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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆ニギハヤヒ命と古代大和王国の謎(一)

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◆ニギハヤヒ命と古代大和王国の謎(一)

◆◇◆大和の神奈備山・三輪山、オオモノヌシ神(大物主神)を祀る大神神社
 
 奈良大和盆地の東の山なみに、山の裾野をたゆとうと続く山の辺の道がある。その山の辺の道の起点に大和の神奈備(やまとのかんなび)と歌われる秀麗な円錐形の山がある。この山の名を三輪山(みわやま・標高467.1メートル)という。

 『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記されてた。昔から大和の大神の住むところとして、今でも多くの信仰を集めている所だ(地元では今でも、神体山として最も篤い信仰を集める聖地である)。そこから、三諸の神奈備(みもろのかむなび)とも称されている。

 【大和は国のまほろば たたなづく青垣山 こもれる大和し美はし】 古代日本の悲劇の英雄、ヤマトタケル命(倭健命)は伊勢の能煩野で死に臨み、このように歌った(『古事記』)。

 また、この大和の大神とはオオモノヌシ命(大物主神)といい、三輪山(みわやま)の麓の大神神社(おおみわじんじゃ)の主祭神として祀られている。大神神社(おおみわじんじゃ)とは最高位の「大神」を冠し、その大和の大神を祀る神社となった。

 すると、大和の大神とは、古代大和王国(原大和王朝)の最初の大王(おおきみ)であったからに違いない。ではこの「倭成す大物主・・・」とまで詠われたオオモノヌシ命(大物主神)とは誰だろうか・・・。

 『日本書紀』によると、元々は、神代にオオクニヌシ命(大国主神)が国土経営をしていた時、自らの魂が「三輪山に我を祀れ」と言ってこれを奉斎したのが始まりとなっている。そして、第十代・崇神天皇が大三輪君を神主に任命した事から、大神神社は正式に創建される運びとなった、と記している。

 「オオモノヌシ神(大物主神)」はオオクニヌシ命(大国主神)の幸魂奇魂となるが、果たしてそうであろうか・・・。

※大物主大神「吾は汝の幸魂奇魂なり」については、

1、『日本書紀』に「今この国(葦原中国)を理するのは、唯吾(大己貴)一人である。吾と共に天下を理する者は有るか。時に神光、海に照らしてたちまち浮かび来る者有り。もし吾がいなければこの国を平らげる事ができただろうか。吾がいたので汝は大きく造りあげることができたのだ。大己貴が誰だと問うと、吾は汝の幸魂奇魂である、という。・・・吾は日本国の三諸山に住もうとおもう、いう。・・・これは大三輪神である。」と記されている。

2、『日本書紀』では、大三輪神が大己貴神に「吾は汝の幸魂奇魂なり」と言ったことになっています。和魂は、奇魂と幸魂に分けられる。すると、オオナムチ命(大己貴神)=オオクニヌシ命(大国主神)=オオモノヌシ命(大物主大神)となるのだが、果たして・・・。

3、大和の大神神社(おおみわ)の主祭神はオオモノヌシ命(大物主大神)であり、オオナムチ命(大己貴神)とスクナヒコナ命(少彦名神)は配祀されている。オオモノヌシ命(大物主大神)主座で、オオナムチ命(大己貴神)とスクナヒコナ命(少彦名神)を別の扱い方であるので、オオモノヌシ命(大物主大神)とオオナムチ命(大己貴神)を区別している証拠のようだ。

※参考HP(ホームページ))☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

◆大和国一之宮三輪明神大神神社
http://www.oomiwa.or.jp/

◆三輪明神 大神神社(おおみわ)
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/oomiwa.html

◆山の辺の道
http://www.kintetsu.co.jp/senden/Travel/Michi/B20033.html

◆奈良 山の辺の道 記紀万葉歌碑
http://member.cyberstation.ne.jp/mmb/MBWTRSNP/JR31414722036/YAMANOBE03.HTM

◆連載 桜井の歴史 
http://www2.begin.or.jp/sakura/samuka01.htm

◆連載 歴代の宮跡
http://www2.begin.or.jp/sakura/miya01.htm


スサノヲ(スサノオ)

コメント(12)

万寿(Manju) さん、こんばんは!


