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夢の小料理屋のはなしコミュの或る運転手のはなし

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コメント(3)

「悪いね、東京駅までちょっと急いでくれる?」
タクシーに乗車するなり、その40代前半と思しきサラリーマン風の男性客は運転手を急かした。
「どうしたんですか?」
「あのさ、生まれるんだよ、子供がさ。」
「承知しました。」

運転手の名は、麻生雅人。
古い言い方をすれば、ニヒルな二枚目と言った風貌。

この秋、長年勤務してきたタクシー会社を辞め、個人タクシーを始めたばかりだ。
新車の香りがまだ強く残るクラウンが、溜池山王駅の近くから力強く発車する。

「初めての子なんだよ。」
「へえ、じゃあ、お父さんになられるんですね。」
「お父さん・・・な、俺がな。」
落ち着かない様子の男性客。
「俺さ、お父さんになっちゃうんだよな、お父さん。運転手さんは子供居るの?」
「僕は独り者ですよ。」
「そうか、じゃあ、後輩だな。」
「よろしくお願いします、先輩。」
左手に国会議事堂を見ながら、車は流れるように丸の内方面へと進む。

「男かね、女かね?」
「まだ分からないんですか?」
「お、うん。出てくるまで聞かないようにしようと思ってさ、聞かなかったんだよ。」
「女の子だったらメロメロになっちゃいますね、多分。」
「やっぱりさ、凄い可愛がっちゃうんだろうな、俺。でもさ、可愛がりすぎて『お父さん嫌い!』なんて言われちゃったら、悲しいな。」
どちらかと言えば厳つい風貌の男性が、「悲しいな」などと似合わない言葉を口にしたのを聞いた瞬間、麻生はちょっと笑った。

「お子さん、お父さん似だったりするんでしょうね。」
「でもさぁ、女の子で俺に似てたらケツアゴだったりして可愛そうじゃ無いかえ?」
「でも、奥さんにしか似てないってのも寂しいもんでしょう。」
「女の子だったら、綺麗でいい女になるぜ。」
「奥さん美人さんなんですね。」
「美人って言うか、んー、なんだ。でも、いい女だ。・・・言った事無いけどな。」
「言った方が良いですよ、そう言うのは。」
「そんなこっ恥ずかしい事言えるかよ、この歳こいてさぁ。」
「でも、今頑張ってるんでしょ?奥さん。」
「そうだ、な。」
しばし沈黙する車内。
しかしながら、男性はどこか楽しげな表情で皇居の堀を見つめる。

程なくして、車は東京駅に到着する。
支払いを済ませて、車を後にする男性。
「運転手さん、ありがとね。楽しかったよ。」
「こちらこそありがとうございました。お客さんも、よい旅を。」
「旅?おかしな事を言うねぇ。これからせいぜい新横浜まで新幹線に乗って、女房の居る病院に行くだけだぜ。」
そう返されると、麻生は言った。
「お客さん、お客さんの新しい人生の旅は新横浜からスタートするんですよ。」
男性客は、にっこり微笑んで麻生に向かって親指を立てて見せると、人混みに消えて行った。
地下鉄東西線東陽町駅の出口は、人でごった返し始めていた。
東西線名物とも言える、突然の朝の運休だ。
少し離れたところで、手を挙げた背広姿の中年の男性を拾う。
恐らく会社に行けば中間管理職とかそんな感じだろう。
朝だと言うのに疲れ切っているように見える。
「お客さん、どちらまで。」
運転手が、ルームミラー越しに声を掛ける。

運転手の名は、麻生雅人。

「大手町までよろしくお願いします。」
白いクラウンのタクシーが、永代通りを大手町方面に向けて発車する。
朝の永代通りは、ほぼ毎日凄い量の車が都心に向かう。
こんな電車の動かない朝なら尚更だ。
都心では自転車の方が速い理由が、これだ。

