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マルクス『資本論と論理学』コミュの第二節 計画経済はなぜ無効になったか。

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第二節 計画経済はなぜ無効になったか。


マルクスは社会主義計画経済については具体的には何も考えていなかった。また,たくさんの人々からなる社会や集団における意志決定のやり方の困難さについても,驚くほど何も考えてはいなかった。
古くから社会主義に対する批判の論法には,二つの代表的なパターンがあった。
まず,いくら働いても平等な分配しかされないのでは,結局みんな一生懸命に働かなくなる。いいかえると自由な競争がないので新しいことを開拓する励みも,怠けることに対する歯止めもなくなり,社会的生産が非効率的になるというものである。この批判に対しては,マルクスの『ゴータ綱領批判』における,社会主義の第一段階では「労働に応じた分配」が行われるが,その過渡期を通じて人間性そのものが変革された社会主義の第二段階では「必要に応じた分配」が行われるようになるという模範解答が用意されていた。これは,しかし,あまりにも無責任な遁辞であろう。何かのカルト宗教のように人間性そのものの変革を社会変革の前提条件に入れているわけである。事実,マルクス主義からはマルクス,エンゲルスの思想体質とはまったく異質なような種々の傾向の宗教的諸分派が派生してきてしまった。また,マルクスの論理構造を逆にみれば,人間性そのものの変革がなされない限りは,永久的に「ブルジョア的母斑」をつけたまま「労働に応じた分配」を行う経済システムが続けられるといっているようにも解釈できなくもない。要するに,マルクスが用意した解答は,ただ人間性そのものが変革されて,人間ならざるもの――天使であるか,サイボーグであるか,ロボトミーであるか――の彼岸の側からなされているものでしかなかったのである。裏返していえば,人間が人間の欲望世界を這いつくばって生き続ける永遠の過渡期社会においては,社会主義に対する常識的批判は是認されているのであった。



また,二つめの社会主義批判のパターンは,収容所国家ソ連やコミンテルン各国支部(=各国共産党)の実態にもとづいて広く行われるようになった批判であり,共産主義では死滅するのは国家ではなく民主主義だということである。この批判は,ソ連をスターリン主義その他のさまざまな諸概念で規定して,そんなものは社会主義,共産主義とはかけ離れているという「反論」で,きわめて安直にすまされてきた。しかし,世の中に常識にもとづく素朴な疑問ほど恐ろしいものはない。常識的で素朴な疑問に対して,形而上学的に難解な,スコラ的に意地の悪い反論をしようとしてきた政治党派が,例外なくたどった末路をみるだけでもそれはあまりにも明らかである。しかし,なぜ常識的で素朴な疑問がそれほど恐ろしいものであるのかの論理的な解明は別個になされなくてはならない課題である。
ボルシェビキはそもそも発足時から民主集中制という不思議な組織原則で出発した。これは本質的には後進国ロシアでの地下活動に対応するための秘密結社方式であるが,レーニンの西欧的インテリとしての矜持が民主主義を全面否定することを許さなかったところから生み出されてきたいちじくの葉にすぎなかったように思われる。任期制と選挙制のないところで代表者に権力が集中するという制度では,どこをどうとっても民主主義は存在しえない。せいぜい運が良ければよいお代官様による啓蒙専制君主制でありうるのが精一杯である。
ボルシェビキは議会少数派の連立によって一九一七年十月のクーデターによって政権を奪取した後,半年ぐらいのあいだに連立していたメンシェビキや左翼エスエルをも強権的に,つまりそれ自体非合法的に,非合法化していった。さらに,一九二一年の初頭には,クロンシュタット水兵やマフノの異議申し立てに対して非妥協の態度で臨み,ついには武力弾圧を行った。しかし,この政権危機に対して,戦時共産主義からネップへと転換を余儀なくなされた。そして,この危機的状況の中でレーニン指導部は分派禁止令を「一時的」な措置として出すこととなった。こうして,ボルシェビキの発足以来の組織体質であった民主集中制は,徹底した分派禁止,他党派禁止によってソ連全土,コミンテルン各国支部に至るまで一元的に貫徹されはじめたのであった。事がここまでくれば,あとは世界史の大舞台における汚れ役を誰が引き受けるかの問題でしかなかった。幸いにしてレーニンはこの直後に病に倒れ,汚れ役はスターリンが引き受けることとなったわけである。
しかし,現実の世界史の中に登場したレーニン・スターリン党の矛盾は,多種多様な現実的な諸関係に規定されているので,歴史そのものの観察だけでは,何がいちばんの問題なのかを突き止めることは困難である。激しい内戦のために一党独裁の軍事的警察的独裁国家を作り出さざるをえなくなったこと。ヨーロッパ革命の挫折によってソ連が孤立し一国社会主義路線以外に現実的選択肢がなくなってしまったこと。日本や中国に比べてさえはるかに商業経済の未発達だったロシアが孤立して社会主義の実験を開始したこと。あるいは独裁的指導者となったレーニンなりスターリンなりの残酷性,陰険性をはらんだ個性の問題……。
これらは,革命の理想がいかなるものであれ,現実からくる圧力に追いまくられて余儀なくされた結果にすぎないかもしれない。では,レーニンが抱いた革命思想の中で,国家や党の民主主義の問題はどのように考えられていたのか。レーニンは一九一六年後半から一七年にかけて,そのための導きの糸をマルクス,エンゲルスの著述群の中に探し求め『国家と革命』を書いた。だが,逼迫する時間の中でレーニンが必死に出した答えは,国家は暴力装置であるというマルクス,エンゲルスを一面化した驚くほど貧しい思想であった。そして,ブルジョア独裁国家を打倒したプロレタリア独裁国家は,過渡期においてはブルジョア的良心の呵責としての民主主義といういちじくの葉などはかなぐり捨てて,容赦のない暴力とテロルでもってブルジョアを収奪し,大衆を強権をもって領導するものだという覚悟を得たのである。この瞬間,ロシア人民にとってはまさしく,「地と海とは不幸である。悪魔は怒りに燃えて,お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである。」(黙示録第一二章第一二節)というにふさわしい事態がもたらされることとなったのであった。



