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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュのヤマト朝廷は出雲王朝に服属していたか?

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国譲りの神話によれば、天孫に対して出雲のオオクニヌシが国を譲ったとされる。これは明らかに出雲の権威を大和に移した事を意味する。
そして古くから神無月には全ての神々が出雲に集うとされるなど、出雲地方は古代から日本の侵攻の一大拠点であったと考えられる。

こうした伝承に加え、近年、出雲から大量の銅剣が発見されるなどの考古学上の発見が相次いだことから、出雲には大和朝廷に迫る巨大な王権が存在したと考えられるようになった。

しかし気になるのは、出雲から大和に権威が移ったのは何時かということ。
魏志倭人伝では、邪馬台国畿内説を取った場合、その通路に出雲があることから、この時期には出雲は畿内に服属していた可能性もあるが。
卑弥呼の時代、三世紀半ばに果たしてそこまで畿内の勢力が拡大していたか疑問がのこる。

崇神天皇の姉・ヤマトトモモソ姫が以前から、卑弥呼であるとされる学説があるが
ヤマトトモモソ姫が祭ったオオモノヌシは、出雲の神のオオクニヌシの別名とされている。
つまりヤマトトモモソ姫は出雲の神に服従していた事になる。
こうした伝承を考えれば、この時代には畿内は出雲に服属していたのではないかとさえ感じる。

また、ヤマトタケルの伝承で、ヤマトタケルが出雲を討伐した事を考えれば、出雲が服属したのは、崇神天皇に時代よりかなり後ではないかとも思う
果たして出雲と畿内の力が逆転したのは何時であろうかと、正直、幾ら考えてもわからないな

コメント(490)

六次元さんへ

今までもそうですが、醜い反論、不思議な反論は
完全に無視して、持論を展開してください。

学問であるのかどうか、なんて関係ありません。
そんなことはどうでも良いです。

他ではなかなか聞けない話が多々でてくるので、
いつも六次元さんの意見を楽しみにしているのと同時に、
反論する側がどういう反論をするのか?
も、非常に楽しみにしているのです。

ただ、反論する側の方が最近は行儀が悪い、とは感じますね。

>451
>他ではなかなか聞けない話が多々でてくるので、

他では絶対聞けない話で、相当キワドイ(門外不出が義務づけられたという意味で)ものは416と417と419ですかな。

>学問であるのかどうか、なんて関係ありません。
>そんなことはどうでも良いです。

あんたにゃ関係なくても、名指し受けている自分ら(三輪の系統)にしてみたら、えらい迷惑な話なんですわw
邪馬台国侍さん

>あんたにゃ関係なくても、名指し受けている自分ら(三輪の系統)にしてみたら、えらい迷惑な話なんですわw

具体的に何番の投稿のどの部分によって、どんな迷惑を被ったのですか?
差し支えなければ教えてください。



ぺぺ@東1さん

>MMRのようなものだと明示してくれれば、何の文句もありません。
しかし、それを学問であるかのように論じてしまえば問題になります。

問題になること、で見えてくるものもあると思います。
ぺぺ@東1さん

>「問題になること」で「見えてくるもの」が何なのか、貴方の意見をお聞かせ頂きましょうか。

私が考えている、見えてくること、とは
六次元さんのような理論を持った方、に対して
世間、もしくは反論者、たちがどういう反応をするのか?
ということです。

一説が真実か否か、を見るためには両方ないといけません。
だから、一般読者としては両方の意見を出し切ってもらいたいと
強く願います。
>ALTOIDSさん
伝承を扱うのでしたら、その法則によって論を展開すべきこと。
三輪の衆の話を持ち出すのならば、
事前にどこまで出して良いか先方と何らかの形で協議し、
意見交換して出していくのが伝承を扱う者の心得でありましょう。
それが伝承を預かった者の責任です。

