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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(一)

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◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(一)

◆◇◆初午(はつうま)と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社

 二月に入って最初の午の日を初午(又は初午詣り)といい、お稲荷さん(稲荷神)の祭りが行われる(旧暦で行う所も多くある)。本来は、陽射しに春を感じ、ようやく農作業も始まろうという旧暦の二月最初の午の日に行われる。

 この時期は厳冬から春に季節が移り変わり、陽気は一段と盛んになる。生気は躍動し、草木を始め万物が活動を始める時期だったのだ。その陽気が一番盛んになる旧暦二月の午の日が本来の初午の日に当たる(暦の変更は、このように祭りや行事の季節感をなくしてしまった)。

 古来より初午の頃から農家では五穀をはじめさまざまな種を用意して、農作業が始められる。一陽来復と全てのものの蘇り、そして作物の豊饒を願う神事が初午祭なのである。

 もともと農耕の神であったお稲荷さん(稲荷神)は、後に商売繁盛、病気平癒、招福などに御利益があるとされて広く信仰を集めるようになった。

 お稲荷さん(稲荷神)といえば、京都伏見の伏見稲荷大社が総本社である。初午の日をお稲荷さん(稲荷神)の祭りとしたのも、祭神がこの地に降臨したのが二月の初午の日だったからという(『山城国風土記』逸文に記された、和銅四年=七一一年二月初午の日に、稲荷神が稲荷山三ケ峰に鎮座したという由緒による)。

 しかし、学者によっては稲荷が農業に関係する神様なので、農耕に使用する馬、つまり午の日を祭日として選んだという説を唱える人もいる。

 二月初午の由来については他にも、ちょうどこの頃、田の神が山から降りてくると考えられ、田の神を祭る重要な日とされていた。春に山の神が降りてきて田の神となり、秋には山に帰っていくという全国的に存在する民間の信仰と結びついた「山の神迎え」が初午へと定着していったともされている。つまり、初午とは春の農作の豊年を祈る祭りだったのである。

 京都・伏見稲荷大社の初午大祭は、「初午詣」を「福参り」とも呼び、前日の巳の日から伏見稲荷大社は参拝者で埋まる。社頭で参拝者に授与される「験(しるし)の杉」は、平安時代から和歌にも詠まれ、今日もなお商売繁盛・家内安全の験(しるし)として、拝受される習わしが続いている。

 この京都・伏見稲荷大社をはじめ大阪の玉造、愛知県の豊川稲荷、また神戸の摩耶参など、各地の稲荷神社でも盛大に祭りが執り行われる。

 お稲荷さん(稲荷神)の信仰は、農耕を司る倉稲魂神(うがのみたまのかみ〜宇迦之御霊神とも表記)を祀って五穀豊穣や福徳を祈願するものだが、キツネを稲荷神の使いとして油揚げを供えたり、初午団子などを作る風習もある。江戸時代には最も盛んな信仰となり、俗に数が多くて目につくものを「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと皮肉ったりもされた。(※注1)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 『山城国風土記逸文』「伊奈利社」条に「深草の長者・餅の的・白鳥飛翔、稲穂の結実」が稲荷神社(現伏見稲荷大社)の創建と語られている(和銅四年、七一一年と伝承されている)。

 都が山城(京都)へ移り、平安時代に入るとと、稲荷信仰が盛んになり、初午詣の様子は、『大鏡』や『貫之集』(紀貫之)、『枕草子』、『今昔物語』に語られ、当日の稲荷山での賑わいが手に取るように読みとれる。この頃より、稲荷信仰が地方へ伝わり始める。

 それに伴い、初午の日に、稲荷神のご鎮座を讃えて、幸せを得ようとする(農業者は豊作を、商業者は生業繁栄を祈願する)傾向は、徐々に定着していく。また、朝廷よりの奉幣記録も多く伝わり、朝廷が豊作を祈願することは、天下泰平に関わることとして重要な意味を持っていた。こうして初午は、稲荷大神のご鎮座を讃え、その徳に預かろうとする人々の、歴史の長い春の一大行事であったのである。

 全国の稲荷社の総本社、伏見稲荷大社では、初午の二日前の辰の日に稲荷山の杉と椎の枝で作った「青山飾り」をご本殿以下摂末社に飾り、当日には参拝者に「験(しるし)の杉」を授与する習わしがある。


スサノヲ(スサノオ)

コメント(3)

◆初午と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社(二)

