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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆丹後・籠神社の「藤祭」、もう一つの「葵祭」

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◆丹後・籠神社の「藤祭」、もう一つの「葵祭」

◆◇◆丹後の天橋立・籠神社(このじんじゃ)で「葵祭(藤祭)」、太刀振りや神楽舞を披露

 丹後・天橋立の地、京都府宮津市大垣の籠神社(このじんじゃ)の例祭「葵祭」が四月二十四日、府中一帯で催され、御祭神を載せた鳳輦(ほうれん)の巡行のほか、京都府指定無形民俗文化財の太刀振りや神楽舞が披露された。

 籠神社の例祭は、五穀豊穣と大漁を祈願して古くからあり、欽明天皇(540 〜571年)の御代には行われていたそうである。現在の形の祭礼になったのは、一八〇〇年代と伝えられている。

 「葵祭(藤祭)」には府中地区の五自治会の氏子が参加する。籠神社参道周辺を巡行する途中で、子どもたちが長刀を振ったり、横笛を吹いたりする舞いが披露された。約一時間かけて鳳輦(ほうれん)などが巡行した後、籠神社境内では、京都府指定無形民俗文化財の勇壮な太刀振りや神楽舞が奉納され、古式ゆかしい演舞が披露された。

 丹後の天橋立・籠神社の「葵祭」は、もともと「藤祭」と呼ばれていた。神輿に供奉する者は藤花を冠に挿すのが習わしで、獅子舞・太刀振り・笹囃しの奉納が行われる。

 太刀振りの起源説として、貞観年代、籠明神が鉾立山大乗寺に天降り、神社に向けて鉾を振り悪霊を祓ったとか、国府の六斎市に橋立の文殊堂の池から竜神が現れて、悪疫神を祓ったので豊作を得た豊年祭であるともいわれている。丹後型の太刀振りの中心をなすものとみられている。

◆◇◆宮津・籠神社の「葵祭」の歴史、山城と丹後と二つの「葵祭」

 「葵祭」と聞くと五月十五日の上賀茂・下鴨神社(山城一宮)で行われる京都三大祭の一つ「葵祭」を連想する。山城の「葵祭」は、斎王代や祭員が葵の葉を飾って古都を練り歩く様はなんとも雅やかで、毎年多くの見物客を集める。

 実は、天橋立の地の元伊勢丹後一宮籠(この)神社(京都府宮津市大垣)の例祭も「葵祭」なのだ。双方とも歴史は古く、欽明天皇(540 〜571年)の御代には行われていたそうである。

 もともと、山城の「葵祭」は凶作に見舞われ飢餓疫病が蔓延したため行われた「鴨の神」を奉る祭礼が始まりと言われている。

 この頃の丹後は丹波国(現在の丹後、丹波を併せた大国で)といい、その政治の中心地は天橋立のある丹後府中にあったと考えられている(現在のように分かれたのは和銅六年・713年である)。

 当時、籠(この)神社の奥宮・真名井神社は吉佐宮(与謝宮)と呼ばれ、毎年、旧暦の四月には稲作農耕の神、豊受大神を奉る「藤祭」を行っていた。

 農作業は春からが新しいスタートとなる。そうしたことから、「藤祭」は春ごとに生まれ変わる御祭神の再誕生を祝い、五穀豊穣を祈願する祭りであったようなのだ。

 どうして、京都の上賀茂・下鴨神社(山城一宮)と、丹後の籠神社が同じ名前の「葵祭」の祭礼を行うようになったのかは諸説が分かれるところであるが、一説には、もともとからあった「藤祭」を、欽明天皇の時代「葵祭」と呼ぶようになったとの考えがある。

 京都「葵祭」では葵の葉をつけるが、籠神社の「葵祭」では宮司、祭員とも豊受大神ゆかりの藤の花を飾る。

 藤の花を飾る由来についても諸説があるが、藤は春の訪れを表す花ともいわれるところから、藤の花を飾るようになったとされている。

 また、元伊勢籠神社宮司家海部氏の伝承では奥宮・真名井神社祭神の豊受大神の御顔は藤の花だと伝えられているところからとも言われている。

 籠神社の「葵祭(藤祭)」が終わると、丹後の地域はいよいよ田植えの時期となる。今年も実り多い年でありますようにとの、人々の願いが聞こえてきそうだ。


スサノヲ(スサノオ)

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