私の場合は、私の一存で出せる範囲で出させて頂いております。
残念ながら苦情も出ておりますので、ギリギリの線上です。
それ以上のことは、私の一存では無理ですから。

今回の事例は、最初は何らかの資料に基づく仮説の一種かと思いましたが、
同和問題やその発祥については、歴史と実態との認識のズレや誤解が
大きくありますから、その部分に関しては訂正をお願いしてきたつもりです。

しかし、論拠となる一族の伝があると仰っておられますのに、
真実だの真理だのと言われます。これではまるで宗教の教義の世界です。

昨今の質の悪い学者・研究者や新興宗教やスピリチュアルと名乗る者、
日ユ同祖論者と名乗る者達が行うような真似事だけは
伝承を扱うのですから、絶対にして欲しくはないと思いますね。
>だから、一般読者としては両方の意見を出し切ってもらいたいと
>強く願います。
残念ながら、西洋の論証術を用いて本朝の伝承を取り扱えとの
願いには応じられません。
月清 さん

おっしゃること、よくわかりました。

上にも書きましたが、いち読者としては、
いったい何が真実なのかを見極めるため、
可能な限り、出してほしいと思うのです。
>邪馬台国侍さん
>416と417と419ですかな。
確かにギリギリですが、ある程度の示唆にはなるかと。
私としては、どんな学説であれ、このスレで書き込んでくれるのは構わないと思っています。
だってさ、ここは歴史学者や考古学者が研究成果を発表する場所でもないし。
ただ、個人が意見をぶつけあって楽しむためのスレですからね。
それこそ、個人的な考えとか説であってもそれは構いません。
もちろん信じるか信じないかは当人次第ですけど
>清月さん
ここは、まともな伝承とかは書くべきじゃない。
ここは、個人の欲が満たされればそれでいいんです。
憶測でも何でもいいんです。楽しめたらいいんです。
ムー民村民大歓迎みたいですし。
ここは、あなたが嫌がるような種類のものこそ真理であり価値があります。
六次元さんのお話は、ちゃんとトピ主さんの気持ちに添った
レスをしておられるのです。

>ただ、個人が意見をぶつけあって楽しむためのスレですからね。
こんなもののために歴史を語らせようってトピックスなんです。
伝承やまともな歴史を語るべき場所じゃないんです。
私が書き方を教えてあげましょう。

古代ユダヤ・キリスト教徒の集落が同和の発祥の被差別民です。
古代イスラエル人が同和地区にならなかった同和扱いの地域です。
天孫は古代ユダヤ教徒です。だからキリスト教徒は差別されました。
出雲大社の神迎祭は、イスラエル十支族とユダヤ人が再び出雲で
出会ったお集まります。それが真理です。絶対的な真実です。
ダベルは日本語でもダベルなんです。
天皇陛下もカムヤマトイワレヒコ、ユダヤ人ですよ。
ユダヤ人はヘブライ語でヤマトゥというんです。

皇族も認めてます。古代から続く陰陽師の家系も認めてます。神職も認めてます。
皆さん他の説をどうぞ。
『記紀』のコンセプトは、権力を独占した出雲氏族が、小沢一郎のように皇室を蔑ろにしながらも、その事実を隠そうとしたことです
しかも、元をたどれば出雲氏族は天照大神の実弟スサノオの子孫であることが、話しをややこしくしています
そうでなければ、天皇を殺害して自分たちが皇位に就いています

日本では自分たちは皇室よりも上だと言えば、大衆の支持を失い権力を維持することができなくなりますので
それはできないのですが、どこかで天孫族に勝利したことだけは誇りたいわけです

それでどうしたかと言えば、出雲氏族の名前を皇族や天孫族と偽り、逆に天孫族を賊に仕立ててそれを討ったことにしています
そして、神武前を神話に変え、自分たちの祖が天照大神に反抗して国を取り上げられたことを、進んで「国譲り」したことにしました

祖の大田田根子の登場を10代天皇期に据え、それ以前の記録を消してしまいました
こうすることによって、『古事記』『日本書紀』は、『神武東征』を除いて、
日本の歴史は大田田根子の三輪山祭祀から始まったことにすることができます

