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仏教コミュの独り言その16

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コメント(1000)

>>[959]

いくつかブーメランを投げられているご様子。

自分は龍樹ではないので、戯論を寂滅する論議を行うのは難しいですが、いつか戯論と化した独自解釈から解脱されることをお祈りします。
今日は日蓮上人の書かれた御文をいくつか拝読させて頂いた。
誠に有り難かった。
>>[963]

 中外日報は、週2日だけの発行なんで大新聞ではないです。中外系列で自費出版したら、中外日報で書評をタダで書いてくれますし。
 悟りって、本を出版してるとかしてないとか関係ないです、事実、お釈迦さんは、経典の1つも残していません。
>>[961]
 一流の人生を歩まれているのですね。
 そんな立派な方とは知らず失礼しました。
 あなたの「悟り」を教えて下さい。
 貴方の「空」も是非御教示下さい。
仏教を行う人の中では、大体においては、空とは「現象」のこと、とされていますね。

般若心経読んでいる分にもそんな感じと見て取れます。

不変なものではなく、現象。

って話。

これでいいですか?
>>[958]

まー割とはっきり思いのままに答えてくれてありがとうです。
ざっくり言って呼吸屋さんの意見は少なからずの日本人の感覚とすれば共感する人も多いかもですね。

> どっちかいうと、被害者ヅラしながら基金に寄付しろとか、どこの彼の国の芸風ですかっていう嫌悪感のほうが強い感じ。

実際この問題は日本国内で声を上げても効果が無さそうだから
イギリスBBCから国連使って問題化させた経緯もありますからね。

これに対しグローバル企業やグローバル化を目指す企業が
国内需要との天秤にかけあたふたしてるのが現状とも言えたりして
これまではジャニーズ事務所に忖度していた企業が
今度は欧米メディアに忖度するのかと思える部分も感じちゃったりしますよね。

更に言えばそもそもに忖度と言うことが悪いかどうかも踏まえ。

これはこれで一つの意見として
日本の仏教界隈の人たちに賛成意見反対意見問わず聞いてみたいなと思っていたりします。
>>[968]

あー欧米宛に、企業が右往左往している絵だったのね、スポンサー降ろすのなんの騒いでいたのって。なんであんなに騒いでいるんだろうと思っていたんだけど、合点いきました。

それにしてもジェンダーとかLGBTって欧米でもいつまで騒いでいるんですかね。LGBTは左翼系利権絡みらしい話も聞くけど。ジェンダーは欧米のフェミ関係かな?どっちにしろ左翼系利権絡みか。
米国では色々問題が出ていて、反LGBT法案とか半分の州とかで通っているみたいだけど。。。日本としてはクソ迷惑だからさっさと終息しろって程度の感想よね。
>>[967]
「空」は仏教の核心です。
中村 元著「龍樹」もよく読まれますが、分かりません。
ダライラマの著書でも空は分からないと書いてあります。
「究極の空」が分かるためには、「縁起ー無自性ー空」は理解する必要があります。青目釈か月称釈の「中論」を理解しなければなりません。
>>[970]

 どっか別の仏教コミュでやってください、迷惑です。
>>[970]

えーと、空とはなんなのかわからないけど、空で苦を滅せるってのは正しいんですか?

聞けば聞くほど何を言っているのか分からなくなっていくですが。。。

あと、抜苦を主旨として、仏教の根幹は四諦であるとは聞きます。空という「現象観」を前提としているけど、仏教のコアは空ではないんじゃないかと。
難しい仏教の理論や学問を知らず、実行出来なくても、称名号(南無阿弥陀仏と称える)、唱題目(南無妙法蓮華経と唱える)だけで、往生・成仏出来る、と説いた、法然・親鸞両聖人と一遍上人と日蓮上人は本当に本当に
難解な仏教理論を、誰にでも実行可能な単純明快な行におさめて広められた、偉大なる大先達の方々であります。
南無西方極楽教主阿弥陀如来
南無平等大慧一乗妙法蓮華経
>>[973]

