBC1BAD048104414F&v=_qphknagXqA

行きつけの呑み屋さんの常連さんがね、「遥子ちゃん、この子カッコいいんだよー、ちょっと聞いてよー。」なんて言ってCD貸してくれたのね。
まあ、その常連さんも飲食の人なんだけど、こう、髭がカッコよくて渋い男で…ま、良いか、その辺は。で、聴いたらカッコよくてねー、アタシは最近こればっかり気に入って聴いてます。

昔はね、アタシも仕事終わって…って、あんまりどこからが仕事でどこからがプライベートとかって無いんだけどさ、ま、家帰ったり飲みに行ったりしたら昔は「ドキチキドキチキ」って音楽聴いてたりしてたんだけど、最近ビートが効いてる音楽が疲れちゃって、で、こう言うちょっとユルめな音楽が気持ち良いなーって思うようになって来ました。

さて、じゃあハガキ読もうかしらん?
ペンネーム麻生タクシーさんのハガキね。
「遥子さんこんばんは」
はい、こんばんはー。
「いつも楽しく仕事中ラジオを拝聴しています。」
あ、って事は今も新宿のどこかでタクシー運転しながら聴いていただいてるのかしらん?
「遥子さんは、おにぎりって何が好きですか?興味があります。」
おにぎりかー、アタシはあんまり自分では作らないんだけど、しょっちゅう行ってる小料理屋さんの鮭おにぎりが好きなのよねー。
神楽坂にある小料理屋さんなんだけど、そこのおにぎりの鮭がね、尋常じゃないぐらい美味しいのよ。
焼いた後に、酒と味醂と醤油で作ったタレの中に熱いまま入れて、冷めたらほぐしておにぎりの具にするらしいんだけど、これがもう!
レコーディングの時はスタジオに毎日持って来て貰ってます。
だからね、アタシのレコーディングのお昼は毎日これなの。
毎日食べても飽きないのよねー。
でもさ、そこのお店の「田中ちゃん」って常連さんはね、生姜醤油の焼きおにぎりが好きなんだって。
で、行くと必ず食べてるのよね、その生姜醤油の焼きおにぎり。
人が食べてるの見ると、また美味そうに見えるのよねー、実際そこの女将さんの作るものはみんな美味しいんだけど。
え、ちょっとお店がどこか気になるでしょ?
教えな〜い、だって、アタシの隠れ家なんだもん。
今日もね、この放送が終わったら、ちょっと飲みに行こうと思ってます。
その小料理屋にね。
そう言う訳で、女将さん、今日はあったかいものが食べたいです、って、ラジオからリクエストしちゃったりして、変なの。
あ、お兄さんも、あんまり飲み過ぎちゃダメよ、女将さん忙しいとお兄さんばっかり相手に出来ないんだから。
アタシが行くまで良い子にしてるように、なんちゃって。
そうそう、お兄さんって、そこの女将さんの旦那さんなのね。
いつもカウンターに座って飲んでる人なんだけど、この人が面白い人で…って、え?もう時間?じゃあ、お兄さんの話はこの次かな。いい男なんだ、これが。
アタシ、今日はいい男の話ばっかりしてるわね。
まあ、そんな夜も私にもあると言う事で、なーんて纏めてみましたー。

今日のお別れの曲は、じゃあ、別れの夜だけどこの曲で行ってみようかな。
https://m.youtube.com/watch?v=ejPpiWasGXc

はい、そう言う訳で、私と名前がよく似た日本のディーヴァの歌ですけど、歌は世につれ、世は歌につれ、ね。
いい歌は時代を超えるねわよね、と言ったところで、また来週。
みなさん、おやすみなさい。
週明け早々、仕事でちょっとしたポカをやらかしてしまった。
これは、認めるも何も本当に僕のミス。
結局、午後の殆どをトラブルシューティングの為に費やしてしまった。
あーあ、情けない。

でもさ、こう言う時こそ旨い酒でも飲んで気持ちを切り替えなきゃなんだよな。
気持ちを切り替えて、明日からはベストな状態で仕事に臨む。
反省はしても、気持ちを引き摺らない事が重要。

…とは言え、だ。

その切り替える様と言うのを、自分の女房に悟られるのもちょっと男としては嫌なもんだ。
たまに新兵衛寿司にでも寄ってみればいいのだろうけれど、寿司屋のカウンターでクヨクヨと酒を飲む姿は、僕の考えるカッコいい大人の姿とは程遠い。
さて、どうしたもんかね。

そうこうしている間に、もう着いちゃったんだ、小料理屋に。
顔を二回パチパチっと叩いて、出来る限りのいい顔を作ってみる。
おっし、ちょっといい男…に見えれば有難い。

「おかえり、今日もお疲れ様。」
「フフン、ただいま。」
お疲れ様、って言われたけど、今日の疲れは疲れにカウントしちゃいけない疲れ。
でも、まぁ確かに疲れちゃいるんだけどね。
でも、不思議なもんだ。
女将さんの声を聞くだけで、妙に心がほっこりする。
背中に無意識のうちに力が入ってた事に気付く。
そりゃ、くたびれもするわ。

「ねえ、あなた。とんかつと日本酒って案外合うの知ってる?」
「とんかつ、と?嘘だー!」
「勿論、どんなとんかつでも合う訳じゃ無いけれど、ちょっと試してみない?」
「うん、食べる。」

そう言って、油を温める女将さん。
菜箸の先で温度を確認して、程なくカラカラと言う高い音が聞こえてくる。
キツネ色に揚がったとんかつを油から引き上げ、よく油を切ったら細く包丁で切る。
サクっ、トン!と言ういい音がする。
千切りキャベツの上に乗せたら、とんかつの出来上がりだ。
「今日はソースじゃなくて、塩で食べてみて。」
とんかつを塩で食べる。
生まれて初めての試み。
ほう、ソースを掛けない事で肉の旨味や脂身の甘さが味わえる。
これが、果たして日本酒と合うのか?と言う話だ。
そして、今日の日本酒は宮城の「一の蔵」。
比較的何処にでもあるお酒ではあるが、程よい辛口っぷりがそれはそれで美味しかったりする。
早速、とんかつの味が広がる口の中に一の蔵を流し込む。
おほ、意外や意外、脂身の甘さの逆を突いて美味かったりする。
「これ、ちょっと変化球で面白いわよね、フフフ。」
「うん、たまにとんかつってのも悪くない。」
「でしょ?明日はカツ!なんちゃって。」
小さく拳を振り上げて笑う女将さん。

あれ、もしかして僕が落ち込んでたのを目一杯隠そうとしてたの、既にバレてた?