高天原が飛騨であったことは消してしまいました
なぜなら、それを書けば出雲出身の自分たちが権力の座にいることの正当性を失うからです
これらのために『古事記』『日本書紀』は、文章は平易でも内容が難解なものに仕上がっています

しかし、これらの工作も次に挙げる箇所のように随所でそのほころびを見せています

・『古事記序文』で天照大神のことを「日」の一字でかたづけている
・「天岩戸神話」で、天照大神をワガママな神として書いている
・「出雲神話」の分量が多すぎる
・2〜9代天皇の事績を消しながら、吉備津彦の吉備国平定のことだけは書いている
・開化天皇は継母を皇后にして崇神天皇を生んでいる
・大神神社と出雲大社の創建記を書きすぎている
・伊勢神宮は大神神社よりも5百年も遅れて立てられたので、書き様がなくなっている
・箸墓は大田田根子の墓であるが、一皇女の墓にせざるを得なくなっている
>>『古事記序文』で天照大神のことを「日」の一字でかたづけている

直前に出て来る「幽顕」と「日月」とを対比させての表現でしょう。このキーワードが理解できれば、「出雲族」とか「天孫族」などの分類がどれほど「偏った考え方」であるか、心ある読者のみなさまならご理解されるかと存じます。
>>463
すいませんがいい加減にしてもらえませんか。

>箸墓は大田田根子の墓であるが、一皇女の墓にせざるを得なくなっている

少し前に証明できなかったのに何度も書かないでください。
まるで変てこな宗教団体のようです。
>>462
言い忘れたけど、どんな意見を書こうがそれは構いませんが
ただ、それを批判することも、誹謗中傷にならない限りは構わないと思っていますよ
どこまでも論争を楽しむためのスレですから、批判があろうが、それ自体が目的と言えるのですから
あまり度が過ぎる事を書きすぎて、批判が殺到するような事は本人にとってどうかと思いますが?
句奴国→国の語源→帝国
ヤマト(数多、八万十または耶海渡)朝廷→数多の国を照らす→連邦政府とか共和国

順番としては
・諸国連合設置
・女帝によるヤマト朝廷の設立
・連合内の句奴国台頭による武力統一
・反句奴国勢力による巻き返し
・国譲り

という流れだと思っています
>VVAKAさん
狗奴国に関して、興味深いブログ「いずものこころ」を見つけました。
http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/60138283.html
>とみこさん
分かりました。但し世間というもんは怖いものですよ。御用心、御用心w
10代崇神天皇の御代(3世紀)にヤマトで疫病が大流行します
『古事記』は「人民(おほみたから)死せて尽きなむとす」と書いています
この危機を救ったのが出雲であったと思われます
出雲は漢方の大生産地です

これを期に出雲教が大きく勢力を伸ばしました
それと相反して人々の記憶から天照大神のことが消えていきました

事態を憂いた天皇は天照大神から伝わった神鏡を、三輪山の麓の檜原に神社を立てて祀り顕彰しようとしました
鏡は天照大神が九州遠征(「天孫降臨」)に旅立つ皇孫ニニギ尊に
「この宝鏡を見まさむこと、正に吾を見る如くすべし、共に床を同じくし、殿を共にして、斎鏡と為すべし」(『日本書紀』)
と言って手渡したものです

手元から離してはいけないと言われた鏡を殿中から外に出したのは、それほど出雲教の勢力拡大が大きかったからです
しかし、それでも人心が天照大神から離れ、出雲神に集まっていきました
やがて出雲氏族はこの鏡を奪おうと狙うようになりました

そこで天皇が皇女に命じて鏡をヤマトから逃がし、祀るところを探させました
『日本書紀』は11代天皇の御代(3世紀末頃)に、伊勢国に神宮を立てたと書いています
(伊勢国のどことは書いていません)
『古事記』は神宮創建について何も書いていません