> 難しい仏教の理論や学問を知らず、実行出来なくても、称名号(南無阿弥陀仏と称える)、唱題目(南無妙法蓮華経と唱える)だけで、往生・成仏出来る、と説いた、法然・親鸞両聖人と一遍上人と日蓮上人

再三言っている事ですが改めて法然や日蓮の名誉のためにも言っておきますが
彼らは念仏や題目で"成仏"出来るなどとは一言も言ってません。

法然が言ったのは往生であり日蓮が言ったのは下種です。

往生は極楽浄土へ生まれることです。
浄土に生まれることが出来ると何故良いかと言えば
そこで難しい仏教の理論や学問を学ぶことが出来るからです。

難しい仏教の理論や学問を知り悟ると
難しい仏教の理論や学問を知らずいる穢土の衆生を救う智慧が得れます。

この智慧をもって穢土に戻り(廻向し)菩薩となり
その福徳をもってして初めて成仏への道が開けます。

浄土各宗派の方々はここを理解せず都合よく
難しい仏教の理論や学問を知らず、念仏を唱えさえすれば成仏出来ると
難しい仏教の理論や学問を放棄してますがそんな理屈も道理も存在しません。

ただ学びから逃げてるだけですね。

日蓮も同様です。
題目はあくまでも下種であり種を植えるだけで
成仏はに必要なのは繰り返し法華経であると述べています。

稲は種を植えるだけでは収穫できません。
ただ植えるだけで勝手に収穫できるなら農家の人も苦労はしませんよ。

やはり法華経を読み難しい仏教の理論や学問と対峙しなければ
その先の成仏への道が開かれる道理は何処にもありません。
 やはり、カルトに35年も染まってると思い込みが抜けないねぇ。履き掃除だけで悟ったチューラ・パンタカ(周利槃特)すら知らないらしい。
>>[975]

「…往生浄土門といふは、まづ浄土にむまれて、かしこにてさとりおもひらき、「佛にならむ」とおもふなり。これは易行道といふ。」『要義問答』(真宗聖教全書四拾遺部・上P237より引用)

私は、上記の法然聖人のお言葉を頂き、浄土に往生すれば悟りを開き、仏に成る、すなわち成仏する、と思わせて頂いております。

日蓮上人のご著作には即身成仏のお言葉が見られたように記憶しています。御文を見つけたら引用させて頂きます。
>>[977]
龍樹の「十住ビバ沙論」にある、易行道を読んでみて下さい。
>>[972]

 貴方にとって、「仏教の核心」は何ですか?
>>[979]

自分という「我」に問いかけてどうするんですか?

仏教は、自分の「我」や自分の都合、自分の期待とは関係なく在るわけですから。

前述したとおり、仏教は抜苦を主旨としているところから、四諦が中核にあるのではないかと。
>>[977]

流れとすれば念仏を唱えれば浄土に生まれる→
浄土に生まれれば悟りを開き成仏することになる。

これをもってして
念仏を唱えれば成仏すると解釈しているようですが
正に難しい仏教の理論や学問を知らずただ学びから逃げてるだけの人の解釈と思います。

違うんですよ「念仏を唱えれば成仏する」のならば
わざわざ"浄土に生まれる"ってプロセスはいらないと思いませんか。

例えばですね医者になるプロセスを考えてみましょう。
医者になるためには先ず医大に入る必要があります。
更に言えば医大に入り研修医となり医者となります。

さて、医大に入るための条件と医大に入ってからの
医者になるための条件は違いますよね。
医大に入るための条件と医大で医者になるための条件が同じであれば
医大に入った時点で医者だという事になるわけです。

法然が言ってるのはあくまでも「念仏を唱えれば浄土に生まれる」です。
浄土で何をするかまでは明確に触れていません。
もっとも浄土経を読めはそこはちゃんと
難しい仏教の理論や学問を知り得ることは触れてますけどね。

> 日蓮上人のご著作には即身成仏のお言葉が見られたように記憶しています。

日蓮の著作と伝わるものの多くは真偽未決書と呼ばれる
日蓮本人が書かれたものではないであろうと言う書が多く存在しています。
その中に即身成仏の言葉が書かれているものは確かに存在しています。

