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仏教コミュの只管打坐4

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前トピうまってませんが、ごーるどまんさんお断りのトピです。

道元禅師
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

コメント(368)

>>[325]

つじつまは合っています。
ひらさんがそれに納得できないということは理解しました。
おそらくこれ以上このことについて話しても平行線なのかなと思います。
>>[329]

 相変わらず言い訳長文が多いですね、スターさんがそう思い込んでるだけの事です。坐禅は坐禅のために為すのです。ただ、ヘンテコな方向に行ってないか確かめてもらうのに「老師」へ参師問法(独参)が必要です。
>>[330]

言い訳とは弁明や釈明のことを言います。
私はそもそもここで悪いことはしているとは思っていませんし、弁明や釈明の必要も感じませんので、私が言い訳をしているとは言えません。
ひらさんが私の言葉を言い訳のように感じることはあるかもしれませんが、それは一方的な偏見かと思います。

また、私は根拠を示しているので私の思い込みでもありません。
ひらさんのコメントは根拠なく話しているので、思い込みと言えるかと思います。
『坐禅は坐禅のためになす』とか『老師への独参が必要』とか、少なくとも南伝大蔵経には書かれていないです。
こういうのを根拠のない思い込みと言うのではないでしょうか。
>>[331]

 ほら、また言い訳だ。情けない。「お釈迦さんの弟子たちは、お釈迦さんから何の問答や説法・訓示もないまんま修行しました」って、南伝に書いてあるかい? トピの主旨の日本語が理解できないなら、お引き取り下さい。
>>[328]

いやいや、批判されてるとは、感じていません。
只々私が、理解できていないのだと思います。
私が坐るのは、坐った後が気持ちいいから坐るだけです。
>>[332]

話をすり替えないでください。
私は『「お釈迦さんの弟子たちは、お釈迦さんから何の問答や説法・訓示もないまんま修行しました」って、南伝に書いてある』などとは言っていません。
私は南伝大蔵経には『老師への独参が必要』とか『坐禅は坐禅のためになす』などとは書いていないと言っています。
話のすり替えは詭弁なので、どちらかと言えば、ひらさんが言い訳をしているようです。

ちなみに経典には老師へ独参などせずに独りで悟った人もたくさんいたことが書かれています。
ひらさんが老師への独参が必要だと個人的に思うことは自由ですが、それは経典に根拠のない思い込みであって、経典にはむしろ逆のことが書かれています。
もちろん、ひらさんが親切心で独参を勧めていることは理解できるので、その親切心には感謝しますし、そのような親切心を持っているひらさんは立派だと思います。
確かに悟りを開いた立派な老師に独参することには利益があると思いますし、私もそのことには大きな意義があると思います。
アドバイスありがとうございます。
ただし、根拠のない自分の思い込みを一方的に押し付けるのは良くありません。

それと、自分のホームページでもない公共のコミュニティの自由なトピックへの書き込みに対して『お引き取りください』などと他者を排除するような言動をするのは、はとても度量の狭い情けない発言と思います。
格好悪いので改めた方が良いですよ。

有名な言葉だけど、
澤木興道老師に「坐禅をしても何にもならない」という言葉がある。
ただ、この何にもならないことをすることが最も尊いこと。

何かのためにすると、必ずどこかに軋轢が生じる。施しをしても、施した側がそのことを常に施したと思っていると、施した相手が負担になるだろうし、自身も施した、施したという思いが、その施したという当人の心を束縛することがある。だから人にものをあげる時はあげっぱなしにする。そういうことが本当は仏道の修行の根本なんのだろう。求めない、見返りを求めない。そのことが心を自由にする。

わかりきったことかもしれないが、人はなかなかそれができない。
行も同じ。やっているのに、なんともならない。なんてね。

>>[336]

 大体、禅寺の坐禅会に来る人は何かしらの「目的志向」があります。
 沢木老師を否定しませんが、どの老師さんも初心の人にいきなり「坐禅をしても何にもならない」とは言わないでしょう。ある意味方便ですが。大体は「まぁ実際坐ってごらんなさい」ですね。

 高祖道元暫時の「坐禅儀」の結びに、「 久しく恁麼(いんも)なることを為なさば須く是れ恁麼なるべし。 宝蔵自ら開ひらけて受用如意ならん。」すでに我が身に備わっている様々な能力・感覚が、とんでもない事に気付く。だから、「坐ったら坐ったなりの成果」みたいなものはあります。「悟りました」でもいいですが、ただ、それも捨て捨てして坐るから、「只管打坐」では?

