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仏教コミュの100分de名著『維摩経』

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NHKのEテレで、『100分de名著 維摩経』が始まっています。講師は釈徹宗さんという方です。

第1回 6月5日 午後10:25〜10:50 6月7日午後00:00〜00:25再放送
仏教思想の一大転換

第2回 6月12日 午後10:25〜10:50 6月14日午後00:00〜00:25再放送
「得意分野」こそ疑え

第3回 6月19日 午後10:25〜10:50 6月21日午後00:00〜00:25再放送
縁起の実践・空の実践

第4回 6月26日 午後10:25〜10:50 6月28日午後00:00〜00:25再放送
あらゆる枠組みを越えよ!

コメント(332)

日蓮が禅天魔と言っても
解らんなら"違う"じゃなく
そうかもしないしそうじゃないかもしれないとしか言えないよね。
>>[292] 堅

 だ・か・ら、〜論点はそこじゃないでしょw
 堅やんは道元の書物の何を読んでどこで論理破綻してるか書いてと云っているのだよw
 んで、天魔ってなんだ? 仏典のどこにあるの?w
>>[296]

解んない人に説明しても解んないよね。

何故に禅天魔と言われるか、解っていればそもそもにそこから疑念を解く説明ができるはずです。
>>[297] 堅

 論点すり替えないでね。道元の書物のどれを読んで、どこが論理破綻してるか説明できてないじゃんw
>>[296]

端的に言って道元の書く文は経典を基にした論拠根拠がなく
単なる個人の主観による感想文でしかないのよ。

これは親鸞等々も同様だね。

日蓮はこれを徹底させてるし法然も割とこの点は順じてます。
日蓮は法然を強く糾弾してますが
僕からすれば、法然はただ言葉足らずだっただけの様に思っているところはあります。

読んだ順が日蓮→法然だったので道元、親鸞を読んだときに少々ぶったまげました。

よくもまーこんな個人的主観の感想文を論だと称し発表したものだと。
>>[299] 堅

 そんなこと聞いてません。道元の書物の何を読んでどこが論理破綻してると思った箇所を具体的に書いてね。どこがどう論理破綻してるのか示さないとねぇ。
>>[301]

だから言ってるじゃない。
論拠根拠がない主観的感想文だと。
道元は日本史上の巨人で、堅皇さんに理解出来なくても無理ないよ。
我々だって分からない。
道元のこういうところが、ちんぷんかんぷんなんだよと、素直に書いてみればいいよ。
>>[303]

> 堅やんは脳にも障がいがあるんだっけな。

こう言うのを論拠根拠のない話って言うだよ。
> 我々だって分からない。

分からないなら、良いも悪いも分からない話なんだけどね。
話を本筋に戻すなら
小乗は小乗のみを学び
大乗は小乗と大乗を学ぶもの。

龍樹なんかは大乗の典型例ですから
大智度論を読んでもわかるよう
その解説は暗に般若経のみの解説にとどまる事無く
小乗からの解説を踏まえ、般若経が如何に波羅蜜であるかが刻々と記されているわけです。

ただ般若経だけを読み自身の感想を羅列しているわけではないという事。

これを踏まえるなら中国に6世紀達磨大師が中心に発展させた禅も
7世紀に広がりを見せた浄土教も大乗仏教とは言い難いものとも言えるんですね。

分からないものを支持する、そりゃ個々の勝手な話と言えますが
それが仏教だ大乗仏教だと言われても
それは当人たちの思い込みでしかないと言えるかな。

つまるところ解ってないのですから。
>>[307]

 では、堅やん自身が解っている、他の人たちは解っていないと思うのであれば、無理にこの仏教コミュに書き込む必要もないでしょう。むしろ堅やん自身が語りたい仏教系コミュニティを作ってそこに賛同する人たちを集めてやっていただければ助かります。お大事に。
>>[308]

> 他の人たちは解っていないと思うのであれば、

何を勘違いされてるのでしょうか?
他の人たちは解っていないと僕からは言ってませんよ。

ひらさん、ジゼンさん自らが自分は分かってないと言っておられるから
それを復唱しているだけです。

分かってないと言うのによくもまー断定的な批判が出来るもんだと。
そこがおかしいと言ってるだけの話です。
>>[309] 堅

 だから、他おかしい、堅やんが一番正しいと感じてるなら、自分の語りたい仏教系コミュを立ち上げて、そこで思う存分やればよいのです。お大事に。
>>[310]