しかし真蹟及び曽存に分類されている書の中では一切見ることが出来ません。

また法華経の速成就仏身を即身成仏と曲解してる人もいたりするんですが
言葉の意味、そのプロセスを理解すると全く違う意味だと言う事も解ります。

法然や日蓮が念仏や題目を広めた時代背景を見ると
一般庶民では難しい仏教の理論や学問を学ぼうにも学べる時代ではなかったという事。
学びたくても学べないからのせめてもの念仏や題目であり
学ぼうと思えばいくらでも学ぶことが出来る現代とはまるで違います。
>>[980]
なるほど、四諦ですね。
苦諦、
集諦、
滅諦、
道諦・・・・・八正道
  1.正見
  2.正思
  3.正語
  4.正業
  5.正命
  6.正精進
  7.正念
  8.正定
 この正見が「空」という説があります。
>>[983]
四諦。
即答はしません。
戒、定、慧とゆっくりたどって下さい。
>>[981]

法然聖人は「偏に善導に依る(偏依善導)」と述べておられるほど、善導大師に帰依されていたようです。

その善導大師のご著作である、『五会法事讃』に「念仏成仏これ真宗」とありますし、法然聖人がその事を知らぬはずも無いので、法然聖人は、念仏を称えれば、阿弥陀如来の本願の力によって、浄土に往生して成仏する、と説かれていらっしゃると私は受け止めております。

また、法然聖人でなくても、浄土三部経の阿弥陀経には、「もし善男子善女人ありて、この諸仏の所説の名および経の名を聞かんもの、このもろもろの善男子善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな阿耨多羅三藐三菩提を退転せざることを得ん。」
とありますので、阿弥陀仏の浄土に念仏で往生し成仏する事に関して、私は疑問は有りません。

ただし、これは私の法然聖人に対する見解、仏説への見解でありますので、 堅皇さんの法然聖人への見解に対しては、なるほど、そのような見解もあるのだな、と思った次第です。

日蓮上人に関しては、まだ読み始めたばかりで知らない事が多すぎますので、法然聖人への私の見解を述べるにとどめます。
>>[984]

いや、分からないです。

正しく見るってことが、なんで空なのか。

だいたい空はなんなのか分からないんでしょ?


最初からなんなのか分からないのに、あれが空だこれが空だ言うこと自体そもそも矛盾しているわけですからね。

話はすでに終わっているのをあれこれ引っ張られても仕方ないので、話終わらせていただきますね。
>>[981]
私の好きな法然聖人のお言葉を引用させて頂きます

「くまがやの入道、つのとの三郎は、無智のものなればこそ念仏をばすすめたれ、有智の人には、かならずしも念仏にかぎるべからずと申よし、きこえて候覧、きわめたるひが事に候。

そのゆへは、念仏の行は、もとより有智・無智にかぎらず、弥陀のむかしちかひたまひし本願も、あまねく一切衆生のため也。
無智のためには念仏を願じ、有智のためには余のふかき行を願じたまへる事なし。十方衆生のために、ひろく有智・無智・有罪・無罪・善人・悪人・持戒・破戒たふときもいやしきも、男も女も、もしは仏在世、もしは仏滅後の近来の衆生、もしは釈迦の末法万年ののち、三宝みなうせての時の衆生まで、みなこもりたる也。
また善導和尚の弥陀の化身として、専修念仏をすすめたまへるも、ひろく一切衆生のためにすすめて、無智のものにかぎる事は候はず。ひろき弥陀の願をたのみ、あまねき善導のすすめをひろめむも、いかでか無智の人をへだてむや。もししからば弥陀本願にもそむき、善導の御こころにもかなふべからず。
さればこの邊にもうできて、往生のみちをとひたづね候人には、有智無智を論ぜず、みな念仏の行ばかりを申候なり。」

『津戸三郎に答ふる書』(真宗聖教全書、四、拾遺部・上P255、256より引用)
>>[985]