>2月6日の火祭に行きたいのですが、女でも行けますか?

神倉神社の「お燈まつり」のことですね。

「上り子--のぼりこ(あがりこ)--」と呼ばれ、祭りに参加出来るのは男性だけです(女人禁制)。

男であれば誰でもこの祭りに参加することができるようで、最近ではこの祭りに魅せられて遠方から参加する人も増えているそうです。

女性は参加するのではなく、見るのであれば良いのではと思います。


またコメントなど書き込みをお願いします。


スサノヲ(スサノオ)
◆ニギハヤヒ命と古代大和王国の謎(二)

◆◇◆最古の神社の一つ、「天孫降臨」以前から神霊が鎮座する大神神社

 大和盆地の東側に円錐形の山が姿を現す。これが三輪山(『古事記』や『日本書紀』には、御諸山、美和山、三諸岳)であり、大神神社がある場所である。

 神社の由来よると、起源は古く、アマテラス(天照大神)の子・ニニギ命(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)が地上を統治するために天降ったという「天孫降臨」以前から神霊が鎮座していたと伝えられてる。

 神社の格式を示した『延喜式』では、大和国城上郡にある神社三十五座の筆頭となっており日本最古という伝承を裏付けている。

 祭神はオオモノヌシ命(大物主神)とオオナムチ命(大己貴神)、スクナヒコナ命(少彦名神)である。『記・紀』によるとオオモモヌシ神(大物主神)とオオナムチ命(大己貴神)は、建国に関わる神話が多く残るオオクニヌシ命(大国主神)と同一神とされ、スクナヒコナ命(少彦名神)はオオクニヌシ命(大国主神)と国造りをした後に常世の国に帰った神とされている。

 ということは、この大神神社は国造り神話に登場することから、日本の建国に大きく関わっていることになる。

※大和の土地神・オオモノヌシ命(大物主神)

 神武東征説話による、神武天皇が大和に入るまでは、オオモノヌシ命(大物主神)はナガスネヒコ(長髄彦)に代表される先住民の守護神として君臨していたようだ。神武天皇が即位した後も、天皇位を保証する土地神として権威を持ち続けたのである。

 『古事記』『日本書紀』では、出雲神のオオクニヌシ命(大国主神)と同一であるとしている。果たしてそうなのだろうか・・・・。

 ただ元来この神は、三輪山の精霊が神格化したものと考えられており、その姿は蛇の形をしているという。つまり農業の神としての水神であり、雷神であり、時によっては酒の神にもなる。いずれにしも、大和の土地神の代表格といえよう。

※参考HP(ホームページ))☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

◆大物主神 奈良県の大神神社
http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/oomononusi.htm

◆大物主神伝
http://homepage1.nifty.com/Nanairo-7756/omono.htm

◆三輪大神と大国主(日本書紀)
http://rio2rio.hoops.ne.jp/SINWA/miwaoo.html

◆大和国一之宮三輪明神大神神社
http://www.oomiwa.or.jp/

◆三輪明神 大神神社(おおみわ)
http://www.mitene.or.jp/~hayamine/file2/oomiwa.html

◆山の辺の道
http://www.kintetsu.co.jp/senden/Travel/Michi/B20033.html

◆奈良 山の辺の道 記紀万葉歌碑
http://member.cyberstation.ne.jp/mmb/MBWTRSNP/JR31414722036/YAMANOBE03.HTM