鏡は三重県度会郡大紀町滝原に隠され、現在の五十鈴川上流に神宮が立てられたのは
それから約半世紀後の41代持統天皇の御代(7世紀末)です
結局、大化の改新以降、藤原が実権を握ったおかげで、
血筋に劣等感を持っていた皇別でない氏族の多くが、
自分たちの出自を「神々の子孫(神別)」とすることにより、
神武以前まで遡れば皇別と同じ血筋だという神話を作る事ができて、
それでもって何かしらの納得ができたというのが実情でしょう。

大化の改新で藤原氏が実権をにじったわけではない。
藤原氏の周りには、まだまだ強力な対抗者が存在した。
それに藤原氏は壬申の乱で、大友皇子の側につき一度は衰退しています

記紀編纂の時期には、藤原氏は有力な豪族ではあったが
決して実権を握るまでには至っていなかったはずだ。
>>474
>>476
実権とは何かという解釈は別としても、
藤原不比等はかなりの実力者であったと思います。
うーん、出雲といっても色々な出自を持ってますからね。
大和の出雲だけでも様々ですから、
2000年ぐらい口聞かないぐらい仲悪いのも多いですしね。
「出雲」と一緒くたにして断じて論じてしまうと、
また非常にややこしいですからね。
元からいた発祥的な先住から他所からやってきた系列まで。
それは天孫系の古い集落も似たような感じです。
元からいた集団から次第に移住してきた集団まで。

うちの村は、出自が南方から東北まで様々な集合体です。
出雲も天孫もいますし、その他もいますし、論ずるのが大変難しいですわ。
古い家の顔つきや身体的特徴で言うと、
一番古いといわれている家が
東南アジア系っぽいパッチリした目が特徴、
次いで古いと言われている家は、色白で掘りが深い多毛、
色黒でインド南部っぽい顔立ちの家や、
典型的な東アジア人ののっぺりした顔の家なんかが、その後に続きます。
『古事記(712)』の「天孫降臨」神話のところに、「登由宇気(豊受)神、これは外宮の度会(郡)に坐す神なり」とあります
外宮祭神の豊受神は後にも先にも出ていないので、この記事は後世に加筆された文と考えられています

それに普通ならば「度会の外宮に坐す」と地名を先に書くところを、逆に「外宮の度会に坐す」と「度会(郡)」を強調しています
その理由は、他所(多気)ではなく度会だ、と言いたかったわけです

これは『続日本紀(797)』の「698年 多気大神宮を度会郡に遷した」に対応したものと思われます
内宮が多気郡に在ったことは一度もないので、この多気大神宮とは外宮のことです

『日本書紀(720)』『止由気宮儀式帳(804)』などによれば、
内宮は11代天皇の3世紀、外宮は21代天皇の5世紀に立てられたことになっています
しかし、それでは『続日本紀』の多気大神宮移転の記事との整合がとれなくなってしまいました
そこで、先の「登由宇気(豊受)神、こは外宮の度会(郡)に坐す神なり」が『古事記』に挿入されたと考えられます

多気大神宮とは佐那神社のことであると思われます
佐那は登由宇気(豊受)神の記事の後に、「手力男神は佐那県に坐せり」と書かれている所です

内宮には天照大神の相殿に佐那の手力男が祀られています
もう一神高木神の娘タクハタチヂ姫(皇孫ニニギ尊の母)が祀られています
しかし、イザナギ、イザナミ尊、ニニギ尊、高木神ではなく、このタクハタチヂ姫を祀る理由はないはずです

『中臣氏系図』に、タクハタチヂ姫は二代目天押雲(天村雲=射立神=イソタケル)の母だと書かれています
出雲のタクハタチヂ姫を高木神の娘と偽って内宮に祀ったと考えます

