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仏教亭コミュのしっかりした気づき(念。Sati。Mindfulness)

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ブッダはお亡くなりになる際、私たちに
「諸行は衰退するものだ。お前たちは不放逸でいて完成を目指しなさい」
というお言葉を遺された。

不放逸すなわち念の途切れのない生活を送れ、ということだ。
悪や衰退に陥らないように常に注意し、ぼんやりしたりぼうっとしたりすることのないように気をつけ、同じ所に立ち止まらず前進すべく自分を励まし、常に義務を思い出してやるべきことに精進する。

これらは戒、定の広い範囲で働かせるべき気づき(念)だが、
さらに慧を育む際の、まさに気づき(念)がその十全な力を発揮する場合についても、私たちはよくよく学ばなければならない。
それについてはブッダは、四念処として特別な修行方法を定めていらっしゃる。

しっかりとした気づき(念)について共に学びましょう。

コメント(130)

自分が安らいでいられる特定の場所だけでなしに、

いろいろな刺激を自分の目や耳などの感覚機能に与えてくる騒々しい場所でだろうと、

いろいろな意見や考えや個性を持った人たちとの交わりにおいてだろうと、

一つ一つの出来事や、
一つ一つの言葉を受けて、

自分がどう感じたのか、どう感じていると認めているのか、また認めていなくたって実は本当にはどう感じているのか、

そしてどんな感情をそれに対して持つに至ったのか、
ほぼ自動的にすぐさまその感情を覚えたのか、
それともじわじわと感じつつある自分を確かめたのか、

そうしたらその感情が静かにまた消えてゆくのを私は見届けたのか、
それともその感情が湧いてきたらたちまち私は何かの行動に衝き動かされずにいられなかったのか、
行動の前にゆっくりと選択肢を見渡したり、吟味したり、考察したり、慎重に評価したりはできなかったのか……

>>[94]

で、その次にどうする?
「いい脳内映画だったなあ、あとは屁こいて寝るか」なの?
知識はいい睡眠薬にはなりそうだ。
麻薬より効果はありそうだが、怖いのは麻薬以上かも。
>>[095]

法随観の内容についてお尋ねなのですね。
法随観は観法無我念処とも呼ばれますが、実際のその実践内容はその呼び名のイメージにとどまらず、より豊かなもので、

(1)今、自分の心には五蓋のおのおのがあるか無いか、どのように生じてくるか滅するか、二度と生じないかなどをありのままに観る。

(2)五蘊はどのようなものであり、どのように生じ、どのように滅するかをありのままに観る。

(3)内処、外処それぞれにおいて、その結がいかに生じるか、生じた結をいかに捨てるか、捨てた結がいかにして二度と生じないかをありのままに観る。

(4)七覚支の一つ一つが自分の中にあるか、生じていないものはいかにして生じるか、生じたものはいかに修習され成就するかをありのままに観る。

(5)四聖諦の一つ一つの真実はいかなるものかをありのままに観る。

こうしてあらゆる事象を自分についても、他者についてもありのままに観て思慮し、滅し生じては滅すると観て思慮して、
「知るに十分で、確かめるに十分な限りであるに過ぎないのだなあ」
という念が生まれ、
この世において頼るべきものも執着すべきものもないと知って生きてゆくようになると教えられています。
>>[102]

まずはとにかくブッダがこの世でどういうふうにお教え下さったのか、というところを丁寧に聞かせていただくことはとても大事ですよね。
聞いてみて初めて本当の信も芽生えてくるし、どんなふうに実修していったらいいんだかの見通しもつく。
>>[101]

まさに知識が、それだけの所有物、玩弄物として楽しまれるだけで本人の生活実践に取り込まれず人格を揺さぶることもないならば、
本当につまらない慰み物になってしまいますね。
まさに私たちの行いは、盲目的、習慣的なものへとすぐに収束してしまう危険を持っているから、
常に自分のありよう、行いようを、新たな心で見つめ返す正念が大切なものとなりますね。
>>[107]

本当にその言葉以外いらないね。

(-人-)


>>[107]

