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◆日本の神話と古代史と日本文化コミュの◆秋分の日と秋行事・彼岸の中日(序)

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◆秋分の日と秋行事・彼岸の中日(序)

◆◇◆秋分の日と秋の行事・彼岸の中日

 彼岸とは、雑節の一つで春・秋2期の彼岸会(ひがんえ)のことだ。春分の日・秋分の日をはさんで前後三日ずつ、計7日間をいう場合もある。 彼岸の初めの日を「彼岸の入り」といい、 終わりの日を「彼岸の明け」、また春分・秋分の日を「彼岸の中日」という。

 彼岸の入りから四日目が彼岸の中日になる。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉を耳にするが、彼岸は季節の変わり目であり、寒暑ともに峠を越す。

 彼岸の間、各寺院では彼岸会の法要が行われる。彼岸は本来仏教用語でサンスクリット語のpara(波羅)の訳で、「到彼岸」という語に由来している。生死輪廻の此岸(しがん、煩悩に満ちた世界)に対してそれを解脱した悟りの境地(涅槃・悟り)の世界に至るという意味である。

 さらに煩悩に満ちたこちらの世界を現世、涅槃の世界を死後の極楽浄土と捉え、あちらの世界と考えたところから、亡くなった先祖達の霊が住む世界を「彼岸」と考えるようになりました。

 秋分の日は太陽が真東から昇り、真西に沈む。そして涅槃の世界を「西方浄土」と呼ぶ事があるとおり、阿弥陀仏のいる極楽浄土は「西」にあるとされているので、真西に太陽が沈む春分の日・秋分の日は夕日が極楽浄土への道しるべとなると考えられたのだ。

 また、昼と夜の長さが等しいので、仏教を尊ぶ中道の精神にかなったという説もある。仏教的色彩の濃い彼岸であるがインドや中国にはみられない、日本独特のものといわれている(彼岸会の始めは大同元年=806年、崇道天皇=早良親王の霊を慰めるために行われたとも)。


スサノヲ(スサノオ)

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◆秋分の日と秋の彼岸の中日(一)

◆◇◆秋分の日とお彼岸、「暑さ寒さも彼岸まで」

 秋分の日(Autumnal Equinox Day) は、春分の日(三月二十一日頃)と同じく、太陽が真東から出て真西に没する日である(※注1)。 このため、昼と夜の時間が等しくなる(太陽が赤道上にあり、昼夜の長さが等しくなる)。これより徐々に昼が短く、夜が長くなっていきます(九月は長月=ながつき=夜長月といい、夜が長くなる月なのでそう呼ばれる)。

 秋分の日は大体九月二十三日頃にあたり(今年は、九月二十三日)で、また秋の彼岸の中日(※注2)でもあり、国民の休日(※注3)にもなっている。近年は温暖化の影響でまだ暑さの残る気候だが、かつては暑くもなく寒くもないさわやかな時節とされ、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように暑さも峠を越し、過ごし易い気候になる。また、収穫と秋祭りの時期でもある。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)秋分とは、天文学的には、太陽の黄経が180度になった瞬間をいう。つまり、黄道(太陽の通り道)が天の赤道(地球の赤道を天球上までのばしたもの)を横切る交点に太陽がきた瞬間のことである。秋分の瞬間を含む日を秋分の日という。

 秋分は黄道上の太陽の位置によって定まる二十四節気の一つで、旧暦八月酉の月の中気である。秋分の日には、全国で収穫と秋祭りは行われる。また、「暑さ寒さも彼岸まで」という言うように暑さも峠を越して温和な気候になる。

(※注2)彼岸は、春分の日(三月二十一日頃)と秋分の日(九月二十三日頃)をはさんだ前後の三日間ずつ、計七日間のことで、それぞれ春彼岸、秋彼岸といい、彼岸の最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸の明け」、春分・秋分の日を「彼岸の中日」といいう。

 彼岸には、お墓参りをする習慣があり、祖先の霊を家に迎える盆とは違って、祖先に会いにゆく行事としての色彩が濃いようだ。しかし、仏教に由来する行事と考えられている彼岸は、日本にしかない行事で、豊作に欠かすことのできない太陽を祀り、祖霊の加護を祈る古くからの儀礼と結びついたものといわれている。

(※注3)春分の日および秋分の日は国民の祝日であり、国民の祝日に関する法律(昭和23年法律第178号)によると、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は「先祖をうやまい、亡き人をしのぶ」とあり、それぞれの年の春分日および秋分日にすると定められている。

 春分日・秋分日は毎年変わるので、前年の二月一日付けの官報で日本国政府から発表されることになっている。したがって、再来年の春分の日および秋分の日は来年の二月一日にならないと正式には分からないことになる。


スサノヲ(スサノオ)
◆秋分の日と秋の彼岸の中日(二)