…ま、いっか。
明日は勝つぞ、俺。
しまって行こう!
「ねえ、あなた。去年の暮れにここで二人で飲んだお酒、覚えてる?」
スポーツ新聞を読みながらかき揚げを食べつつ酒を舐めていたら、女将さんが急に切り出した。
「ああ、覚えてる。女将さんから口移しで貰った酒だ!」
「…バカ。そこはどうでも良いのよ。」
ホントに困った人だわね、って感じの、この女将さんの表情が僕は本当に好きだ。
「いや、そこは男としては重要。女房のトリッキーな愛情表現てのは、やっぱり心ときめくもんさ。」
無言でこっちを睨む女将さん。
やばい、これ以上チャカすと本当に怒られる。
そこら辺の微妙な駆け引きが出来るかどうかで、今夜女将さんが背中をこっちに向けて寝るか否かが決まる。
うん、ここいらが引き際だ。
「で、三千盛がどうしたの?」
「あら、覚えてた?あのお酒をね、教えてくれた人が今日ここに来るのよ。」
「へぇ、じゃあ今夜のお酒も?」
「三千盛よ。」
「って事は、やっぱり口移しで…」
「やりません!」
あらら、遮られちゃってやんの。
しょうがない、今日は寂しく手酌で行きますかね。

そんな時に、入口の戸が開く。
「こんにちはー。今日はお世話になります。」
「あら、ようこそいらっしゃいました。さ、どうぞ、お座りになって。」
初めて見るお客さんをカウンターに促す女将さん。
「あなた、こちらが例の三千盛を教えてくださった、月島さんよ。」
「どうも初めまして、月島です。もう、初めてのお店ってどんな顔して来たら良いのか分からなくて…。」
「笑えば良いと思います。こんにちは。」
そう言って、ちょっと微笑んでみたら、笑顔が帰って来た。

初めて会うお客さんとでも、まるで昔からの知り合いのように酒を酌み交わせるのが、この小料理屋のカウンターだ。
それが、女将さんの力量なのだ。
でしゃばらず、かと言って、個性は主張する女将さんのスタイル。
若い頃は、僕もそう言う気働きなんか気が付かなかったな。

「いつもね、僕が行く酒屋に、綺麗な女の人がお酒を買いに来るんで気にはなってたんですよ。まぁ、奥様の事なんですけどね。で、小料理屋やってらっしゃるって言うから、これはもう行かなくちゃ、って話になりまして、で、今日来ちゃったんですよ。」
眼鏡の奥にある優しい目が印象的な人だ。
「やっぱりね、美人女将の居る小料理屋で呑む、なんてのは、まるで男の妄想の世界の話みたいじゃないですか?夢ですよね、男の。そうそうある話じゃ無いでしょ。それをね、毎晩楽しんでる男が居るって言うからどんな男かと思って見に来ました、へへ。」
女将さんのお酌で、月島さんのぐい呑に酒が注がれる。
とぼけて、僕も空のぐい呑を差し出してみたら、「自分で入れましょう」って言う目配せが飛んで来ちゃった。
あーあ、本当に怒らせたか、こりゃ。

あおやぎのお造りを肴に、三千盛が旨い夜である。
それから、どれぐらい馬鹿話に花を咲かせて飲んだだろうか。
随分三人で笑った気がする。
良いねえ、こうして笑って呑む酒は。
思うんだ。
大人になると、こうして大人同士で笑って呑む酒って案外ありそうで無いもんなんだよね。
大事にしたいよね、こう言う時間と、こう言う場所を、さ。

「また来ますね!おやすみなさい!」
千鳥足で神楽坂を下って行く月島さんを外で僕と見送りつつ、暖簾を下げる女将さん。
「あれ?今日はおしまい?」
「たまには良いじゃない?日曜日だし。それに、私だってたまにはカウンターで飲みたいわ。」
ほう!
しれっと、女将さんの腰に手を回してみる。
「じゃ、飲もうか。」
「まだ、残ってたわよ、三千盛。フフフ。お酌してくれる?」
「喜んで。」
「じゃあ、お酌するから口移しで…。」
「それはダメ!ウフフ。」

ま、何にせよ、女将さんも笑ってるし、多分今日は良い夜なのだろう。
明日は朝から雨になりそうな神楽坂の夜空だけど、不思議と心は晴れやかだ。


このエピソードを、僕らの飲み仲間である月島もんじゃ氏に捧ぐ。
最近、小料理屋の二階で寝る事が増えた。
飲んで気持ちよくなっちゃうと、もうそこで寝たくなっちゃうんだよね。
それを察してなのか、この頃布団が二枚敷いてある事が多い。
そう、女将さんも、ここで寝ているのだ。
一応シャワーなんかもあるので、きちんと清潔な身なりになって寝る事が出来るのと、広いところで朝ごはんが食べられると言うメリットがあったりする。
女将さんが片付けやら何やらを終えて、床につくのは大体夜中の2時前。
僕も、よっぽど疲れていない限りはその時間まで起きているようにしている。

そんな時間まで働いて「さあ、寝よう」って時にさ、「おやすみ」って言っても返事が返って来ないなんて、寂しいだろうなと思ってさ。
おやすみを言った後に、もぞもぞっと女将さんの布団の中に左手を入れて右手を捕まえるのは、日課になってる気はする。
意外と手が冷たいんだよ、女将さん。
でさ、握ってるとそのうち温かくなるんだけれど、でも、手が温かくなると女将さんすぐ寝ちゃう。
お店に居る女将さんって、こうシャキッとしていていかにも「いい女」って感じの佇まいだけど、見えないところではそう言う妙に子供っぽいところがあったりするから可愛い。
とりあえず、ここ最近はそんな感じで一日が終わる。

でも、土日以外はどんなことがあっても、女将さんが先に起きて朝ごはんの支度をしている。
「あなたが出て行った後に、二度寝するから良いのよ。」なーんて言ってるけれど、そんなに寝て無いんだろうな、と言う事はなんとなく分かる。

女って、大変だよな。

豆腐とワカメの味噌汁を啜りながら、女将さんの顔を見てみる。
すっぴんでニコニコしながら目刺しを食べるその姿は、どこか愛おしくある。
美味しそうに御飯を食べる女性の姿が嫌いな男は居ない筈だ。
見てると、それだけで元気になる気がする。

朝食を平らげ、歯を磨き、顔を洗う。
少しづつ、外で戦う顔になっていく。
ネクタイを締める頃には、僕もきちんと「部長」みたいな顔になる。

「じゃあ、行ってくるね。」
そう言ってカバンを抱えて表に出るとき、女将さんは必ずハグを求めてくる。
甘い声で僕の耳元で囁いて、そして笑う。
「今日も一日働け!フフフ。」
ああ、頑張って働いて来ますとも。
夜の一杯目のビールの為にも、ね。

やっぱり今日は、朝から天気が良くない。
でも、僕の心は、天気とは関係無く晴れやかだ。

うちの部署も、春で何人かが移動したり退職したりする。

ずっと同じメンバーで長い事やってきて、4月でお別れになると言うのは、やはり寂しいもんだ。
でも、春ってのはそう言う季節でもあるんだよねぇ。
そう言う事で、送別会を会社近くの料理屋でやる事になった。

珍しく飛露喜なんか舐めながら料理を堪能する。
女将さんの店には無い酒もたまには良い。
ぐい呑の酒が無くなると、数人居る和服の仲居さんがお酌してくれる。
年の頃は30代半ばと言ったところだろうか。
「やっぱり、他の和服女性はジロジロ見たりしないんですね、部長。」
山本さんが笑いながら耳打ちする。

そりゃそうだ。
そんなねえ、知らない尻を舐め回すように見たりなんかしませんよ、僕だって。
失礼だもんねぇ。

「山本さんは着物着たりしないの?」
「成人式で着た以来着てませんねぇ。」
「普通そんなもんだよねぇ。」
「女将さんって、昔から和服だったんですか?」
「最初に会った時は、既に着物だったね。」
「で、和服姿にやられちゃったんですね。」
「どうだろう。でも、妙に似合ってたよね、カミさん。…やられちゃったんだろうねぇ。…って、何を言わすんだろうね、この子は。」
山本さんとは、親子ほども歳が離れているのだけれど、もしも僕らに娘が居たならこんな会話をしているのだろうか?と、ちょっと思ったりする事がある。