しかし,レーニンはマルクス,エンゲルスの著作群の中に必死で過渡期の政治形態についての答えを探したはずである。問題は,そんな答えはマルクス,エンゲルスに存在しなかったことにこそあった。たしかに,レーニンはマルクス,エンゲルスが国家は暴力装置であるだけでなく幻想的共同性でもあるという規定を無視してしまった。だが,その規定を生かせばレーニンやスターリンはもっとうまくやれたのであろうか?残念ながら,そんなことでは事態はなんら変わらなかったであろう。そもそも,マルクス,エンゲルスには巨大な人口を抱える社会集団において,意志決定というものをどのように行うのかということについての自問自答が痕跡すら見いだせないのはまったく不思議なほどである。それどころか,マルクスはパリ・コミューンが立法・行政・司法の三権分立を廃してしまったことを肯定しているほどである。マルクスには三権分立,もっと一般的にいって権力分立(チェック・アンド・バランス)ということのもっている意味がどうもよくわかっていなかったといわざるをえない。
権力分立とは何か?それは権力が一箇所に集中した独裁体制の反対概念である。独裁的権力者というものは絶対に無謬でなければならない。なぜなら,もし誤謬を犯してもそれを批判したり是正させる権力をもつものが存在しないからである。では,人間は無謬な存在でありうるか。否であろう。それでは,独裁者の無謬性を絶対条件とする政治制度は人間にとって可能なものであるか。答えはいうまでもなく否である。したがって,当然のように独裁制,民主集中制の社会,組織においては,誤謬を無謬といいくるめることが必然的なこととなるのである。そして,独裁的権力者の支配が誤謬を是正されることなく累積していって最後には,それを是正するのは独裁者の暗殺,謀殺,軍事クーデター,あるいは暴力革命いがいにはなくなるわけである。
これに対して,人間は誤謬する存在であるという原理に基づいているのが権力分立である。批判したり是正を求める権力をもったものが相互に分立していることで,誤謬を累積しながら独裁者が暴走するのをチェックするという考え方である。たとえば,近世以降のイギリスでは国王に対して貴族院(上院)があり,国王・貴族院に対して庶民院(下院)があり,庶民院(下院)には諸政党が対立し,それら立法権力に対して行政権力,司法権力があり,しかも地方分権が歴史的な特質となっている。したがって,権力者がこまごまと分散しているために,ある党派寄りの新聞が対立的な党派の政治家や国王を批判しても,弾圧から守ってくれる権力も一定の範囲内で存在しうることになるわけである。言論の自由というものは,そのような権力の分散の中で隙間を縫うようにしてはじめて現実的に存在することができるようになったものである。そして,自由な言論は,たしかにそれまで狭隘なところに押し込められてきた人類の知的発展を著しく解き放ちはじめた。その結果,言論の自由はあたかも普遍的な原則と考えられるようになってきたのである。
しかし,依然として大小の政治権力者とその追従者の間だけで自由が可能なのにすぎないし,普遍的な原則と考えられても現実的な権力に支えられなければたちまちにして空文化してしまうものである。一八世紀イギリスでは,中小地主や資本家が私有財産権を確固としてもっていたことによって,言論の自由はブルジョア社会的な広がりをもつようになったのであった。そして,そのような成熟を歴史的所与として,一九世紀の社会主義たちは,無産階級には私有財産という自由の基盤そのものがないことを指弾するに至ったのであった。