◆◇◆秋分の日とお彼岸、日本のしきたり

 毎年、春分の日と秋分の日の事を民間では「お彼岸」(※注1)(※注2)といい、お墓詣りをして先祖の霊を供養したりする。今年(2006年)の秋分の日は九月二十三日だが、民間行事のお彼岸ではこの日を「お彼岸の中日」といい、その前後一週間をお彼岸の期間として最初の日を「彼岸の入り」最後の日を「彼岸の明け」という(秋分の日をはさんで前三日、後三日、合計七日が彼岸)。

 「国民祝日に関する法律」によると、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は「先祖をうやまい、亡き人をしのぶ」とある。まさに仏教の精神そのものだ。この日は、太陽が真東から昇り、真西に沈み、昼と夜の長さが同じになることから、仏教で説く中道も表しているという説もある。

 またこの時期には、、旧暦八月酉の月の中気で、お彼岸の中日でもある。真西に日が沈むこの日、西方に浄土があるという仏教の教えから、無欲吾道の対岸の域に一番近くなる日ということで、死者の冥福を祈り、仏供養、お萩(ぼたもち)、草餅、五目ずし、稲荷ずしなどを作ってお墓参りをする習慣がある。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)彼岸とはその名の通り「大きな川を挟んだ岸の向こう」という意味である。その向こう岸とは悟りの世界(仏の世界があり、私たち凡夫はこちらの岸・此岸にいると考えている)のことだ。
 サンスクリットでは、パーラミター(波羅蜜多)という。様々な苦に悩む煩悩の世界(私たち凡夫はこちらの岸・此岸)に対する言葉であるが、日本の特に浄土系の信仰では一般に死後は阿弥陀如来の導きにより人は彼岸に渡ることができると考えられているため、既に彼岸の世界へ行った人達を供養するとともに、まだ辿りつけずにいる人達に早く向こうへ辿りつけるように祈るというのがこの彼岸の仏事の趣旨となる。

 お寺ではこの一週間法要を続け、住職が檀家を回って各家庭でも法事を行う。この時期に彼岸の法要を行うのは、太陽が阿弥陀如来のいる浄土の方角である真西に沈むためであるともいわれている。つまり阿弥陀浄土を感じるのに最適であり、迷っている人にとっては太陽の方角が進むべき道ということになる。

 このように、現世と浄土との間に川があると云う比喩は、中国の唐の時代の善導(六一三〜六八一)が『観経疏』散善義において「二河白道(にがびゃくどう)」の喩えによって絵解き的に述べたものが我が国にも伝わり、これが平安時代に浄土教の普及とともに広まっていったものであるとされている。

(※注2)戦前、我が国では、この彼岸会の日を春季皇霊祭、秋季皇霊祭と呼んで、皇室がその祖先を祀った(太陽暦の導入に伴い、それまで宮中で行なっていた皇祖=天皇の祖先を祀る行事もすべて太陽暦に換算することとなる。しかし、あまりに量が多いため、春季皇霊祭と秋季皇霊祭にまとめて行なうこととなる)。

 国民の祝日として、明治十一年(一八七七年)から昭和二十二年(一九四七年)年まで実施。今でも、宮中では春季皇霊祭・秋季皇霊祭が行われ、神武天皇(じんむてんのう)をはじめ歴代天皇・皇族の御霊(みたま)がお祀りされる。


スサノヲ(スサノオ)
◆秋分の日と秋の彼岸の中日(三)

◆◇◆春季皇霊祭・秋季皇霊祭(こうれいさい)と宮中行事、皇室の祭祀

 宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)のひとつ、皇霊殿には、歴代天皇・皇族方の御霊がお祀りされている。明治以前は、仏式により寺院や宮中のお黒戸に霊碑を奉祀しされちたが、明治天皇は、これを神式に改められ、皇霊殿において春秋ニ季の皇霊祭を行うことを制定された。

 春分・秋分の日は彼岸の中日として、古くから先祖の御霊を祀る日とされていたが、明治十一年に明治天皇がこの日を皇霊祭の祭日に定められたことにより休日となり太平洋戦争の終わりまで続いた。

 現在では、戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものである。皇室では、春秋ニ季の皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として現在に至っている。

◆◇◆春秋ニ季の皇霊祭(宮中行事)は、祖先供養の風習を仏教色をのぞいて宮中行事化したもの

 春分の日(三月二十一日頃)と秋分の日(九月二十三日頃)、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と「先祖をうやまい、亡き人をしのぶ」ということで、日本の仏教では、平安時代のころから春秋に彼岸会(ひがんえ)が催され、悟りの彼岸へ至るための法要が営まれていた。また浄土思想の広がりとともに、彼岸の中日(ちゅうにち)の夕刻、落日に向かって念仏を唱えれば、西方の極楽浄土に往生出来ると信じられていた。

 しかし本来祖霊崇拝の思想は仏教にはなく、日本古来の風習が仏教と習合したと考えられている。明治以来宮中で行われる春秋ニ季の皇霊祭は、祖先供養の風習を仏教色を除いて宮中行事化したものにほかならない。春分・秋分の日の趣旨は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と「先祖をうやまい、亡き人をしのぶ」という日本本来の自然観に立ち返ったものといえる。