◆◇◆お稲荷さん(稲荷神)と稲荷信仰、京都・伏見稲荷大社と狐

 赤い鳥居に小さな祠、祠の前には二尾の狐。お馴染みのお稲荷さん(稲荷神)である。小さな路地から都心のオフィスビル街の片隅、それにデパートの屋上まで日本全国あちこちにお稲荷さんを見ることがでる。それもそのはず、お稲荷さん(稲荷神)は、もっとも広く信仰されている神様で、神社の三分の一を占め、日本一多く祀られているのだ。それだけ日本人に広く親しまれてきた神なのである。http://inari.jp/

 お稲荷さん(稲荷神)は五穀豊穣・商売繁盛・大漁守護の神として、民衆の日常生活に密着している身近な神である。中小企業の多い稲作型工業国家日本の繁栄と発展の精神的源泉となっているといえる。

 もともとは字の通り稲に関する神であった。五穀と養蚕を司る穀物神・農耕神としてのウカノミタマ(宇迦之御魂・倉稲御魂)で稲荷明神として知られている。

 このお稲荷さん(稲荷神)は、京都の伏見稲荷大社が信仰の発祥神社で、一般に伏見稲荷として知られ、全国三万余りの社の総本社となっている。この社と合わせ、佐賀・祐徳稲荷大社、茨城・笠間稲荷神社を日本三大稲荷と呼ぶ。

 また神社ではないが、愛知・豊川稲荷(正式名:円福山妙厳寺)は仏教のダキニテン(茶枳尼天)を稲荷神として祀る(江戸の名奉行・大岡越前守が信仰したことで知られる)。

 伏見の稲荷大社は、奈良時代の和銅四年(七一一年)二月の初午の日に、有力な帰化氏族・秦氏の遠祖がこの地に氏神の農耕神として祀ったのが始めといわれる。古代においては各地の豪族が、それぞれに自分たち独自の守護神(氏神)を祀っていたのである。お稲荷さん(稲荷神)も初めはそういう神だったのだ。

 『山城国風土記』はこの「伊奈利社」(伏見稲荷)の起源伝説について、「秦中家忌寸(はたのなかやのいみき)らの遠祖秦公伊侶具(はたのきみいろぐ)は稲米を貯えて裕福になったとある。

 あるとき餅を的にして矢を射いったところ、餅が白鳥になって飛び翔けり、三が峰の山上に止まり、そこに稲が生じた。不思議に思った伊侶具がそこへ神社を建て、伊奈利社と名付けた。」というものである。この伝承でもわかるように、イナリは元来「稲生り(いねなり)」であった。

 また、イネナリは主祭神の宇迦之御魂神が月読命に殺された時、その腹から稲が生えたところからの語源で、宇迦之御魂神の神名となったともいう。

 あるいは稲荷は、空海が東寺を朝廷から与えられた時、稲を担いだ翁に会うが、その翁が稲荷神であったともいう。

 ちなみに、お稲荷さんに油揚げを供えるのは、お稲荷さんに仕える狐が油揚げが好きだと考えられたからである。油揚げに寿司飯を詰めたものを稲荷寿司というのは、ここから来ている。

 いわば一地方に生まれたお稲荷さん(稲荷神)に対する信仰が、後に日本中に広がることになった大きなきっかけは、平安時代初頭に仏教の真言密教と結び付いたことにある。そのための重要な役割を演じたのが真言密教の開祖・空海(弘法大師)だ。

 空海は東寺(教王護国寺)を真言密教根本道場として建立を進めていた。その際、秦氏が稲荷山から建造用の木材を提供し協力する。このことがきっかけとなり、お稲荷さん(稲荷神)は東寺の守護神として祀られ、強く結び付くのである。

 その後、お稲荷さん(稲荷神)は仏教的な現世利益の考えを取り入れ、仏教の庶民への浸透とともにその信仰を拡大していくことになったのである。

 稲荷信仰には狐が付き物だ。真言密教では、稲荷神をインド伝来の鬼神・ダキニテン(陀枳尼天)と同一であるとしている。ダキニテン(陀枳尼天)は、夜叉、または羅刹の一種で自在に通力を使い、六ヶ月前に人の死を知り、その肉を食らうという強力な存在であった。

 しかし、仏に降伏させられてからは善神となり、日本では平安時代には、その本体は霊狐とみなされるようになり、狐の霊力にあやかろうとする信仰が広がった。

 これが日本に古くからある狐を田の神の使いとする農民の信仰と結びついて、稲荷神自体を狐だと考えるようにもなったのである。大らかに神仏を習合されっていった日本人の宗教観が、ここにも表れている。


スサノヲ(スサノオ)
今日ですよねぇ
行ってみよう思うてますぅ。
初午のお祭り、鯛にお神酒にお赤飯、五色旗にお稲荷絵馬、皆様のお家ではどの様になさっていらっしゃいますでしょうか。

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