「でも、女将さんって女から見ても憧れます。こう、ただ上品ってだけじゃなくて、凛とした雰囲気だけど柔らかくて。カッコいいなーって。」
「やっぱりそう思う?」
「思いますよ、そりゃ。私も大人になったらああ言う女の人になりたいですもん。」
「でも、あれでもテレビの星占いとか見て一喜一憂してんだぜ。『今日のラッキーアイテムはピンクのマフラー』とか言われると『私そんなの似合わない、どうしよう!』とか言ってんだから。」
「意外ですね、それ。」
「面白いだろ?ほら、折角だからサヨリの刺身食べときなよ。美味しいよ、この季節のサヨリは。」
「はい、いただきます!」
そんなに背中に定規でも入ってるかのように背筋をピンとしなくても良いんじゃ無いのかとも思うのだけれど、こう言う生真面目さが彼女なのだろう。
食べ方が上品だ。
「都会でも、食べ物で季節ってのは感じられるもんだよねぇ。」
「サヨリは春の魚なんですね。」
「基本的には関東では春の魚だね。岩手県辺りだと初夏の魚になる。」
「お詳しいんですね。」
「受け売りだよ、女将さんのさ。」
そりゃ、あれだけ毎日旨いものを食べてたら、食べ物の旬にも詳しくなる。
でも、独身の時は、食べ物で季節なんか感じた事が無かったなあ。
せいぜい冷やし中華は夏に食べる、ぐらいの感覚で。
こうして一丁前に旬がどうとか言ってるのも、女将さんのお陰なんだろうな。

「じゃあ、ここが終わったら、行くかい?いつもの店にさ。」
「賛成です!ご馳走になります!」
「ちゃっかりしてるねぇ、こいつめ。」
「女将さんから教わりました、エヘヘ。」
じゃあ、しょうがないよねぇ。

この後に三本締めしたら、向かいますか。
あの小料理屋にね。
「女将さーん、こっちこっち!」
田中ちゃんとミーちゃんが、こっちに向かって遠くから手を振る千鳥ヶ淵。
いつもなら6時からのオープンを2時間遅らせた今宵の小料理屋。
今日は、ソメイヨシノの開花を目視確認しに来たいつものメンバーと言う体である。
「やっぱり、千鳥ヶ淵の桜が一番好きだけど、まだちょっと早いかもね。」
女将さんが上を向いてニコニコしながら歩く。
薄桃色の着物が、桜並木によく映える。
そして、女将さんが上を向いた時の顎のラインは本当に綺麗だ。
仕事帰りとは言え、こんなヨレヨレなスーツで一緒に歩くのは申し訳なかったかなと思いつつ、さりげなく手を繋いでみる。
「春ね。」
「春だねぇ。」
「春のせいか、あの二人も何だか楽しそうに見えるわ。」
言われてみれば、田中ちゃんとミーちゃん、仲良さげだねえ。
ミーちゃんに肩を叩かれてキャッキャ言ってる田中ちゃんも新鮮ではある。
春、なのかねぇ、やっぱり。

「お行儀が悪いけど、今日は良いわよね、ンフ。」
そう言ってワンカップを開ける女将さん。
花見と言えば、やっぱり酒だよねぇ。
僕も飲み始めようかね。
「私たち、結局飲んじゃうわね。」
「長生きしないタイプかもね。」
「あら、私は百薬の長だと思って飲んでるわ。」
「でもさ、あと何回こんな感じで二人で桜を見られるのかねぇ。」
「さぁ、どうかしら。でも、おじいちゃんとおばあちゃんになってからもお花見なんて、素敵ね。」
おじいちゃんとおばあちゃん、か。
僕らもなるんだろうな。
あまり実感は沸かないけれども、世の中の人は、長年生きてると大抵老人になる。
僕も女将さんも、例外無く。
それにしても、今日の酒は旨い。
宮城の日高見のワンカップなんて、流石は女将さんセレクト。
「でもさ、歳とってから二人で見る桜ってのは、どんな風に見えるんだろうな。」
「さぁ、どうかしら。今見てる桜と同じぐらい綺麗じゃ無いのかしら?」
「そう言うもんかねぇ。」
「だって、何年経っても桜は桜だわ。」
そう言って笑ってみせる女将さんの横顔は、どんな美人のモデルさんや女優さんよりも良い顔をしていた。

「あ、見てほら、カップの中に花びらが浮かんでるわ。きれーい。」
「お、風流だねえ。」
無邪気にはしゃぐ女将さんと僕。
白髪交じりの中年のカップルだって、春はそんな気持ちになるのだ。

そうだねぇ、何十年経ってもこのまんまなのかもしれないねぇ。
僕は、ちょっとだけ強く、繋いだ女将さんの手を握りなおした。
カウンターで、見た事があるような無いような男が飲んでいる。
小太りで、M字脱毛。
そして、メガネ。
女将さんに「タカさん」と呼ばれるそのパーカーを羽織った男は、さっきから黙って聞いていれば、男のくせによく喋る。
「やっぱねー、女将さんねー、男は黙ってサッポロビールってなもんだよねぇ、暑くても寒くてもさー。このさ、泡がヤバいよね。」
全然黙って無いじゃないか。
うるさい男だねぇ。
そして、一見さんのくせに馴れ馴れしい。
三流の営業マンって感じかね、この安っぽさは。
こう言う男はねぇ、喋りすぎて失敗するタイプだぜ、きっと。
「でもねぇ、女将さん。僕、こう言うお店大好きなんですよ。お料理も美味しくて、酒も美味い。そして、綺麗な女性まで居る。こんな出来すぎたお店、そうそう無いもの。もしも僕に文才みたいなのがあったら、ここをモデルにして小説書いちゃうかもね。『夢の小料理屋のはなし』なーんてタイトルでさ。」
鼻の下にビールの泡をくっ付けて、女将さんを相手に喋り倒すその男。
まぁ調子がいいねぇ。
「もしも小説になるんだったら、やっぱり私もカッコよく書いて貰えるのかしらねぇ?」
「勿論!それから…そうだな、カウンターにいつも座ってる常連さんから見た目線で、大きな起伏は無いけど日々の小さな発見なんかを、こう、書きたいっすよねえ。季節の味覚なんかを織り交ぜてね。」
「じゃあ、僕は常連の男役になりますかねぇ?」
一応割って入ってみる。
「お、そうですねぇ。ダンナさんみたいな、ちょっとシュッとしてカッコいい感じの人が主役だと、そりゃあ物語が締まりますよね、ビッとね!」
なんだ、意外といい人じゃ無いか、この人。
じゃあちょっとついでに、聞いてみるかな。
「100話ぐらいまでお話が続いたら、その時はどうします?」
すると、彼は少し考えてから、また喋り出した。
「そうだな、でもまぁ100話まで続くとも思えないけど…続いた時は、自分が登場して、大好きな酒と肴を女将さんに注文するかな。じゃあ、そう言う訳で女将さん、竹鶴と、この今日のオススメの穴子とマッシュポテト下さいな。」
「はい、喜んで!」

