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神奈川【市民と野党と労組】連帯コミュの証言戦争 目前で奪われた身内の命 川崎市在住 中島松江さん

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証言戦争 目前で奪われた身内の命
川崎市在住 中島松江さん


2018年8月15日しんぶん赤旗【1面】
 「みんなに生かされた命。戦時と戦後を生きてきた『女』として死ぬまでに全部、伝えておきたい」―。川崎市中原区の中島松江さん(88)は、1990年まで30年間、早朝3時に起き、プレス工場を切り盛りしてきました。20年前、心筋梗塞に倒れ九死に一生を得ました。命と平和の大切さを心の底から訴えています。
 45年4月4日夜、松江さんが「ピューと音がした。あれは何だ」と思った瞬間、目の前で爆弾がさく裂しました。親戚の男性とその子ども2人が犠牲になりました。死体はバラバラ。木や電線に誰のものとも判別がつかない肉の塊がぶら下がり、身内の物らしき物を集めてひつぎに納めました。電気もなく、ヤミで買ったろうそくでお通夜をする始末でした。
 この日、横浜、川崎の工業地帯を約80機の米軍のB29爆撃機が襲いました。松江さんの実家のあった川崎市高津区は、一瞬にして6世帯17人が犠牲に。「笹の原の空襲」です。
 川崎市宮前区から高津区にかけての丘陵地帯には、敗戦までの3年間、通称・陸軍東部62部隊(陸軍歩兵101連隊)もありました。
 松江さんは「毎年この日(4月4日)が来ると空に向かって手を合わせます。民間人が犠牲になった悲惨な状況を目の前で見ている。安保法制(戦争法)を導入した、安倍首相は何を考えているのか…。『もう(首相を)辞めてください』の言葉しかない」と憤ります。
 1942年、川崎市の中島松江さん(88)は、小学校を卒業すると12歳で「年季奉公」に出されました。家族13人。「口減らし」でした。子どもを背負い、おしめを洗い、ご飯の支度が仕事でした。「お母ちゃん。なんで春になると来るの」。「おまえの給金をもらいにきたんだよ」―。1カ月5円。年60円の給金を先払いでもらっていたのです。松江さんの実父は2歳の時亡くなり、母は再婚。「母の連れ子」と邪険に扱われました。
シベリアに抑留
 戦後、19歳で14歳上の金次郎さんと結婚。親同士が決めた結婚で娘を3人もうけました。金次郎さんは中国を転戦しシベリアに抑留され48年11月、舞鶴港に戻ってきました。家は空襲で焼かれ、バラックのトタン屋根、8畳一間の掘っ立て小屋に親子5人が生活しました。道端の草を干してうまやに売って糊口(ここう)をしのいだこともあります。
 「ふと振り向いたら銃だった。危うくやられるところだった。俺がやらなければ俺が死んでいた」―。松江さんは金次郎さんの思いがけない話に背筋が寒くなりました。中国で農民家族がくわで畑を耕していました。子どもが小さいから「助けてくれ」と、畑に額をつけて泣きながら頼むので、「早く帰れ」と帰して振り向いたら、逆に銃を向けられていたというのです。
何度もうなされ
 松江さんは「60年間、お父さんと一緒にいたけれど怖かった。命令調で目が据わっていた。やわらかい愛情がなかった」と振り返ります。「生きて帰ってきたということは人殺しもしてきたはず」―。松江さんは声を落としながら「何度もうなされていましたよ。戦場では一対一の衝突。相手は敵。いつも枕元に木刀を置いて寝ていました。戦争はそこまで人を脅かしてしまうのです」と話します。
 松江さんは力を込めていいます。「孫、ひ孫たちが18人。命にかえても守ってやりたい。人を殺しあやめる、戦争だけは絶対にやめてほしい」
 (遠藤寿人)

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