ちなみに風神シナツ彦(イソタケル)は、内宮別宮の風日祈宮、外宮別宮の風宮に祀られています
このように伊勢神宮内宮(皇大神宮)は、一見は皇室の祖を祀る神宮の体裁を採っていますが、
その実体は、出雲の神々に囲まれて天照大神御一人がかろうじて祀られているものです
> Louis Tenguさん
県内各地で天孫の扱いは様々ですよ。
風神シナ津彦は神功皇后の息長氏の祖神です
神功皇后の父『息長』氏は、河内国石川郡の『磯長』谷の『科長(しなが)』神社に祀られています
「息長=磯長=科長」です
『滋賀』『志賀』は、「し(な)が」の「な」が省かれたものです
「が」が省かれたのが級長津彦(シナ(が)津彦)です

北九州の安曇氏の祖神は『磯鹿(しか)』名草(志加乃奈具佐)です
志賀海(しかうみ)神社(名神大社 福岡市)の祭神は安曇氏の祖であり、社家も安曇氏です

安曇氏は伊勢国にも居た形跡があります
『安曇』は安積(=阿坂)とも書き、三重県松阪市『小阿坂』に地名が在ります
多気郡明和町中海にも『麻績』神社がありますが、ここの伊勢麻績君は大田田根子を天皇に推薦した者です
麻績は「あつみ」ではなく「おみ」と読ませます
これが息長氏の本拠地「近江(おうみ)」の語源と思われます
鳥羽市石鏡(いじか=い・志賀)の近くにある浦神社には、安曇別命が祀られています

安曇氏の北九州の本拠地である『志賀海』という地名が、伊勢神宮のそばにもあります
伊勢神宮内宮を流れる五十鈴川の宇治橋から4?下流の地が伊勢市『鹿海町』です
『鹿海』は「かのみ」と読みますが、元は「志賀海」であったと考えます
ここには加賀宮神社がありますが「加賀」の名が付いています
加賀は出雲の松江市加賀に由来します

天武天皇期には度会郡の郡司の長官、次官、内宮外宮の禰宜職が、すべて磯部(度会)氏によって独占されています
それ以前にも磯部河(櫛田川 松阪市)以東の飯野郡、多気郡、度会郡は、磯部氏が国造を務めていました
したがって、その領内に居た安曇氏も磯部(度会)氏一族と考えられます

『鹿海』から下った五十鈴川河口の伊勢市二見町は、磯部(外宮度会)氏の拠点のひとつです
五十鈴川というのも、息長氏が居た科長(しなが)神社のある河内国石川郡の石川に由来すると思われます
石川を「いそかわ」と読み、それを五十鈴川と表記した後に、「いすずがわ」と言うようになったと考えます
磯部氏が遠征した加賀地方は石川県ですが、その語源も同様です

安曇氏は北九州から伊勢国に移住したのではなく、逆に伊勢国から北九州へ行ったと考える方が妥当です
磯部(外宮度会)氏が神功皇后の三韓征伐に従って九州へ行き、安曇氏を名乗ったものです
博多櫛田神社は松阪市の櫛田神社を分祠したものです
太宰府天満宮摂社にも磯部(外宮度会)氏の祖が祀られています

伊勢神宮内宮は出雲氏族によって、皇祖天照大神の祭祀がヤマトから遠ざけられ隔離された場所です
別宮風祈日宮には風神シナ津彦も祀られています
伊勢神宮は東国進出への基地でもなければ、太陽信仰の聖地でもありません
大国主の別名「オホナムチ」からの発想なんですが、
奴国と狗奴国って隣国同士なんですよね
「オオ(美称)ナ(国名)ムチ(親同盟)」と解釈できると思います
卑弥弓呼を日向彦(ヒムカヒコ)…では無理があるかな…
タケミカヅチを祀る鹿島神宮の『鹿島』の『鹿』は、安曇氏の志賀海神社の『志賀』であり、
それは『息長』『磯長』『科長』が転訛したものであり、風神の級長津彦(シナ津彦)も同様であると考えます

その『鹿島』の地名は全国にあります
岐阜市鹿島町は美濃国『厚見(あつみ)』郡にあり、岐阜県大垣市鹿島町の隣は住吉町、恵比寿町です
『住吉』神は海神ツツ男であり、エビス(事代主)は安曇氏の祖磯武良(イソタケル)のことです
富山市鹿島町のとなりは『磯部』町ですが、磯部(外宮度会)氏は安曇氏の同族です


