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マルクス『資本論と論理学』コミュの資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。

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資本主義はなぜ強靱であったか。社会主義はなぜ無効になったか。



2002年6月

新 田 滋

茨城大学教員

さらぎ徳二編著『革命ロシアの挫折と崩壊の根因を問う』
(さらぎ徳二・いいだもも・岩田弘・望月彰・生田あい・新田滋・府川充男執筆,2002年6月15日刊行,私家版)に掲載されたものを許諾を得て転載


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 新田滋(東京大学大学院・茨城大教員)の存在を知ったのは,
御茶の水書房から出版された大著『段階論の研究』を書店で見た時である。宇野学派いまだに健在なのか? 
資本主義の今日を宇野原理論が如何なる段階として捉えたのかと買い求めてみると,
予想に反し“システムとしての資本主義”の立場から国民経済学の
延長的発展と捉える立場を否定,世界経済を捉える立場をとっている。
つまり岩田弘の世界資本主義論を先駆的として評価しつつも,
ウォーラーステインの“システムとしての資本主義論”を摂取している。
 昨年十一月二十三日,拙著の出版記念会に出席され,
三ブロックのテーゼは誰が創案したのかと聞かれたことから,
ウォーラーステインとの関係も知ることとなった。
彼は一九六二年生れ,一九八〇年代に大学生となり,
ダメなものはダメと明言する異色の,
若い世代には珍しいマルクス理論の研究家である。(さらぎ徳二)
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第一節 資本主義はなぜ強靱であったか。



マルクスの資本主義的市場経済についての考え方には,
いくつかの重大な欠陥が存在した。
労働価値説,剰余価値論,資本の有機的構成の高度化―相対的過剰人口―利潤率傾向的低下の理論,窮乏化論・自動崩壊論は大きな誤りを含んでいた。

労働価値説は,投下労働時間が商品の価格を決定するというものである。

しかし,これは産業部門ごとに不変資本と可変資本の比率(有機的構成)や資本の回転速度が均一だと仮定した場合にのみ成立しうるものである。

つまり,いちばん単純化されたモデル(一次接近)では成り立つが,より複雑化したモデルでは成り立たなくなるものでしかなかったのであった。

剰余価値論は,剰余労働時間の搾取が資本の利潤の源泉であるという理論である。

このような理論は,労働価値説によってのみ論証できるものだと考えて,
何が何でも労働価値説を擁護しようとした人々もいるが,
別に労働価値説によらなくても剰余労働時間の搾取が起こることは説明できることである。

労働市場が供給超過(買い手市場)であれば賃金は需要と供給のバランスで低く抑えられる。

その結果,労働者がその低い賃金によって買い戻せる消費財を生産するのに要した労働時間が,実際の労働時間よりも短くなる場合も起こりうる。

その場合,労働時間の差が剰余労働時間となるわけである。

では,剰余価値論そのものは問題がないのかというとそうではない。

マルクスの剰余価値論は,資本の利潤はすべて剰余労働時間が源泉であると考えている。

そこに少なくとも二つの重大な欠陥があったのである。

第一に,たとえば現代におけるビル・ゲイツ氏のような大富豪をみてもわかることであるが,
資本家というものは仕事中毒であって労働者以上に仕事時間は長いといってよい。

ところが,マルクスの労働価値説においては,それは不生産的労働であり価値非形成的労働なのである。
そのため,資本家がみずからの仕事に対する報酬を受け取ることは,
その全額が労働者の剰余価値形成的労働の搾取だということになってしまっている。

このようなマルクスの考え方は,流通労働や事務労働,経営・管理労働や企画・開発労働は生産物を生産しないし商品価値を形成しない,
したがって,社会主義計画経済では不必要になる部分だという考え方に立脚するものであった。

のちにみるように,こうした考え方がマルクスの社会主義計画経済についての楽観的な謬見につながっていることに注意を促しておこう。

資本家自身が仕事時間に対する報酬を全生産物のうちから受け取ることに対して,マルクスのようにその全てが搾取だとすることは誤りである。

もちろん,近代経済学のいうように,その全てが資本家自身の仕事に対する「正当な」報酬であるという保障もないのである。

第二に,現実に剰余価値はどのような形態で存在しているかというと,利潤という貨幣形態か商品資本形態,生産資本形態の増大した部分という現物形態で存在している。
つまり,貨幣額か物量かのいずれかの形態で増大した部分が剰余価値の現実的な存在形態である。
資本家にとって剰余価値の生産が嬉しいのは,それは貨幣が増加して購買できる物量の可能性が増えるからであり,また,実際に手にした物量が増えたからである。
そのような観点からいえば,労働者から労働時間をよりたくさんせしめたかどうかは,資本家にとってはどうでもよいことである。
そこでもし,いままでとまったく同じ労働時間契約のもとで,技術革新が起こり労働生産性が上昇したとしたらどうであろうか。
たとえば,剰余労働時間がゼロで労働時間が六時間で一億個の生産物が生産される場合を出発点として考えてみよう(ここでは社会的総資本・総労働について考える)。
そして,ここに新しい技術が導入されて,従来どおりの六労働時間で一・三億個が生産できるようになったとしよう。
この一・三億個の貨幣評価総額といままでの一億個の総額とがかりに同一だとすると,資本家の貨幣ではかった名目所得はかわらないことになるが,物量ではかった実質所得は三十パーセント増大したことになる。
つまり,資本家は労働者から労働時間を搾取することなく実質所得の増大というかたちで実質利潤を獲得することが可能なのである。
このような技術の発展による実質所得の増大がもたらす資本の利潤の源泉については,マルクスは特別剰余価値による超過利潤というかたちで半ば考えかけていたことは周知のとおりである。
しかし,それが「特別」であり「超過」であると考えていたところにマルクスの限界があったのである。
マルクスの剰余価値論は,それが労働者の搾取によってのみ資本家は利潤を得ることができ,資本蓄積(拡大再生産,経済成長)も可能となるという大変に誤った資本主義像を作り出してしまったのであった。