「こんなになって、電車が止まっても渋滞になっても会社に行くんですねぇ、僕は。」
木場の交差点を超え、左手にある自転車店のビルを凝視しながらその男性は言った。
「学生の頃にね、『俺は社会の歯車になんかならねえぞ』なんて思ってたのに、気が付けば歯車ですよ、ハハハ。」
「でもねえ、お客さん。」
麻生が口を開いた。
「歯車ってのは、重要な部品ですよ。品質の定かじゃない歯車は、使って貰えないんだから。それだけ信頼されてるんですよ。歯車は歯車でも、立派な歯車。」
「ハハハ、運転手さん上手い事を言う。立派な歯車、か。」
そう言うと、男性は深く溜息をついた。
「毎日ねぇ、電車待ってる時にね、思うんですよ。反対側のホームに止まる電車って空いてるなぁ、って。」
「下りの電車ですか?」
「そう、千葉の方に向かう電車ね。何回あれに乗ろうと思った事か。今日の仕事なんかバーンてぶん投げて。」
「ぶん投げた事無いんですか?」
「無いですよ。会社行ったって何もする事が無い日にだって、机に座るのが仕事だと思って、来る日も来る日も満員電車で通勤です。それに…」
「それに?」
「そんな勇気も無くなってしまいました。」

それにしても、酷い渋滞だ。
さっきから殆ど車は動かない。
反対車線は空いているのに。

「お客さん、今日は仕事はどんな感じですか?」
「実のところ、遅れて行ったってそんなに影響無いぐらいのもんですよ、でもね、行かないと。それがサラリーマンですから。」
「遅れて行っても平気ですか。」
「…いや、まあ、ね。」
「じゃあ、昼まで僕に付き合いませんか。」
「え?どうするんです?」
「いやね、そっちの車線が空いてるんですよ。」
麻生はメーターを止めた。
「焼き蛤、食いに行きませんか?いや、全部僕がおごるんで。反対側のホームの電車、ずっと乗りたかったんでしょう?」
「いや、でも。」
「大丈夫。僕が共犯者になりますから。」

門前仲町の交差点で車を左折させると、麻生は湾岸線方面に車を走らせた。
「どうせこの調子じゃあ、午前中仕事にはならないですよ。それに、見てくださいよ、この空。」
抜けるように青い秋晴れの空が頭上に目一杯広がっていた。
「折角だから、地下鉄通勤じゃ見えない景色を楽しんで行きませんか?」

それは、至って普通の平凡な何気無い風景だったが、男性が普段は見ない風景だった。
「僕は、窓から流れる風景なんか見ずに30年も働いて来たんですねえ。」
しみじみと語る男性。
「僕の人生って、何だったのかな。気が付けば、もうザウスだって無くなってる。」
「街の移り変わりなんて、早いもんですよ。」
「日本て凄い国ですよね、ちょっと見ないとこんなに変わっちゃう。」
麻生は、一呼吸置いて言った。
「でもお客さん、お客さんみたいな人が何十年も頑張ってるから、日本て立派な国になったんじゃないのかなあ。」
「え?」
「真面目に働いて来た人が沢山いるから、僕らはこうして凄い日本で暮らせてるんだと、僕は思うんですよね。」
「…。」
「感謝してますよ、お客さん。」
「立派な歯車、ですか。」
「でも、歯車が嫌ならベアリングになれば良いんですよ。」
「ベアリング?」
「はい、ベアリング。軸を滑らかに回転させるための部品です。ベアリングだって、機械には必要。」
「今から私になれますかね、ベアリング。」
「なれますよ、何でも試した方が良いです。どうせ一度の人生ですから。」
「運が良ければ、ベアリング。」
「運が悪けりゃ、死ぬだけです。」
「なんか、あなたのタクシーに乗って良かった気がします。」
「まだ蛤食べてないのに?」
「蛤、楽しみになって来ました。」
「ええ、僕も楽しみです。折角ですからこの午前中、お互い良い旅にしましょう。」