VVAKA(ウァカ) さんが仰っている「オホナムチ」についてですが、
奈良の吉野に大名持(おおなもち)神社があります
「オホナムチ=大名持=大きな名を持つ人=大物主=事代主」という説もあります
元外宮の佐那神社は、度会郡大紀町滝原に隠された神鏡が、外に出ないように築かれた関所です
ここは中宮とも呼ばれていました
その意味は、和邇(三輪)氏の伊勢国拠点である松阪市嬉野須賀町および小阿坂町(=安積=安曇)と大紀町滝原のちょうど中間地点であるからです
後に五十鈴川上流に神宮が立てられてからは、中間地点に斎宮(多気郡明和町)が築かれました

その北には大田田根子を天皇に推薦した伊勢麻績君が居た麻績神社があります
西には博多櫛田神社の元社櫛田神社があります
祭神は磯部(外宮度会)氏の祖の大幡主です
大幡主は太宰府天満宮摂社にも大若子の名で祀られています

大紀町滝原からヤマト方面や伊勢方面へ出るには、宮川を渡らなければなりません
その渡しのあった所に今は橋が掛かっていますが、その橋の名前は船木大橋です
『船木』とは伊勢船木直から付いた名ですが、船木直は大田田根子の子孫です(『住吉大社神代記』)

現在は滝原に内宮別宮の瀧原宮がありますが、その東に浅間山という山が在ります
浅間山の『浅間』は和邇(三輪)氏の浅間神社による冨士信仰に由来するものですが、
佐那神社の東にも、内宮の東にも在ります(内宮のは朝熊と書いて「あさま」と読みます)
三重県度会郡大紀町『船木』は、
大田田根子の子孫の船木氏が、大紀町滝原に隠された天照大神の鏡を見張るための関所です

同じように全国には天孫族の高木神一族を見張る関所がありました
()内は『船木』の近くにある高木神一族の地名です

千葉県銚子市船木町ー(高田町)
滋賀県近江八幡市船木町ー(野洲市高木)
兵庫県小野市船木町ー(高田町)
広島県安芸高田市高宮町船木ー(高宮町)
愛媛県新居浜市船木ー(高木町、高田)
鹿児島県薩摩郡さつま町船木ー(薩摩川内市高城町)

『住吉大社神代記』が記すように、船木氏が大田田根子の子孫であることを証明する地名が『船木』の近くにあります

埼玉県熊谷市船木台ー(箕輪=三輪)
鳥取県鳥取市船木ー(美和=三輪)

鳥取氏と船木氏は、大田田根子の子孫が神功皇后から賜った姓です(『住吉大社神代記』)
京都府京丹後市弥栄町には、『鳥取』『船木』の地名が並んであります
富山県射水市『鳥取』の隣も(高木)です

このように『船木』『鳥取』の二姓だけでも、出雲氏族が天孫(高木)族を征したことを証明できます
地名は単独では根拠の薄いものですが、こうして複数で考えれば古代史を解く重要なカギになります
独演会のようになってしまいましたが、ここは他人のトピなので間もなく撤退するつもりです
続きは自分のHPとブログに書く予定です

伊勢国(三重県)は越中国(富山)と同様に、気温の低下期に飛騨族が大勢移住したところです
神武天皇はこれらの飛騨族の応援を得るために熊野へ迂回しました
その伊勢国の地名から、天孫(飛騨)族と出雲族の抗争があったことを知ることができます

古代に人々が住み着いたところは大河の流域です
伊勢国の南から見ていきます

五十鈴川(伊勢市)の下流には鹿海町があり、ここは旧高田郷ではないかと考えます
鹿海とは安曇氏と息長氏の拠点「志賀海」「息長=科長=磯長(し「な」が)=級長=滋賀」に由来します