> 法然聖人は「偏に善導に依る(偏依善導)」と述べておられるほど、善導大師に帰依されていたようです。

そうですね、法然に対し法然の理論に過ちがあるのならその過ちの箇所を述べなさい。
という問題を出されるならまず第一にこの部分を迷わず指摘しますね。
更にもう一つ言えば総合的仏教を目指す天台宗から離脱し
浄土宗と言う独立宗派を立ち上げた事かな。

そもそも仏教と言うものは諸法より実相を見出すものであり
偏る事無く中道を見極め説くところであるにもかかわらず
何故に「偏に善導に依る(偏依善導)」と偏る方向へと走っちゃったかという事です。

この部分は確実にアウトです。

もう少し善導の理論を多角的に検証しその理論が本当に正しいかどうかを
考察に考察を重ねてからでも遅くはなかったのではとは思いますね。

しかし法然は他を目を瞑り盲目的に「偏に善導に依る(偏依善導)」に走ってしまった。
法然の生涯をなぞり見て非常に残念な部分と言えますね。

ただそれでも法然の肩を持つならば
当時の読める資料や文献には限りがあり
数限りない迷信が蔓延る中、偏らざる得なかったのかにと思うところでもあります。

そこは現代と同じ土俵に上げ法然を吊るしあげるのもまた違うのかとも。

同じ事は日蓮にも言えることで彼の場合は
若干妙楽大師(湛然)の理論に引っ張られてる部分はあるなとは思うも
当時の資料や文献、当時の機根を照らし合わせると致し方なしと思うところでもあります。

まー自分の中での認識は
法然や日蓮は難しい仏教の理論や学問を知り、それと対峙しようと努めた人。
法然や日蓮の多くの弟子たちや信者の方々は難しい仏教の理論や学問から離れ
盲目的になりそれらから逃げることを正当化しようとしている人と言う様に見ています。
>>[988]

「念仏成仏これ真宗」の引用元になったのは、善導大師の、ではなく、法照のご著作である『五会法事讃』が正しい情報でした。
善導大師のご著作である『法事讃』と混同してしまいました。すみませんでしたm(__)m

謹んで訂正させて頂きます。
>>[988]

法然聖人の直弟子の方々は、他宗の学びも深かったようですが、一般の信者さんの中には「念仏しとけばどんな生き方しようが極楽に行けるんだ」みたいな安直な考え違いを生み出してしまった弊害の一面も有ることは、認めざるを得ません。

法然聖人を批判した、明恵上人は、法然聖人の著作『選択本願念仏集』には「菩提心の失」等を挙げて痛烈に批判したそうです。

そこを補填して念仏の教学を充実させようとしたのが、後の法然聖人の直弟子の方々です。

直弟子の中で、親鸞聖人について言わせてもらえば、念仏の行については主に善導と法然の教学を受け継ぎながら、念仏の信心、また菩提心については曇鸞大師の教学を参考にしながら、親鸞聖人独自の解釈を加えて、法然聖人の教学の不足分を理論的に補ったように認識しております。

法然聖人の教学は、念仏一つに法然聖人が救われたことで法然聖人にはもうこれで良し、充分満足である、という感動が有り過ぎたために、念仏教学への理論面の充足には思いが至らなかったのではないか、と言う批判をどこかで目にした記憶があります。
法然聖人としては大原問答で他宗との法論は一応決着した、と思われたようなので、後は伝道と行き過ぎた念仏者の行動を諌めたりで忙殺されて、それにより理論面の充足には至らなかったのかも知れません。
ふと思う。

我ってものは、何かを「知らない」ことによって起こる現象じゃないかなと。

何かを知らない状態で我で物事を判断すると、けっこうな確率で間違えるわけだけど。

お花畑のファンタジスタも大抵は我で判断しているし、そういう人の話聞いていて「落ちない」からパーっと天国みたいなファンタジーなのが広がるわけで。お花畑さんの論説の論拠も妥当じゃないから「落ちない」んじゃないかと。

もちろん、何もかも知っている人なんてどこにもいないから、誰しも我を持っているわけで。でもその中で、できるだけ妥当な判断を下せるやり方を少なからずな人が覚えていっているってのが現状なんじゃないかなと。
多分、それは学力的には高校に入れるくらいの頭脳でいけるとおもうけど。。。
ちなみに、ここは宗教のコミュなので批判されるかも知れないけど、「信仰者」である間は何かを「知らない」状態だし、その上で色んなことを判断して行動するわけだから、それは我で動いている最中かなと。