焼き蛤を目指して東へ向かうタクシー。
登り車線は、まだ渋滞したままだ。

今日も綺麗な秋晴れだ。
こんな日は、こころも弾む。
何も晴れて嬉しいのは子供だけでは無い。
大人だって、楽しい気分になったりするのだ。
そして、仏頂面なので分かりにくいが、このタクシー運転手もまたそんな楽しい気分になっている一人だ。
運転手の名は、麻生雅人。
赤坂郵便局の脇の道を六本木方面に向かって車を走らせると、乃木坂の辺りで頭を抱えた小柄な女性が手を挙げたので拾う。
「お客さん、どちらまで?」
サングラスを頭にずらしながら、彼女は言った。
「すいません、神楽坂上まで。」
麻生がその女性がテレビで見た歌手だという事に気付くのおには、そう時間は掛からなかった。
もっとも、芸能人に疎い麻生には名前が思い浮かばなかったが。
「お仕事ですか?」
「違うのよ。昨日ね、あたし神楽坂のお店で飲んでたのよね。」
「ほう、神楽坂。良いところで飲んでらっしゃいますね。」
「で、どうもお店に携帯電話置いて来ちゃったみたいなの。」
「そりゃ不便だ。」
「でも、二日酔いなのね、あたし。起きたら、頭ぐわーんって。」
二日酔いのせいなのか、元々そういうキャラクターなのか、女性はちょっと気だるい感じで話す。
「二日酔いなのに、携帯電話を取りに外出しなくちゃなのよ、私。」
「そんな時、携帯電話が一人で帰ってきてくれると助かるんですけどね。」
「あら、運転手さん面白いこと言うわねぇ。足が生えて、チョコチョコ歩いてくる訳?でも、踏みつぶされそうだわよねぇ、何か。」
車は赤坂の街の中を通って、山王神社下の交差点で信号待ちだ。
左手の路地の奥に、ペスカデリアと言うオイスターバーの看板が見える。
「そう言えば昨日ね、牡蠣食べたの、みんなで。」
「みんな、ですか?」
「そう、昨日行ったお店、まぁ、行きつけなんだけどさ。そこのみんなと、ワイワイガヤガヤ。」
「牡蠣か、もうそう言う時期なんですねぇ。」
「今年の牡蠣、おっきくて美味しいのよ。」
「で、飲んじゃった訳ですね。」
「あたし、実はあんまりお酒強くないのよ。好きは好きなんだけどね。」
そう言って、笑う女性客。
ちょっとだけ酒焼けした声が妙にセクシーだ。
「でも、みんなでワイワイやるのって楽しいわよね。だから、たまにそこのお店行くんだ。」
「神楽坂上なんですか?そのお店。」
「そう。こうね、綺麗な女将さんが一人で切り盛りしてる小料理屋なんだけど、何か居心地が良くてね、よく行くの。建物とかもう古いんだけど、ああ言う雰囲気がまた懐かしくて良いのよね。」
そう言えば、元の上司がやっている店がその界隈にある事を、麻生は思い出した。

2003年、新宿・歌舞伎町。

「無理だと思ったら退却して応援を待つのよ!」
「麻生、了解。これから突入します。」
「麻生くん、気をつけて!」
「部長、これ終わったらメシ行きましょうよ、腹減っちゃった。」
「じゃあ、手短に仕事してきて。」
「麻生、超了解。」

後に歌舞伎町ラーメン店立て篭り事件と言われる事件の犯人との交渉役が、当時警視庁北新宿警察署の刑事をしていた麻生だった。
交番を襲って拳銃を手に入れた犯人が、歌舞伎町のラーメン店に人質を連れて立て篭ると言う事件だった。
犯人は発砲を繰り返し、計算上は残りの弾が無くなったとみられたところで、麻生が交渉役として抜擢された。
麻生が、犯人からの要求に従って入口から店の中に入ろうとした、まさにその時だった。
物凄い音と共に店の内部が爆発した。

麻生は、そこから一ヶ月の記憶が無い。

「あ、そこの花屋の角のところで降ろしてくれたら良いわ。」
「承知しました。携帯、あると良いですね。」
「多分あると思うわ。はい、お代。お釣は取っといて。」
「あ、ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
「あ、すいません。」
「どうしたの?」
「もしもそこのお店の女将さんがいらっしゃったら、麻生がよろしく言ってたとお伝え下さい。」
「え?フフ、不思議な事を言う人ね。わかったわ、ちゃんと言っておくわ。でも、ホントおすすめなのよ。じゃあね。」

ミラー越しに客を見送りながら、麻生は彼女が歌手の前田瑶子だった事を思い出した。

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