どう言う訳か、この調子のいい男とは僕の節目節目で会いそうな予感がしてきた。
「そう言えばさ。」
女将さんの作る、もうこれ以上無いってぐらい美味い出し巻き卵を箸で切りながら、カウンターで一人ボケっと酒を飲むミーちゃんに話しかけてみる。
「何ですか?」
「ミーちゃんの世代って、テレビ見ながら部屋で一人酒なんてやらないの?」
「私は、部屋で一人で飲むってのは無いかなぁ。会話が無いとお酒飲めないタイプなんですよねー。」
ああ、その気持ちはちょっと分からんでも無い。
何故なら、僕もそのタイプだからだ。
だから、毎晩ここで飲んでいる。
どうせなら、女房の顔も眺めてたいし。
「お兄さんが若い頃はどうでした?」
「僕が若い頃?もうそれは、麻布、赤坂、六本木…」
「港区港区に女が居たのかしら?フフフ。」
あら女将さん、声しか笑ってない。
でも、その「キッ」って感じでこっちを見る女将さんの目、好きなんだよね。
アーモンドアイって言うの?
女将さんのどこが好き?って聞かれたら、即座に「目」って答えちゃうぐらい、その目に僕はやられてる。
服を着た状態なら、目が一番好き。

「でも、20年ぐらい前だと、ホントに月曜の夜は街から女の子が居なくなった事があったのよ。テレビのドラマ見るために。」
女将さんが、ちょっと懐かしそうな顔をする。
「鈴木保奈美なんか、ホントに可愛かったんだから。」
「女将さんは、誰かのファンだったりしたんですか?」
「私はW浅野とか憧れたわー。バリバリ仕事しちゃうみたいなカッコよさがあったもの。」
「W浅野って?」
「え、ミーちゃん知らない?浅野ゆう子と…」
「浅野内匠頭だよ。」
「こらっ、赤穂浪士は関係無いでしょ。浅野温子です!」
「でも、浅野温子って言えば、101回目の…ねぇ、そんなのあったねえ。『僕は、死にましぇん!あなだが、すぎだがらー。』」
「どうして途中から韓流スターみたいなカタコトの発音になったの?でもまぁ、あったわよね。101回目のプロポーズ。」
「女将さんは見てた?」
「その頃はもう、テレビどころじゃなくなってたわ、毎日遅くまで仕事ですもん。」

若い頃って、遅くまで働く事に生き甲斐みたいなのを感じてた気がするなぁ、僕も。
今は、出来る限り早く帰りたいと思うようになったけれど。
そらそうさ、早く帰ってこんな風に美味い出し巻き卵を食べる日常って、やっぱり最高だもんさ。

「ところで、最近のテレビって昔ほど面白いって番組がなくなったわよね。」
「あれは、どうしてだろうねぇ。」
「まぁ、私としては、みんなが外で飲んでくれた方が嬉しいけどね。」
そう言ってニッコリ笑う女将さん。

まぁ、あれだな。
テレビがどうなろうが、ここのカウンターはこの先もそれとは無関係なんだろうな。

さて、今日はもう一杯だけ飲んだらやめとこう。
明日からまた、新しい一週間だもんね。
「あー、もうアイディアが出て来ない!どうして僕は才能が無いんだ!」
例のタカさんと呼ばれている男が、このところしょっちゅう小料理屋に来ては、頭を掻きむしって一人で騒いでいる。
悪い人では無いのだが、少々騒々しい。
「こうさ、突き抜ける何かが足りないんだよね、俺のアイディアにはさ。」
どうやら彼は、ああ見えてデザイナーか何からしい。
で、締め切りに追われているらしいのだが、酒は欠かさないタイプのようだ。
「旨いもん食べたら、こうさ、フッと素晴らしいアイディアが浮かんでくるんじゃ無いかと思ったりするんだけど、ダメだなぁ。お兄さんは煮詰まった時にどうします?」
お、僕に振ってきた。
「そうだなぁ、僕もやっぱりここで旨いもんを食べようとするかなぁ。」
「わー、一緒じゃ無いですか!ダメじゃん。」
ダメじゃん、ったって、それが僕の調整方法なんだからしょうがないじゃんねぇ。

「ねぇ、あなたたち。ヒラマサ食べない?」
ほう、ヒラマサ。
季節の魚だよねぇ。
流石、女将さん。
「新兵衛寿司の太郎ちゃんがさっき届けてくれたんだけど、今日はねぇ、田中ちゃんがくれた新兵器を使って調理してみたの。」
田中ちゃんの新兵器?
何だろ、その魅力的な響きは。
「スモーカー、貰ったのよ。」

程なくして出てきたのは、ヒラマサのスモークカルパッチョ。
「ヒラマサ自体凄く状態が良かったけど、新兵器の実力を試してみたかったのよね、フフフ。」
うん、これは旨い。
スモーキーな香りがヒラマサ独特の食感と味に絶妙にマッチする。
「お酒は、お店で月島さんに選んで貰った八反錦のお酒よ。」
なるほど、こういう料理にはキレキレのキッと冷えた日本酒がよく合う。
なるほどね、お造りも当然美味しいけれど、こう言う切り口もまた楽しいねぇ。
「女将さん、俺ちょっと凄いヒント貰った気がする!そうだよねぇ、和モノを和モノでまとめようとするから難しくなっちゃうんだよねぇ。おし、ちょっとやれる気になってきた!事務所戻りますわ!」
「あら、これからお仕事?」
「善は急げ、ですよ。ハハハ!」
あらま、さっきの悩める中年の顔は何処へやら。
すっかりやる気だ。
「やっぱり、美味しいものを食べると人間気持ちが切り替わるわよね、フフフ。」
そう言って笑う女将さんもまた、一仕事終えた満足げな表情を浮かべていた。
もう昼間は夏を感じさせる陽気だねぇ。
そんな夜は、サラッサラのシーツで寝たくなるもんだよね。
朝からシーツとタオルケットを洗濯して、外に干してみた。
今夜は飲んで帰って、サラサラのベッドで寝るって寸法だ。
土曜の夜と日曜の朝の間に、これですこぶる快適な睡眠が約束されたと言う訳だ。
さて、今夜は飲むぞ!

…だが、日頃の疲れが溜まっているせいか、今夜は妙に酒が効く。
「ウフフ、今週のあなたは、実は結構真面目に仕事しちゃった?」
「どうかねぇ、自覚はまるで無いけどね。」
お猪口二本目で出来上がっちゃうなんて俺らしくないねぇ。
それよりどうだ、お腹が空いてきた。
でも、こんな夜はラーメンでも食べようか、って気にもなれない。
「田中ちゃんは、こんな夜にお腹が空いたら何食べたい?」
「そうっすねー、雑炊なんかあったら嬉しいかなぁ。」

お、女将さんの店名物、鶏雑炊かー?