ところで,このような権力分立が定着した社会においては,行政権力の誤謬はどんなに時間がかかるにしてもいずれは是正されていくことになる。是正されないまでもガス抜き程度の軌道修正は行われる。したがって,このような社会においては暴力革命ということはもはや滅多なことでは起こらなくなる。イギリスの場合,一六四九年のピューリタン革命が暴力革命の最初で最後のものとなった。自由の基盤から排除されていた無産階級によるチャーチスト運動も,選挙権の拡大や十時間労働の立法化によって終息していった。
マルクス,エンゲルスがこのようなことに関して,きわめて無頓着であったことは奇妙というほかはないが事実である。少なくとも,かれらは一八六○年代ぐらいまでは,イギリスでも暴力革命が起こると考えていたのではないだろうか(そうでなければ六七年刊行の『資本論』第一巻の末尾に「最後の鐘が鳴る」などと書いて,わざわざ二十年近くも前の『共産党宣言』からの長文の引用を注記したりはしなかったであろう)。彼らは権力分立というものを理解できなかったから,かなり後までイギリスにおける暴力革命を予測していたし,暴力革命後のプロレタリア独裁の具体的なイメージについても権力分立なきコミューン三原則を立てることとなったと考えるほかはない。
マルクス,エンゲルスほどの思想家がなぜこのような盲点をもっていたのであろうか?それは,彼らが人間の可謬性ということについては,まともに考えたことがなかったということを意味している。また,複数の人間の間のコミュニケーションが透明で瞬時に誤解なく理解し合えるものだと考えていたことを意味している。人間の有限性,愚かさ,弱さ,謬りやすさ,他人のいっていることのわからなさ,といったことが常に念頭にあれば,権力分立の問題は視野に入ってこざるをえなかったはずなのである。人間が神のような理性をもち無謬の存在で透明なコミュニケーションが可能であれば,直接民主制でもすみやかに全員の意志の一致を見るであろうし,逆に,たった一人の独裁者の民主集中制でも人民全体の意志を体現しうるわけで,どちらにしても同じことになる。社会主義的な思想潮流がアナキズム的な直接民主制とボルシェビズム的な民主集中制の両極に分極化するのもそのためといってよい。そして,この両極しか念頭にない社会主義者たちの革命政権や革命政党においては,直接民主制の実験がたちまちにして行き詰まるや,ただちに民主集中制やら分派禁止へと反転して,あとは一度権力を握ったものが何かで死ぬまで誤謬を無謬と言いくるめ続ける過程へと転落していくことが,個々人の主観的善意とは別に作用する鉄の法則として立ちはだかるのである。
このようにマルクス,エンゲルスが人間存在の有限性,可謬性,あるいは人々の間での意志や情報がどの程度滞りなくできるものかというコミュニケーションの不透過性について十分に考え抜いていなかったことは,そのまま次にみるように社会主義計画経済の実行可能性について十分に考え抜いていなかったという問題に結びついている。