夢の続きを見ている最中というか。

夢の終わりが訪れるまで、それが続くのでは、と。

夢の終わりは必ずしも悟りを開くこととも思わないけど。
仏教で語られたことが何を言っているのか、そしてそれは現実的にはどんな意味を持つものなのか、それが分かるようになった頃に、仏教が本来の価値を発揮するんじゃないかなと思う。

とかなんとか言いながらも、自分もまだまだ知らないこといっぱいだけどね。

現実的な問題と対峙することに傾斜して思ったことですよ。これら。
>>[992]
私は、結局、仏教と言うのは、自他全ては仏だと、本当に心の底から認識出来てその通りに行動た人が、仏陀なんだと思います。
お釈迦さまの経典を自分なりに読ませて頂いた感想ですけど、お釈迦さまから見た他の人達は、なんか、迷い悩む姿を現してはいるけれども、それは過去の因縁が現れて消えようとしている姿であって、仮のもので、真実じゃなく、真実はみんな私と同じ仏陀なんだと、見ておられたような気がします。
現に、お弟子さん達に対して、「友よ」とおっしゃっていたようですし。
お釈迦さまからしたら、みんな私と同じ仏陀なんだ、みんなそれが今はわからないだけなんだよ、、、とおっしゃっていたんじゃないかと思います。

自他全ては仏、との認識度合の多少によって、菩薩から天、修羅、人、畜生、餓鬼、地獄と分かれてしまうのかなあ、と思います。

まあ私の仏教理解なんてこんなもんです。それぞれ理解が違っていても自分は構わんですよ、みんな同じ理解なんてありえませんから(笑)
みんな意見が違うから面白いとも思えますしね。
私はここで皆さんのご意見を読みながら、いいな〜人間てのは面白いな〜と思います。
ただ単に過去の因縁が消えようとする姿、と言うとなんか消極的な感じがするので、その人なりの「何か」に向かって、私達はそれぞれ生きているのかなあ、と思います。
じゃないと、どうして人間は科学とか様々な分野で進歩しようと努力するのか、それが説明出来ません。

色んな悲しい出来事が有っても、どうして人は前を向いて希望を持って前に進もうとするのか、生きようとするのか、過ちを犯しても反省してやり直そうとするのか、その原動力が、経典で言うところの「仏性」かもしれないと私は思います。

仏性とは仏陀のはたらきなんじゃないかと、私は思います。
>>[993]

良い感じに仏教を楽しんでおられるようでなによりです。
見ていると、まだ信仰者的に見受けられますが、どうか現実を見失わないままお進みください。

いや、上の独り言は、「我で判断すると間違える、自分は色んなものが指し示すままに判断して間違わないようにしないと、、、でも浄土真宗では我は宿命的について回るものみたいなこと教えているし、うーんうーんどうなんだろう」みたいなのが延々あって、なんとなくさっきまとまったので呟いたっていう経緯なんですよ。

ようやく自分の我の強さにも気付けた感じで。笑

そして、阿弥陀様はそんな自分もそのまままるごと救うとかなんとか。
多分自分は何かを勘違いしているんだろうけど、面白いねえって思っているところです。笑

なので、自分はそのまんまの自分で仏道と思う仏道のようなものをやっていこうかなという感じ。

悟りがどうとか、どうでもいいと思いながら。やるべきことは悟ろうが悟るまいが関係なくあるわけですからね。
>>[994]

色んな悲しい出来事が有っても、どうして人は前を向いて希望を持って前に進もうとするのか、生きようとするのか、過ちを犯しても反省してやり直そうとするのか、その原動力が、経典で言うところの「仏性」かもしれないと私は思います。


それが仏性なのかは自分にはわからないですが、四諦の存在意義はそういう感じのところにあるのはその通りと考えます。

苦しい今現在の状態は、不変の真実の姿ではなく現象であり、苦しみの因が抜ければ苦しみは消えるって話と思いますから。
まあ似たような路線の話と思います。
って、上からっぽい物言いでごめんなさい。。。汗