実体のように他と関係なしに自立し常恒不変のアートマンとしては、確かにおっしゃる通り存在しませんね。
しかし、世間的には縁起によって仮設されたものとしてちゃんと存在することまでも見落とすなら、
それは虚無論に堕すことに他ならず、中道から外れた極端論になりますね。
>>[110]

まさに仏法は、勝義諦と世俗諦の関数をしっかりと理解することが求められますね。
>>[112]

効能(arthakriyA)、力だけが渦巻き、働き、
それが何ものかとして仮設されたり、何ものかとして実体視されたりするとも見ることができますね。
もちろんこの効能(arthakriyA)自体、力自体もまた決して我、実体、アートマンと見ないのが仏教ですね。
>>[109]

「自分などいない。利己的認識や利己的欲求にこだわることで、自ら嫉妬や吝嗇、怒りや憎しみや悲しみや不安を生み出す愚かさに堕するな。落ち着け。」
と自分に言い聞かせるのは、世間で生きていく上でも良い実践になると私は感じています。
これは虚無論に堕すことなのでしょうか。

『「自分」は世間的には縁起によって仮設されたものとしてちゃんと存在する』
と考えることが、仏陀が説いた中道なのでしょうか。

よろしければ教えてください。
世間の評価とかも、すごく気になるのが人情なんだけど、
そこを踏み止まって、「他者が自分に向かって何か言うなら、その人はその人の見た事実、感じた事実を言っているのだろう。それは自分の都合に関係なく真実である。それは自分の評判にこだわる私を正しい智慧に導く教えである。こだわられるべき自分など存在しない。反論すべき評判などない。事実があるだけである。」みたいに考えられると良いなあ、と思ってるんだよね。
なかなか出来ないんだけど、そうありたいと思ってる。

そんなこんなで、そんな修行の中で
「世間的に縁起によって仮設された自分」
を想定するのは、私にとっては、あまり良いことがなさそうなんです。

原始経典を見てみても、
「真理は無我なんだけど、世間的に縁起によって仮設された自分がちゃんといることは忘れないでね、でないと虚無論に陥って間違っちゃうよ」
みたいに読み取れそうなところは、ざっと見当たらないと思っています。
スターとしては、自分が仏の方向に向上したい、という目出度い欲求があるんだけれど、それはどうしたって自分で自分をどうにかしたい、っていうことになる。

向上する本体としての自分、修行する自分というのは、一応あることにしておこうぜ、みたいな認識が普通ある。仏教の中にもあるだろう。

私らのほうでは、そういう主体、向上させる自分と向上させられる自分というものに手をつけない事になっている。

手を付けないといっても消えてはなくならないので、腹が減れば飯が欲しくなる。
それでいいんでないかと思う。
おかしいな、無我なのに腹が減る、なんて考え出すと虚無論かもしれない。
>>[116]

自分で自分をどうにかしたいってのとはちょっと違うんだ。
自分がいると思ってる間違った観念があるだけなんだよ。

この間違った観念をなんとかしようとしているのは、自分じゃないんだ。
だって、「自分がいると思ってる間違った観念」が無事になくなったら、自分はいないじゃん。
自分がいなくなることを完遂できるのは、自分であるはずがない。
これは屁理屈みたいに聞こえるかもしれないけど、真実だと思う。

だから「自分がいると思ってる間違った観念」をなんとかしようとしてるのは、仏様でもいいし、阿弥陀如来でもいいし、善知識でもいいし、純粋理性でもいいし、そういうものが、間違った観念をなんとかしようとしてるんだと思ってる。

経典に「無常である苦である無我であると唱えて心を落ち着けて智慧に至りなさい」と書いてあったから、俺は馬鹿正直にそうしてるんだけど、自分がいなくなることを完遂できるのは自分であるはずがないんだから、「自分がいると思ってる間違った観念」をなんとかしたいなら、ただ座るくらいが一番シンプルで手っ取り早い方法なんかもしれん。