スサノヲ(スサノオ)
私はニギハヤヒの文字を見つけて
ここに来ました。
ニギハヤヒが誰であるかを解くことが
古代史では重要だと考えている一人です。
たまたま現代語訳ですが講談社学術文庫の
日本書紀をさっき読み返していまして
神武天皇の項の最初の方に何故神武が東征に向かったかの
答えが書いてあった
(なんで今まで気がつかなかったのだろう)
要するに、「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐船に乗ってきて 降ったものがある」と聞いた神武天皇が、「きっとそこはこの国の中心だろう、そこへ行って都を作るに限る」と考えたので東征を開始したのだ。
そしてその天の磐船で降った者こそニギハヤヒだったのです。
神武より前にこの国ではニギハヤヒが活躍していたようですが
ニギハヤヒが大和に残した足跡なども、どんなことがあるのか、大変興味深いです。
スサノヲさんのこの項、楽しみです。
日向神話の舞台となった宮崎県に生まれ育ちました。
現在は東京と宮崎を行ったり来たりしています。

山幸彦がワダツミの宮よりご帰還された後の宮跡と言われている『青島神社』の近くに拠点を置いています。

宮崎には、ニニギノミコト、海幸彦、山幸彦、ウガヤフキアエズノミコト、神武天皇の東征前に関するスポットが今もなお、
リアリティに神話の真実を感じさせるところがあります。


昨年の大嘗祭(11/23)の時、青島神社のご神事の時に
何かがオープンな状態になったなぁと感じました。
のんびりぺーすでこんなコミュもやっています。


 コミュニティ名:宮崎の神話=高千穂・青島・鵜戸

 http://mixi.jp/view_community.pl?id=123790


日向神話の舞台となった宮崎や鹿児島などの
南九州の聖地を巡りながら神話の真実を
体感しているところです。
◆ニギハヤヒ命と古代大和王国の謎(三)

◆◇◆三輪山の精霊の神格化から、農耕の神への成長

 秀麗な円錐形の山容をみせる三輪山(『古事記』や『日本書紀』には、御諸山、美和山、三諸岳)は、神奈備山(かんなびやま)の典型とされ、太古の昔より、山そのものが神体として崇められてきた(アニミズム的神観念)。

 この三輪山を、古代縄文・弥生の時代から、人々は山の神・水の神として自然の恵みに感謝するとともに、自然の災害に脅威と畏敬のおもいをもって、日々この山を仰ぎみてきたのだろう。

 やがてこの三輪山は、しだいに神格をもった山として、古代人の信仰の対象となっていく(三輪山に、日本の古代祭祀の原型・原初の信仰を見ることがでる)。

 神奈備山信仰については、一つの考えがある。三輪山の神ともされる蛇は、その特異な姿形、脱皮という不思議な生態、強靭な生命力、その恐るべき毒などによって、古来、人々を畏怖させる存在であった。そればかりか、強烈な信仰の対象にもなってきた。

 蛇の最も特徴的な姿がトグロを巻いたかたちで、それを連想させる円錐形の山が信仰の対象になったという考えである。そこからすると、三輪山信仰はその典型的な例ともいえる。

 弥生時代、三輪山周辺は、弥生文化の農耕のクニであった。それゆえに、三輪山の神も農耕の神であったと考えられた(元来、この三輪山の神は、三輪山の精霊が神格化したものと考えられており、その姿は蛇の形をしていたとの言伝えがある。つまり農業の神としての水神であり、雷神であり、時によっては酒の神にもなる。いずれにしも、大和の土地神の代表格といえよう)。

 農耕の神とは、天候を支配する神(日や水の神)、稲穂の神(穀霊神)、祖霊の神などの性格をもった神であったと思われる。

 それまでの狩猟採集を主たる生活手段とした縄文人の縄文文化は、自分たちの生活を豊かにしたり、また災いをもたらしたりするもの(精霊や自然)を、すべてカミ(神)と見なしていた。カミ(神)とは、恵みと恐れの神(畏怖すべき自然の神)であったのだ。