感じているのではなく、ひらさんジゼンさんご自身がおっしゃってる事です。

ご本人がそうおっしゃっているのだからそうなのでしょうと言うだけです。
>>[311] 堅やん

 ですから、マジンガーごっこのような仏教ごっこ話なら他でどうぞと言ってる通りです。ソウカに戻るもよし、青木や樋田と同じように法華講に行くのも堅やんの自由です。
>「ここにいる500人の長者の子らは皆、この上ない悟りに至ろうという心をおこして、浄土のためのなすべき行いをぜひ聴きたいと思っております。どうぞ菩薩がなすべき浄土のための行いについてお話し下さい。」
ブッダは答えた。「よく言った、宝積よ。如来に浄土のための菩薩行について問うてくれた。よく聞きなさい。よく聞くがよい。そしてよく考えよ。お前たちのために話すとしよう。」
そこで宝積と500人の長者の子らは如来のお話をうけたまわった。
ブッダは言った。「宝積よ、生きとし生けるものたちこそが菩薩にとっての仏国土に他ならない。それはなぜかと言えば、菩薩は手を取るべき衆生がいかようであるかに従ってどのような仏国土がふさわしいかを選び、目にかける衆生がいかようであるかに従ってそれにふさわしい仏国土を選ぶからだ。
衆生を見て、いかなる仏国土なら仏の智慧にみちびけるかを選び、どのような仏国土なら衆生が菩薩の能力を起こせるかを選ぶからだ。・・・」
ブッダは言葉というものが表面的に薄っぺらな意味合いでしか受け取られない場合もあるものだということをよく理解している。それこそ話し手の意図とまったく違うふうに受け取られたり、真意をハズした理解のされ方をすることがあるのをよく知っている。
だからこそ言う。聞いたら聞いた言葉について自分の中でよく考えよと。
>「(つづき)さらに言えば、菩薩が浄土に至るのはあくまでも衆生を恵み益するためであるからだ。たとえば、ある人が屋敷や小屋を作ろうとする時、土地の上なら作りやすいだろうが、何もない宙に作ろうとすればできたもんではない。それと同じように、菩薩が衆生を完成させたいと思う時、ふさわしいいずれかの浄らかな仏国土を選ばないわけにはいかないからだ。何もない宙空で衆生を完成させることはできない。」
菩薩が浄土を恋い願うとしてもそれは自分の行く末が安らかであればいいと、ひとり願うからではない。
衆生ひとりひとりにとって、その成仏のためには空無では衆生は完成されないからだ。
衆生の機根に合わせた浄土が、ひとりひとりの完成・成仏のためには是非とも必要だからだ。
その後、すでにしばらく前のほうで取り上げた部分が続き、ブッダはシャーリプトラに言う。


>この仏国土が常にすでに浄らかである様子は今、目にした通りだ。ただ、機根の劣る人々を救うための方便として、あたかも多くの嫌なことに満ちているかのような不浄なる国土のように見せているだけなのだ。
たとえて言えば、多くの神々が同じ一つの器から食事をとっていても、一人一人の福徳しだいで飯の色がさまざまに異なって見えてしまうのと同じことだ。
このように、もしも人の心が浄いならば、この仏国土はそのままでいかに美しく飾られていることか、見ることができるのである。
「こんな苦しい世界はもうごめんだ。浄らかな世界に旅立ちたい」という衝動が私たちを襲うことがあるかもしれないが、浄土は決してこの世界からどこまでもどこまでも遠く離れた所にあるというわけではない。
「こんな醜く薄汚れた苦しみばかりの世界はもうごめんだ」と思っている当のこの世界が、実は浄土なのだとブッダは言う。
>(つづき)ブッダが、この世界が実はすでに荘厳なる浄らかなものであることをありありと現されると、宝積の連れてきた500人の長者の子らはこぞって、何ものも新たに生じるわけではないのだという悟りを得るに至った。
そして8万4千の人々も皆、無上の悟りをぜひ得たいという心をおこしたのだった。
そこでブッダが神通力をおさめられると、この世界は再び元通りになった。
ブッダの教えを聞く弟子(声聞)として自らの目的を達したいと思う3万2千の神々や人間たちは、諸行(諸々の作られたもの)は無常であると知って、塵垢を離れ、悟りの眼を開いた。
8千人の修行僧たちは何ものにも執着することがなくなり、汚れが落ちて、その心は解脱した。
(『維摩経』第1章おわり)
疑問、質問です。

「維摩の一黙」と、釈迦牟尼の「無記」には、
共通点があると、オイラは理解しているのですが、
その共通点の要素は、
パパンチャ《戯論》の観念にもまた、あるように感じます。

ところで、西洋哲学の“エポケー”との決定的な違いは、何でしょうか?