見返して、なんで上からなんだと自分でつっこんだわ。汗
>>[990]

> 「念仏成仏これ真宗」の引用元になったのは、善導大師の、ではなく、法照のご著作である『五会法事讃』が正しい情報でした。

要するに善導"ですら"「念仏成仏」とは口にしてないって事ですね。

> 法然聖人を批判した、明恵上人は、法然聖人の著作『選択本願念仏集』には「菩提心の失」等を挙げて痛烈に批判したそうです。

でしょうねって話なのですが
ちなにですがいっさんは明恵が何故に法然をそこまで批判するかの趣旨は理解されているのでしょうか?
自分とすれば明恵が法然を批判するには理に適ってる部分は大きいと思っています。

それでも且つ法然は法然の言い分としても一部の理があるとも考えます。
それは何かといえばやはり時代背景とその時代の衆生の機根です。
選択集の導入部分に強調されているのもやはりここです。

先にも述べましたが当時はいくら学びたいと思っても
一般庶民では学ぶと言うステージには立てない人があまりにも多すぎたという事。
法然が憂いでいたのは当時の仏教界は
インテリたちが不毛な言葉遊びに終始している様に映ったのではないかと考えられます。

念仏や題目の意義を浄土三部経や法華経と照らし合わせて読む限り
学ばなくとも智慧が得れる便利アイテムではなく
学びたくても学べないから学ぶことが出来る様なるための代物だと思います。

「学ばなくとも智慧が得れる」と言われればそれは甘美な香りのもので
楽して儲けたい人たちを虜にするでしょう。

ただ、そんな道理は世の中になく
あるのは麻薬か詐欺ぐらいなものではないでしょうか。

ですから自分とすれば学びたくても学べない人には
そりゃー念仏だって題目だって勧めますよ。
しかし「学ばなくとも智慧が得れる」と言ってる人には
横着せずに学べるなら学べとと言いたいです。
>>呼吸屋さん

それぞれの仏道、おっしゃる通りですね。

私は、我を無くそうと思っていた時もありましたが、今は全く思わなくなりました。

ある時思ったんです。
我が有るから、いろいろと考えたり悩んだり、その答えを見つけようと自分なりに探究しようとするんじゃないのか?もしかしたら、この我のおかげで、様々な経典に触れるご縁を頂いているんじゃないのか?と。

私の「我」の理解が間違っているかもしれません。自我と言い替えても同じ事です。

我、は無くそうとしても、無くなりません。時々無くなった、薄くなった気がしても、それは気のせいで(笑)また自我の自分に気付く、そんな事を何度も繰り返しました。
どうせ無くせないのなら、我を持ったまま、燃え尽きるまで、生きていこうと思いました。
我が燃え尽きるのは、いつになるかわかりませんが。

我があるままで救ってくださる、人間にとってまことに都合のよい(笑)阿弥陀仏と言うお方がいらっしゃいますから(笑)

正直言って、私は阿弥陀仏の存在は完全には信じられません、でも、阿弥陀仏は、無形の真如・仏性から、私達を仏にするために、み名を示し形を現した方便法身の仏だ、と親鸞は言いました。

親鸞と言う一人の人間が、そこまで人生を費やして、阿弥陀仏について考究した、それはやっぱり何か大きな意義が有るんじゃなかろうか、と思います。
>>[999]

正直言って、私は阿弥陀仏の存在は完全には信じられません、でも、阿弥陀仏は、無形の真如・仏性から、私達を仏にするために、み名を示し形を現した方便法身の仏だ、と親鸞は言いました。


いい感じだと思います。どうぞ盲信に走らず追求してくださいです。
自分もそういう態度で深めているつもりです。時々、ゲームのイベント発生のごとく、あれ?って感じのことが起こったりしてます。なかなか面白いです。
自分としては、起こったことを起こったこととして受け止めながら深めていきたい感じです。思うことは色々。ただ、あまり阿弥陀様を「信仰」する気はないかな。みたいな。

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