社会主義や共産主義とは何かという次元とは別に,計画経済というものがうまくいかないということの意味を,哲学や文学から出発したマルクス主義者は考えたこともない。彼らは社会主義,共産主義が自己疎外の止揚や物象化からの解放といった抽象的哲学の実現に寄与することについてのみ考えたが――それ自体は重要なことである――,そうした社会的諸関係の物質的基礎はいかにして運営されるのかについて真面目に考察したことはない。しかし,それはまさに飲みかつ喰いする経済的下部構造の問題なのである。
たしかに,資本主義的市場経済は一見したところ非常に無駄の多いシステムである。したがって,これを中央集権的な計画経済に置き換えたほうが人類の生産力が発展すると考えられたのは不思議ではなかった。しかし,では具体的にどうやって億単位の膨大な人口からなる社会の個人個人の趣味・嗜好や家庭の事情ごとに異なる需要条件と,生産現場ごとに異なる技術的な供給条件を,中央政府(レーニン党なりゴスプランなり)は情報収集し分析し,的確な計画指令を地方末端にまで伝達してゆけるというのであろうか。
これは二十世紀に多くの左翼系の経済学者が挑戦して誰も答えられなかった問題であった。そもそもマルクスは「将来の世代が考えるべき問題」だと逃げを打っていたにすぎない。このもともと答えのない問題に対して,レーニンなりスターリンなり毛沢東のやり方が悪かったからうまくいかなかった,などといっても二十世紀後半以降の知識人・学生・大衆はもはや騙されなくなったのであった。そのことから目を背けて「右傾化」だ,「保守化」だといっても空しかったのである。ここには,マルクスが(価値形態論を例外として)人間と人間の間のコミュニケーションの不透過性について考え抜いていなかったことが致命的に露出している。
社会主義計画経済に対して,資本主義市場経済においては需要と供給の調整は,市場競争にさらされながら個々の資本家や経営者,事務員,技術研究者らによって行われる流通労働や事務労働,経営・管理労働や企画・開発労働などの「無政府的」行動によって遂行されているものである。そこでは,失敗したものは個別に没落しながら,総社会的には「効率性」が上昇する。
他方,ソ連では具体的な計画経済のための海図なしに社会主義の実験に乗り出し,社会的な生産・分配を編成するための情報の収集・伝達・蓄積のための費用だけでも膨大なものとなり,ついにこの費用の問題だけでも資本主義的市場経済よりはるかに非効率的な経済システムとなってしまったのであった。マルクスは,膨大な人口の社会集団において,政治的意志決定がどうしたらうまくゆくかといったことに思い悩まなかったのとまったく同じ意味において,膨大な人口の社会集団の生産・分配を編成するための手間暇・コストについても思い悩むことはなかった。そもそも,そのような問題意識がなかったのである。
ハイエクが社会主義,全体主義,ケインズ主義・福祉国家への批判の奥の手として出してきたのが,所詮人間は全知全能ではないのだから,社会全体の計画的統制などはうまくいくはずがないという素朴な疑問であった。そして,政府は一度失敗すると,それをどうにかしようとしてまた政策介入を行うが,それは失敗を上塗りするだけであり,そうしたことを繰り返してゆくことによって経済は破綻し民衆の不満が鬱積するので,ますます警察国家化してゆかざるを得ないのだとハイエクは警告したのであった。ハイエクの批判そのものは全体的にはあまりに素朴な疑問の提示に終始している観は否めないが,しかし,彼の突きつけた素朴な疑問そのものは,「乗り越え不可能」のものとしてあるといわざるをえないであろう。
そして,資本主義市場経済が在庫を無駄にしたり不況時に失業者を排出したりしながら,思いのほか強靱な弾力性をもっていたのも,結局は,個々人が自分の利益だけを考え自分の責任で経済活動を行うことで,ある者は栄えある者は没落するというかたちで,社会トータルでみると存続し,産業技術的な発展も競争によって促進されてきたからである。

誤った資本主義像やブルジョア民主主義理解にもとづいて構想された社会主義計画経済と「プロレタリア民主主義(民主集中制)」が悲惨な結果をもたらしたのは不可避的なことであったというほかはない。今後,資本主義市場経済やブルジョア民主主義に対するオルタナティブ(代替案)を本格的に再構築していくためには,資本主義批判,ブルジョア民主主義批判を一からやり直す必要があるであろう。それには非常に時間がかかるかもしれない。だが,それまで現実世界が静穏なわけでもなく,無批判的な現実肯定や保守主義などですまされるはずもない。したがって,歴史的経験から明らかになった,最低限やってはならないこと(レーニン主義や偏狭なナショナリズム等々)を明確にしたうえで,当面する金融グローバリゼーションの暴威や,日本型政治システムの財政・金融破綻の泥沼等々の諸課題に対して,たとえ改良主義であれ,中央権力に対する権利のための闘争という政治的理念は見失われるべきではないのである。




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にった・しげる 茨城大学教員

※ 2005年6月13日 若干の誤植を訂正し、公開。
(おわり)

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