何回かここでも紹介しているが、
良寛禅師の詩。

『花 無心にして 蝶を招き、 
蝶 無心にして 花を訪ぬ。
花 開くとき 蝶来たり、 
蝶 来たるとき 花開く。
吾もまた 人を知らず。 
人もまた 吾を知らず。
知らずして 帝則に従う。』

やはり、心温まる。
心が温かければ、おおよその事は乗り越えられるような気がする。
私が、この詩を初めて知ったのは、
三島の龍澤寺中川宋淵老師の書を拝見してから、良寛禅師の詩だとはしらなかったが、心打たれ、温まったのをよく覚えている。
 宗淵老師は隠居の折、白柴を飼っていたそう。
老師がお堂に坐りに行くと、付いて行って、坐禅終わるまで、外で座って待ってたとの事。私が龍澤を訪れた時は、宗淵老師は逝去しており、シロもいなかった。

良寛禅師は仏道をならううちに、仏教とは釈尊の教えにほかならないと考えるようになっていた。これは当たり前といえば当たり前の認識なだが、いつの間にか僧たちは、その当たり前のこと、「釈尊の教え」そのものからだんだんに離れてしまうことが多い。日本の仏教の歴史を学ぶと、たとえば「戒」が早々におろそかにされていったようなことを知る。
 しかし良寛禅師は、それはまちがっている、仏教はどこまでも釈尊にたちもどらなければならない、釈尊にとどまっていなければならないと考えた。もちろん、時代の変化のなかで解釈を変えていかなければならないこともあるのだろうが、それでも釈尊がどうしてそんなことをいったのかについては深く探究してみる必要があるのだろう。
 良寛禅師は、国仙和尚から教えられた道元禅師という僧の中に釈尊を見た。のちに良寛禅師は、釈尊からのちの仏教の歩みについてたいへん長い詩をつくっているが、そのなかで、入滅後、世の中から段々うすれていく「釈尊の教え」のなかで、再びその教えを蘇らすべく、日本に道元禅師という祖師が現れたのだ、と言う詩を残されている。

『ここに吾が永平あり 真箇(まこと)に祖域の魁たり』(良寛禅師詩集)
さらに、
『ああ永平 何の縁かある  至る処 逢著す 正法眼』(良寛禅師詩集)

私は、娑婆の人間。
仏教の戒律などは、100%守ることはできない。仏教のなんたるかと言うことではなく、あの大谷翔平が「1つゴミを拾えば、1つ福を拾う」の精神ではないけど、「正しく生きる。」でいいのでは。じゃその「正しく生きる。」って何だろう?なんて考えてはいつまで経っても答なんかでない。

「今を生きる」ってこんなことじゃないのかな。

私は、良寛禅師の中にいるととても柔らかくいられる。
これが私なのかもしれない。
 今を生きる=即今の事です。誰か先哲を振り返ったり讃嘆することではないでしょう。まぁ時には必要くらいでちょうどいいかもしれません。案の定、ワクチンの副反応が酷く、寝てます。

「しかあれば即今の者裏は法性なり。法性は即今の者裏なり。」

即今・当処・自己
これが禅の基本であり、全て。

明日でもなく昨日でもなく、いま。
まだ見ぬどこかでもなく、ここ。
あの人でもこの人でもなく、わたし。


日日是好日

今日の夕方、仏舎利塔のある山に霧が出て、雲海のようできれいだった。

昨夜は、緊急事態宣言解除後、
3回目の熱海花火大会だった。
人はこうして非日常を求める。
しかし、ありがたいことだ。

今日、また熱海は、花火大会だった。
市民の中には、「うるさい・あきた」などと言う声もすくなくない。
私は毎回楽しみにしている。観客の喜ぶ声も、たまらない。
うざいと思う方々の気持ちも、わかるけど、「今ここ」なんだよね。

今日久々に時間ができ、師のお寺に参じた。師は、待たれていたかのように、私に一枚の色紙を下さった。
「知足」と書かれ、その下には、来年の干支である可愛い遊び心のある虎の絵が書かれていた。師の直筆だ。
今年の春から師は、朝のお勤めで、
『八大人覚』
を念じていらっしゃる。

・少欲
・知足
・楽寂静
・勤精進
・不忘念
・修禅定
・修智慧
・不戯論

師が仰るには、もし皆が「八大人覚」を生きるのなら、現在の異常事態の、
根本的解決策であると思う。
ただこれは、言うにやすく、おこなうことは本当に難しいであろう。

確かに「八大人覚」は、釈尊の最後の説法と言われており、道元禅師の「正法眼蔵」95巻本では、95巻で、12巻本では、12巻で説かれている。

今日は、師の海の中で、気持ちよくふわふわ浮いているような私がいた。

只管打坐

正法眼蔵「八大人覚」の一節。

少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所なし。事に触れて余り有り、常に足らざること無し。少欲有る者は、則ち涅槃有り。是れを少欲と名づく。

二つには知足。已得の法の中に、受取するに限りを以てするを、称して知足と曰ふ。

只管打坐




昨日、師のお寺に新年の挨拶に参じた。いつもながら、参拝者の長蛇の列が出来ていた。
師に「お茶でも」と言われ、応接間に通され、新年のご挨拶。そして、「まだ、修行僧達には言ってないけど、この6月で引退する。そして、元々の小さな本寺に戻る。」と仰った。
御本山や、福井の修行道場には、伝えたとのこと。修行道場では、僧堂長と言う役職につかれているため、小さい寺の住職になるけどと、伝えたが問題ないと言うことで、そこは、兼任するとのこと。
小さい寺と言っても、小屋を建て、動物達に囲まれて生活をするらしい。