好きなんだよね、胃がポカポカする感じがさ。
そして、味が優しいんだ。

「じゃあ、雑炊作るわね。田中ちゃんも食べる?」
「あ、良いんですか?嬉しいなぁ。」

しばらくして出てきたものは、具沢山の鶏雑炊。
しめじ、白菜、鶏…そして、卵。
鶏ガラベースのスープで丁寧に野菜の旨味を引き出した、女将さん渾身の雑炊だ。

口当たりがまろやか。
そして、喉の奥に鶏ガラの旨さが滑り落ちていく。
幸せな味だ。
これでもう、すっかり眠くなっっちゃうよなぁ。

「どう?落ち着いた?」
「美味い。」
「美味しいっす。やっぱり女将さんの雑炊、ボクは好きだなぁ。」
「女将さんのおかげだね。」
「じゃあ、ぐっすり眠れるわね、今夜は。」
「寝ちゃうね、鉄板で。」
「ああ、良かった!」
「ん?どうして?」
すると女将さんは言った。
「私もサラサラのベッドで、ぐっすりのびのび気持ちよく眠りたいからよ、フフフ。」
目に青葉 山ほととぎす 初鰹

五月も終盤戦だけど、初鰹の季節が今年もやってきた。
無論、この季節になるとどうしても鰹が食べたくなる。
そして、女将さんの店の常連のみんなも、その気持ちは一緒のようだ。
「んー!もうね、アタシ鰹大好きなのよね。ほら、みんなも食べて!今日は私のおごりよ!」
「ひゃあ、いただきまーす!」
遥子さんといつものバンドのメンバーが、小上がりで大皿に沢山盛られた鰹をワシワシと食べている。
「チキショ、やっぱ旨えな、鰹は!ビール進むもんなー。」
ギターの彼とベースの彼は、競い合うように鰹を頬張る。
「このさ、舌の上を冷たく流れてく感じってたまらんよね。」
「今日は鰹いっぱいあるから、お代わりしても良いわよ、ウフフ。」
女将さん、今日は鰹ばかり捌いている。
でも、ちょっと嬉しそうだ。
そりゃそうだろう。
実は、女将さん自体鰹が大好きなのだ。
昨夜サラサラになったベッドの感触を楽しみつつ熟睡するのかと思いきや、「明日は鰹出すわよー、ウフフ。」なんて話し掛けて来たもんな。

後からやってきたミーちゃんと田中ちゃん、それから月島さんも、カウンターで鰹を楽しんでいる。
でも、よく見てみると、それぞれ楽しみ方も違うようだ。
ミーちゃんは、ネギやミョウガなんかと一緒にポン酢で食べているし、田中さんはニンニクでガッツリいただいている。
月島さんは月島さんで、生姜醤油をたっぷり付けて楽しんでいる。
小上がりは、ベースの彼はワサビで食べてるけど、遥子さんとギターの彼はニンニクと生姜を交互に食べたりしている。
みんなバラバラ。
因みに僕は、月島さんと一緒で生姜醤油。
明日会議があるから、ニンニクで食べたいけどグッと我慢。
「ニンニクだとビールにも合うんすよー!」
「でもねぇ、生姜醤油で食べると日本酒の味も生きてくるから、僕は好きなんだよねぇ。」
「ワサビもこれはこれで美味しいんですよねー。」
みんなこだわりがある。

「女将さんは、何で食べるのが好き?」
「私?私は生姜醤油たっぷり付けて、炊きたてごはんに乗せて食べるのが好きだわ。」
女将さんは、既に肴と言うところから外れて、「おかず」としての鰹だ。
でも、それも悪くない。
「マグロよりも、食べ方って点では自由なところが面白いわよね、鰹は。そして、これが正解って食べ方が無いのが素敵だわ。」
「まぁね。でも、こうも美味いと酒も進むねぇ。」
「私は、ごはんが進みそうで怖いわ。」
そう言って笑う女将さんではあるが、まぁ、好物ならしょうがないよねぇ。
「でさ、鰹のエラいところは、鰹節にしても美味いところだよなぁ。」
「お出汁の基本だもんね。」
「奴に掛けても美味いしな。」
「醤油との相性も良いんだろうな、
これがまた。」
「あら、どこかの鰹節屋さんと醤油屋さんが聞いたら、ニヤリとしそうな話ねぇ、フフフ。」
鰹を囲んでの宴も、どうやらまだまだ続きそうである。

それにしても、やっぱりニンニク醤油で食べたいなー。

…食べ、ちゃおうか、ね。
しかし、暑い。
雨が上がったらこの陽気だ。
地下鉄の駅から出た途端ジャケットを脱ぎ、ワイシャツの首を緩め、腕をまくり上げる。
今年もまた、東京にあの暑い夏がやって来る。

「部長は、あんまり『うわ、暑い!』みたいな顔はしないんだと思ってました。」
今日一日僕と外回りをする事になってしまった気の毒な山本さんが、そう言った。
「いや、僕だって暑かったら暑いって顔をするさ。おしぼりで顔だって拭くし。」
「男の人は良いですよね、それが出来て。」
「男にもそれぐらい特権があったっていいさ。男はいつだって『レディースデー』のスペシャルランチを横目で見ながら寂しく思って日々過ごしてるんだぜ。」
「でも部長は、多分誰よりも美味しい夕食を食べてます。」
「ん・・・それはあれだ、否定出来ないな。」
「ずるいですよ。」
「じゃあ、食べに来るか?」
「ご馳走様です☆。じゃあ、仕事が終わったら行きましょうか、あの小料理屋に。」
そう言って急に早足で歩き出す山本さんだった。

「あら、山本さんいらっしゃい!」
「ご無沙汰しておりました、女将さんはお元気でしたか?」
「お陰様で元気だわ。山本さんも変わり無さそうね。」
「はい、元気にしてます!」
とりあえず、キンキンに冷えた中生で乾杯。
そして、何故か乾杯に参加する女将さん。
女将さんの白くて細い喉を黄金色の幸せが流れ落ちていく様が、暑さで疲れ切った僕の渇きを癒してくれる。

そうなのだ。
夏の日のビールには、魔法が宿っているのだ。
無邪気に鼻の下に泡のヒゲをくっつけてビールを堪能する山本さん。
これもまた、夏の日のビールの魔法のせいに違いない。

今日のお通しは、ながらみ。
千切れないように丁寧に、楊枝でクルクルと中身を引きずり出していただく。
「これを引っ張り出してる時ってちょっと無口になるわよね、美味しいけど。」
まぁ、確かに。
そして、キッと冷えた日本酒が恋しくなる味でもある。
空になったジョッキを下げつつ、女将さんがガラスの徳利を出す。
「こんな日は雪の茅舎の純米山廃なんてどうかしら?」
「良いねぇ、流石女将さん。」
「だって、私も飲みたいんだもの、フフフ。」
こっちを見ながら、自分用の小さい徳利を揺らして笑ってみせる女将さん。
まったく、ちゃっかりしている。

でもさ、こう旨い酒を飲むと、今度は更に旨い肴が欲しくなってくる。
これぞまさに、菊正システム。

https://www.youtube.com/watch?v=GI31vHFj0o4

しかし、反復はテクノの基本である。
今日もまた、酒と肴が織りなす無間地獄に笑いながらズブズブと自分から落ちていこうではないか。

「女将さん、何か欲しい。」
「そう来ると思ったわ。じゃぁ、はい。生雲丹なんてどうかしら。」
きゃあ、こりゃまた見事な雲丹である。
男だって悲鳴を上げそうなヴィジュアルだ。