宮川(伊勢市)の上流には、元伊勢神宮と言われる瀧原宮がありますが、その渡しの場所は船木です
船木氏は出雲氏族三輪氏の一族です

櫛田川(旧磯部河 松阪市)には、丹生、疋田、飯野高宮(神山神社)、高木町の下流に、伊勢麻績君の麻績神社(明和町中海)があります
相可(おうか)も大鹿首が居ましたので「大鹿=大・志賀」と書くことができます
この辺りは旧飯高郡ですが、飯高は「いいだか=いひだか=ひだか=飛騨」です
疋田(=飛騨)からは銅鐸が発掘されています

雲出川(津市)には一志町の地名があります
一志は「一支=壱岐=息(長)」です
雲出は出雲を逆さまにしたものです

鈴鹿川(鈴鹿市)には肥田町、旧高宮郷(加佐登)の上流に鹿島町(亀山市)があります

員弁川(桑名市)にも稗田(=飛騨)、丹生川とともに鳥取の地名があります
鳥取氏も船木氏と同様に三輪氏一族です
石川(いなべ市)という地名もありますが、息長氏の拠点は河内国石川郡です
出雲氏族が伊勢国を攻めたのは、天孫(飛騨)族が大勢移住していたからです
その頃は、まだ美濃、尾張はほとんど入り江でした
(参考 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=29906309&comm_id=3180326
∞音∞ a.k.a. 風*月 さんの225 『尾張古地図』)

飛騨(天孫)族は、伊勢の他に富山平野にも大勢移住しました
その富山平野の川は西から小矢部川、庄川、神通川、常願寺川です
川の流域には伊勢国のように稗田、疋田(飛騨)の地名はありませんが、
『高木』の地名がたくさん見られます
『飛騨』の地名がないのは、飛騨に近すぎるからだと思われます

外宮に伝わる『豊受大神宮禰宜補任次第』によれば
「外宮度会氏の祖の大若子が、11代天皇より標剣(草薙剣)を賜って越国に遠征した」とあります

出雲氏族はヤマト、伊勢を制圧すると、その次に石川、富山、新潟方面に攻め込みました
その主力は磯部(外宮度会)氏です

小矢部川(高岡市、小矢部市、南砺市)
流域には高宮(南砺市)、高儀(南砺市)、高木(小矢部市)、高木出(小矢部市)、高木神を祀る浅井神社(高岡市福岡町)、
高木神の子孫を祀る林神社(砺波市林)、高木神の娘を祀る比売神社(南砺市高宮)があります
浅井神社の隣は福岡町加茂、麻生谷、小矢部市高木の隣は蓑輪(三輪)です
二上射水神社の祭神天村雲は、磯部(外宮度会)氏の祖です

庄川(射水市)
高木、北高木、南高木(射水市)の隣に鳥取、その上流に串田、麻生の地名があります

神通川(富山市)
河口付近に高木、高木東、高木西、高木南があり、その少し上流に高田がありますが、
高田の対岸は磯部町、鹿島町です

常願寺川(富山市)
河口に高来があります
上流の雄山神社(中新川郡)には、元外宮佐那神社(三重県多気郡)に居るとされている手力男が祀られています

富山は桜井市外山(とみ=登美=三輪)を富山と表記したものです
伊勢の外宮も外山宮が語源です
富山砺波(となみ)市は、外山(とみ)の中に「な」を加えたものです

出雲氏族磯部氏は吉備からヤマトを制圧すると、次に天孫(飛騨)族が移住した伊勢、越(石川・富山・新潟)を攻めました
富山から新潟に侵入し、その道中に水嶋磯部神社(糸魚川市)、桐原石部神社(長岡市)、
御嶋石部神社(柏崎市)、弥彦神社(西蒲原郡)、大幡神社(佐渡市)を立て、
そして最後に佐渡に度津神社(佐渡市)を立てて祖のイソタケルを祀っています
地名は古代史を解く重要なカギです
例えば、東京に品川の地名がありますが、品川という川はなく、そこを流れているのは目黒川です