長い間お疲れさまでした。

合掌
>>[351]

 良寛さんみたいで良いですね。

コロナに感染した。
私の場合は、オミクロン。
既に10日間の、自宅療養を経て、
今日から外出可。
県によって違うらしいが、私の住んでいる県は、2日おきに、救援物資が届いた。ありがたい国に育った。
10日間コロコロしているだけで終わってしまったが、私にとっては、今回のコロナ感染は、年末年始の骨休めができ、ありがたいものだった様な気がする。


桜の季節になると、良寛禅師の詩を思う。

花無心招蝶
蝶無心尋花
花開時蝶来
蝶来時花開
吾亦不知人
人亦不知吾
不知従帝則

花 無心にして蝶を招き
蝶 無心にして花を尋ぬ
花 開く時、蝶来り
蝶 来る時、花開く
吾れも亦人を知らず
人も亦吾れを知らず
知らずして帝の則に従う

○△□
 三回目のワクチンも副反応が酷くて、ほとんど寝て過ごしてた。

関西お笑いコンビ・漫才師の「いとし・こいし」さんが、こんなやりとりで笑わせていた。 
こいしさんが「そろそろ我々も、老後のことを真剣に考えんと、あきまへんな」と、相方のいとしさんが、これに答えて「おかしなこと言なはんな、老後とは漢字で老いの後と書きます。今、私は、老人の真っ最中で、現役の老人です。老人の現役ですから、老の後のことを考えるのはまだまだ早い、老人の現役を退いてから、老後のことをぼちぼち考えたらよろしい」と。

現役老人には老後はまだ先、命尽きるまで現役だと、このようにおっしゃいっていた。命尽きるまで人間の現役とは、さすがにうまい表現だと思う。

『而今』

只管打坐

いはくの今時(こんじ)は人人(にんにん)の而今(にこん)なり。
我(われ)をして過去未来現在を意識せしめるのは、いく千万なりとも今時(こんじ)なり、而今(にこん)なり。

『而今』

私の師が毎年御年賀に出される、
「如去如来」
と言う回報新聞がある。
今年の見出は、
『穏坐』
だった。
私は禅語の中で、この言葉が好きで、
回報を観たとたん、過去毎日お寺に坐りに行っていた頃の、苦しかった時代を思い出し、涙した。

今住んでいる自宅が私にとって
『穏坐』である。
しかし、今ここすべてが、穏坐であること、それをもとめ、私は毎日坐る。

如去如来

散る桜 残る桜も 散る桜

熱海桜桜
八分咲き

心こそ心迷わす心なれ
心に心
心許すな

ちゃんと坐りたいから、
毎日、ちゃんと坐る練習をしている。
でも、その「ちゃんと」すらわかってない。

よそのトピで
◯◯は、◯◯だ。
いや、その◯◯は、◯◯だ。
それも同じ人の絡み。

私は、ただの人。
死んで焼かれりゃ、
ただの骨。

それでも、ちゃんとの意味もわからず
ちゃんと坐りたいから、毎日坐る。
いや、坐る真似事。

合掌
 たんげん さん

 特段、全国とか有名ではないけども、出家してたった3年で成道してしまった老師さん。雪担老師の一番弟子で、雪担老師の師匠である井上義衍老師からも認められた方。屋根で雪下ろししてる最中に身心脱落して、しばらく屋根から降りられず右往左往…。

 先年、齢80になろうか、たんげんさんのお寺にお酒もって遊びに行った。まぁ何せくったくないというかひけらかすこともなく、修業は小僧時代と全く同じで、薪運んで落ち葉掃除してと、疲れたらピースで一服。たまに、道心のある禅僧や在家の方が独参に来る程度。

 暑さもおさまってきたので、また何か手土産でも持って遊びに行こう。

 
『至彼岸』

「六波羅蜜」

・布施波羅蜜
・持戒波羅蜜
・忍辱波羅蜜
・精進波羅蜜
・禅定波羅蜜
・智慧波羅蜜

合掌

今日久々に、師と語りました。
「本来の面目」
「今ここ」
「ただ坐る」
この教えは、一つの線で結びついている。

只管打坐

師とこんな話もしました。

「縁起」というのは、私たちはよく、縁起がいいとか、悪いとか言いますが、私ごとを差し挟めない「縁起」の世界に対して、私にとって都合がいいか、悪いかということを思っているだけなのですね。

「自己」と言うもの。

相田みつをの誌を拝読すると、仏教そのものであると、私は感じます。

只管打坐
腰痛も少しマシになったので、5月GWに久しぶりに接心会に泊まり込みで参加します。

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