「でも、部長って毎日こんな美味しいモノ食べてるんですか?」
「んー、どうかしら。でも、毎日雲丹食べてたら痛風になっちゃうわよね。こういう贅沢は、たまにだから良いのよ。」
そう言って、何故か自分も雲丹を楽しむ女将さん。
「あ、女将さんも雲丹食べてる!」
「たまには、良いのよ。フフフ。」
そう言って笑う、つまみ食い常習犯の女将さんであった。
ここ東京も、どうやら梅雨入りしたらしい。
長雨の季節はどうも気持ちがスカッとしないものではあるが、でもそこはどうにか切り替えて、元気に過ごしていきたいものである。
え?どうやって気持ちなんか切り替えるのかって?
そりゃあ、ほら。
僕にはあの小料理屋があるもの。


でも今日は、何か腹が減った。
珍しく仕事したせいもあるだろう。
こういう日は、食欲に逆らわない。
酒より、ご飯。
正しい夕食に身を任せるのだ。

「女将さん、腹減った。ゴハンゴハン。」
「あら、まるで中学生が帰ってきたみたいだわよ、あなた。フフフ。」
「夕方からおなかがグーグー鳴ってるよ。」
「お昼ご飯食べたの?」
「食べたさ、小諸そばでかき揚げそば食べたもん。」
「じゃあ、そんな育ち盛りのおじさんにうってつけのおかずがあるわ。ちょっと待っててね。」

そう言うと、女将さんは七輪の火を起こす。
渋めのお茶をすすりながらしばし待つと、魚の脂が焦げる香ばしい匂いがしてくる。

鮭だ。

「今日ね、時鮭が入ってたら仕入れてみたの。」
時鮭。
時鮭とは、毎年5月から7月頃にかけて三陸沖や北海道沖で捕れるシロザケのこと。サケが旬の季節の秋ではなく、春から夏にかけて捕れるため、時期が異なるという意味で「ときしらず」と呼ばれ、実際に「時知らず」と書かれることもある。時鮭となるのは日本の河川で生まれたサケではなく、ロシア北部の河川で生まれたサケと考えられている。回遊中に日本の近海に現れた若い個体であり、まだ成長途中で卵巣や精巣も成熟していない。そのため、身肉に栄養素や脂が凝縮されていて、非常に美味だとされる。・・・なーんて、ネットで調べたら書いてあるだろう。
でも、理屈はいいのだ。
とりあえず、楽しもうではないか。

それにしても、脂の乗り具合がハンパ無い。
箸で身をほぐし、ふっくらとしたご飯の上に乗せる。
こってりとした旨味と脂の塊がご飯にジュワっと染みてくる。
そこを、すかさずパクリと食べる。
舌の上で、味と香りが爆発する。
その余韻を十分楽しんだら、ネギの味噌汁を口に含み、飲み干す。
日本人で良かったと実感する時である。

「旨いな、やっぱ、鮭は。」
「ね。さっき瑤子ちゃんがおむすび食べていったけど、やっぱり大喜びだったわ。」
鮭のおむすび大好きだもんね、彼女も。
焼き浸しにした鮭のヴィジュアルを想像すると、それはそれで興奮する。
でもさ、こんな盛大に鮭の焼いた香りを換気扇で外に排気すると、多分彼女がやってくるだろうね。

ガラガラガラ・・・
扉が開く。
「女将さーん、何か凄い良い匂いがしたんで入って来ちゃいましたー。」

流石ミーちゃん、鮭を焼くと必ず来ると言うジンクスは間違いではない。
とりあえず、猫娘の嗅覚はハンパない。

「あれ?お兄さん今日はご飯で鮭ですかぁ?じゃ、私はビールと同じ鮭を!」
うぐぐ、やっぱり飲んじゃうよねぇ、それは。
でも、それも良かろう。
大事に鮭を半分だけ残して、ご飯と味噌汁をたいらげる。
「女将さん、僕はお酒で。」
「そう来るだろうとは思ったわ。はい、お酒。」

タハっ、女将さんにはお見通しだねぇ。
今週の営業は、これにて終了させていただきます。

・・・そんなアナウンスが流れ、シャッターがガラガラと降りた僕の頭の中。
こう暑いと、もうビール飲んでひっくり返るぐらいしか思いつかない。
Yシャツも夏日のせいで汗だらけだ。
机を片付けて会社を出ると、前の道に銀色の430グロリアが停まっていた。
女将さんの車だ。
「あなた、早く乗って。」
窓が開くと、珍しくサングラスをした女将さんの笑顔が見えた。
「どうしたの?迎えに来るなんて珍しいね。」
「外を歩いてる間に私の亭主はひからびて死んじゃうんじゃないかと思ったのよ、フフフ。」
30年も前のセダンが、まるで新しいスポーツカーのような乾いた排気音を立てて西新宿の高層ビルの間の道へ滑り出す。
カーステレオから静かに流れるビル・エヴァンスの調べを聴いていると、まるでクルマの中が外とは別世界のような気になってくる。

「あのね。」
信号の手前でシフトダウンしながら、女将さんが言った。
「今日、お店開ける前にどうしても行きたいところがあったのよ。」
車は大ガードを抜け、新宿駅の方に右折する。
「ここを車で通ると、深夜食堂のオープニングみたいだね。」
「でも右に曲がったから、『美人女将の小料理屋事件簿』ってところかしら?」
「お、自分で『美人』って言っちゃうんだ?」
「だって、誰も言ってくれないもの。」

あのさぁ、そりゃ言わないですよ。
・・・美人、だけどさ。

新宿三丁目の交差点を過ぎたあたりのところの駐車場で降ろされる。
実に短いドライブであった。
女将さんが歩いて行った先は、甘味処。
「今日は、かき氷の気分だったのよ。」
「かき氷!」
「そう。女は幾つになってもかき氷を食べたいと思うものだわ。」
「汗だくの半分ひからびたような男と一緒でもかい?」
「あら、そういう男でもかき氷を食べたらきっと癒される筈よ、フフフ。」

小さなテーブルで、女将さんと向かい合わせに座る。
何か、バイトの面接にでも来たような気分だ。
お互いに今日あった話なんかしながら、しばしかき氷の登場を待つ。

それにしても、世間のご夫婦というモノは、待ち合わせなんかしながら仕事の帰りにこうして外でかき氷を食べたりするものなのだろうか?
ちょっと照れくさくはあるけれど、これはこれで新鮮である。

薄く削がれたふわふわの氷の山の上に、深紅のソースが掛けられたかき氷が二つ、テーブルに運ばれてくる。
凄いな。
本物のイチゴで作ったソースだ。
恐らく、氷も何か特別な氷だったりするのだろう。
「キャア、待ってました!」
少しだけ氷を潰すようにしながら、一口食べてみる。

むっ!