全然関係ないけど、曹洞宗の住職を方丈さんと呼ぶのも、維摩経から来てることもあるって聞いたことがあったな。

住持人は、方丈にて洗面す。 
『正法眼蔵 洗面の巻 』

余談でした。
>>[321]
愛嬌食堂さんなりの解答をお聞かせ願えると有り難いです。
>>[324]

どもです。

オイラには、かなりの難問です。

仏教の哲学的側面の根本規定ともいえる「諸法無我」「諸行無常」を、
すべての基盤とする限り、

スタティックな、既存の認識論や存在論の枠組みを越えた、
無分別知と戯論の次元の世界観が
待っている、という印象です。

よく仏教的説明として、
何か具体的な、生活文脈に即した
喩え話で、経験則に寄り、その理論を解き明かそうとしていますが、

本気で、仏教の世界観やその思想体系を読み解こうとするならば、
極めて観念的で、“メタ”な論理的理解を必要とする作業だと、オイラは考えます。

したがって、深すぎて、掘り起こし不可能、という現状です。

 
>>[325]
解答ありがとうございます。
初め、返信コメント前にイイネを下さった時点で、「維摩の一黙」を実践されたものと観じていました。

諸法寂滅の相(すがた)は、言葉を以って宣ぶべからず

法は修学し、相は修行する。
行うということは、行わない(黙)ことを含めて行うということです。

佛教には「諸法無我」と並び「諸法実相」という言葉があります。
諸法に対して無我を念う時、メタが発生する状態に陥りがちですが、
諸法に対して実相と観じると、行じ易いかと存じます。

「無記」については、「そんなこと聞いてどうするの?」ということを示しています。
人も含めてあらゆる自然は、「生きる」という時の流れの中で、常に「今現在」という瞬間瞬間を生きています。
同時に、生命の営みという事に於いて、原初〜粒子→塵、ガス→諸星→単細胞→進化とたどり、不可思議な縁を繋いで「今現在」に至っています。
また、隨宜(宜しきに隨って)説法(法を説く)で一乗を三乗と方便している時に、
一切衆生に菩提心を発心させる渇仰を起こさせる為に、久遠実成ではなく佛の滅不滅を方便している時に、
顛倒している人達に法輪を転ずる時に、「そんなこと聞いてどうするの?」という姿勢は、とても自然な佛の姿です。

パパンチャとは、窮めて狭義な佛道修行と観じます。
業を修めるもぐら叩き、掘り起こし不可能と思える砂漠の手堀り、救えない家宅の三毒の火。

「諸行無常」とは、スタティックとダイナミック、ゼロと無限、有と無、正と邪、陰と陽、善と悪、阿と吽、妙と法、此と彼などなど

人生(諸行)の中で、
無常と認識すれば、常という観念はアイコン(イコン)として意(心)根(識)に修学(苦毒の輪廻と功徳の荘厳)され、身(体)根(識)に顕れ、五感に表れる。

人生(諸行)の中で、
常と認識すれば、無常という観念はアイコン(イコン)として意(心)根(識)に修学(苦毒の輪廻と功徳の荘厳)され、身(体)根(識)に顕れ、五感に表れる。

ゼロ常、一常、二常、…無限常のどの無常で日常(人生、諸行)を送ろうと、それぞれの観念に隨って、
六道の毒、一荘厳、二荘厳…無限荘厳として、意根に修まる。

佛教を本気で…と発心する時、根本に在るのは常に、諸佛世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもう。という一事を信じ、且つ知ることにあります。

諸佛世尊の唯一大事の因縁
諸佛世尊は、衆生をして佛知見を開かしめ清淨なることを得せしめんと欲するが故(因)に、世に出現(縁)したもう。
衆生に佛知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして佛知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして佛知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

隨って、深すぎて、掘り起こし不可能と言えば、現状に於いてその通りであり、
人生の不可思議な出逢いや別れを通して、全ての自他の言動、感情の起伏、反射言動と
諸佛の一大事の因縁を相応させて、掘り起こされた現実(我、相、アイコン)を荘厳させることは可能と言えばその通りである。
というのが、私なりの解答です。