 それに対して農耕を生活基盤とする弥生人の弥生文化は、そうしたカミ(神)の観念(宗教観)を、しだいにカミ(神)の集中化と統合化へと進めていく。

 それが先ほどの、精霊や自然のさまざまな神から、天候を支配する神(日や水の神)、稲穂の神(穀霊神)、祖霊の神などの性格をもった神というふうにカミ(神)の集中化と統合化が行われていくのである。

 結局のところ、「農耕の神」として集中化と統合化がなされる。それはまさしく、生産の神である。このように、古代大和王国(原大和王国)の大王は、自分たちの(一族・部族の)農耕神として、三輪山の神を祀るようになっていたと思われるのだ。


スサノヲ(スサノオ)
ニギハヤヒ命と大国主命とどのように結びつけるかが、私の大きな問題です。ぜひどんなことでもいいですから教えていただきたいと思います。

 私は大和国で、二上山麓の北葛城郡広陵町という所に住んでいました。そこに式内社で櫛玉比女命(くしたまひめ)神社がありました。ふとしたことから生駒山麓の富雄の霊山寺と縁があり、暮れから正月にかけて修行したことがありました。

『古事記』によると、『トミノナガスネコ(富雄の長髄彦)は東征してきた神武天皇の軍を迎え撃った』とあります。更に『古事記』には「ニギハヤヒ」は、「長髄彦の妹トビヤミヒメ(登美夜毘比売)を妻として、ウマシマジミコト(宇摩志麻遅命)を生んだ(此れ物部連の祖)と書かれています。ニギハヤヒの正式の名は「天照国照彦天火明命櫛玉ニギハヤヒ尊」です。

 ニギハヤヒは神武天皇より先にこの大和国富雄に天孫降臨して、長髄彦の妹と結婚し、大和王朝の祖である神武天皇がこのにせめてくるまで長髄彦とこの国(大和国)を治めていたと思います。
 しかし、長髄彦は最後には天皇軍に殺されますが、ニギハヤヒや大国主命はどうなったか一切『記・紀』には書かれていません。
 大和国広陵町の「櫛玉比売命神社」の祭神は、よく考えてみると、長髄彦の妹であります。この地のために戦って殺された長髄彦を祀りたかった土地の人たちが、賊との名で殺された兄の代わりに妹であり、櫛玉ニギハヒ命の妻であった櫛玉比売命を祀ったのでは
と私は思いました。
玉川上水の仙人さん、こんばんは!


奈良盆地の南東部に纒向(まきむく)遺跡がありますが、この遺跡に関心を持っています。

この纒向は当初弥生文化の農耕都市であったのが、この都市を基点に次第に勢力を伸ばし地方の豪族(氏族)を支配して大和朝廷の基盤を作っていきます。

一豪族(氏族)であった大和の王(首長)も、支配の拡大と共に大王=天皇家となり、さらには一豪族(氏族)であった大和の氏神も、支配を広げる大和朝廷の国神(国家神)となっていたのでしょう。

では大和朝廷が出来る以前、奈良盆地に原大和王朝とも言うべき「古代大和王国」があったのでは・・・(唐古・鍵遺跡から纒向遺跡にかけて)

それは『日本書紀』神武天皇の条に記されているニギハヤヒ命(饒速日命)の記述から考えると、大和の土豪・ナガスネヒコ(長髄彦)の妹を娶ったニギハヤヒ命(饒速日命)の王国となります。

神の坐(いま)す三輪山は自然神から農耕神へと変わり、祖霊神から首長霊神へと変化して、大和朝廷の国魂(天皇霊)となっていきます。

ではこの首長霊(天皇霊)とは誰だったのか・・・

そこで原大和朝廷である原大和王朝とニギハヤヒ命(饒速日命)の関係を探ることによって、この国の誕生(日本の創生)の秘密を垣間見ることが出来るのではと考えてトッピクを作ってみました。