さて,マルクスが資本主義の強靱さを見誤った理由には二つのことが指摘できる。第一は,資本主義的生産関係の柔軟性を過小評価したために,たかだか十九世紀中葉の軽工業的生産力の水準で桎梏と化したとみなしていたということである。第二は,経済的下部構造だけを自立化して観察すれば社会構成体の運動法則がすべてわかると考えたために,法律・行政権力や議会・政党,あるいはさまざまな社会的諸団体の多様な次元における力関係の変動が,経済的下部構造と絡まりあって社会構成体のトータルな運動法則を規定するという視点をとることを抑圧してしまったことである。
第一の点は,資本主義的生産関係とはそもそもいかなるものかという問題である。それには二つの側面がある。まずそれは無政府的生産という側面をもっている。中央政府の経済計画が存在しないので,資本家個々人が流通,事務,経営・管理,企画・開発のための費用をバラバラに負担し,勝手な予測に基づいて需要,供給を行う。そのために恐慌をはじめとして膨大な無駄が生ずるというように,マルクスは考えた。別にマルクスだけが考えたのではなくて当時の非常に多くの知識人,思想家がそのように考えたのだった。そこで,社会主義計画経済のほうが無駄のない生産力の発展を可能とするだろうと考えた。これをサン=シモンの影響を受けたエンゲルスだけの考え方であって,マルクスは無縁だというようなことをいう人もいるが,そういう歪んだ擁護論はかえってマルクスの真価を見失わせるものであろう。むろん,こうした考え方は,無政府的生産が生み出す無駄よりも比較を絶して計画経済のほうが無駄を生み出すという歴史的経験(ソ連型計画経済や西側の産業国有化)によって二十世紀中葉になって決定的に失墜したのである。ただし,それはたんに歴史的経験によって示されただけではなく,のちにみるようにハイエクらによって原理的にも論証されたのであった。
資本主義的生産関係とマルクスがいったときには,もう一つの側面があった。それは,マルクスが個人・家族経営規模の資本企業を具体的に念頭においていたということである。そのために,鉄道,鉄鋼,石炭などの重工業的生産力が発展してくると,個人資本主義的生産関係は桎梏となると考えたのだった。だからこそ,信用制度や株式会社形式の発展を「資本主義的生産の限界内での私的所有の止揚」というように,社会主義的生産関係への過渡的形態と考えたのであった。「私的領有と生産の社会化の矛盾」というように「資本主義の根本矛盾」をとらえることもまたエンゲルス特有のものとして,マルクスと無縁のように強弁する人がいるが,これもまた無意味なことである。重工業的生産力が発展すればするほど,資本主義的生産関係,私的所有制度はしだいに縮小して,組織的,社会的,国家的な管理に置き換えられてゆかざるをえない,このような考え方はマルクスの中にも存在したのである。実際に,二十世紀中葉まではこのような傾向で組織資本主義化がすすんでいったことは一面の事実であった。しかし,いかに企業組織内部においても企業間の関係においても組織化がすすんだからといって,株式会社は資本であり市場競争を行うものであることにかわりはなかった。さらに,他面ではたえず中小・零細企業やベンチャー・ビジネスとの一定の競争関係におかれていたし,また,株式会社の株式資本が流通する資本市場においては私的所有の論理が全面的に支配したのであった。つまり,株式会社は資本市場という市場において資本を調達することによって,巨大化する生産力に対する桎梏となることなく,完全に「資本主義的生産の限界内」で生産力を発展させてゆくことができたのであった。



第二の点は,マルクスが経済的下部構造だけを観察して法律・行政権力や議会・政党,あるいはさまざまな社会的諸団体の多様な次元からなる社会構成体のトータルな運動法則を見誤ったということについてである。マルクスは,機械制大工業の発展とともに,産業予備軍が増えて労働者階級全体として窮乏化するという論理だけではなく,労働者階級そのものの人口が相対的に増え,労働者の社会化がすすむと考えていた。そのために,社会の中で巨大資本家は孤立するにいたるので必然的に「最後の鐘が鳴る」と考えたのであった。しかし,「最後の鐘が鳴る」ためには私的所有制度の変革などの政治革命を媒介とする必要がある。ところが,ひとたび政治的な次元を考慮に入れるならば,労働者階級が増大し労働組合が合法化され強大なものとなり,議会でも労働者政党の議席数が多くなってくると,資本家階級や地主階級やその政党は妥協的な政策をとらざるをえなくなることは必然的である。その結果,階級協調的な改良主義,修正主義,修正資本主義がトータルな社会構成体の発展方向となる以外にはなかったわけである。

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