最後にエポケーについては、押して駄目なら引いたり立ち止まったり新しい切り口で観念してみな。と考えます。

今回沢山の言葉を勉強させて頂きました。ありがとうございます。
>>[326]

ご丁寧に、感謝します。

今のオイラ自身について、
玄侑宗久氏の言葉を借りて云えば、
無いがままに、そこそこ納得して
生活しているので、
宗教としての仏教を、必要とは しておりません。
でも、仏教の思考様式が好きで、

いつも、いろいろな生活場面で、
執着しない・こだわらない自分、
を、意識しています。

なにか不都合なことがあったときには、
別の角度から見たら・考えたら、
どうなのだろう?
とか、
偶然であり、必然であり・・・
とか、
ま、こんなもんだろう!?
というような、適当な“おとしどころ”を、みつくろって、
心のマスターベーションをして、
現状を受け容れています。

ただ、オイラは、仏教は、
宗教としての条件が、揃っているか、といえば、曖昧な感じがします。

それは、仏教には、これといって、
明確な「絶対的価値」に位置するものが無い。

ガチガチに構築された牙城のごとき
『仏教』のど真ん中には、
ポッカリとした、穴、しか感じられない。

そこに、絶対的神仏が鎮座ましましていない。

本来、宗教というのは、幸福追求論
だ、というのが、オイラの把握するところなんですが、
どうも、仏教には、幸福追求への
絶対的推進力みたいなものは、感じられないのです。

『仏教が求めるもの』(逆の言い方をすれば、仏教に求めるもの)
は、別のなにか、に違いないと
オイラは考えます。

まったく誤解を怖れずに言うならば、仏教は、生涯関わってゆける、
大いなるひまつぶしである、
というのが、オイラの理解です。

もちろん、仏教の名を語る様々な宗教集団が、それぞれの「幸福追求論」を、ぶちあげてるのは事実ですが、
ほとんどすべてのそれらのものは、
あまりに狭すぎて、
そこを人生の拠り所とするには、
まったく心許ない。

まだまだ、オイラは、仏教を覗き見
する楽しみを、止められません。

またいずれ、お世話になります。

感謝しますexclamation ×2
>>[327]
元々、疑問、質問と切り出した後の内容が、よく勉強されている方だと思いましたので、始めにお答え頂きました。
今の返信にも、佛教に対する素直な姿勢が観じられます。
宗教は元来、人を縛るものではなく、自由にする行学です。
無宗教も含めて宗教なので、団体や「皆も言ってる、そーだそーだ」は、私は求めません。
釈迦が王位を離れ、裸一貫で行学し、入滅前には弟子も離したように、佛教のど真ん中は常に自(我を含めた自然)と法(佛)で在りたいです。

こちらこそ感謝です!!
仏教には、絶対的な価値観はないよ。
スッタニパータで、釈尊は、「私は何かを説くというものがない」と言って、
絶対的価値観を持つことを否定している。

そういうものがあるかと、議論が始まって、喧嘩になるし、
価値観は、現実と乖離して、苦しみの原因になる。

その時、その時の価値判断はあるとは思う。
それで間に合うんだと思う。
>>[329]

どもですexclamation

・・・かといって、
では、仏教は、相対的(相対主義)なのか?
といえば、一概にそうとも言えない、というのが、オイラの実感です。

何故ならば、相対主義の根拠を突き詰めて行くと、“独断”という、
あまり好ましくない本性を露呈しかねないからです。

だから、そこから導かれるのは、
仏教には、二項対立とか、二律背反とかはあり得ず、そもそも、二分法
が無い世界が、仏教なのだろう、
という推論も可能かなと、思うんです。

そして、この価値観の源泉は、
大なり小なりのエゴイズムなのだろう、と、オイラは考えます。
>>[330]
そうですね。
相対的を、自分と相手との相対ととると、エゴイズムに繋がりますね。
出来るだけ自分を無くしていく、そうして周囲と合い和して行くのが、仏教的でしょうね。

生きていると、納得のいかないことが多いわけですが、自分が突っ張れば突っ張るほど苦しいので、そこを何とかしたいですよね。


『直心是道場 無虚假故』
(直心これ道場、虚仮なき故に)

清純な心がそのまま道場なのだ、うそいつわりがないから。
と言う「維摩経」の一節ですが、茶室のお軸にもよく使われています。
私にはとても馴染みがある言葉です。

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