でも、禅には師が必要だよ。
「無常である苦である無我である」と唱えて心を落ち着けるぶんには、とりあえず師は要らない。
だからナイスな師と出会っておらず、今のところ特に師を求めてもいない俺は、「無常である苦である無我である」と馬鹿正直に唱えるしかないんだよね。

俺の体は腹を減らすし、俺のエゴは腹を立てる。
でも、そいつらは俺じゃない。
俺は体やエゴじゃなくて、仏様と一緒にいたいんだよって。
そういうことをゴニョゴニョ念じながら修行してるんだ。

そこそこナイスな修行だと思ってるんだけど、78910さんの修行方法も教えて貰おうと思ってさ。
78910さんはたぶん俺とは違う修行してるし、禅ともちょっと違う方法論を、経典から読み取っているんじゃないかなあ。
ちょっと興味深いと思って聞いてみたんだ。
経典に伝えられる修行の基本形は
「無常である苦である無我であると念じて心を落ち着けて智慧に至りなさい」
というもので、そういう修行では
「自分がいると思ってる間違った観念」

「間違った観念をなんとかしようとしている仏、如来、善知識、純粋理性」
みたいなふたつのものが知らされる。

禅はそういうんじゃないというのは分かるんだけど、禅もその構造を良く見てみると、
「放っておかれる自分」と、
「(自分を)放っている仏、如来、善知識、純粋理性」
というふうに、結局は同じ構造になってるのかも。

どっちも「欲したり考えたり妄想したりしている自分」が別のものとして認識されることに変わりはないんだよね。

なるほど。
苦から逃れたい、楽になりたいと言うのも、結局は欲望ですね。

おいらの師はこれと言って何も言いません。おいらも問うことはあまりないです。ただおそらく師の前では裸でいられる。何となく曇っていた心が軽くなってる。別に裸になろうとしてなっているわけではなく、自然とそうなってしまいました。
出会った日からでもなく、「何かあったら私の弟子だと名乗りなさい」と言われた日からでもありません。しかし、お会いする度に何かしらを得てるのだと思います。

以前は「はっ!」みたいに気づかされることは多々あったのですが、最近は気づいたことも、なんか当たり前のように、ただ飲み込んでいるだけのような気がします。
非思量である事、ぼーっとしているのではなく、何時も本気で在りたいと思ってまいす。

(-人-)



こんなことを言った人がいた。
悟りとか空とかいうようなことを、人から教わっても、例えば火と言っても口が焼けない、食べることを思っても腹は太らないように、自分のものにならなければ、何にもならない。

『直饒(たと)い会(え)に誇り)』

そうそれを言ったのは、
道元禅師だ。

おいらが言われてるように、これを聞いた時は思った。

(-人-)


>>[118]が、自分の名前を繰り返し唱えるとか、母親の名前が強力だった、というのと一脈通じると思う。

私としては、唱えることで、心を落ち着けられる。心が落ち着いたところに智恵が現れる、とは思う。

ぶち切れで、次の観念を呼び込まない、というのが大きい。

その点、
「自分がいると思ってる間違った観念」 と、
「間違った観念をなんとかしようとしている仏、如来、善知識、純粋理性」 は、
二つの藁束のように支えあって存在しているように思う。
なので、どちらかを倒すと双方消える。また支えあってることを見れば、双方消えるように思う。

まあ思うだけで、私の好みを言っただけなんだけど。
縁起によって成り立つ自分を観ると言うことは、縁起つまり自分を成り立たせている諸条件を見るより、その結果いる今の自分に焦点が当たるでしょう。
だから、見ないでおこうと思った自分を観てしまうと言うパラドックスが起きる。

自分という一点に集中するとそこはアポリアであろう。
「これは我所ではない、我体ではない、我ではない」無我の別の言いまわしは単独ではなく「無常であり苦であるものをもって」に続いている。
そこには「我」というものが、実は広がりと時間による変移性を持っていると考えなさいという教えを読みとることができる。