品川は「磯長(しなが)=息長=科長=級長」に接尾語の「わ」が付いたものと思われます
それは加賀に「わ」が付いて香川になったのと同じです

下目黒に大鳥神社が鎮座していますが、これが「しなが(わ)」の由来と考えます
大鳥神社は大鷲神社とも書きます

浅草の鷲神社の祭神は天日鷲ですが、天日鷲は磯部(外宮度会)氏の祖です
外宮の山を日鷲山、内宮の山を鷲日山と言います
香取神宮の第一摂社側高神社(千葉県香取市)や、鹿島神宮の末社にも祀られています
そして、鷲神社には天日鷲は伊勢国佐那県の手力男の子であると伝わっています

伊勢津彦の三世の孫も関東の武蔵国造ですが、大田田根子の孫に伊瀬川比古(いせつひこ)がいます
武蔵国一の宮氷川神社(名神大社 さいたま市)にも大国主が祀られています
鹿島神宮のある常陸国に遠征したのも、伊勢国朝明郡(四日市市)の神社に祀られている兎上王(うなかみのみこ)です
兎上王は和邇氏系の皇族で、出雲大社を立てた者です

関東地方の出雲系神社があるのは、古来から出雲神信仰があったのではなく、磯部(外宮度会)氏が遠征して祖神を祀ったものです
私の結論は、スメラ尊は飛騨に誕生した時から権力を持たない権威の象徴であり、
飛騨(天孫)族が日本の国を話し合いで統一し、外国の侵略から国を護った(紀元前1世紀)
2世紀に分家の出雲氏族が政権の座に就き、古代史を都合のよいように書き換えてしまった
そして、出雲教を広める過程で、偶発的に起きてしまった差別が、飛騨(天孫)族を苦しめ現在に至った
というものです

近年「皇室の祖は侵略者であった」という説が流行しています
各地に王国がいくつかあり、それを皇室の祖が従えたというものですが
これは今上陛下が崩御されたら、一挙に皇室を解体しようと狙う外国とその手先の左翼のプロパガンダです

九州の小国であった邪馬台国を面白可笑しく取り上げたり、各地に王国があったと広報に努めています
「皇室は大陸や半島から来た」「アイヌ民族が先住民だ」と言うものまであります

これらは中国ビジネスに深く関わっている財界が支配するマスコミや出版社、
戦後の公職追放の隙をついて大学教授の地位を得た者達が支配する学界が流布するものです

イラク、アフガンと戦争をするオバマにノーベル平和賞が授与されたのと同様に
『騎馬民族征服王朝説』の江上波夫に文化勲章を与えたのも政治的理由からです

いま健康本がブームですが、その中には塩を採るなというものもあれば、塩を採れというものもあります
水分を採れというものもあれば、採るなというものもあります
読めば読むほどわけが判らなくなります
これは「健康」ではなく「売上」を優先して出版しているからです

古代史の本もこれとおなじですが、「売上」ではなく「皇室廃止」を目的としています
たくさん読めば読むほど何を言っているのか判らなくなります
ただ出版社の意向に添おうとするものばかりで、その主張には何の一貫性もないからです
古代史は誰々がどう言ったではなく、自分の頭で考えることが肝要です

卑弥呼の死亡した年に日食が二度あり、それが天照大神の天岩戸神話になった、と言うのもあります
これを信じる人の中にも、皇室が大陸や半島から渡ってきたと言う人が少なくありません
しかし、ギリシャのタレスが日食を予言したのは、紀元前6世紀のことです
それが8百年経っても支那大陸から日本に伝わってなかった、と考える方が無理があります

人間の知能は数十万年前から進歩をしていないと言われます
古代人が日食を見て恐れおののいたと考えるのは、あまりにも古代人を馬鹿にした話です

米国や中国が日本に仕掛ける情報戦争は、経済や近代史だけではありません
原典以外の本やテレビから知識を得ようとする人ほど、『皇室=侵略者』という妄説に染まり、彼らの思うツボにはまっています

今までお読みいただいた方々、および書かせていただいたトピ主さんに感謝申し上げます
これからはHPとブログを主にします
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