◆◇◆春季皇霊祭・秋季皇霊祭と皇室の祭祀

「春分の日」「秋分の日」は皇祖皇宗を祀る「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」の日である。皇祖とは天照大神から初代の神武天皇までの皇室の祖先で、 皇宗とは第二代天皇以降の歴代の天皇のことだ。

 戦前に春分には「春季皇霊祭」、秋分の日には「秋分の日」が行われ、つまり皇室のお彼岸であってだ。これが宮中行事化していったのである。他にも以下のように、皇室の皇祖皇宗を祀る祭祀は年に七回行われている。

1月7日 昭和天皇祭 (大祭) 昭和天皇崩御日に行われる
1月30日 孝明天皇例祭(小祭) 孝明天皇崩御相当日に行われる
3月21日 春季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「春季神殿祭」が行われる
4月3日 神武天皇祭 (大祭) 神武天皇崩御相当日に行われる
7月30日 明治天皇例祭(小祭) 明治天皇崩御日に行われる
9月23日 秋季皇霊祭 (大祭) 皇室の御祖先祭神殿では「秋季神殿祭」が行われる
12月25日 大正天皇祭 (小祭) 大正天皇崩御日に行われる


スサノヲ(スサノオ)
◆秋分の日と秋の彼岸の中日(四)

◆◇◆皇室の祭祀、大祭と小祭

 皇室の祭祀において、神武天皇と先の天皇の祭祀は大祭、それから三代前までの天皇の祭祀は小祭として行われる。また、それ以外の皇祖(皇室の御祖先)については、年に二回、春と秋に「皇霊祭」として行われる。歴代天皇すべての天皇について個別に祭祀を行っていては、却って疎かになってしまうかもしれないということで、このような形がとられるようになったそうだ。

 これらの皇室の祭祀はすべて宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)の中の皇霊殿で行われる。また、神武天皇祭、孝明天皇例祭、明治天皇例祭、大正天皇祭、昭和天皇祭については墓所でも祭祀が行われる。

◆◇◆春季皇霊祭・秋季皇霊祭

 明治維新は政治的にも武家の政治(江戸幕府)を終焉させ近代民主国家への道を切り開くものであったが、宗教界にも大きな変革を強要した。その中心が江戸時代にキリスト教対策で重視されていた寺を排斥・弱体化(神仏判然令・廃仏毀釈運動)させるとともに、明治維新の原動力(尊王攘夷運動と王政復古の波、平田学と後期水戸学)の一つとなった国学(本居宣長・平田篤胤など)の流れを汲む国家神道を樹立して、全国の神社を皇室に縁の深い伊勢神宮を頂点とするヒエラルキーに組み込もうと計った(近代社格制度の整備とは、伊勢神宮をトップとした神社のランク付け)。

 この動きはいわば皇室の神道の普遍化(国家神道は、天皇の宗教的権威の中心に皇室神道と神社神道とを直結し、皇室の祭祀を基準に神社の祭祀を画一的に再構成すること)を狙ったものともいえるが、そのため初期の段階では歴代の天皇の命日を全て新暦に換算した上で、その命日すべてをお祀りする(祭祀儀礼をする)、という企画が立てられた。

 しかし天皇といっても初代神武から、明治天皇の先代の孝明天皇まで百二十一代に及んでいるので、これを全て命日のお祀りをするのは、実際やってみると非常にたいへんことであった。そこで明治政府は早々にこの方法に根を上げて、結局神武天皇の命日(四月三日)と孝明天皇の命日(一月三十日)のみを残して、あとは民間でも先祖供養の日としている春・秋のお彼岸に春季皇霊祭・秋季皇霊祭としてまとめてお祀りすることになったものだ。

 春季皇霊祭・秋季皇霊祭は明治十一年に祝日として定められ太平洋戦争の終わりまで続いた。戦後の春分の日・秋分の日は戦前のそういう趣旨は排除した上で、もともとの民間の先祖供養の日としての趣旨のお彼岸を復活させたものである。春季皇霊祭・秋季皇霊祭は宮中行事・皇室の祭祀として行われる。

 宮中行事・皇室の祭祀の春季皇霊祭・秋季皇霊祭は、三月の春分の日と九月の秋分の日(彼岸の中日)に、天皇家の祖先を崇める祭りである。天皇が皇霊殿で玉串を捧げて拝礼し、告文を奏する。続いて、神殿でも親祭が行われる。皇霊殿では「東遊(あずまあそび)」と呼ばれる雅楽が奉納される。

◆◇◆皇室祭祀

 明治十四年に制定された「皇室祭祀令」に基づいて行われる。大祭と小祭に分けられ、大祭は天皇自らが行い、小祭は掌典長(しょうてんちょう)(天皇家の私的内廷組織)が指揮する。天皇はそれに拝礼する形をとる。皇室祭祀は、主として吹上御苑(ふきあげぎょえん)にある宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で行われるが、先帝を祀る山稜でも行われる。戦前は、こうした祭祀には総理大臣はじめ多くの参列者があったが、昭和二十年の「政教分離」により、今では天皇家の私的行事の色彩が濃くなっている。


スサノヲ(スサノオ)

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