今の自分たらしめている諸条件とは何か、どこがどのように変移するのか、よりよい方向へ変移する諸条件はなにかを考えなさいと、いっていると考えてはいかがだろう。

自分を見つめても実は、いろんなことが無限反射するだけで、あまり進展はないのではないか。特に自責の念が強いひとは「鬱」に入り込む危険が大きいと思われる。
諸条件という「外向的」要因にも広く目を広げなさいと、ブッダは言いたかったのではないかとさえ思われる。

小さいと思われ勝ちな「自分」の広がりにしっかり目を向けなさいと。
>>[123]

よく分からないぼやっとした「自分」に向かって「これは無常である苦である無我である」と念ずるのではなくて、肉体のそれぞれの部位だったり、感覚だったり、そのときそのとき湧き上がるイメージだったり、感情だったり、思考だったりをまじまじと観察しながら「これは無常である苦である無我である」と念じつつ確認していくのさ。
で、そういう観察の結果として、「ああ、自分っていないなあ」という智慧が得られると、そういう仕組みなんだと理解してます。

まあ、でも、さんざんやってても、煩悩まみれの俺がいるんだけどね。

けど、
「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人は死者のごとくである。※ダンマパダ21」
と言うからね。
修証一等だ。
つとめ励む時点で、ひとつの悟りには到達してるんだと信じてるよ。
毎日草むしりをしながら悟っている自分が在る。こうなれたらいいのですが…
常に自分の姿を振り返れること、
一つ一つの心の動き、
言い放った言葉、
実際の行動、
これらをその場でしっかりと対象化して見届けて、
果たして善いものか悪いものか鋭く厳しく自分に判断を下せることは、
戒の基本なのだと思います。

ぜひ丁寧に修習したいと思います。
>>[127]

78910さんは、一つ一つの心の動きを対象化して見届けて、善悪を判断して、ってのを実際やってますか?
もしよろしければ、やってみてどうだった、こうだった、ってのを書いてみてみませんか。
実践者にしか書きえないことがあります。それがとても参考になるんです。

僕らのほうでは坐禅ですからそれにまつわるいろんなことがあります。
多くは上手くいかない、という体験談です。

たとえば妄想繁多でどうにもならない、とか
少しもじっとしてられない、とか。
そういうのだと、あるある〜とか、あったなー、そこで悩んでるんだよなーとかあります。

時には工夫をして、当座上手くいった、みたいなのもあります。
仏様が降りてきたよ、とか、突然世界が輝いたとか、そんなんもあります。

さんざんやってみて、無理〜ということもあるでしょう。
努力が足らないときもあれば、根本的に無理な相談、ってのもあるし
無理だよそんなの、って言われたのに俺は上手くいったよ、というのもあったりして。
>>[128]

それは生活上、あらゆる瞬間のことですから、ひとりひとりにおいて他者に伝えきれるものではありませんが、

ああ、今自分は惰性で時を過ごしているなあとか、

やるべきことを抱えているのに手を出したくないばっかりに、わざと違うことに夢中になっているなあとか、

ああ、自分は今、わくわくしてきたなあ、しかしこれは単なる瞬間的な衝動でしかないのか、それとも新しい道筋を作れる私の心身に根を張った間違いなく新たな芽かなあ、大切に育てなければなあとか、

ああ、自分は自分の利益を優先した選択をさもそうでないかのように装っているなあ、でもそれは仕方ないんだ、そうしなきゃならないんだ、と考えていたが……テレビで今たまたま見た素晴らしい経営者と比べたら、明らかに自分の態度はまだまだ浅いものだった、もっともっと人様に心から優しくならなければならない、とか、



ぼくの愚かな道中は書いたらきりがありません。
>>[129]

ありがとうございます。
どうしても一つ一つの心の動きの対象化というイメージがつきかねていたのですが、ああそういうことをおっしゃっているんだな、とわかりました。

心の動きは、時にはものすごく高速にフラフラするものですから、それを一瞬一瞬固定して検討して判断する、なんて思ってたので、いやーそれは無理なんじゃね?、と思ったものでした。

お話を聞くと、かなり時間的にもまとまった心持ちに対する、時々、要所要所の振り返りみたいに感じました。なるほどな、そういうことなら努力次第で可能だな、と思いました。

いや、どうもありがとうございました。

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