濃厚で鮮烈な苺の味が爆発し、そして、さらりと舌の上で溶けていく氷と共に、静かに余韻を残しながら消えていく。
それは、夜空いっぱいに煌めく花火のように。

そう言えば、昔お祭りの夜店で食べたねぇ、かき氷。
舌を真っ赤にしたり、真っ青にしたりしながらさ。
勿論こんな上品な味ではなかったけれど、でも、物凄く旨かった記憶がある。
あの日、誰とかき氷を楽しんだのか、急に今はっきりと思い出した。
けれども、その想い出を辿るのはやめよう。
もう、30年近くも前の話だ。
甘い想い出は氷と共に、静かに余韻を残しながら・・・今日のところは、ね。

「クー!やっぱり、ここのかき氷は美味しいわー。」
そう言いながら、まるで子供のようにかき氷を頬張り、そして満面の笑みを浮かべる女将さん。
その顔は、小料理屋で見せるいつものキリッとした顔ではなく、どこか無防備で可愛くすらある。

「なんかさ。」
「え?」
「やっぱりさ、夏って良いな。」
「フフフ、どうしたのよ、今更。」
「ん?いやさ、・・・遠い日の花火では無いのかもね、なんてね、ふと思ったのさ。」
「どうしたの?あなた、疲れているのかしら。」
そう言ってかき氷を仕上げながら上目遣いで笑う女将さん。

そんな、かき氷の夕暮れ時である。
週の真ん中水曜日!
よく折り返し地点まで頑張って働きました!僕!
この蒸し蒸しする陽気がさ、また僕をビールに誘うんだよねぇ。
困ったねぇ、どうも。

こりゃあ、あれだ。
もうあの小料理屋に行くぐらいしか無いねぇ、困った困った。

「はい、お疲れ様。」
いつものように、カウンター越しに中生が出てくる。
女将さんの小さなタンブラーのビールと乾杯しつつ、ビールの喉越しを楽しむ。

クハー。

この一杯目のために僕は今日一日頑張っていた訳ですよ。
ま、暑くても寒くても、一杯目のビールは特別なんだけどね。

「今日ね、神楽坂上のところでさ、凄いもの見たのよ!」
「へぇ、何ナニ?」
そんな、どこの夫婦にでもあるような何気無い会話をしばし楽しむ。
今日あったいろんなことを身振り手振りで楽しそうに話す女将さん。
こういう時間てさ、僕は結構好きなんだよ。
何より、笑っている自分の女房を見ている時間ってのは、怒られている時間よりも遥かにくつろげる。
そして、ビールも美味しく感じられる。
「でね、そこのおすすめの宮崎地鶏買ってみたのよ。食べてみたいでしょ?」
「いいねぇ。」
「実は、まだ私も食べてないんだ。味見しよっか?」
そう言うと、地鶏を手際よく捌き、小さな鉄板の上で焼き出す女将さん。
ほどなくして出てきたのは、良い香りに焼けた地鶏。
焼けている音がまた、ほろ酔い加減な中年男の食欲を騒がせる。
「柚子こしょうで食べると美味しいらしいわ。」
香ばしい地鶏の旨さと、柚子こしょうの爽やかさの組み合わせが素晴らしい。
パクパクと、あっと言う間に食べてしまった。
やっぱり、熱いうちに食べるべき食べ物だよね、これは。
「柚子こしょうってさ、そもそも旨いよね。」
「そうね、パンチが効いてて美味しいわよね。」
「これ、御飯で食べても絶対旨いぜ。」
「田中ちゃんならそうするわよね。じゃあ、御飯炊いておかなくちゃ。」
田中ちゃんなら、肉汁の染みた御飯に柚子こしょうを散らしたりするかも知れない。
うぬぬ、それはきっと旨いに違いなかろう。
「一気に食べ過ぎちゃったね、ちょっと残しておくんだった。」
「でも、この匂いを嗅いだら、そんな理性は飛んじゃうわよね、フフフ。」

うーむ、じゃあ、ビールのお代わりでも飲みながら、田中さんが来るのを待ってみようかな。
ここのところ、急に暑くなったと思ったら、また涼しくなったり。
体力が無駄に消耗する気がするよね、こういう日が続くと。
実はここ数日、あの小料理屋にも顔を出さずに、夜は家でひとりごはんを食べてテレビなんか見ながら休んでたんだけどさ、そろそろひとりごはんも飽きたなぁ。

さ、今日は金曜日。
行きますかね、久しぶりに。
あの小料理屋にさ。

カウンターの奥の方では、瑤子さんと田中ちゃんが相変わらず馬鹿話をしながら盛り上がっている。
いいねぇ、賑々しくて。
ネクタイを頭に巻いたら日本一似合うサラリーマンと、ステージと普段のギャップが日本一激しい人気歌手の組み合わせ。
それは、昼間の世界だけで生きていたら絶対巡り会わないであろう組み合わせだが、この店の暖簾をくぐれば、それは巡り会うべくして巡り会った組み合わせ。
「傘も差さずに原宿ー、想い出語って赤坂ー。」
肩を組んで、何か30年以上前のムード歌謡を陽気に歌っている二人組。
良いよねぇ、こういう出逢いがあるから、飲み屋ってのは楽しいんだよね。

そして、カウンターの反対側には、初めて見る女性客。
「お隣、空いてますか?」
「あ、どうぞ。」
笑顔の素敵な、ちょっと華奢な感じのする女性。
僕はその隣に一つだけ空いた席に座る。
「ダメよ、こちらのお客さんにちょっかい出しちゃ。何かあったら逮捕するわよ。」
女将さんが笑いながら僕にそう言う。
「あ、兄さん美人に弱いから気をつけてくださいね!」
田中ちゃんがカウンターの隅っこから女性に声を掛ける。

分かってますって。
でもねぇ、紳士たるモノ一人で酒を飲む女性に声を掛けるのがエチケットと言うもんでしょ。
まずは、ビールでご挨拶。
暫しの間、雑談をしながらお互いに差し障りのない感じで自己紹介なんかしてみる。
どうやら彼女は女優さんで、今日この辺でスチール撮影の仕事があったらしい。
道理で綺麗な筈だよ。
でもとても親しみやすい雰囲気で、調子の良さだけが取り柄のこの僕が、今日はトークをリードされ気味である。
「芸能人の方って、こんな風に気安く話しちゃくれないんじゃないかって気がしてました。」
「でも、プライベートはただの人ですから。」
そう言って笑う彼女。
いかんいかん、このままだとファンになっちゃいそうだ。
それぐらい、素敵な笑顔。
でも彼女の左手に光る指輪がこっちを睨んでいる。

「でも、私も芸能人だけどやっぱり気安く話しちゃくれないと思ったのー?ねー?」
そう言いながら隣に座っている瑤子さんが、僕の肩に左腕を回してくる。
その姿は、最早獲物を見つけたおっさんのようだ。
この人ほどテレビで見る時と印象が違う人も珍しいだろう。
「瑤子さん、最初に会った時すでにグデングデンで絡んできたじゃない。」
「あれ?あたし?そうだっけ?アハハハハハハハ。」
ま、いろんな人が居るもんだよね。

東京って、いい街だねぇ。

そして、今宵の僕の肴が運ばれてくる。
「夏といえば、やっぱりこれよね。」
出ました、この店の夏の定番・ハモ落とし。
女将さんの好物でもある。
多分、女将さんは自分で食べたくなったから作っているに違いない。

ハモ落とし。
別名「牡丹鱧」。
骨切りした身が広がって、牡丹の花のようになるから、牡丹鱧。
このね、綺麗に開いた状態がまた独特の食感を引き出して美味しいんだよね。
それを、女将さん特製の梅肉ソースでさっぱりといただく。
キッと冷えた日本酒が飲みたくなる、関西の夏の味だ。