>ニギハヤヒ命と大国主命とどのように結びつけるかが、私の大きな問題です。ぜひどんなことでもいいですから教えていただきたいと思います。

まだ、玉川上水の仙人さんにお教えするほどの知識は持ち合わせておりませんが、三輪山の古代祭祀にヒントがあるのではと思ってきます。

三輪山の古代祭祀は巨石を祀る磐座祭祀です。
大和朝廷成立以前、日本海の出雲族がこうした信仰を携え三輪山に移り住んだのではないかと考えています。

山陰から丹後、丹後から奈良にかけてよく似た磐座を見かけます。また三輪山には今でも出雲の地名が残っています。

このことを窺わせる記述が記紀に印象的にありますね。

『日本書紀』に「今この国(葦原中国)を理するのは、唯吾(大己貴)一人である。吾と共に天下を理する者は有るか。時に神光、海に照らしてたちまち浮かび来る者有り。もし吾がいなければこの国を平らげる事ができただろうか。吾がいたので汝は大きく造りあげることができたのだ。大己貴が誰だと問うと、吾は汝の幸魂奇魂である、という。・・・吾は日本国の三諸山に住もうとおもう、いう。・・・これは大三輪神である。」と・・・


玉川上水の仙人さん、これからも書き込みお願いします。
どんどん新しいトッピクも立ち上げてください。

現在、仕事が大変忙しくなりまして、徹夜をすることも多くなっています。
mixiを始めた時の様には書き込みが出来ないでいます。

博学がおられる玉川上水の仙人さんの書き込みを期待しております。


スサノヲ(スサノオ)
スサノオさん
 面白く読ませてもらっています。私はHPを開いてもらったものの複雑な操作が完全にマスターできず、偶然開いた所に書いている次第です。
 一人で大和国を殆ど歩きました。実際にその土地に立ってみて始めてその土地の下からの叫び声が聞こえてきます。      「古事記・日本書紀」は古代から残された日本の歴史です。しかし、この書き残された歴史は、あくまで勝者の歴史です。つまり大和王朝(天皇家)の歴史です。                 でも古代を書いた歴史はこれしかないのですから、日本というものを知ろうと思えば、せめてこれだけは訳文で結構ですから、せめてこの匂いでも嗅いてから、批判せねばなりません。       『記・紀(古事記・日本書紀)』の面白い所は、「衣の下の鎧」がちらちら見えることです。つまり一寸読めばおかしいと思う所がわかります。匂いも嗅かなければ、そのおかしい所もわかるはずはありません。出雲風土記の「良さ」も、『記・紀』という対象物があってこそわかるのです。
 色々な学者が、色々なことを書いています。ある考古学者が、 「私は土の中から出てきた物だけを信じます」と言ってくれましたが、ある意味で事実です。私は学者ではありませんが、これは一理があります。

 [奈良盆地の南東部に纒向(まきむく)遺跡がありますが、この 遺跡に関心を持っています]

 上記は2月21日のスサノオさんの記事ですが、これは今から前、八年前、『最古級のふいご破片・奈良桜井纒向遺跡』として新聞に発表されました。纒向遺跡は三世紀頃の遺跡で、そこから鉄器の生産に使ったふいご跡から鉄濘(鉄のカス)が纏めて発掘され、わが国で最初の精鉄した所と話題になりました。それまでは石器か銅剣で、鉄の刀・鏃等の武器が作られたとすると、それを使用する大きな集団が存在していたことが判明しました。当時としては鉄の刀とは原爆出現みたいな武器であったと思います。この頃は古墳時代初期で箸墓巨大古墳のできたころであり、大和王朝が鉄器生産に必死になっていた頃です。
 この全長二八〇メートルの巨大古墳は日本書紀によると、二〇キロも離れた二上山から昼は人が運び、夜は神が飛鳥の石舞台にあるような大きな石を運んできたという。この古墳の主は三輪山の住人の大国主命とのロマンスの後、箸で陰を突いて死んだとか。
 近くに鉄の神を祀った『穴師大兵主神社』(崇神天皇の時代に創建)で、神主は代々「中」一族が今日まで勤めているとの事。やはりこの周辺には「北別所」「南別称」なる地名が存在していた。

 

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