「どうです?食べてみません?」
隣の彼女に勧めてみる。
「わぁ、良いんですか?ご馳走になります!」
パクリと食べた彼女を眺めていたら、厨房の隅でニコニコしながらこっそり自分も食べている女将さんの姿が目に飛び込んできた。
「さっぱりしていて美味しいですね、夏はいつもあるんですか?」
「大体毎年やってるね。だって、店主が好きなんだもん、ほらね。」
そう言ってモグモグと口を動かしている女将さんに振ってみた。
「あら、や、フフフフ。」
手で口を押さえながら笑って誤魔化す女将さん。
「でも、美味しいからまた食べに来てくださいね!」
「はいっ!なんかここのお店、私好きになりました!」
「兄さん、また来てくださるみたいっすよ、良かったすね!」
ネクタイの結び目が側頭部に移動して、頭病みの殿様みたいになった田中さんが妙に嬉しそうだ。

さて、今年の夏も楽しい夏になりそうだねぇ。
暑い。
ホントに暑い。
台風が去ったと思ったらこれだ。
この日差しと暑さは、初老の男にとっては殺人的な一撃としか思えない。
首筋から背中に流れ落ちた汗をYシャツが吸い取り、そして、背中に貼りつく。
窓際のデスクも楽ではないのだ。
しかし、一体これは何の罰ゲームなのだ?
僕はただ、日々働いて夜に晩酌を楽しんでいるだけじゃないか。
もう、頭の中は黄金色のあの液体の事で一杯だ。
仕事をキチンと終わらせて早く辿りつかなければ、僕は死んでしまうよ。
何処に辿りつくのかって?

それはもう、あの小料理屋にさ。

「ただいま。」
「お帰りなさい、今日も暑かったわね。」
「暑いの暑くないのって、もうね。」
「あら、どっちだったのかしら?フフフ。」
相も変わらないやり取りで、今日も晩酌がスタートする。
「でもあなた、あと一週間もすれば、もう9月になるのよ。そろそろ夏も終わりね。」
「一回だけ海見た気がするから、まぁ今年の夏は楽しめた方なのかもね。」
「あの海の家の焼きそば、美味しかったわね。」
「焼きそばだけ食べて帰って来ちゃったけどね。」

そう、僕ら初老の夫婦は、この夏江ノ島までドライブに出掛けた。
女将さんの「海が見たい」の一言でそれは決まり、次の日の朝、第三京浜で一路江ノ島方面へ。
「女将さんと海って、あんまり繋がりを感じないけど?」
「あら、私だって夏になったら潮風に吹かれてみたいと思うわ。」
「日焼けとかしちゃうかもよ?」
「私には強い味方が居るわ。」
そう言って、日焼け止めのチューブを見せながら笑う女将さん。
裸足になって海岸を歩いたり、海に向かって何か叫んだりするそれほど若くは無い二人組は、夏の1日を堪能した。

「来年はさ、みんなで行ってみない?江ノ島。」
「いいね。田中ちゃんとか瑤子さんとかとみんなで?」
「そう。ほら、バーベキューとかやりながらビール飲んだり、日がな一日海見ながら。」
「女将さんからそう言う提案が来るとは思わなかったね。どっちかって言うと、『右手に缶コーラ、左手には白いサンダル』って感じかと思ってたけど。」
「古いわね、あなた。でも、夏の女は何か冒険したくなるものだわ。」
ヒューっ、カッコいいね!
流石、女将さん。

そんな、大人の夏休みを振り返りながら飲むビール。
神楽坂の夜に、少しだけ潮風の匂いがした気がした。
秋だと言うのに、昼間の気温が30度を超えていた。
完全にヤラレタ感じがするよね。
そんな熱い中、今日は外回りで歩いている訳だけれども、昼時に慌ただしく市ヶ谷の小諸そばでかき揚げせいろを喉に流し込みながら、既に頭の中では黄金色のシュワシュワとする液体が完璧な泡の比率で注がれている様を想像している自分に、ちょっと可笑しくなった。
「部長、今、ビールのこと考えてませんでした?」
山本さんが、笑いながらこっちを見る。
「サラリーマンの唯一の楽しみだもの、そりゃあちょっとは考えるさ。」
「部長の場合は、ビールが楽しみなのか女将さんが楽しみなのか分からないですけどね。」
「どっちが、じゃなくて、どっちも、かもよ。」
「いずれにせよ、不謹慎な上司ですよ。」
「はは、失礼いたしました。」
このコンビで外回りをしていると、何か娘と散歩しているような気分になるときがある。
妙に見抜かれている時とか、ね。

退社時間だ。
山本さんを連れて向かう先は、勿論あの小料理屋だ。

「おかえり、今日は暑かったわね。ビールが良い?それとも、もう冷酒にする?」
「あぁ、今日はどうあってもビールだね。その為に今日一日頑張って仕事しているフリをしていたんだから。」
「そうでしょうね、じゃあ、主演男優と助演女優のおふた方には、賞品として生中がお店より進呈されます。おめでとうございまーす。」
そう言って笑う女将さん。
白の絣の着物が、夏のような秋の日の夕暮れに良く映える。

「今日ね、魚屋さんでサンマを仕入れてきたの。食べる?」
「サンマ、良いねぇ。」
「サンマと土瓶蒸しなんか、どう?」
「うわあ、もうまるで秋ですね。」
「そうよ、山本さん。もう秋ですもの、ウフフフ。」
そう言って女将さん、サンマを焼き出す。
て事は、今日のお酒は群馬の結人あたりかな。
そんな予測をするようになったら、立派な酒飲みである。

「今日ね、魚屋さんでね、西新宿辺りで居酒屋をやってる女性の方と一緒になったんだけどね。」
「うん。」
「面白い人でね、『今日はサンマだな、あいつらの餌は』とか言いながら、美味そうなサンマばかりを選んでたわ。」
「餌ねぇ。」
「『スナメリとか紫ピクミンとか、まぁ色々居るんで。あいつら生意気に口肥えてるんですよねー。』なんて言ってたわ。」
「何か面白そうなお店だねぇ。」
「でも、お魚を選ぶ目は確かなのよ。今日のサンマは彼女に選んで貰ったわ。」
「じゃあ、僕は紫ピクミンさんと同じクオリティのサンマを食べてる訳だな。ところで、紫ピクミンって何だろ?」
「あ、昔あったテレビゲームのキャラクターですよ。なんか、ぽっちゃりしてウロウロしてる感じの。」
「流石、山本さんはそういうの詳しいねぇ。」
「ゲームっ子ですもん。」

程なくして、こんがりと良い色に焼けたサンマが登場。
醤油をちょっとだけ垂らして、いただく。
サンマの脂身が口いっぱいに広がる。
そして、それをビッと冷えたビールで喉の奥に流し込む。
美味い。
「秋はいいもんだな。」
「ええ、良いものです。秋は。」
「何を食べても旨いものな。」
「ええ。」
そう言って土瓶蒸しの準備を始める女将さん。
サンマの香ばしい香りを押しのけながら、秋の味覚の柔らかな香りが漂ってくる。
そんな中、無心にサンマにありつく山本さん。

まるで、どこかの平和な家庭の食卓のようでもある。
ま、土瓶蒸しが出てくる家庭なんかそんなにあるとは思えないけれど。

「はい、じゃあ今日は特別に小笹屋竹鶴を出しちゃうわね。」
ああ、何という幸せ。
結人も良いけれどやっぱ竹鶴だな、ここは。
「私が飲みたかったんですもの、フフフ。」
そう言って、女将さんはお猪口をこっちに向かって見せながら小さく振っている。
まったく、ちゃっかりしているよね。

ともあれ今宵の神楽坂は、こんな感じで更けていくのだった。

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